« 片山潜の遥かなる旅路  | トップページ | 夏目漱石と堺利彦 »

2013年9月20日 (金)

石川三四郎のアナキズム

 
 これまで何度か名前が出てきたが、幸徳秋水と堺利彦が1903年(明治36)に萬朝報を退社して平民社を立ち上げた時に、ふたりを追って萬朝報を退社を退社して平民社に参加した古参に石川三四郎がいる。石川三四郎は平民社の古参ではあるが一八七六年(明治9)の生まれで、幸徳や堺よりは少し歳若のクリスチャンである。堺利彦が「石川は中央大学の出身で、郷里埼玉における自由党の諸先輩に教育され、一面には海老名弾正らのクリスチャンの感化を受け、後万朝報記者として社会主義協会に加入した。クリスチャン系統と自由党系統とは、誠によくこの人において結合されていた」と書いているように、若くして郷里の先輩である自由党員の家に預けられ、哲学館と東京法学院に学んで一九〇二年(明治35)に萬朝報社に入社、その頃に木下尚江と知り合う。
 社会主義とは真理の実現であり、政治的革命よりも思想的革命をより根底的なものとした石川三四郎は非政治的であり、最初の著作は一九〇四年(明治37)に平民社から出した『消費組合之話』という冊子である。『消費組合之話』の前書きには、「平民社で著述出版を計画した時、予に『消費組合の話』を割当てて呉れたのは枯川兄である、兄は更に之を安部磯雄氏に談じ、安部氏は有益なる参考書を送り賜はつた・・」とある。「枯川兄」とは堺利彦のことであり、石川三四郎の性格に合わせて安部磯雄から「有益なる参考書」を借りて、石川三四郎に本を書かせたのであろう。「有益なる参考書」とは、ホリヨーク著の『ロッチデールの先駆者たち』のことであろうが、安部磯雄はアメリカに留学時にイギリスにも渡っているから、そこで手に入れたのであろう。
 日本における協同組合の紹介は、前述したように、一八九八年(明治31)に高野房太郎が横浜で鉄工組合横浜支部を指導して創った「横浜鉄工共営合資会社」という「共働店」と、一八九九年(明治32)に同じく高野房太郎が京橋区八丁堀で石川島造船・沖電気の労働者を対象に創った「共営社」があり、片山潜も『六合雑誌』や労働組合期成会の機関誌『労働世界』でイギリスにおけるロッチデールの協同組合や消費組合運動の歴史や機能を紹介したが、それらよりもずっと早く、「イギリスで展開した協同組合思想は、日本では明治初期に輸入書籍が流入するとともに、その翻訳書によって普及し」、「日本人によるイギリス消費組合の紹介は、一八七八年(明治11)『郵便報知新聞』に掲載された馬場武義の「協力商店創立ノ議」が最初である。この翌年、共立商社その他の日本初の消費組合が設立された」(※一橋大学附属図書館HPより)。資本主義や株式会社が未発達な中で、法人企業のひとつの形態として試されたのだと思うが、当時の実業家には、それをやってみようという志もあったということであろうか。
 労働組合期成会を設立した高野房太郎は、労働組合の結成と工場法の必要を訴えるのとあわせて、相互扶助を目的として共済制度と共働店=消費組合の結成を訴えて「共働店」づくりをすすめたわけであるが、産業革命以降の労働運動というのは、いきなり現在あるような労働組合づくりをめざしたのではない。イギリスの産業革命期においてもそうであったように、当初の労働運動は自然発生的な抵抗やストライキを除けば、労働者自身による相互扶助をめざしたのであり、その形態は「共済制度と共働店=消費組合」であった。しかし、高野房太郎らの運動はやがて行きづまり、労働者の団結を禁止した一九〇〇年(明治33年)制定の治安警察法により終焉を余儀なくされた。同年、明治政府はドイツの協同組合を参考に産業組合法を制定する。官製でない協同組合は不可能となったのであった。
 資本主義の生成期で、労働組合は出来たばかりで、いわゆる消費者というものが存在しなかった時代に、数少ない組合員だけを対象にした協同組合の存続は困難であった。このことは、一八二〇~三〇年代のイギリスにおいてもたくさんの協同組合づくりが試みられながらも、一八四四年のロッチデール公正開拓者組合の出現までは、そのどれもが長続きできなかったことと同じである。しかし、私は、最初の試みが長続きしなかったことを否定的に考えない。いつの時代でも、先駆者が運動が起こすとはそういうことなのである。当時、徳島に住んで平民新聞を購読していた十七歳の賀川豊彦は、一九〇五年(明治38)に『消費組合之話』を読んで大きな感銘を受け、やがて日本の協同組合運動の指導者になる。現在、日本の協同組合の組合員数は二〇〇〇万人を超えるが、そのひとつぶの種こそ石川三四郎の『消費組合之話』だったわけである。
