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2013年9月23日 (月)

夏目漱石と堺利彦

 夏目漱石は、1867年(慶応3)の生まれで、本名は金之助。帝国大学時代に正岡子規と交流し、1900年(明治33)にイギリスに留学したものの、発狂したので帰国したというのも知られた話である。帰国後は朝日新聞社に入社して小説を書き、1916年(大正5)に亡くなった。『我輩は猫である』や『坊ちゃん』や『こころ』などはどの教科書にも載っていて、日本人なら知らない人がいないくらいの国民文学者である。図書館で検索すると、どこの図書館にも漱石論も含めてたくさんの蔵書があるから、夏目漱石が社会主義に心を寄せていたなどと書くとヘーッと思う人もいるだろうし、その手の漱石論はほとんどないのだが、私には夏目漱石の文学の面白さと奥の深さはそこからきているように思える。
 江藤淳の代表作の『夏目漱石』は、それまでの漱石論の定番であった小宮豊隆の『夏目漱石』における「則天去私」の解釈を批判して登場する。「則天去私」は晩年の漱石が到達したと言われる心境で、小宮豊隆は「天に則って私を去る世界である。換言すれば、漱石が、人間の心の奥深く巣食っているエゴイズムを摘出して、人人に反省の機会を与え、それによって自然な、自由な、朗らかな、道理のみが支配する世界へ、人人を連れ込もうとすることである」としている。そこから漱石の「則天去私」伝説が生まれるわけだが、同じ漱石伝説でも、私には「漱石発狂す」の方がよほどつくられた伝説のように思える。
 漱石のロンドン生活は、安下宿暮らしと神経衰弱、最後は「漱石発狂す」で知られる。先進の地で日本の将来を憂いながら一生懸命に勉強するとすれば、多少の神経衰弱はあたりまえの姿でもあろうが、『倫敦消息』には、「しかるにあらゆる節倹をしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であるという感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ来たものだからなる事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるからさ。・・・人は「カムバーウェル(※テームズ川東南側一帯の労働者街」のような貧乏町にくすぼってるといって笑うかも知れないがそんな事に頓着する必要はない」(岩波文庫『漱石文明論集』p280)とあり、本人は「そんなに頓着」していない。
 漱石とともに留学した藤代禎輔は、1902年(明治35)10月に文部省からの電報で、「夏目精神に異常あり、藤代へ保護帰朝すべき旨伝達すべし」の依頼を受け、「十一月初旬、藤代禎輔は漱石に葉書を出し、一緒に帰国することを勧める。その葉書を受け取った翌日、藤代禎輔を訪ね、スコットラソドの旅行で帰国の準備ができぬという理由で断り、藤代禎輔も、漱石に異常を認めなかったので、保護して帰る必要なしと知り、先に出発することにした」という。そして、同年11月7日に漱石は「藤代禎輔を、ケンジソトン博物館と大英博物館に案内し、大英博物館のグリルで焼肉を食べエールを飲み、『もう船まで送って行かないよ』と云って別れる。藤代禎輔は、『留学生としてよくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い』と驚いたという。(集英社版『漱石文学全集』別館)。
 漱石に多少の異常が見受けられるとすれば、「よくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い」ことだろうか。そして、場末の安下宿に立てこもり、留学生活も1年以上が過ぎた頃の心境を、漱石は後に『私の個人主義』の中で、以下のように語っている。

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を漸く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。・・・そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでは甚だ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰曇な倫敦を眺めたのです。(岩波文庫『漱石文明論集』p114-115)

 江藤淳は江藤淳の『夏目漱石』の「『明暗』それに続くもの」という章で、「彼(漱石)は、その非組織的な濫読の間に、社会主義観系の書物を読んでいなかったとはいえない。これは単なる推測にすぎないが、ひそかに社会主義思想に対する関心すら示していたのではないか」と書いている。漱石は1902年(明治35)3月に義父の中根重一宛の手紙に、以下のように書いている。

