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2013年9月 6日 (金)

幸徳秋水が垣間見た夢

 週間『平民新聞』は 1904年(明治37)10月に発行一周年を記念して、幸徳秋水と堺利彦共訳の『共産党宣言』を掲載して発行禁止となる。さらに石川三四郎が書いた「小学教師に告ぐ」の筆禍事件により、編集人の幸徳秋水は禁錮5ヶ月の判決を受けて、1905年(明治38)2月に巣鴨刑務所に収監された。
 病弱の秋水ではあるが、入獄中はクロポトキンの『田野、製造所及工場』うあエンゲルスの『フォイエルバッハ論』などを読み、フランス語の勉強などもしている。放免が間近になって堺利彦に書き送った手紙には、「与の病気は次第に快方に赴けり、但し終日法廷に直立せしめられて、十分の弁論を為し得るには、今少し体力の恢復するを待たざる可からず」としながら、出獄後への思いを以下のように書いている。
 「予が出獄後に於ける慾望は甚だ多し、丸の内に大倉堂を建築し、同志の演説集合の湯に充て、且つ其一部を編集局として、一大日刊新聞を発行せんこと其一也、先づ米國に遊び、転じて欧洲に入り、中原に於ける同志の運動に參して淹留数年なる其二也、一切世事を断絶して科學、哲學、宗教の書を携へ、山中に遁れて新唯物論の著述に従事せんこと其三也、北海道或は朝鮮に田園を買ひ、数百人の農夫と理想的生活を為して、静かに天真を養ふ其四也、此等四者其一を行ふも数千乃至敷萬金を要す、赤貧なる予には遂に空想に過ぎざるべし、嗚呼我等は何時迄か数寄屋橋畔の一破屋、下水の臭気紛々たる處に瞼せざる可らざる乎、諸君感果して如何」と。これが、秋水35歳の夢である。堺利彦の夢とも重なる夢だが性格のちがいか、より切実さがあって万感胸に迫るものがある。
 発行禁止になった週間『平民新聞』は、その執行に先立って1905年(明治38)1月に廃刊にされ、加藤時次郎が発行していた『直言』をもってそれに代えるも、『直言』も7ヶ月の戦闘を継続して9月に発行停止となり、10月には平民社も解散となり、11月に幸徳秋水は横浜からサンフランシスコに旅立った。「夢」の実現に向けての第一歩となる幸徳秋水の洋行は、サンフランシスコとオークランドを中心とするエリアでの約半年間の亡命と癒しと再起に向けての滞在であった。
 平民社の解散の背景には、相次ぐ発行禁止と入獄という弾圧、印刷機の押収や支払いといった財政問題、キリスト教社会主義舎からの批判などがあり、平民社を離れた石川三四郎は安部磯雄らと『新紀元』を発行し、西川光次郎らは『光』を発行し、アメリカに渡った幸徳秋水はそに記事を送っている。シアトルに着いた幸徳秋水は、オークランドを経てサンフランシスコに到着する。そこには萬朝報いらいの盟友である岡茂樹が「平民社桑港支部」を構えており、その金文字看板を見た秋水は「見よ、平民社は未だ解散しないのである」と感激して、そこを「日本社会運動の策源地、兵姑部、および迫害された同志の避難所を作りだして」ロシア革命党員がスイスを運動の根拠としたようになりはしないかと空想したりしている。
 また、10年前にアメリカから戻った片山潜、安部磯雄、村井知至らの洋行は留学であり、新知識を持って帰ったわけだが、秋水が「小生は未だ米国中流上流の社会を知りません、また知りたくもありません。是等らは是までの洋行者の十分研究吹聴した所です。小生は唯だ下層の社会運動、革命運動の潮流に接触して見たいと思って居ります」と書いているのには、幸徳秋水の「夢」だけではない実践への思いがうかがえる。サンフランシスコ社会党の小集会に招かれた秋水は、「小生は彼等の運動方法を研究し、且つ彼等との提携を便にする為に、桑港社会党に入党」した。
 フリッチ婦人宅に滞在し、旧知の無政府主義者のジョンソン翁と交流し、桑港社会党本部を訪ね、露国革命党同情会や小集会に招かれてで演説する幸徳秋水は、さらに1905年に結成されたサンジカリズムの労働組合であるIWW世界産業労働者組合とも接触している。「桑港より-その2-」には、「この手紙を書きかけて居る所へ、世界工業労働者組合“Industrial Workers of the World”の会員三名が来て、彼等の集会に出席演説することを依頼して行きました」という記述があり、「桑港より-その5-」には、社会労働党の本部を訪ねた時の、「予は桑港に於ける労働組合の日本人排斥運動に対し、社会党労働者が如何なる態度を取るかを質して見たが、彼等は日本人に同情し、非常に排斥運動に反対していた、社会労働党の人々は、現時の米國に於ける『資本労働調和』的組合に反對せんが為め去年六月から新たに“世界(産業)労働者同盟”なる革命的組合を起こし、本部をシカゴに置て運動している、此の組合は其の名の示す如く、全く世界的で、人種的偏見など少しもない、若し日本人労働者が能く團結して此の組合の一部となって提携して運動することになれば、有力なる援助を得るのだが、哀しいかな日本労働者の多数は、社会主義も知らねば、世界的労働組合の存在も知らぬ・・」という記述がある。
 当時、アメリカでは黄禍論が起こったように、西海岸には沢山の日本人の出稼ぎ労働者がいた。幸徳秋水と同じ頃にアメリカに滞在した永井荷風の『あめりか物語』にも、当時日本人の出稼ぎ労働者の多く住んだタコマの日本人街の様子がリアルに描かれている。以下、少し回り道になるが、IWWについて少し書いておきたい。

