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2013年9月25日 (水)

夏目漱石の文学とその時代

 1908年(明治39)の年が明けても漱石の神経衰弱は一進一退で、漱石は年頭から「大学を辞めたい」と洩らしていたという。そして三月に突然『坊ちゃん』の構想を得てそれを書き始め、四月に島崎藤村の『破戒』を読んで深く感動し、七月に『草枕』を書き、八月には先に書いたように市電の運賃値上げ騒動に関して、「都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送り、九月に『二百十日』を書き、十二月には『野分』を書いた。先の「断片」を書いていたのはこの頃のことであり、『二百十日』以降の小説には社会批評が目立つようになる。
 『二百十日』は「華族と金持」批判の書であるから、漱石が「気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書き送ったのは、あながち誇張ではなく本心であったのかもしれない。そして、『野分』はまさに市電の運賃値上げ騒動を背景にした話で、物語の最後で主人公で文学者の白井道也は「現代の青年に告ぐ」というテーマの演説会を開き、それはそのまま当時の漱石の声であるように思える。『野分』に、演説会に行こうとする白井道也と行かせまいとする妻との間で、以下のやりとりがある。

 「今日の演説は只の演説ではない。人を救ふための演説だよ」
 「人を救ふって、誰を救ふのです」
 「社のもので、此間の電車事件を煽勤したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。所が其家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
 「そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・」
 「間違へたって構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」。

 そして、演説会で白井道也は以下のような話をする。

 「自己は過去と未来の連鎖である」。
 「人間が腐った時、叉波瀾が起る。起らねば化石するより外に仕様がない。化石するのがいやだから、自ら波瀾を起すのである。之を革命と云ふのである」。
 「英国を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己に理想のないのを明かに膨露している。・・凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において奴隷である」。
 「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。・・然し・・高等な労力に高等な報酬が伴ふであろうか・・今の世でも教師の報酬は小商人の報酬よりも少ないのである。・・労力の高下では報酬の多寡はきまらない。・・金があるから人間が高尚だとは云へない。金を目的にして人物の価値をきめる訳には行かない」。

 白井道也が演説会をやる神田の演説会場は、社会主義者もよく使う場所であり、市電賃値の値上反対の運動は堺利彦らが起こしている。先に書いたように漱石は市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書いたのは、私には本心であったと思われる。荒正人は『野分』は「小説としてみれば、未熟である。だが・・漱石の文学の原型を探るうえには、思いがけず大切な作品である」(集英社『漱石文学全集』4巻解説)と書いている。