 一九〇五年(明治38)の『平民新聞』の廃刊後、石川三四郎は木下尚江や安部磯雄らと『新紀元』を創刊し、一九〇六年(明治39)には谷中村をたびたび訪問して田中正造と出会い、前述したように『新紀元』に載せた「階級戦争論」に、「予、頃者、栃木県谷中村に、田中正造翁を訪ふ、翁曰く、『私は曹から儒教の精神で固められたものでがすで、何でも上から下を治めると言ふ方に許り心が向いて、下層人民の中に入って、彼等自身に力を付け、彼等自身に事をヤラせる方にャ、マダ此頃まで眼が着かなかったでがす』と、嗚呼、正義の苦闘、人道の難戦、二十年の長き実験を経て、翁亦此言あり、嗚呼、翁の肉体は仮令遂には滅ぶとも、谷中村は仮全潰海と化するとも、此の一言は永久に伝へて以て改革者の一大教訓たらん、吾れ此の一言を耳にせるの時、感謝の熱涙の吾が全身を搾りて湧出するを覚えぬ」と書いた。田中正造の一言こそは、「民衆自治」の思想であろう。
 同年に堺利彦から日本社会党に誘われた時に、石川三四郎は『堺兄に与へて政党を論ず』を書いて、「予は・・政党を以て、社会改革の手段として、左程重要なるものと考ふること能はざる者なり」、「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書き、それに対して堺利彦は、「石川三四郎君に告ぐ」に「僕は君が常にひとり、しかりただひとり、新紀元城の矢面に立つをみて、これを射るに忍びざる者である。僕はただ君の誠実と真摯とに感じ、君が他日必ず来たって僕らの群に投ずべきを信じ、静かにその時を待つの外ないのである」と書いた。『新紀元』は、堺利彦から謂わば分派したわけだが、互いを論じ合うことはなはだ涙もろい。ふたりは、石川三四郎が「回顧すれば五年の昔、予は大兄が紹介によりて『萬朝報』に入り、体系の誘導庇護を受くること頗る多かりき。然るに・・」と書く関係であり、その後も道は違えども、二人の関係はそういうものとしてつづくのである。
 日刊『平民新聞』が計画されると石川三四郎はその創立人となり、一九〇七年(明治40)の第二回社会党大会では評議委員会の幹事に選出された。日刊『平民新聞』の発行責任者でもあった石川三四郎は、新聞条例違反で同年四月から一年余の入獄をすると獄中でマルクス、クロポトキン、カーペンターから『老子』や『古事記』まで多くの本を読み、”Prisoner’s Note”をとり、出獄後に『虚無の霊光』にまとめた。例えば、以下のように書かれている。
 「予は、社会的協同と個人的自治とは人生生活に欠くべからざる両方面であると思ふ」、「自我といふ独立の自覚ありて始めて玆に自治といふ作用が起こる。自我に自治の能力あればこそ、協同生活の実も挙るのである。協同生活の実挙りて此に始めて社会が成立するのである」。「例へば、カルル・マルクス等の社会民主々義は産業及び政権の統一を主張し、クロポトキン等の無政府共産主義では産業及び政権の分置を唱導して居る。・・・戦争には統一制度を必要とし、平和には自治制度を便利とするので、夫の人生進化の動的観察に基きて階級戦争論を唱導するに至ったマルクスは自然に統一主義に傾き、人生理想の静的観察に基いて相互扶助論を主張するに至ったクロポトキンは自然に自治主義に傾いたのである」。「此精神的無政府主義のトルストイや、前掲の個人的無政府主義のスチルネルが、共に理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へたのは甚だ面白い。未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」と。
