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2013年9月19日 (木)

柏木団の人びと

※3回目のリライトになりますが、7月にリライトしたものは削除しました。

 幸徳秋水が渡米中の1906年(明治39)2月、堺利彦は深尾韶と共に日本社会党を結党すると、3月には電車賃値上げ反対運動を起こした。桂内閣に代わった西園寺内閣は、弾圧一辺倒を多少ゆるめたわけであるが、電車賃値上げ反対運動では西川光次郎ら社会党幹部は検挙されてしまう。6月23日に帰朝した幸徳秋水は、28日に開かれた歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」と題して、「三百五十萬の投票を有せる独逸社会党、九十人の議員を有せる独逸社会党、果して何事を焉したりや、依然として武断専制の國家に非ずや、依然として堕落罪悪の社会に非ずや、投票なる者甚だ恃むに足らざるに非ずや、代議士なる者の効果何ぞ甚だ少なきや、労働者の利益は労働者自ら掴取せざる可らず、労働者の革命は労働者自ら遂行せざる可らず、是れ近時欧米同志の叫声也」、「革命の運動か、議会の政策か、多数労働者の団結を先にすべきか、選挙場裡の勝利を目的となすべきか」と演説し、それまでの合法的な議会主義の路線からの転換をせまった。
 そして、9月頃から日刊『平民新聞』の発行計画がもち上がると、10月に堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光二郎、竹内兼七を創立人として平民社を起して日刊『平民新聞』の準備をすすめ、翌1907年(明治40)1月15日に日刊『平民新聞』は創刊され、その2月5日号に幸徳取水は「余が思想の変化」と題して、「余は正直に告白する、『彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に團結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依るの外はない』、余が現時の思想は実に如此くである」と書き、そこでそれまでの議会主義に代えて、ゼネラル・ストライキを提起した。
 1907年(明治40)2月4日には足尾銅山で大暴動が起こっていた。さらに、2月17日の第2回社会党大会において幸徳秋水は、「田中正造翁は最も尊敬すべき人格である・・・然るに此田中正造翁が、廿年間議会に於て叫んだ結果は、何れ丈の反響があったか、諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつたではないか、然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやった、のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか、暴動は悪るい、然しながら議会計年の声よりも三日の運動に効力のあつたこと丈は認めなければならぬ」と「眼は電光を放ち舌は火焔を吐くが如き雄弁」をなして、対立する田添鉄二の「議会政策必要論」を圧倒した。
 一方、普通選挙と議会主義を唱える田添鉄二は、日刊『平民新聞』2月15日の第25号に「議会政策論」と題して、「今日まで社会革命を志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、人為的に社会が破壊され構成されるという思想である。・・・予は深く信ず、日本に於ける社会主義の運動は、斯かる単調なる思想の支配の下には決して吾人が予期する如き効果を結ぶことが出来ないことを」「予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいと思ふ。一、平民階級の教育、階級的自覚の喚起。二、平民階級の経済的団結運動。三、平民階級の政治的団結運動。四、議会政策」と書き、第2回社会党大会においては、「私は日本社会党運動の有力なる一政策として、議会政策は何時でも握って行かなければならぬと信ずるものであります」と、肺患の病体をおして演説した。
 採決の結果は、堺利彦の出した本部案が28票、幸徳案が22票、田添案2票で、本部案が通ったのだが、「国法の範囲内での社会主義」というわくをはずしてしまったために、2月22日に日本社会党は「安寧秩序ニ害アリ」という理由で結社禁止となり、日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれたのであった。