 1907年(明治40)の1月に日刊『平民新聞』が発行され、二月には足尾銅山で坑夫の蜂起が起き、2月17日には日本社会党第2回大会が開かれ、前述したように直接行動派と議会政策派の片山潜らとの間で論争があり、その直後に日本社会党は禁止になり、四月には『日刊平民新聞』も廃刊となった。漱石は同三月に東大教授である旧友の大塚保治から「英文学の講座を担任し、教授になってはどうか」との交渉を受けるが、より文筆活動が自由になる朝日新聞社に入社し、『虞美人草』を書き始め、六月に首相の西園寺公望から他の文士とともに「我国小説に関する御高話拝聴旁素飯差上度」という招待状を受けたが、漱石は二葉亭四迷とともにこれを辞退。九月頃に二葉亭四迷の『其面影』を買って読み、賞賛の手紙を二葉亭に送る。1907年(明治40)は足尾銅山以外でもストライキや暴動が起こり、同年末から漱石は『杭夫』を書き始める。1908年(明治41)の6月に、出獄した西川光二郎の歓迎会で「赤旗事件」が起きて、堺利彦と山川均と大杉栄が入獄し、7月には穏健な西園寺内閣が総辞職して、桂太郎内閣が成立した。そして、ここから大逆事件の起こされる1910年(明治43)までの間に、漱石は『三四郎』と『それから』と『門』を書いたのであり、それは明治社会主義のクライマックスと重なるのである。
 『三四郎』は、1908年(明治41)9~12月に朝日新聞に連載された。同年4~8月には島崎藤村の『春』が朝日新聞に連載されており、漱石は7月27日の高浜虚子宛の書簡に、「『春』と申す長編掲載了のあと引き受ける事に相成り九月初より・・」と書き、8月19日の渋川柳次郎あての書簡には、「『春』今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心故候。・・あの五六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生の為に惜しみ候」と読後感が記されている。
 『春』の「最後の五六行」は、近代文学者にはえらく評判が悪く、江藤淳的には近代文学への「反革命」の狼煙みたいにも言われ、漱石も自然主義には批判的であるわけだが、漱石が「あの五六行が百三十五回にひろがったら大したもの・・惜しみ候」と書いたのは、藤村の『春』が、理想をめざす明治の青春群像を描きながらも自然主義に流れて行くのに対して、漱石はまさに漱石の「技巧」をもって漱石の「理想」を描こうとしたものにほかならないからであろうと思われる。
 物語は、三四郎がが大学に入学するために東京に向かう汽車の中から始まる。ひとつは、三四郎と汽車に乗り合わせた女と爺さんの話がある。旅順に出稼ぎに行ったまま帰って来ない亭主を持つ女に同情した爺さんはこう言いだす。「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んで仕舞った。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云ふものはなかった。みんな戦争の御蔭だ」と。荒正人は、「『三四郎』の初めに、女の示した底の深い謎と日露戦争への批判が提出されているのは驚異である。・・・後者の展開は余り追求されていなかった」と書いている。
 ふたつ目は、「三つの世界」の話で、その中の「第二の世界」に生きる人は、以下のように書かれている。「第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢い。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない」と。これは、廣田先生と野々宮さんに代表される。
 三つ目は、「露悪家」であり、これは以下のようである。
 「臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切ってゐる。形式丈美事だって面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が叉復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英國を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンもでなければニイチェも出ない。気の毒なものだ」と。こうなると「露悪家」とは、アダム・スミスで言えば『道徳感情』と『国富論』の間を行ったり来たりする人でもある。廣田先生は「露悪家」の典型をアメリカ人に見て、「(露悪家は)丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、萬事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」と語る。
 「第一の世界」とは、「明治十五年以前の世界」であるから、漱石流には日本の近代は「第二の世界」と「第三の世界」で成り立っていることになり、「第三の世界」の広がりを描いたのが『三四郎』であろうか。廣田先生曰く「亡びるね」であり、漱石文学の羅針盤は「第二の世界」を指している。ついでに書けば、二葉亭四迷の『浮雲』で言えば、文三の世界は「第二の世界」であり、昇の世界は「第三の世界」ということになるだろうか。以上の三つのテーマは、漱石最後の『明暗』まで、ずうっとつながっている。
 『三四郎』と『それから』と『門』は三部作と言われ、どれも私の好きな小説で、何度も読んだ。『それから』を最初に読んだのは高校生の時で、その時に「一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったり」する「高等遊民」という言葉を覚え、憧れた。二度目に読んだのは、大学を辞めて父と喧嘩して家を出た時で、その時は志賀直哉の『和解』にも通じる「父と子」というテーマで読んだ。三度目に読んだのは、会社勤めを辞めた時で、その時は同じ頃に再読した二葉亭四迷の『浮雲』もそうであったが、謂わば「失業」小説として読んだ。私は代助というよりは、失業中の平岡に近いのであったが、最後に代助自身が「僕は一寸職業を探して来る」で終わるところなど、当時ほとんどわが身のことであった。
 『それから』は、1909年(明治42)6~10月に朝日新聞に連載された。『三四郎』は、島崎藤村の『春』の次の朝日新聞の連載小説であったが、『春』と同じ時期に漱石の推薦で、大塚楠緒子の『空薫』の連載があった。大塚楠緒子は漱石が思いを寄せたとされる女性だが、1895年(明治28)3月に漱石の旧友の小屋保治と結婚した。同年4月に漱石が松山の尋常中学に赴任したのは失恋をしたからだという漱石失恋説があるところだが、先に書いたように、東大教授であった大塚保治は帰国後小説書きになろうとする漱石に東大教授の職を勧めている。しかし、漱石はそれを断り、自由に小説を書く道を選んだ。
 1909年(明治42)5月10日、病を得てロシアからの帰国の途上、ベンガル湾上で二葉亭四迷が亡くなり、同月末に漱石は『それから』を起稿する。だからそれは、大塚楠緒子の連載小説にインスパイアされた漱石が、二葉亭四迷の『其面影』をモチーフにして書いた姦通小説であると私は思っていたのだが、そこは反自然主義の漱石のことだから、自らや大塚楠緒子をモデルにして登場人物を造形するわけではない。代助と三千代は、「彼は三千代に對する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した」とあるように、あくまでも漱石が観念的に造形した人物であり、平岡もまたそうである。そして、そこに登場する唯一の実在の人物は幸徳秋水なのである。以下のように赤新聞の記者になった平岡の口から突飛に幸徳秋水の名が出てくる。

