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2013年9月25日 (水)

夏目漱石の文学とその時代

 1908年(明治39)の年が明けても漱石の神経衰弱は一進一退で、漱石は年頭から「大学を辞めたい」と洩らしていたという。そして三月に突然『坊ちゃん』の構想を得てそれを書き始め、四月に島崎藤村の『破戒』を読んで深く感動し、七月に『草枕』を書き、八月には先に書いたように市電の運賃値上げ騒動に関して、「都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送り、九月に『二百十日』を書き、十二月には『野分』を書いた。先の「断片」を書いていたのはこの頃のことであり、『二百十日』以降の小説には社会批評が目立つようになる。
 『二百十日』は「華族と金持」批判の書であるから、漱石が「気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送ったのは、あながち誇張ではなく本心であったのかもしれない。そして、『野分』はまさに市電の運賃値上げ騒動を背景にした話で、物語の最後で主人公で文学者の白井道也は「現代の青年に告ぐ」というテーマの演説会を開き、それはそのまま当時の漱石の声であるように思える。『野分』に、演説会に行こうとする白井道也と行かせまいとする妻との間で、以下のやりとりがある。

 「今日の演説は只の演説ではない。人を救ふための演説だよ」
 「人を救ふって、誰を救ふのです」
 「社のもので、此間の電車事件を煽勤したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。所が其家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
 「そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・」
 「間違へたって構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」。

 そして、演説会で白井道也は以下のような話をする。

 「自己は過去と未来の連鎖である」。
 「人間が腐った時、叉波瀾が起る。起らねば化石するより外に仕様がない。化石するのがいやだから、自ら波瀾を起すのである。之を革命と云ふのである」。
 「英国を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己に理想のないのを明かに膨露している。・・凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において奴隷である」。
 「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。・・然し・・高等な労力に高等な報酬が伴ふであろうか・・今の世でも教師の報酬は小商人の報酬よりも少ないのである。・・労力の高下では報酬の多寡はきまらない。・・金があるから人間が高尚だとは云へない。金を目的にして人物の価値をきめる訳には行かない」。

 白井道也が演説会をやる神田の演説会場は、社会主義者もよく使う場所であり、市電賃値の値上反対の運動は堺利彦らが起こしている。先に書いたように漱石は市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書いたのは、私には本心であったと思われる。荒正人は『野分』は「小説としてみれば、未熟である。だが・・漱石の文学の原型を探るうえには、思いがけず大切な作品である」(集英社『漱石文学全集』4巻解説)と書いている。