 話を少しもどす。
 日刊『平民新聞』発行に際して、新たに平民社に参加した青年がいた。岡山は倉敷から上京した山川均である。山川均は倉敷の出身で、家は幕末まで郷宿という代官所に来る役人を泊める公認の指定旅館をやっていて、維新後は没落してしまう。高等小学校を卒業した山川均は、東京遊学を希望するが家が没落してかなわず、同志社出のクリスチャンであった姉の嫁ぎ先の林さんの口利きで、同志社に行くことを親に認めてもらう。同志社ではボート部に所属して琵琶湖を漕ぎまくる一方、読書についてはトルストイやカーペンターから強い感銘や印象を受けたとある。そして、授業に教育勅語が導入されたことに反発して、同志社を退学してしまう。
 それから東京に出て来て、学籍のない放浪学生をしながら、やがて知り合った守田有秋と「青年の福音」というキリスト教のパンフレットを出版するのだが、これに守田が大正天皇のご成婚について「人生の大惨劇」という文章が書いて不敬罪となり、20歳から3年半の獄中生活を送ることになる。義兄の林さんは、不敬罪で裁判にかけられた義弟を救おうと、山川均が発揚性鬱憂犯であるとしようとしたのだが、山川均は自ら刑に就き、それを聞いた林さんは自らの日記に「法廷に立ちて沈毅たり、鉄窓によりて平然たるものは、心中一点の信念、付して地に恥る所なきを以ての為なり」、「獄に下りたる後、その求むる所は社会経済に渉るの書、思うに之れ、彼が他日の志を成さんが為めの勉学ならん」、「富貴は彼の求むる所にあらず、功名亦彼れに期すべきにあらず。彼の成さんとする所は他にあらん」、「彼れが成さんと欲する所のものは、一身を捧げて社会のために貢献せんとするにあらん」と記し、山川均の決意のほどを理解する。
 二十歳からの獄中、山川均は経済学を勉強する。差入れされた本の中には、英訳の『資本論』まであったそうだが、入獄中はまだそこまでは手を出さない。そして、1904年(明治37)6月の出獄の日、差入れされたものの「看読不許」となっていた『週刊平民新聞』の創刊号をみつけた山川均は、岡山に帰る前に、数寄屋橋にあった平民社に立ち寄っている。
 故郷に帰ってからの山川均は、義兄の林さんの営む薬局の手伝いなどしながら、旧友の大原孫三郎から『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を借りて勉強する。山川均の幼友達で後に中国地方の財閥になる大原孫三郎は、山川均の入獄中に面会にも行っている。その頃、平民社を中心にした日本の社会主義運動は『平民新聞』や平民社発行のパンフレット類の「伝道行商」によって、すこしずつ地方にも伝えられ、岡山にも森近運平によって社会主義の小グループができた。やがて山川均は、「現在の生活は、もはやこれ以上つづけてはならない」と思うようになる。
 1906年(明治39)1月に それまでの抑圧的な桂内閣から西園寺内閣に代わると抑圧は緩和され、2月に「国法の範囲内において社会主義を主張する」とする日本社会党結党が結党されて、山川均は入党する。問題は、「ここを飛び出しても、どうして生活するのかという」ことであった。そこで、山川均は当時アメリカに渡っていた幸徳秋水に渡米希望の手紙を書くと、幸徳秋水からは「アメリカなんか来るところじゃない」という返信があったのだが、やがて帰国した幸徳秋水は『日刊平民新聞』の発行をすすめ、編集委員に山川均を誘う。1906年(明治39)12月に倉敷を立った山川均は、新橋につくと、その足で築地新富町の平民社をたずね、そこではじめて堺利彦と会う。出獄後、数寄屋橋にあった平民社を訪ねて以来二年半が経っていた。
 山川均は神田に下宿して、そこから通った。山川均にとって「平民社入社は、私にとっては、自分の収入で生活した初めての経験でもあ」り、月給は25円であたっという。幸徳秋水と堺利彦と石河三四郎が週刊『平民新聞』の経験者で、新聞編集未経験の山川均は行数勘定のような「奴隷仕事」をすすんでやったという。しかし、日刊『平民新聞』は、4月には早くも廃刊になってしまう。山川均は『ある凡人の記録』に「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった」と書いている。現在でも雇用難は深刻だが、明治の時代、しかも社会主義者にとってどうやって食うかは、山川均に限らず深刻な問題であったであろう。その手立てでもあった平民社が解散させられた後、彼等がいかに生きたのかを少し長くなるが、山川均の『ある凡人の記録』から「柏木団の人々」に見ておきたい。

 「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。さいわい守田は結婚して日暮里の金杉に家をもち、秋山の二六新聞に勤めていた。それでともかく僕の家に来いというわけで、私は下宿を引き払って守田の家に同居させてもらうことになった。まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。この春は・・柏木の住人総動員で小金井の雪の桜を見物に出かけたことを覚えているから。そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた」。
 「幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・」。
 「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見えるエンガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」。
 「このあいだに、守田の家も三度ばかり引越しをしたが、私はあいかわらず、守田の家に寄生をつづけていた。収入のないときは食費さえろくに払えなかったくせに、威張って居候していたが、守田夫妻は親切に世話をしてくれた・・・  『平民新聞』がなくなってから赤旗事件で入獄するまでの一年四ヵ月のあいだ、ろくに収入になる仕事もなく、いったい私はどうして生活していたものか、考えてみるがよく分らない。・・・しかしいまもこのとおり私が生きているところを見ると、ともかく生活していたものにはちがいない。・・私はそれから今日まで、定まった収入のない生活をしていた時期が多かったが、なんだか人間というものは、平均的にはどうやらこうやら最低生活だけは出来てゆくものだというような安心感があって、定まった収入のないことに、さまで不安を感じないで済んだ」。
 「幸徳が東京を離れるについては、幸徳、堺のあいだで今後の運動方針を協定しておく必要があったとみえ、改めて二人の会談がおこなわれた。たしか三河屋だったとおもう。四谷見附の大きなスキ焼屋で、食事をしながら話し合いがおこなわれたが、払はなんということなしに、その席に招かれた。二人がなぜ私をその席に加わらせたかは、よく分らぬが、たぶん二人の間の話し合いが、第三者によって確認されていることが望ましいと考えたからだろうと思う。そしてこの立会人に私が選ばれたのは、当時、私の思想上の立場が、やや二人の中間にあったためだったかもしれぬ。・・・幸徳さんは、二十七日に東京を立って土佐に向った。この夜の会合が、幸徳さんとの永久の訣別になろうとは、もとより夢にも思わなかった」と。

