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2013年9月19日 (木)

片山潜の遥かなる旅路 

  島崎藤村は、明治39年(1906)3月に『破戒』を自費出版する。すぐにそれを読んだ夏目漱石は、4月3日づけで森田草平宛に「破戒讀了。明治の小説として後世に伝ふべき名編也」と書き送る。藤村は毀誉褒貶の多い作家であり、その作品にも生き方にも批判があり、『破戒』についても、主人公の丑松が「亜米利加のテキサスで農業に従事しようと」アメリカに渡る結末は不自然であると言われてきた。しかし、前述したように藤村自身がアメリカに仕事の修行に行かされようとしていたし、これは全く不自然ではない。前述したように、馬場辰猪をはじめ数々の民権運動家がアメリカに渡っているし、社会主義者の片山潜は13年間アメリカで苦学して、ちょうど藤村が『破戒』を書いている頃に、テキサスで1万エーカーの農場経営までやろうとしていた。第2回社会党大会の直後の2月18日に、片山潜はアメリカから帰国したが、これは農場経営のために第3回目の渡米をして、それが失敗して帰って来たときのことである。
 片山潜は、日露戦争の最中の明治37年(1904)にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名だが、それは二度目の渡米の時のことである。その第2回目の渡米の時に片山潜は第2インターナショナルのアムステルダム大会に出席するのだが、大会後はアメリカに戻ってテキサスに数百エーカーの農場を買い、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしまうのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、先の島崎藤村の『破戒』の最後に、被差別部落出身の大物「大日向某」が買ったアメリカの農場に丑松が行くというのは、少しも不自然ではないのである。かえって、『破戒』という近代日本文学の傑作にふさわしい終り方であるとさえ言える。片山潜がテキサスでの1万エーカーの農場経営を企画して日本に帰ったのが明治39年(1906)、『破戒』もその年に出版されている。

 片山潜は、1859年(安政6)岡山県の生まれで、日本の社会主義者の中では年長者である。農家の二男に生まれ、「貧乏と学問と成功、この三つは渡米によっていっきょに解決されるのでは」と1884年(明治17)に渡米。アメリカで13年間苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、明治29年(1896)に帰国した。そして、最初の渡米を含めて、4度渡米して、1914年(大正3)の4度目の渡米の後、1921年(大正10)に革命後のロシアに渡り、1933年(昭和8)そこで生涯を終えた。だから、その間の2度の渡米を含めると、日本での活動期間はそれほど長くはない。活動は海外での方が長いくらいである。
 最初の帰国後は、『六合雑誌』に寄稿、1897年(明治30)に神田三崎町でキングスレー館を開いてセツルメント事業を始め、前述したように職工義友会主催の演説会に弁士として参加、同年12月に鉄工組合が結成され、機関誌『労働世界』が発刊されるとその編集長になった。当初はラッサール流の改良主義的な社会主義者であったが、社会主義研究会に参加するようになってからは、『労働世界』でも社会主義を唱える様になって高野岩三郎らと対立するようになった。
 1903年(明治36)末に2度目の渡米をするまでの片山潜の活動は、労働運動と社会主義の謂わばオルグである。そのために全国を旅行、遊説している。また、鉄工組合がなくなった後『労働世界』は片山潜の個人所有とし、これを出し続けた。さらに、明治33年(1900)に安部磯雄らの社会主義研究会が社会主義協会へと改組されると、その事務所を芝のユニテリアン協会からキングスレー館へと移し、1901年(明治34)にはそれらの活動をまとめて、西川光二郎との共著で『日本の労働運動』を出版した。