 1907年(明治40)の1月に日刊『平民新聞』が発行され、二月には足尾銅山で坑夫の蜂起が起き、2月17日には日本社会党第2回大会が開かれ、前述したように直接行動派と議会政策派の片山潜らとの間で論争があり、その直後に日本社会党は禁止になり、四月には『日刊平民新聞』も廃刊となった。漱石は同三月に東大教授である旧友の大塚保治から「英文学の講座を担任し、教授になってはどうか」との交渉を受けるが、より文筆活動が自由になる朝日新聞社に入社し、『虞美人草』を書き始め、六月に首相の西園寺公望から他の文士とともに「我国小説に関する御高話拝聴旁素飯差上度」という招待状を受けたが、漱石は二葉亭四迷とともにこれを辞退。九月頃に二葉亭四迷の『其面影』を買って読み、賞賛の手紙を二葉亭に送る。1907年(明治40)は足尾銅山以外でもストライキや暴動が起こり、同年末から漱石は『杭夫』を書き始める。1908年(明治41)の6月に、出獄した西川光二郎の歓迎会で「赤旗事件」が起きて、堺利彦と山川均と大杉栄が入獄し、7月には穏健な西園寺内閣が総辞職して、桂太郎内閣が成立した。そして、ここから大逆事件の起こされる1910年(明治43)までの間に、漱石は『三四郎』と『それから』と『門』を書いたのであり、それは明治社会主義のクライマックスと重なるのである。
 『三四郎』は、1908年(明治41)9~12月に朝日新聞に連載された。同年4~8月には島崎藤村の『春』が朝日新聞に連載されており、漱石は7月27日の高浜虚子宛の書簡に、「『春』と申す長編掲載了のあと引き受ける事に相成り九月初より・・」と書き、8月19日の渋川柳次郎あての書簡には、「『春』今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心故候。・・あの五六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生の為に惜しみ候」と読後感が記されている。
 『春』の「最後の五六行」は、近代文学者にはえらく評判が悪く、江藤淳的には近代文学への「反革命」の狼煙みたいにも言われ、漱石も自然主義には批判的であるわけだが、漱石が「あの五六行が百三十五回にひろがったら大したもの・・惜しみ候」と書いたのは、藤村の『春』が、理想をめざす明治の青春群像を描きながらも自然主義に流れて行くのに対して、漱石はまさに漱石の「技巧」をもって漱石の「理想」を描こうとしたものにほかならないからであろうと思われる。
 物語は、三四郎がが大学に入学するために東京に向かう汽車の中から始まる。ひとつは、三四郎と汽車に乗り合わせた女と爺さんの話がある。旅順に出稼ぎに行ったまま帰って来ない亭主を持つ女に同情した爺さんはこう言いだす。「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んで仕舞った。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云ふものはなかった。みんな戦争の御蔭だ」と。荒正人は、「『三四郎』の初めに、女の示した底の深い謎と日露戦争への批判が提出されているのは驚異である。・・・後者の展開は余り追求されていなかった」と書いている。
 ふたつ目は、「三つの世界」の話で、その中の「第二の世界」に生きる人は、以下のように書かれている。「第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢い。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない」と。これは、廣田先生と野々宮さんに代表される。
 三つ目は、「露悪家」であり、これは以下のようである。
 「臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切ってゐる。形式丈美事だって面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が叉復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英國を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンもでなければニイチェも出ない。気の毒なものだ」と。こうなると「露悪家」とは、アダム・スミスで言えば『道徳感情』と『国富論』の間を行ったり来たりする人でもある。廣田先生は「露悪家」の典型をアメリカ人に見て、「(露悪家は)丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、萬事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」と語る。
 「第一の世界」とは、「明治十五年以前の世界」であるから、漱石流には日本の近代は「第二の世界」と「第三の世界」で成り立っていることになり、「第三の世界」の広がりを描いたのが『三四郎』であろうか。廣田先生曰く「亡びるね」であり、漱石文学の羅針盤は「第二の世界」を指している。ついでに書けば、二葉亭四迷の『浮雲』で言えば、文三の世界は「第二の世界」であり、昇の世界は「第三の世界」ということになるだろうか。以上の三つのテーマは、漱石最後の『明暗』まで、ずうっとつながっている。
 『三四郎』と『それから』と『門』は三部作と言われ、どれも私の好きな小説で、何度も読んだ。『それから』を最初に読んだのは高校生の時で、その時に「一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったり」する「高等遊民」という言葉を覚え、憧れた。二度目に読んだのは、大学を辞めて父と喧嘩して家を出た時で、その時は志賀直哉の『和解』にも通じる「父と子」というテーマで読んだ。三度目に読んだのは、会社勤めを辞めた時で、その時は同じ頃に再読した二葉亭四迷の『浮雲』もそうであったが、謂わば「失業」小説として読んだ。私は代助というよりは、失業中の平岡に近いのであったが、最後に代助自身が「僕は一寸職業を探して来る」で終わるところなど、当時ほとんどわが身のことであった。
 『それから』は、1909年(明治42)6~10月に朝日新聞に連載された。『三四郎』は、島崎藤村の『春』の次の朝日新聞の連載小説であったが、『春』と同じ時期に漱石の推薦で、大塚楠緒子の『空薫』の連載があった。大塚楠緒子は漱石が思いを寄せたとされる女性だが、1895年(明治28)3月に漱石の旧友の小屋保治と結婚した。同年4月に漱石が松山の尋常中学に赴任したのは失恋をしたからだという漱石失恋説があるところだが、先に書いたように、東大教授であった大塚保治は帰国後小説書きになろうとする漱石に東大教授の職を勧めている。しかし、漱石はそれを断り、自由に小説を書く道を選んだ。
 1909年(明治42)5月10日、病を得てロシアからの帰国の途上、ベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月末に漱石は『それから』を起稿する。だからそれは、大塚楠緒子の連載小説にインスパイアされた漱石が、二葉亭四迷の『其面影』をモチーフにして書いた姦通小説であると私は思っていたのだが、そこは反自然主義の漱石のことだから、自らや大塚楠緒子をモデルにして登場人物を造形するわけではない。代助と三千代は、「彼は三千代に對する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した」とあるように、あくまでも漱石が観念的に造形した人物であり、平岡もまたそうである。そして、そこに登場する唯一の実在の人物は幸徳秋水なのである。以下のように赤新聞の記者になった平岡の口から突飛に幸徳秋水の名が出てくる。