 (日英同盟)事件の後本國にては非常に騒ぎ居候よし斯の如き事に騒ぎ候は恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの能り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん・・・国運の進歩の財源にあるは申までもこれなく候へば御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着致候。ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候ともただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめもしくは無教育に終らしめかへつて平凡なる金持をして愚なる半張を実行せしめる傾なくやと存候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、かっ耶蘇教の随性と仏国革命の殷鑑遠からざるよりこれら庸凡なる金持どもも利己一遍に流れず他のため人のために尽力致候形跡これあり候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候。カール・マークスの所論の如きは単に純粋の理窟としても欠点これあるべくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へどもちよっと気燄が吐きたくなり候間かやうな事を申上候。「夏目が知りもせぬに」などと御笑被下まじく候・・・。
 著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候。私も当地着後(去年八、九月頃より)一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少しづつかくのとを商買に致候。同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない、人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ励精致をり候。・・・ついで故一応申上候。先づ小生の考にては「世界を如何に観るべきやといふ論より始め、それより人生を如何に解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ず」るつもりに候。かやうな大きな事故、哲学にも歴史にも致治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候故自分ながらその大胆なるにあきれ候事もこれあり候へども思ひ立候事故行く処まで行くつもりに候。かやうな決心を致候と但欲しぎは時と金に御座候。日本へ帰りて語学教師などに追つかはれ候ては思索の暇も読書のひまもこれなきかと心配致候。時々は金を十万円拾って図書館を立てその中で著書をする夢を見るなど愚にもつかぬ事に御座候。〔後略〕

 100年以上前に書かれた「財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候・・・欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候」などは、現在にもそのままあてはまる。また、「日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候」という認識からは、土方人足の智識文字」とは後のプロレタリア文学にあたるのであろうか、そこには江藤淳も予測したとおりに、やがて漱石の小説に登場するようになる『それから』の平岡や『明暗』の小林といった左翼ゴロ的キャラクターの登場が予見され、そのためにも日本に持ち帰るたくさんの本の中には何冊もの社会主義関係の本があったと思われる。以上の漱石がロンドンから中根重一宛にあてた手紙を読むと、漱石は「発狂」どころか、「かやうな決心を致候」と、実に冷静にその後の研究を構想しているのが分かるのである。義父の中根重一宛の手紙が1902年(明治35)3月で、文部省からの電報が1902年(明治35)10月だから、その間に漱石の「精神異常」が文部省に伝わったわけだが、天皇に直訴した田中正造が「狂人」とされて処理されてしまったことを知ってか知らずか、帰国命令を受けた頃の漱石は「病気にかこつけて、過去の一切から解放され、気楽に毎日を送っている」(岡倉由三郎宛手紙)と書いている。1902年(明治35)11月7日、ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで藤代禎輔とエールで乾杯した漱石は、「発狂」どころか、ふっきれていたと私には思われる。
 1903年(明治36)1月に漱石は帰国する。日露戦争の危機が切迫してきた頃のことである。帰国後、漱石は一高、帝大から明治大学講師まで、「語学教師などに追つかはれ」ながら、1905年(明治38)9月の高浜虚子宛の手紙で「とにかく辞めたきは教師、やりたきは創作」と書き、やがて小説家への道を歩み出す。漱石のめざす文学は、「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論より始め・・・次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ずるつもりに候」であり、要は、土着・内発型の文学への道である。1906年(明治39)10月の鈴木三重吉宛の手紙には、以下のようにある。『我輩は猫である』は、中江兆民の『三酔人経綸問答』を思わせるところがあるが、漱石のこの気概はもうほとんど民権運動左派にも通じている。

 ・・単に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寝ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。・・丁度維新の当士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら紳経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。・・・僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文學者の様な気がしてならん。・・・