 平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後ろに巡査が二三人づつ昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張って、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を附ける。万一見失ひでもしやうものなら非常な事件になる。・・・是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。「矢っ張り現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

 これは、山川均が「柏木団の人びち」に書いた頃の幸徳秋水であろうか。柏木団を外から見れば、こんなふうに見えたのかもしれない。
 旧友の妻と通じ合うという禁断の姦通を描いた『それから』は衝撃的ではあるが、代助をして「此方面にはあまり興味がない・・社会主義の事はそれなりにして置いた」としながらも、漱石が密かにそこに隠したのは、禁断の思想としての社会主義があったのではなかろうか。代助には社会主義への興味はないのかもしれないが、漱石には大いにあったように思われる。
 『それから』の時代背景は、日露戦争後の不景気な時代であり、「明治40年初めには株価が急落し、さらに同年10月アメリカに起きた経済恐慌の波が日本にも押しよせ、41年以降、不況状態が続いた。実業家である代助の父や兄は、その影響をまともに受けている」(荒正人編『漱石文学全集』集英社刊第5巻解説より)という設定になっている。
 「第一の世界」に生きる父と、「第三の世界」に生きる兄は、わけの分からない代助の生き方について、兄をしてこう警告する。「世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫れが自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉と云ふ観念は有ってゐるだらう」と。
 それに対して代助は、「是等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があった。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした」。『三四郎』で提起した「第二の世界」を生きる覚悟をしたわけである。
 代助は、幸徳秋水にはあまり興味がないと言いつつ、イギリスの画家ブランギンの絵を見るのだが、ブランギンの絵を知らない読者にはその意味が分からない。そこには漱石がイギリス留学で学んだ知識で二重、三重にフィルターがかけてある。イギリス人の漱石研究家ダミアン・フラナガンは『日本人が知らない夏目漱石』(世界思想社2003年)で、「漱石の作品における、もっとも意味深いラファエル前派的なイメージが現在まで全く注目されていないままであることを指摘」し、ウィリアム・ホルトマン・ハントの絵画で『三四郎』の絵解きをしてみせた。漱石とラファエル前派との関係など、数ある漱石論数があえて避けたか見逃したか、いずれにせよ、それが漱石文学の技巧であり、理想の著し方であると思われる。1907年(明治40)4月に東京美術学校で行われた講演『文学の哲学的基礎』において、漱石は以下のように述べている。

 理想とは何でもない。いかにして生存するかがもっともよきかの問題に対して与えたる答案に過ぎんのであります。・・・いわゆる技巧と称するものは、この答案を明瞭にするために文芸の士が利用する道具であります。道具は固より本体ではない。