 平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。・・・是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。「矢っ張り現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

 これは、山川均が「柏木団の人びち」に書いた頃の幸徳秋水であろうか。柏木団を外から見れば、こんなふうに見えたのかもしれない。
 旧友の妻と通じ合うという禁断の姦通を描いた『それから』は衝撃的ではあるが、代助をして「此方面にはあまり興味がない・・社会主義の事はそれなりにして置いた」としながらも、漱石が密かにそこに隠したのは、禁断の思想としての社会主義があったのではなかろうか。代助には社会主義への興味はないのかもしれないが、漱石には大いにあったように思われる。
 『それから』の時代背景は、日露戦争後の不景気な時代であり、「明治40年初めには株価が急落し、さらに同年10月アメリカに起きた経済恐慌の波が日本にも押しよせ、41年以降、不況状態が続いた。実業家である代助の父や兄は、その影響をまともに受けている」(荒正人編『漱石文学全集』集英社刊第5巻解説より)という設定になっている。
 「第一の世界」に生きる父と、「第三の世界」に生きる兄は、わけの分からない代助の生き方について、兄をしてこう警告する。「世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫れが自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉と云ふ観念は有ってゐるだらう」と。
 それに対して代助は、「是等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があった。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした」。『三四郎』で提起した「第二の世界」を生きる覚悟をしたわけである。
 代助は、幸徳秋水にはあまり興味がないと言いつつ、イギリスの画家ブランギンの絵を見るのだが、ブランギンの絵を知らない読者にはその意味が分からない。そこには漱石がイギリス留学で学んだ知識で二重、三重にフィルターがかけてある。イギリス人の漱石研究家ダミアン・フラナガンは『日本人が知らない夏目漱石』(世界思想社2003年)で、「漱石の作品における、もっとも意味深いラファエル前派的なイメージが現在まで全く注目されていないままであることを指摘」し、ウィリアム・ホルトマン・ハントの絵画で『三四郎』の絵解きをしてみせた。漱石とラファエル前派との関係など、数ある漱石論数があえて避けたか見逃したか、いずれにせよ、それが漱石文学の技巧であり、理想の著し方であると思われる。1907年(明治40)4月に東京美術学校で行われた講演『文学の哲学的基礎』において、漱石は以下のように述べている。

 理想とは何でもない。いかにして生存するかがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎんのであります。・・・いわゆる技巧と称するものは、この答案を明瞭にするために文芸の士が利用する道具であります。道具は固より本体ではない。

 我々に必要なのは理想である。・・・一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわれるほかに路がないのであります。

 『それから』には社会主義の影がある。戦前から国民文学者であった夏目漱石が社会主義に関心をもっていたなど誰も言えなかったであろうし、1967年にロンドンのギャラリーを訪ねた江藤淳はさすがそれに気づいたであろうが、見方は異なるようだ。以下の『それから』の最後の文章は、代助が精神錯乱を起こした状況と言われるが、狂気と神経衰弱は漱石にとっても、漱石を国民文学者にしておきたい側にとってもカムフラージュなのである。以下、私には「赤=社会主義」宣言にしか読めないのだが、それは私の短絡だろうか。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し姶めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、叉代助の頭の中に吸ひ込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が眞赤になった。さうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した。