 イギリスで漱石と知り合った日本人に犬塚武夫なる人物がいる。犬塚は旧豊津藩主小笠原長幹のイギリス留学に随行し、この時、漱石と同じ下宿に逗留し懇意となったわけだが、犬塚は小宮豊隆の従兄弟にあたり、1905年(明治38)に東京帝国大学に入学した小宮豊隆は、犬塚に紹介されて漱石に在学中の保証人になってもらい、以後漱石のもとに出入りするようになる。荒正人編『漱石研究年表』を見ると毎日のように漱石を訪ねて宿泊もをしており、小宮豊隆は『三四郎』のモデルとも言われている。そして、豊津と言えば犬塚武夫は堺利彦と同郷で、ふたりは晩年に至るまで「本当の謂ゆる同郷竹馬の友」であったという。小宮豊隆も堺利彦と同じ豊津中学の卒業であったから、時に漱石と小宮豊隆は堺利彦のことを話題にすることもあったかもしれない。
 漱石の『我輩は猫である』(上篇)は1905年(明治38)10月に発行になり、二十日間で初版を売り切ったという。すると同月下旬に堺利彦は夏目漱石に、「新刊の書籍を面白く読んだ時、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦」との感想を送っている。堺利彦は『家庭雑誌』の1906年(明治39)7月号に、「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と書いたりもしている。そしたら、この「ナツメ」が電車賃値上げ反対運動の最中に「夏目」と誤解されて風評を呼び、夏目漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書いた新聞記事があったのだが、夏目漱石はそれを心配してその新聞記事の切抜きを送ってきた友人に対して、1906年(明治39)8月に、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候。・・都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書いている。
 ロンドン留学中にモリスの『地上楽園』を購入した漱石は、堺利彦の翻案的な訳文に対してどう思ったかは別にして、堺利彦が『理想郷』を訳していたのは知っていたと思われる。漱石はロンドンに留学すると、ラスキンが青年時代を過ごしたハーン・ヒルを訪ね、モリスの『The Earthly Paradise(地上楽園)』を購入している。これはカーライル博物館を訪ねるのよりも早いのだが、「カーライル博物館」は書いてもラスキンやモリスについては何も書いてはいない。では、関心は無かったのかというと、ロンドン留学中にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランに何度か行っていおり、帰国後は「倫敦塔」や「カーライル博物館」を『韮露行』という短編集として出版して、その装丁はウィリアム・モリスを模しているから、漱石はモリスを気に入っていた気と思われる。後に小宮豊隆は『漱石の芸術』で夏目漱石のほぼ全作品について解説していても、以上のようなことには少しも触れていない。『漱石の芸術』は戦中に書かれた本だから、おそらく書けないこともあったのだろうと思われるが、その一番最後に「漱石蔵書目録については・・・即ち漱石は、自分で読む為に本を買ひ、買った本は大抵は読んでいるという事だけを、言って置けば足りるだらうと思ふ」と書いている。書けなかったことについては、蔵書目録を見てくれということだろうか。
それでも、夏目漱石には神経衰弱がひどくなっている時期に書いた日記があったらしく、破り捨てたか、紛失したらしいが、一部小宮豊隆が編集したものが「断片」として残されており、1905~06年(明治38~39)に「天皇の御意向の変化について」書かれた以下の文章がある。

 ○Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず。団栗の脊くらべを生ず。数千の耶蘇、孔子、釈迦ありといへと遂に数千の公民に過ぎず。・・・
 ○昔は御上の御威光なら何でも出来た世の中なり。
 ○今は御上の御威光でも出来ぬ事は出来ぬ世の中なり。
 ○次には御上の御威光だから出来ぬといふ時代が来るべし。威光を笠に着て無理を押し
 という。

 この文章は、そのまま『吾輩は猫である』の中で、獨仙君が語るのであるが、最初の「Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず」の部分だけは『吾輩は猫である』には書かれてはいない。漱石は、おそらく社会主義を意識しながらも、それ的なことを直接表現することは懸命に避けており、小説に書き込む時はすべてを諧謔の中に包み込んでいる。しかし、漱石は西洋の近代文明がどのようなものであり、それがどうなって行くかについては、苦沙彌先生を訪ねて来る哲学者や獨仙君に大いに語らせている。例えば、隣の学校の生徒にボールを打ち込まれた先生が腹を立てることに対して、哲学者は次のように語る。

 西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持って居るよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつ迄積極的にやり通したって、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。・・・山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ。それだから君見給へ。禅宗でも儒家でも屹度根本的に此問題をつらまへる。・・・とにかく西洋人の積極主義許りがいいと思ふのは少々誤って居る様だ。君の様な貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしやうと云ふのが抑も君の不平の種さ。どうだい分ったかい。