 我々に必要なのは理想である。・・・一般の世が自分が実世界における発展を妨げる時、自分の理想は技巧を通じて文芸上の作物としてあらわれるほかに路がないのであります。

 『それから』には社会主義の影がある。戦前から国民文学者であった夏目漱石が社会主義に関心をもっていたなど誰も言えなかったであろうし、1967年にロンドンのギャラリーを訪ねた江藤淳はさすがそれに気づいたであろうが、見方は異なるようだ。以下の『それから』の最後の文章は、代助が精神錯乱を起こした状況と言われるが、狂気と神経衰弱は漱石にとっても、漱石を国民文学者にしておきたい側にとってもカムフラージュなのである。以下、私には「赤=社会主義」宣言にしか読めないのだが、それは私の短絡だろうか。

 忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し姶めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、叉代助の頭の中に吸ひ込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が眞赤になった。さうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した。

 以上が『それから』のエンディングである。思うに、漱石の言う「三つの世界」は、漱石がロンドンに留学した経験からの着想ではあるまいか。イギリスは階級社会で、保守的な階級社会(第一の世界)でありながら、市場経済(第三の世界)が大いに発展している。その真っ只中で漱石は、神経衰弱になりながら、必死になって「第一の世界」でも「第三の世界」でもないものを探し求めてたくさんの本を買い込み、カーライルやモリスの世界(第二の世界)を知り、帰国後に東大教授にならずにそれをモチーフに小説を書いた、とまあこう思うところである。 漱石はイギリスで何を見たのか? おそらくそれはキャピタリズムとその行く末ではなかろうか。

 1909年(明治42)8月に『それから』を書き終えた漱石は、旧友の中村是公の誘いで満韓旅行へと出かけ、翌1910年3月からは『門』の連載を始めるが、執筆途中に胃潰瘍で入院。伊豆の修善寺に出かけ転地療養するも、所謂「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血をおこして、生死をさまよった。そして、1910年(明治43)11月に大塚楠緒子が35歳の若さで死んだ時に、漱石は「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という激情のこもった句をたむけている。
 『門』は、1910年(明治43)3~6月に朝日新聞に連載された小説で、『それから』の続編的な作品であり、私はいつも『それから』とセットで読んだ。『それから』は松田優作主演の映画のイメージと、私は高等遊民ではないということもあって、代助には距離を感じてしまうのだったが、『門』の宗助には、そのつつましやかな暮らしぶりからして、読むたびにリアリティとシンパシーを感じるのであった。
 主人公の宗助は、毎日電車で丸の内にある役所に通う謂わば腰弁である。日曜日にふらりと街に出て、駿河台下で電車を降りて「本屋の前を通ると、屹度中へはい入って見たくなったり、中にはい入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云ふと、既に一昔前の生活である」。そして、日曜日も終わる頃になると、「明日から・・叉せっせと働かなくてはならない身体だと考えると・・残る6日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた」りするのであった。宗助とその妻の御米の日常風景は下記の如くで、こんな質素で貧乏な世帯は、いつの時代にもけっこうあるのではあるまいか。

 「毎日役所に出ては叉役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出掛けるなどといふ億劫な事は滅多になかった。客は殆ど来ない。・・夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活状態に相応した程度のものであった」。
 「苦しい時には、御米が何時でも宗助に、『でも仕方ないわ』と云った。宗助は御米に、『まあ、我慢するさ』といった」。
 「宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日に御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つづつ持って帰って来た。夜露にあてた方が可かろうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた」。
 「『外套が欲しいって』、『ああ』、御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云ふ風に、『御拵へなさいな。月賦で』と云った。宗助は『まあ止さうよ』と急に侘しく答えた」。
 「・・事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた」。