 片山潜がすごいのは、運動を自らに集中する能力と、そのための努力である。武骨で不器用そうにみえながらも、用意周到でしぶといわけである。この時代に運動する人がたいへんなのは、喰うことである。運動は金にならないのに、自分が食べるための金はおろか、全国遊説するための費用も誰かが出してくれるわけではい。自らまかなわなくてはいけない訳で、アメリカ帰りの留学生であった安部磯雄などは学校の先生をする。学校の先生になれなければ、幸徳秋水のように新聞社などに勤めてジャーナリストになる。そして、片山潜はどうするかというと、アメリカの教会から助成を受けてキングスレー館というセツルメント施設を作って幼稚園をやったり、そこを活動の拠点にして出版をやり、『労働世界』を出し続ける。さらに、前述した横山源之助の『内地雑居後之日本』といった叢書や自分の渡米経験を生かして『学生渡米案内』を出したりする。この『学生渡米案内』は、キングスレー館の事業としては一番もうかったそうで、さらに「渡米教会」をつくって渡米者の組織化までしようとしており、3度目の渡米から帰った後には「労働奨励会」や「奮学会」をつくって、新聞売子や苦学生を組織しようとしている。
 この時代、片山潜が他に抜きんでているのは、運動をつづけるにはそれを支えるための食いぶちをつくらなくてはいけないことを理解していて、自ら事業を企画して自らの運動にもそれを結び付けてやったということである。要は、片山潜は日本で初めての近代的オルガナイザーであったのであり、自らが確信をもったことを自らが中心になって推し進めようとした。長いアメリカ暮らしで得た「マスター・オブ・アーツ」の資格と本場で学んできたという自負、それにアメリカナイズされた合理的な思考と持って生まれた忍耐力、これが片山潜のアドバンテージであった。
 片山潜が明治36年(1903)12月末、11月に『平民新聞』が発刊されたすぐ後に2度目の渡米をする。平民社の立ち上がると、そこが社会主義運動の中心となり、片山潜のキングスレー館に置かれていた社会主義協会もそこに移った。おそらく片山潜は自らの運動の拠りどころを求めたのであろう、2度目の渡米の目的は翌年にで開かれる第2インターナショナルのアムステルダム大会に出場することと、テキサスで農場経営を試みるためでもあった。それは第2インターナショナル、片山的には「万国社会党」との結びつきと、アメリカにおける事業拠点づくりをも追及するためでもあり、片山潜は「万国社会党」の幹事になって帰って来た。2度目の渡米は、アムステルダムに渡ったこともあり2年間に及んだ。その間に日本では、明治38年(1905)に『平民新聞』が廃刊になり、同年10月には平民社も解散になった。片山潜が帰国したのは明治39年(1906)1月で、片山潜は同年2月に結成された日本社会党の評議委員に選出される。同年6月には幸徳秋水もサンフランシスコから帰国して直接行動論を展開するようになるが、同年7月に片山潜はテキサスにおける農場経営のために三度目の渡米をする。
 1907年(明治40)1月に日刊『平民新聞』が創刊され、2月17日に日本社会党の第二回大会が開かれ、そこでは幸徳秋水らの「直接行動派」と田添恭二らの「議会政策派」とが正面衝突し、テキサスでの農場経営に失敗した片山潜はその直後に帰国する。日本社会党の第二回大会における直接行動派の幸徳秋水の演説は前述のとおりだが、議会政策派の片山潜は、日刊『平民新聞』3月5日の第40号に「労働者諸君に告ぐ」と題して、「記憶せよ! 帝国憲法の下には我々臣民の権利(人権及財産権)は法律に依って始めて生ず、而して斯法律は人民の代表者が先づ議決して後、天皇の裁可を経て始で完成す、然らば我々の権利は少くとも我々帝国臣民の先議なくして生ぜずと謂つべし、故に我々労働者は宇内の大勢を通観して一致の行動に出で、先づ普通選挙権を得て堂々議会に於て其権利を主張すべし、是れ今日執るべき唯一の方針なりと信ず、請ふ、諸君の深思熟考を煩はさん」と書き、同3月10日の第45号には「労働問題の前途」と題して、「労働者の前途は先づ組合を組織して常に秩序ある行為に出づべきなり、是れ実に吾人が天下の労働者に向かつて熱心に勧告せんと欲する所なり」と書き、田添鉄二とともに憲法の範囲内での議会主義を主張した。