 とにかく人間に個性の自由を許せば許す程御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチエが超人なんか担ぎ出すのも全く此窮屈のやり所がなくなって仕方なしにあんな哲學に変形したものだね。・・・吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困って居る。夫だから西洋の文明杯は一寸いいやうでもつまり駄目なものさ。之に反して東洋ぢや昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給へ個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりと云ふ句の價値を始めて発見するから。無為にして化すと云ふ語の馬鹿に出来ない事を悟るから。

 要は「消極的の修養で安心を得ろ」と説法した訳であり、西洋文明の「Self‐consciousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」(「断片」)に対しては、『論語』にある「王者の民蕩々たり(太平の民はのびやかである)」や『老子』にある「無為にして化す(何もしないで感化をおよぼす)」をもってするようなところがあるが、「然れどもその自覚せる時は既に神経過敏にして何らの術もこれを救済する能はざるの時なり」(「断片」)とあるように、その後の漱石の歩みは、それにつきるものではない。しかし、明治の時代においてその生き方は、漱石に「発狂」することや神経衰弱、それに胃潰瘍をもたらし、漱石の死を早めた。
 1915年(大正4)6~9月に書かれた『道草』は、『吾輩は猫である』と同じ時代を描いた漱石の自伝的小説ではあるが、表現、内容とも全く異なる小説である。その第「五十七」には、以下のようにある。

 無信心な彼は何うしても、『神には能く解ってゐる』と云ふことが出来なかった。・・「みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何にも欲しくないのだ」
 斯う考へて見ると、自分が今迄何をして来たのか解らなくなった。
 彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられても其方に使ふ時間を借がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの學校から四十圓貰って、それで満足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺に取られた。残る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食ってゐた。然し彼は其間に遂に何事も仕出かさなかった。
 其時分の彼と今の彼とは色々な点に於て大分変ってゐた。けれども経済に余裕のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、何處迄行っても変わりがなささうに見えた。
 彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうち何方かに中途半端な自分を片付けたくなった。・・・何うして好いか解らない彼はしきりに焦れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。

 『吾輩は猫である』から『道草』へ至る間に、おそらく「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」が漱石の眼に這入って来たのであり、そのプロセスこそがその後の漱石の作品群であろう。夏目漱石と堺利彦は、お互いの面識はなかったものの、外来崇拝や自然主義や恐露病に対して嫌悪感を隠さない漱石が堺利彦にシンパシーしたのは、その心情と生き方に通じ合うものを感じたからではあるまいか。堺利彦は、1904年(明治37)の「晩夏初秋の感」(「家庭雑誌」9月号)に、以下のように書いている。

 去年平民社を起こして以来、予の家の支出は常にその収入を越えていた。しかも収入を増さんがために、予はかつて何らの運動をしたことが無い。予の全力は平民社の事業に注がれていた。この家庭雑誌にすら毎号寄稿することができぬほどに多忙であった。そして平民社からもらうだけの金で、ただやれるだけやって行く。それ以上の金を得ようとも思わず、それ以上の事をしようとも思わず、貧乏の間にも心は誠に気楽であった。しかるに巣鴨行きという事件が突然として起こった。
 ・・・人はこれをこじき生活と笑うか知れぬが、予はこのこじきの生活に安んずるがよいではないか。月給の多寡にあせったり、貯金や内職に苦労をしたりして、そして独立だの独歩だのと威張ろうより、人の親切と自然の成行きとに打ちもたれて、流れに従って行く方が、何ほど気楽で、何ほど安心であるか知れぬ。予はともかくも平民社からいくらかの月給をもらっている。予と予の女児との生活はそれでもってささえられる。予はただ平民社の事業と予の主義とのために働きうるだけ働けばそれでよいのだ。予はかくのごとく一身一家の財政において全然他力主義を取ることとなった。

 これらを読むと、堺利彦はもうほとんど『吾輩は猫である』の苦沙彌先生である。そして、ここ夏目漱石と堺利彦の出あいの中に、日本の内発型土着社会主義の出発点があると、私は思うわけである。

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