 と、まあこんな具合である。「彼の慢心は・・既に銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日迄生きて来た」という宗助が、「僕は一寸職業を探して来る」と言って出掛けた代助の「それから」であるとすれば、宗助もまた漱石が観念的に造形した人物であると思われる。宗助にとって役所勤めは「つまらない」「非精神的な行動」であるということは、宗助は「第二の世界」に生きる人のその後の生き様として描かれていると、私には思えるところである。
 「第二の世界」に生きる人というのは、『三四郎』においては廣田先生と野々宮さんであり、『それから』においては代助であると言える訳だが、廣田先生とか野々宮さんとか代助みたいな学者や遊民は、世の中から見れば、ごく少数の人である。しかし、宗助みたいに一見腰弁として生きている人たちの中にも「第二の世界」に生きる人がいるとすれば、「第二の世界」に生きる人の数はずっと多くなる。『門』は始めの辺りで、伊藤博文の暗殺事件が語られているから、物語の背景は1909~1910年の冬が終わる頃までで、漱石の執筆時期とそう変わらない。そして1910年6月3日に幸徳秋水逮捕の記事が新聞に載り、同6月5日に漱石は『門』を脱稿したという。『門』は、「うん、然し叉ぢき冬になるよ」の宗助の言葉で終わっている。

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2013年9月23日 (月)

夏目漱石と堺利彦

 夏目漱石は、1867年(慶応3)の生まれで、本名は金之助。帝国大学時代に正岡子規と交流し、1900年(明治33)にイギリスに留学したものの、発狂したので帰国したというのも知られた話である。帰国後は朝日新聞社に入社して小説を書き、1916年(大正5)に亡くなった。『我輩は猫である』や『坊ちゃん』や『こころ』などはどの教科書にも載っていて、日本人なら知らない人がいないくらいの国民文学者である。図書館で検索すると、どこの図書館にも漱石論も含めてたくさんの蔵書があるから、夏目漱石が社会主義に心を寄せていたなどと書くとヘーッと思う人もいるだろうし、その手の漱石論はほとんどないのだが、私には夏目漱石の文学の面白さと奥の深さはそこからきているように思える。
 江藤淳の代表作の『夏目漱石』は、それまでの漱石論の定番であった小宮豊隆の『夏目漱石』における「則天去私」の解釈を批判して登場する。「則天去私」は晩年の漱石が到達したと言われる心境で、小宮豊隆は「天に則って私を去る世界である。換言すれば、漱石が、人間の心の奥深く巣食っているエゴイズムを摘出して、人人に反省の機会を与え、それによって自然な、自由な、朗らかな、道理のみが支配する世界へ、人人を連れ込もうとすることである」としている。そこから漱石の「則天去私」伝説が生まれるわけだが、同じ漱石伝説でも、私には「漱石発狂す」の方がよほどつくられた伝説のように思える。
 漱石のロンドン生活は、安下宿暮らしと神経衰弱、最後は「漱石発狂す」で知られる。先進の地で日本の将来を憂いながら一生懸命に勉強するとすれば、多少の神経衰弱はあたりまえの姿でもあろうが、『倫敦消息』には、「しかるにあらゆる節倹をしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であるという感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ来たものだからなる事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるからさ。・・・人は「カムバーウェル(※テームズ川東南側一帯の労働者街」のような貧乏町にくすぼってるといって笑うかも知れないがそんな事に頓着する必要はない」(岩波文庫『漱石文明論集』p280)とあり、本人は「そんなに頓着」していない。
 漱石とともに留学した藤代禎輔は、1902年(明治35)10月に文部省からの電報で、「夏目精神に異常あり、藤代へ保護帰朝すべき旨伝達すべし」の依頼を受け、「十一月初旬、藤代禎輔は漱石に葉書を出し、一緒に帰国することを勧める。その葉書を受け取った翌日、藤代禎輔を訪ね、スコットラソドの旅行で帰国の準備ができぬという理由で断り、藤代禎輔も、漱石に異常を認めなかったので、保護して帰る必要なしと知り、先に出発することにした」という。そして、同年11月7日に漱石は「藤代禎輔を、ケンジソトン博物館と大英博物館に案内し、大英博物館のグリルで焼肉を食べエールを飲み、『もう船まで送って行かないよ』と云って別れる。藤代禎輔は、『留学生としてよくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い』と驚いたという。(集英社版『漱石文学全集』別館)。
 漱石に多少の異常が見受けられるとすれば、「よくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い」ことだろうか。そして、場末の安下宿に立てこもり、留学生活も1年以上が過ぎた頃の心境を、漱石は後に『私の個人主義』の中で、以下のように語っている。