 以上が『それから』のエンディングである。思うに、漱石の言う「三つの世界」は、漱石がロンドンに留学した経験からの着想ではあるまいか。イギリスは階級社会で、保守的な階級社会(第一の世界)でありながら、市場経済(第三の世界)が大いに発展している。その真っ只中で漱石は、神経衰弱になりながら、必死になって「第一の世界」でも「第三の世界」でもないものを探し求めてたくさんの本を買い込み、カーライルやモリスの世界(第二の世界)を知り、帰国後に東大教授にならずにそれをモチーフに小説を書いた、とまあこう思うところである。 漱石はイギリスで何を見たのか? おそらくそれはキャピタリズムとその行く末ではなかろうか。

 1909年(明治42)8月に『それから』を書き終えた漱石は、旧友の中村是公の誘いで満韓旅行へと出かけ、翌1910年3月からは『門』の連載を始めるが、執筆途中に胃潰瘍で入院。伊豆の修善寺に出かけ転地療養するも、所謂「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血をおこして、生死をさまよった。そして、1910年(明治43)11月に大塚楠緒子が35歳の若さで死んだ時に、漱石は「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という激情のこもった句をたむけている。
 『門』は、1910年(明治43)3~6月に朝日新聞に連載された小説で、『それから』の続編的な作品であり、私はいつも『それから』とセットで読んだ。『それから』は松田優作主演の映画のイメージと、私は高等遊民ではないということもあって、代助には距離を感じてしまうのだったが、『門』の宗助には、そのつつましやかな暮らしぶりからして、読むたびにリアリティとシンパシーを感じるのであった。
 主人公の宗助は、毎日電車で丸の内にある役所に通う謂わば腰弁である。日曜日にふらりと街に出て、駿河台下で電車を降りて「本屋の前を通ると、屹度中へはい入って見たくなったり、中にはい入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云ふと、既に一昔前の生活である」。そして、日曜日も終わる頃になると、「明日から・・叉せっせと働かなくてはならない身体だと考えると・・残る6日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた」りするのであった。宗助とその妻の御米の日常風景は下記の如くで、こんな質素で貧乏な世帯は、いつの時代にもけっこうあるのではあるまいか。

 「毎日役所に出ては叉役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出掛けるなどといふ億劫な事は滅多になかった。客は殆ど来ない。・・夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活状態に相応した程度のものであった」。
 「苦しい時には、御米が何時でも宗助に、『でも仕方ないわ』と云った。宗助は御米に、『まあ、我慢するさ』といった」。
 「宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日に御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つづつ持って帰って来た。夜露にあてた方が可かろうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた」。
 「『外套が欲しいって』、『ああ』、御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云ふ風に、『御拵へなさいな。月賦で』と云った。宗助は『まあ止さうよ』と急に侘しく答えた」。
 「・・事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた」。

 と、まあこんな具合である。「彼の慢心は・・既に銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日迄生きて来た」という宗助が、「僕は一寸職業を探して来る」と言って出掛けた代助の「それから」であるとすれば、宗助もまた漱石が観念的に造形した人物であると思われる。宗助にとって役所勤めは「つまらない」「非精神的な行動」であるということは、宗助は「第二の世界」に生きる人のその後の生き様として描かれていると、私には思えるところである。
 「第二の世界」に生きる人というのは、『三四郎』においては廣田先生と野々宮さんであり、『それから』においては代助であると言える訳だが、廣田先生とか野々宮さんとか代助みたいな学者や遊民は、世の中から見れば、ごく少数の人である。しかし、宗助みたいに一見腰弁として生きている人たちの中にも「第二の世界」に生きる人がいるとすれば、「第二の世界」に生きる人の数はずっと多くなる。『門』は始めの辺りで、伊藤博文の暗殺事件が語られているから、物語の背景は1909~1910年の冬が終わる頃までで、漱石の執筆時期とそう変わらない。そして1910年6月3日に幸徳秋水逮捕の記事が新聞に載り、同6月5日に漱石は『門』を脱稿したという。『門』は、「うん、然し叉ぢき冬になるよ」の宗助の言葉で終わっている。

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