 堺利彦は1903年(明治36)にベラミーの『百年後の新世界』を抄訳しており、今日的には19世紀のアメリカにユートピア小説があったというのは意外であるようにも思えるが、メイデイも1886年にアメリカで起きた8時間労働を要求するストライキの際、ヘイマーケット事件の冤罪で死刑になった労働者を憲章して始まった世界的な労働者の祭典であるし、19世紀後半から20世紀の初頭にかけてのアメリカは労働運動の盛んな時代だったのである。
 当時のアメリカは、南北戦争以降の60年間にそれまでの農業国からイギリスをしのぐ工業国へと大発展しており、鉄道、鉄鋼、石油といった新しい産業を中心に「トラスト」と呼ばれる巨大な株式会社ができて、産業を支配していった。ロックフェラーのスタンダード石油や、J.P.モルガンのUSスチールといったトラストは国内市場や外国貿易を独占し、寡占化にともなって倒産した独立自営の小企業主たちは賃金労働者となったりした。また、南欧東欧からの新移民が激増して、アメリカの人口は1860年の3100万人から、1910年の9200万人へと3倍増し、言葉の不自由な新移民は都市のスラムに住んでスウェット・ワークして、工業化の底辺を支えていた。
 1892年にはカーネギー製鋼会社で、1894年にはブルマン車輌会社で大きなストライキが起こった。ベラミーの『かえりみれば』が出版されて、多くの読者を獲得していったのもこの頃であろうか。1892年にはPopulist Party(人民党)結成され、Populist movementとよばれる反独占闘争を行い、1901年にはアメリカ社会党が結成されて急速に支持を拡大していった。アメリカに社会主義政党などあったのかと思うが、アメリカ社会党は、1912年の大統領選挙では総投票数のほぼ6%に当る票を獲得し、党員数は13万5000人に達し、これは最大のイギリスの社会主義政党である独立労働党の6倍に上ったという。
 労働組合運動では、WASP系の熟練工を中心にした職業別労働組合であったAFLは、高い組合費による共済制度をもっていたが、非定住型の労働者や新移民の非熟練工が起こしたストライキに対しては冷淡であった。そこで、中西部の鉄道や鉱山や森林や農園で働く労働者や、東部の工場で働く新移民の非熟練工を組織するために産業別労働組合の必要性が提起されて、AFLを脱退した一部の組合や社会主義者が集まって、1905Wob年にシカゴにおいてIWWが結成されたから、幸徳秋水が接触したのはまさにその頃であった。
 IWWの研究家である久田俊夫氏の『妖怪たちの劇場』(厳松堂出版1999)によれば、IWWの革命的労働運動は、「アメリカの伝統に忠実で、典型的にアメリカ的な抵抗運動」であり、「それはまさしく貧困に喘ぐ多くのアメリカ人の『もう一つのアメリカの夢』」であり、「アメリカという新興国が、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、一方で急激に経済発展を遂げて、他方で経済的弱者を見殺しにしたので、弱者であった労働者は、作業現場で一斉蜂起する外なかった。それゆえ、IWWの運動は“政治に頼らない”草の根の労働運動であった。彼らは、唯一の特権であった“身動き自由な”境遇を生かして、“本能のままに”蜂起したにすぎない」、「彼らは、産業の統帥すなわち大富豪とは対極にあって、『アメリカの夢』とは無縁であったが、彼らもまた、当時のアメリカ社会における典型的なアメリカ人であった」ということで、IWWが幸徳秋水に影響を与えたということについては否定はしないが、肯定的ではない。
 ついでに『もう一つのアメリカの夢』とは何かを考えるに、それはベラミーの描いたユートピアへの共感が「ナショナリスト・クラブ」という国民主義的な運動になったように、1820年代にトクヴィルの見た「階級のない平等なコミュニティ」、建国時のアメリカの原風景への回帰願望とでもいうものだろうか。トクヴィルが見た「階級のない平等なアメリカ社会(コミュニティ)」というのは、南北戦争後にはアメリカ資本主義の急速な発展によって、アメリカ人の郷愁の彼方に消えていった。ヨーロッパや日本の社会主義運動の中でかかげられた「普通選挙制度」などは、アメリカでは既に実施されていたから、アメリカの労働運動の目的は、AFLのようなより豊かになるための権利の獲得か、IWWのような「より以前にはアメリカに厳として存在していたと広範な人々によって信じられていた経済的個人主義と政治的民主主義とを国民の手にとり戻そうと努力すること」(レンショウ『ウォブリーズ』年社会評論社1973)であったのであろう。それは、アメリカ流のサンジカリズムであろうか。それから100年の後、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、グローバリゼーションのすすむ『帝国』の時代における変革の主体としてのマルチチュードの先例として、IWWを再発見している。
 IWWの運動は、「ホーボー」と呼ばれた放浪者や、英語の話せない移民労働者や黒人までを組合員にして、一瞬でも輝きながらも、弾圧でわずか20年足らずで壊滅してしまった。「ホーボー」という言葉は日本語の「方々」から来たという説があるくらい、当時のアメリカには仕事を求めて放浪する日本人が多かったようである。しかし、ウォブリーと呼ばれたその活動家たちは伝説となって語り継がれ、ホーボー・ソングと呼ばれる労働歌はやがてフォークソングやロックミュージックになり、対抗文化運動の中で歌われるようになる。サンフランシスコは対抗文化運動の聖地であり、オークランドは古くはアメリカの社会主義者で作家のジャック・ロンドンを生んだ地であり、1960年代にはヘルズ・エンジェルズからブラック・パンサー党を生んだアメリカでも筋金入りの対抗運動の地である。
 1998年に法制化された日本のNPOも、1990年代の初頭に日本にアメリカにおけるNPOの存在と活動を知らせる活動をしたのも、オークランドにあるJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という日系のNPO団体であった。ここの活動家であった柏木宏氏や岡部一明氏は、日本をはみ出した留学生みたいなものであったが、日本にそれを伝えようとする熱意の背後には、かつてのオークランドの地における先人たちの霊があったのかもしれない。
 少し回り道をしてしまった。元にもどる。