 「然れども一たび我が衷に蟠まれる「物慾の蔭」を断絶して且つ虚無に反り、天真爛漫たる本来の面目を打開するの時、流転生死の無常観は赫々たる霊光の中に熔化し去りて生滅不二に帰するのである。かくて動中に静あり、流転中に永生あり、虚無の中に実在を得るのである」。「前段捿々言へる如く消極的厭世は変じて積極的の革命となるのである。達磨大師も『捨世塵而欲求道者宛如求兎角(せじんをすててみちをもとめんとほつするはあたかもとかくをもとむるがごとし)』と言はれたそうだが、今は之に一言を加ふるの余地も必要もあるまい」と。
 石川三四郎はキリスト教か社会主義かで悩んでいたわけだが、マルクスとクロポトキンというよりは、カーペンターとスチルネルと達磨大師に、それらをつつみこむ「『虚無の霊光」をみたわけである。辻潤がマックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を翻訳して、『自我経』として出版したのが一九二〇年(大正9)だから、その十年以上も前におそらく英訳本で読んだのだと思われるが、その要諦を「理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へた」ととらえて、「未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」としたのは、はなはだ卓見である。これは『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」という書き込みにも通じている。若きマルクスが心はどこか「聖マックス」に通じていながらも、エンゲルスと共に「聖マックス批判」をやって、さらに「統一制度」としての社会主義を唱え、やがて石川三四郎に「自治制度」と対比されているのは、日本の黎明期の社会主義の水準を思わせるものがある。後に石川三四郎はフランスを中心に八年近い亡命生活を送り、キリスト教社会主義者からアナキストとなって帰国するわけだが、『虚無の霊光』を書いた時点で、すでに石川三四郎は明治社会主義から生まれた土着型のアナキストとなったと言えるだろう。
 石川三四郎は、一九〇七年(明治40)には福田英子が創刊した『世界婦人』を手伝って編集発行人をしている。福田英子は旧姓景山英子といい、自由民権運動家の大井憲太郎が朝鮮の独立を支援しようとして起こした大阪事件の際、爆弾の運び役をやった女性で、大井健太郎と別れた後は福田友作と再婚して福田英子となり、『世界婦人』を発行した。十代の頃に頃東京に出てきた石川三四郎は同郷の先輩である福田友作宅に寄宿して世話になり、その後も寄食していたから、三四郎が『世界婦人』の編集発行人なったのは、筆禍事件で福田英子が刑務所入りをしないで済むようにという配慮であったというが、一九一〇年(明治43)に『婦人世界』の筆禍事件で刑務所に入っていたおかげで、石川三四郎は大逆事件の難をのがれることができたのであった。
 石川三四郎が獄中でたくさんの本を読み、ノートを取ったのは、出獄後に出版をするためであった。同じ頃に獄中にあった堺利彦も獄中で出獄後の生業企画を立てている。この後にふれる売文社の企画で、堺利彦は自らだけでなく同志たちの食い扶持まで考えた事業企画であり、石川三四郎の場合は自らの『西洋社会運動史』と『虚無の霊光』の出版企画ではあるが、いずれにせよ入獄した社会主義者は出獄を待ちわびながらも、その後の食い扶持を心配し、しのぎを考えねばならなかったわけである。
 しかも、大逆事件後の野蛮な取締りによって、『虚無の霊光』は製本中に差し押さえられ、現在読める『虚無の霊光』も途中が欠落したものである。出獄後に横浜に移り住んだ石川三四郎は、出来上がった『西洋社会運動史』を渡辺政太郎の手を借りて、警察に押収される前に発送し、警察に引致され本は発売禁止とされるも釈放された。