 同年4月に日刊『平民新聞』は廃刊になり、日本社会党も結社禁止となる。分裂した直接行動派と議会政策派は、同年6月に幸徳秋水と堺利彦は森近運平と大阪で『大阪平民新聞』を発刊、片山潜は西川光二郎らと「社会主義中央機関」と称して週刊『社会新聞』を発刊し、論争した。片山潜がアメリカに行き来する間に、日本の社会主義運動の中心はすっかり平民社へと移っていたわけだが、片山潜と西川光二郎が発行した『社会新聞』が「社会主義中央機関」と称したことについて、堺利彦は「社会新聞と小生らの関係」という文章に、以下のように書いている。
 「機関紙の経営ということは・・それに従事する人々の衣食の問題である。・・・ある一部の人々がその衣食の道を独占するというようなきらいがあっては、はなはだ相済まぬ訳である。・・・社会新聞は、「社会主義中央機関」として打って出て、片山、西川の両君これを経営し、旧平民新聞社一同これを援助するという訳であった。しかるに、社会新聞第1号の「創刊の辞」を見るに、何とやら小生ら(もしくは小生らの一人)に当てつけたようなことが書いてある」。「片山君が幸徳の宅に来訪せられた。・・そして、なにぶんにも目下君らが助けてくれなくては社会新聞の維持がむずかしいとて・・種々助力を求められた。幸徳はこれに対し、直接行動派、その他各派の意見も社会新聞に掲ぐるならばもちろん異存はなしと答えた。・・・堺はなお、中央機関紙には諸派の意見をなるべく自由に発表せねばならないということを話し、片山君は・・相談のうえ、返答するということで別れた」と。
 要は、片山潜としては幸徳、堺と別々にやったのでは読者の獲得がおぼつかないが、直接行動派は分派として排除したいということであったのであろう。堺利彦は、片山潜らには「欧州社会党の分派を説き・・・かかる分派の発生はわが党運動の進歩を意味するもので、むしろ喜ぶべきことである。ただ中央機関紙たるものは、各分派の意見をなるべく自由にその紙上に発表せしめねばならぬ」と説いていたわけだが、片山潜は「堂々たる長論文」の『社会主義鄙見』を書いて、「無政府主義者、もしくは無政府主義的傾向を有する者、もしくは議会政策を排する者は、断じて社会主義者にあらず」とする。『社会主義鄙見』で、片山潜はこう書いている。
 「余の社会党に対する地位は明確なり、未だ一点も変更せしを記憶せず、万国の社会党員の間に余の立場は明知され居ればなり。余は未だ曾って万国社会党の綱領宣言に異なる主張をなしたる事なし。政治運動即ち立法及議会政策を排する者は、口は社会主義と云ふも其信奉主張は無政府主義なり、政治団体を排斥する者は万国社会党員にあらず、彼若し自ら社会主義者なりと自称するも万国社会党員は彼を同志と認めざるなり、余は社会主義の実行を期せんが為めに議会政策を主張し、先づ普通選挙権を得んことに努めんと欲す、是万国の主義者が以て最良の社会主義実行手段となし、経験したる所なればなり、又我邦労働者の状態に照して最良手段なるを信ずればなり」と。
  両派は分裂して激しく対立するようになる。『社会新聞』1907年(明治40)11月17日に片山潜は、「自然の結果(幸徳、堺両君と予の立場)」に、以下のように書いて、運動から無政府主義を排除する。
 「余は両兄等と一切の関係を絶つべし。而して地方の同志諸君に向つて、予等は万国社会党の宣言綱領に則りて活動する者なりと言はんとす。余は無政府主義の空想を排斥し、今日迄顕はれたる無政府主義の政策手段には絶対的反対を表す。国家の規律を非認し議会政策を非認する無政府主義者と提携するの余地なきを信ず。予は社会主義者なり。万国社会党員なり。社会の進化に伴ふて我党の政策に亦進化発達あるを認むるも他主義に変化する亜流にあらず。又無政府主義を社会主義なりと曲解して天下の青年に説くの勇気をも有せず。愚直なる予は専ら予の信ずる社会主義を労働者諸君に説かんと欲す。是れ万国社会党の取るべき方針なり。請ふ之を諒せよ」と。
 それに対して、堺利彦は、『日本平民新聞』1907年(明治40)11月20日に、「社会新聞を見るに、社会主義同志会大会は我々は従来とり来たる万国社会党の主義綱領をもって進む者たることを宣言すという決議をなしたる由、それも至極結構なるべし。しかしそういうと何だか中央政府の訓令に従って行動するような気がする。・・・予の考えでは、大づかみにいう社会主義運動は、その右端は少しく国家主義的になり、その左端は少しく無政府主義的になると思う」と書くのであった。