 アメリカでの交流と経験は、幸徳秋水に新しい労働運動のイメージを垣間見せた。幸徳秋水は、「米国は、決して自由の楽土に非ず。若し楽土なりとせば、其は唯だ金を持てる人の楽土のみ、・・然り二十世紀の革命は経済的革命也、苟しくも貧富懸隔のある所、革命の怒濤は必ず来らんとする也」と書き、さらに社会主義運動の中にある二つの傾向について、以下のように書いた。
 「近時、米国社会党中、其運動政策に関して二派の議論闘はされつつあり、一は主として殊に独占的事業のパブリック、オーナシップ(国有若くは市有)を提げて選挙場裡の武器となさんとし、他は純乎たる社会主義の理想を以て旗幟となさんとする者也。・・・後者は曰く、今の所謂国有市有は賃銀制度を廃絶する者に非ずして、単に政府若しくば自治体てふ資本家を以て、私人の資本家に代ふるに過ぎず、社会主義は根本より賃銀制度を廃絶するを主張す、今日の制度の下に国有市有を賛するは、是れ社会改良家、国家社会主義に向つて譲歩する者也と。・・・此両者の争ひは今後益々盛なるを致すべし・・是れ我等日本人社会党の大に研究を要する問題にして、僕は我等日本人社会党が将来斯る意見の相違の為に争訌し分離するが如きことなからんことを祈る。然れども僕をして二者其一を揮ましめば、僕は理想的、革命的、急進的ならんことを欲す、微温的社会主義、砂糖水的社会主義、国家的社会主義を好まず」と。
 この問題は、まさに秋水帰国後の日本で大問題となるものである。1906年4月18日にサンフランシスコに大地震が起こり、それを体験した幸徳秋水は、「無政府共産制の実現」という以下の短文を書いた。
 「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た、夫れは外でもない、去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は總て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)總て無賃、食料は毎日救助委員より分与する、食料の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼跡の片付や、避難所の造営や、總て壮丁が義務的に働く、買ふと云っても商品が無いので金銭は全く無用の物となった、財産私有は全く消滅した、面白いではないか、併し此理想の天地も向ふ数週間しか続かないで、叉元の資本私有制度に返るのだ、惜しいものだ」(桑港四月二十四日)と。「国家的社会主義を好まず」の秋水は、異国の地で一瞬サンジカリズムの共和国を垣間見、6月1日にオークランドで社会革命党を結成すると、帰国の途についたのである。

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