 一九一一年(明治44)に、石川三四郎は渡辺政太郎と渡辺方に子供を集めて日曜学校を始めている。渡辺政太郎は、山梨出身のクリスチャンの社会主義者で工員、丁稚奉公、床屋、児童養護事業などに従事、片山潜の『社会新聞』や、そこから分かれた『東京社会新聞』などに協力、貧困の中で子供相手の一銭床屋やアメ屋をやりながら社会主義の伝道をした。大正期に入ると大杉栄と荒畑寒村が主宰するサンジカリズム研究会に参加して共鳴し、小石川指ヶ谷町の書店「南天堂」の二階で、後に「北風会」となる研究会を主催した。その清貧な人柄から「白山聖人」と呼ばれた人格者であったが、ひとつだけ罪つくりがあったとすれば、辻潤に大杉栄を紹介したことだろうか。教え子である伊藤野枝に惚れられて彼女と同棲を始めた辻閏は、染井に家を構え、近くの福田英子宅に出入りしていて、そこで渡辺政太郎と会って仲よくなった。そして、渡辺政太郎が辻潤の家に連れてきたのが大杉栄であった。辻閏の「社会運動に対する情熱のないことにあきたらず」伊藤野枝は大杉栄のもとに走り、残された辻潤は浅草にパンタライ(万物流転)社を構えて「英語・尺八・ヴァイオリン教授」の看板を掲げ、やがて、比叡山の宿坊にこもってマックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有』の翻訳をすすめ、『自我経』の教祖となった。関東大震災後、大杉栄と伊藤野枝が虐殺さてたのを聞いた辻潤は、『ふもれすく』に以下のように書いている。
 「(野枝さんは)ひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて日本のゴルドマンになろうとする程の情熱を示してきた。・・・野枝さんは至極有名になって、僕は一向にふるわない生活をして、碌々と暮らしていた。・・・そこへ大杉君が現れてきた。一代の風雲児が現れてきた。とても耐ったものではない」、「しかし僕は野枝さんが好きだった」と。
 石川三四郎はクリスチャンで求道者的なところがあったが、女性に関しては大杉栄と同様に自由恋愛主義的なところがあった。そしてインテリでもあったわけだが、獄中でカーペンターを読んだのと渡辺政太郎の生き様に接して、自らも生業をして生きねばと生業を考えたようで、後に『自叙伝』に以下のように書いている。
 「私は当時自分の生活態度に随分深刻な悩みを持っていました。今日の資本主義的社会組織の不合理を唱え、それを改革せねばならぬと主張する者が、自らその制度の余沢によって些かでも搾取的生活をしたのでは、主張も唱道も意義をなさない、こうした不合理な生活から些かでも自分の身を軽くする方法は、今の社会におこなわれる最下級の労働を出来るだけ分担した上、自分の生活を最小限度に縮めることだと私は考えました。当時私は深くエドワアド・カアペンターの思想と生活態度に心酔していました」と。
 しかし、なかなか手に職はつかず、横浜に石川三四郎を訪ねた堺利彦に横浜駐在ベルギー副領事に紹介され、その領事の友人から亡命をすすめられた石川三四郎は、一九一三年(大正2)三月一日にヨーロッパに向けて非合法出国をし、それは第一次世界大戦期の七年半にわたるヨーロッパでの亡命となった。フランスのアナキストのポール・ルクリュ一家の世話になって五年間農業に従事、イギリスのエドワード・カーペンターも四度訪ねて親しく交わり、カーペンターから「デモクラシー」の「デモス」とは「土地につける民衆」の意味であると教えられ、「デモクラシー」は「土民生活」であるとして、一九二〇年(大正9)一〇月三〇日に帰国すると、「土民生活(デモクラシー)」を唱え、一九二四年(大正13)には安部磯雄らと日本フェビアン協会をつくったりもしたが、一九二七年(昭和2)からは多摩郡千歳村で、農耕と著述の生活に入った。石川三四郎は、謂わばエコロジストの先駆けでもあり、戦後まで生きた。
 戦後に書かれた『五十年後の日本』は、名称的にもE.ベラミーの『かえりみれば(百年後の世界)』を意識したユートピア小説であり、そこには「購買組合、信用組合、販売組合、生産組合、水利・電利組合、保険組合、教育組合、警察組合」といった組合が複合化された社会がたえず変化発展していくという社会が描かれおり、これからの協同組合のあり方を考える上でも、今また語られる「協同組合地域社会」や「社会的企業」という概念に対しても、示唆に富んだものを持っている。

|

« 片山潜の遥かなる旅路  | トップページ | 夏目漱石と堺利彦 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 石川三四郎のアナキズム:

« 片山潜の遥かなる旅路  | トップページ | 夏目漱石と堺利彦 »