 片山潜は、アメリカ留学中にラサール流の社会主義に傾倒したほか、イギリスを旅行して、そこでセツルメントなどの社会事業やグラスゴーの都市改良事業、消費組合などを見学し、イェール大学の卒業論文は「欧米の都市問題」である。ラサールから学んだドイツ流の国家社会主義と欧米の先進的な事例モデルから学んだ「市有」による都市社会主義的なものが、片山潜の社会主義観のベースになっており、それに第2インターナショナルという「万国社会党」との提携が片山潜の拠りどころであった。運動の進め方は、帝国憲法下での合法的な普通選挙運動と労働組合というのが基本である。幸徳秋水も短い期間ではあったが、アメリカの運動を見て「近時、米国社会党中、其運動政策に関して二派の議論闘はされつつあり、一は主として殊に独占的事業のパブリック、オーナシップ(国有若くは市有)を提げて選挙場裡の武器となさんとし、他は純乎たる社会主義の理想を以て旗幟となさんとする者也。・・・今日の制度の下に国有市有を賛するは、是れ社会改良家、国家社会主義に向つて譲歩する者也」と書いている。幸徳秋水からすれば、都市社会主義ではだめなのである。議会政策か直接行動かという対立の背景には、民権左派的な幸徳秋水、宥和主義的な堺利彦の土着社会主義と、合理的思考とで機能論的方法の外来種社会主義があるわけである。
 平民社とその周辺には、幸徳秋水と堺利彦のほかに、安部磯雄と片山潜も含めて、石川三四郎や山川均や大杉栄ほか多様な社会主義者が集まり、その事務所にはマルクスとエンゲルスとモリスとクロポトキンの肖像画が飾られていたという。これは万国社会党を知らず、科学的社会主義とユートピア社会主義と無政府主義の区別がつかなかったからというよりかは、万国社会党も含めて社会主義というものをそういうものとして受容したという証である。しかし、本場で社会主義を見て学んで誰よりも知識も労働運動の体験も豊富な先駆者であり、万国社会党の幹事でもあるという自負をもった片山潜からすれば、立法及議会政策を排する無政府主義を排した「社会主義中央機関」が必要であったのである。海外の事情を実際に見聞きしてきた訳ではなく、社会主義と無政府主義の区別もつかない日本の社会主義運動にあっては、自らの認識で運動を集約して広めることが正しい運動のすすめ方であると片山潜は思い、それまでの日本の運動を『日本の労働運動』にまとめ、『社会新聞』を「社会主義中央機関」と銘打って、後の「全国政治機関紙」的に位置付けようとしたのであろう。片山潜は、近代的オルガナイザーのはしりであったのと同時に、「主義」によって行動する近代的セクト運動家のはしりでもあったわけである。
 堺利彦は、1906年(明治39)11月の『光』に「社会主義と無政府主義」と題して、以下のように書いている。
 「予は最も公平に諸種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。・・・そこで予は思う、この社会主義と無政府主義との調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合をみるであろうと。・・・かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかにみえると思う。日本においては、最初片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。・・・ 日本のごときは、現在の万事がドイツ式なるに従って、革命運動もまたドイツ式となるべき形勢もみえる。・・・それにまた一つ、シナという大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた大いにその影響を受けぬとも限らぬ」と。
  外来の「主義」は、他に先んじてそれを喧伝する者にとってはイデオロギーと化し易い。ところが土着の堺利彦は、その行く末も含めて、それをさらりと受け流すのである。
 片山潜と西川光二郎が書いた『日本の労働運動』には、「明治二十九年の末に至り、・・先づ澤田半之助及城常太郎の両氏は・・翌三十年四月に・・職工義友会を起こし・・」とあり、その記述から高野房太郎の名をはずしている。また、この本には鉄工組合の共働店も片山潜の指導によってつくられたみたいにも書かれているが、後に「消費組合」のパンフレットは書くも、片山潜は実際に協同組合に関わったことはない。前述したように、実際に「共働店の規約」を書き、自らその運営を担ったのは高野房太郎であった。また『労働世界』の編集には横山源之助が協力し、そこで横山を中心に「下層社会研究会」が開かれているのだが、片山潜と別れた横山源之助のことは書かれていない。『日本の労働運動』は、初期の日本の労働運動を網羅した本ではあるが、片山潜の「オレがオレが」が目立つ本でもある。