 堺利彦は、議会主義にこだわる片山潜とアナキズムにシフトしていく幸徳秋水の間にあって、自らは正統派マルクス主義をもって任じた。正統派マルクス主義なのか無政府主義なのか、議会主義なのか直接行動なのか、堺利彦と幸徳秋水が何度となく議論をくりかえす様、日本における社会主義の形成をになった人々の生き様、しのぎ方がうかがえる。柏木団の人々の生活を支えているのはそれぞれのささやかなしのぎと、ささやかな稼ぎの中からの贈与、共有であり、そういった関係として成り立つ謂わば「コミュニティ」である。この風景は、日本の社会主義の原風景であろうかと思うところである。
 「この立会人に私が選ばれたのは・・」と書く山川均は、第二回日本社会党大会で書記をまかされたように、ここでは日本の社会主義の原風景記録係りをまかされている。その後、分裂した社会主義運動では議会主義派の片山潜と西川光次郎が「社会主義中央機関紙」と銘打って『社会新聞』を出し、直接行動派は森近運平が『大阪平民新聞』を出し、山川均は1907年(明治40)8月~9月に『大阪平民新聞』に「研究資料・マルクスの『資本論』」を連載する。内容的には、「モリス、バックス両氏の解説に従いて今その概要を示すべし」とあるように、モリス&バックスの『社会主義』からの『資本論』解説であるが、山川均は「ただしモリス氏等のは解説の便宣より順序を前後せるとこ少なからず。本論はこれを『資本論』の順序に復したり」としている。入獄時に英語版『資本論』を差し入れしてもらっていた山川均は、出獄後にモリス&バックスの『社会主義』を参考に、『資本論』にも眼を通したものと思われる。日本におけるマルクスの紹介は、前年の幸徳秋水と堺利彦による『共産党宣言』と『空想より科学へ』の翻訳である訳だが、この山川均の『資本論』紹介は、山川均は入獄においても、そこで始めた経済学の勉強においても、当時の社会主義者の中で一頭地を抜いていた訳である。しかし、しのぎについてはやはり「堺のオヤジ」が飛びぬけている。
 堺利彦は前の週刊『平民新聞』の廃刊後に、「わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ」と書いて、前述した平民會ミルクホールや平民書房訳など各人の「屯田策」を促した。そして自らのしのぎについては、「小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行している由分社の経営を助けることになりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目二七番地に移り住み、ここに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しずつ出版を試むることになりました。小生は今後これをもって一身の衣食を支えるつもりであります」と書いて、かつて万朝報勤めの頃、長男と妻の治療費を稼ぐために始めた内職の『家庭雑誌』と出版活動を再開した。さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。宣伝目的なら発行不可であった社会主義も、研究目的なら黙認された訳である。しかし『社会主義研究』はあまり売れずに5号で終刊、それから日刊『平民新聞』をたちあげ、日刊『平民新聞』が廃刊になった後は、また著述、出版活動を続けるのであった。
 「柏木団の人びと」にはもうひとり新顔が登場している。大杉栄である。大杉栄は、平民社のメンバーというよりは謂わばボランティアであったが、1906年(明治39)2月の日本社会党には参加し、電車賃値上反対運動であばれて入獄し、出獄すると堀保子と結婚した。堀保子は、堺利彦の最初の妻の美知子の妹である。結婚のはなむけにか、堺利彦は同10月に『家庭雑誌』を大杉夫妻に譲渡している。1898(明治31)年に社会主義研究会を起こして日本に社会主義を紹介したアメリカ帰りの留学生たちは、その後教職につくことによって職を得られた。しかし、幸徳秋水や堺利彦、山川均といった高等教育を終了せず、かつ社会主義運動を自らの生き方とした人たちは、自ら職を起こして食うしかなかった。そして書くことを生業としても、書いたものを載せられるメディアがない時代には、自らそれを持つことが生活の手段だったのであり、後に大逆事件後の冬の時代を、大杉栄も『近代思想』を創刊し、そうやってしのぐのである。
 日本社会党が結社禁止になった後、運動は幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会主義派に分裂してしまうのだが、1907年(明治40)の夏に、直接行動派と議会主義派が一緒に「社会主義夏季講習会」を開いている。講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律論道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合論』片山潜、『ストライキ論』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講演会がおそらく両派の協力した最後の機会であった。そして講習会の打ち上げだろうか、新宿角筈十二社での参加者の記念写真が残っていて、この写真には、上記のそうそうたる講師陣のほかに、大杉栄や福田英子から辻潤と中里介山まで写っている。辻潤は、当時まだ無名であったから、そこに集まったのが当時の社会主義者たちなのであろう。組織された社会主義者や労働者の団体がある訳ではなく、少数の人々がゆるやかにつながっていただけなのであろう。その写真は、日本に芽生えた社会主義が、翌1908年(明治41)の赤旗事件から1909年(明治42)の大逆事件へとつづく冬の時代に向かう前に、やがてはそれぞれの道へと歩みだす明治の社会主義者のつかの間のショットであった。

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コメント

>それぞれのささやかなしのぎと、ささやかな稼ぎの中からの贈与、共有

感ずるなあー 

投稿: | 2013年9月21日 (土) 22時30分

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