 『日本の労働運動』を共著で出版したように、片山潜は西川光二郎と長年コンビで運動をやって来たわけだが、1908年(明治41)12月に片山潜は西川光二郎らによって自らのグループから除名されてしまう。同年1月には屋上演説事件が、6月には赤旗事件が起こり、2年後の大逆事件に向かって時代が流れていく中で、西川光二郎らは直接行動派を批判する「主義」から離れて行った訳であるが、彼らには片山潜のアメリカ流合理主義が、男気なしの不人情やケチと写ったのもあるのかもしれない。1884年(明治17)に渡米し、民権運動をスルーして長年アメリカ暮らしをしていた片山潜には、幸徳秋水や堺利彦のように、故郷の先輩や民権運動の先輩といった人脈はなく、日本語にも拙かったと言うから、なおさら合理的な考え方とやり方で運動をすすめるしかなかったのかもしれないが、そのことはまた、アメリカ帰りの社会主義者がベラミーやラッサールの影響は受けて機能論的に国家社会主義や改良主義を受け入れる下地にもなっていると思われる。幸徳秋水や堺利彦が「中央機関紙」的発想や国家主義を嫌うのは、民権運動の流れから来ていると思われるところである。
 一方、幸徳秋水が片山潜のことを「五分刈りの頭、薄痘痕の顔、短い服、古い背広を纏ふた中肉の身体、全体に鍛鉄の如く引締つた風采を一見すれば、何人も君が幼年から今日迄、如何に浮世の風浪と手痛き戦ひを続けたか、如何に多くの苛酷な迫害に堪へ来つたか、如何に苦痛の労働に服して来たかといふ来歴を、髣髪として読み取ることが出来るであらう。・・・外に出ては、予は一回も君が人力車に乗ったのを見ない」と書いたのは、片山潜がケチでったからではあるまい。そして片山潜は、「演説が済んで家に帰ると、妻君が不在なれば不在で、さっさと冷い飯に水をふっかけ、漬物を齧りながら食った。食ってしまふと、着のみ着のままでその儘ごろりと寝る」と山崎今朝弥が語るがごとき生活をしていたのであろう。妻に先立たれた時には、「何もしてやれなかった」と「片山はたくましい両手で面をおおう、声を立てて泣」いたという。そして、西川光二郎らが去った後に片山潜の後について来たのは、みな労働者型の人であったという。日本に帰ってからの片山潜の思いは労働者に向いていた。隅谷三喜男は「片山に対する毀誉褒貶は実に様々である。だが、唯一確かなことは、かれが一身の幸福を犠牲にし、終生労働者大衆の解放のために戦った、ということである」書いている。おそらく、そうだったのであろう。
 大逆事件後の明治44年(1911)、年初に幸徳秋水が処刑された年の年末に市電労働者の同盟羅業が起ると、翌年1月に片山潜は羅業を扇動したとして検挙され、入獄した。このことは、「憲法の範囲内で」の穏健な活動をすすめて来た片山潜にとってはショックであり、「今日の渡米は日本で逆境に堪へ得ないからである」と、大正3年(1914)9月に4度目の渡米をした。日本の社会主義たちは壮行会を開いたが、荒畑寒村は「日本にいては運動もできず、生活にも困るからと米国に行くと述べたのを聞いて・・・涙がこぼれた」と書いている。
 そこから先の片山潜は、二度と日本に戻ることはなかった。アメリカに渡った片山潜は、そこでトロツキーやブハーリンと知り合い、1921年(大正10)に1等客室の旅客となってソヴィエトに渡り、翌年にはコミンテルン執行委員会幹部会委員に選出された。アジアの革命は最も資本主義のすすんだ日本からと考えたコミンテルンは片山潜を厚遇し、片山潜は二十七テーゼも、三十二年テーゼも全面的に賛成し、日本に共産党をつくらせる際には「堺だけははずせ」と言ったという。スターリンを指導者として仰いだ片山潜は、1933年(昭和8)にクレムリン病院で74年の生涯を閉じ、その棺はスターリンによって担がれ、手厚くクレムリンに葬られた。

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