 私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を漸く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。・・・そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでは甚だ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰曇な倫敦を眺めたのです。(岩波文庫『漱石文明論集』p114-115)

 江藤淳は江藤淳の『夏目漱石』の「『明暗』それに続くもの」という章で、「彼(漱石)は、その非組織的な濫読の間に、社会主義観系の書物を読んでいなかったとはいえない。これは単なる推測にすぎないが、ひそかに社会主義思想に対する関心すら示していたのではないか」と書いている。漱石は1902年(明治35)3月に義父の中根重一宛の手紙に、以下のように書いている。

 (日英同盟)事件の後本國にては非常に騒ぎ居候よし斯の如き事に騒ぎ候は恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの能り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん・・・国運の進歩の財源にあるは申までもこれなく候へば御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着致候。ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候ともただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめもしくは無教育に終らしめかへつて平凡なる金持をして愚なる半張を実行せしめる傾なくやと存候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、かっ耶蘇教の随性と仏国革命の殷鑑遠からざるよりこれら庸凡なる金持どもも利己一遍に流れず他のため人のために尽力致候形跡これあり候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候。カール・マークスの所論の如きは単に純粋の理窟としても欠点これあるべくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へどもちよっと気燄が吐きたくなり候間かやうな事を申上候。「夏目が知りもせぬに」などと御笑被下まじく候・・・。
 著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候。私も当地着後(去年八、九月頃より)一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少しづつかくのとを商買に致候。同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない、人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ励精致をり候。・・・ついで故一応申上候。先づ小生の考にては「世界を如何に観るべきやといふ論より始め、それより人生を如何に解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ず」るつもりに候。かやうな大きな事故、哲学にも歴史にも致治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候故自分ながらその大胆なるにあきれ候事もこれあり候へども思ひ立候事故行く処まで行くつもりに候。かやうな決心を致候と但欲しぎは時と金に御座候。日本へ帰りて語学教師などに追つかはれ候ては思索の暇も読書のひまもこれなきかと心配致候。時々は金を十万円拾って図書館を立てその中で著書をする夢を見るなど愚にもつかぬ事に御座候。〔後略〕

 100年以上前に書かれた「財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候・・・欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候」などは、現在にもそのままあてはまる。また、「日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候」という認識からは、土方人足の智識文字」とは後のプロレタリア文学にあたるのであろうか、そこには江藤淳も予測したとおりに、やがて漱石の小説に登場するようになる『それから』の平岡や『明暗』の小林といった左翼ゴロ的キャラクターの登場が予見され、そのためにも日本に持ち帰るたくさんの本の中には何冊もの社会主義関係の本があったと思われる。以上の漱石がロンドンから中根重一宛にあてた手紙を読むと、漱石は「発狂」どころか、「かやうな決心を致候」と、実に冷静にその後の研究を構想しているのが分かるのである。義父の中根重一宛の手紙が1902年(明治35)3月で、文部省からの電報が1902年(明治35)10月だから、その間に漱石の「精神異常」が文部省に伝わったわけだが、天皇に直訴した田中正造が「狂人」とされて処理されてしまったことを知ってか知らずか、帰国命令を受けた頃の漱石は「病気にかこつけて、過去の一切から解放され、気楽に毎日を送っている」(岡倉由三郎宛手紙)と書いている。1902年(明治35)11月7日、ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで藤代禎輔とエールで乾杯した漱石は、「発狂」どころか、ふっきれていたと私には思われる。
 1903年(明治36)1月に漱石は帰国する。日露戦争の危機が切迫してきた頃のことである。帰国後、漱石は一高、帝大から明治大学講師まで、「語学教師などに追つかはれ」ながら、1905年(明治38)9月の高浜虚子宛の手紙で「とにかく辞めたきは教師、やりたきは創作」と書き、やがて小説家への道を歩み出す。漱石のめざす文学は、「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論より始め・・・次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ずるつもりに候」であり、要は、土着・内発型の文学への道である。1906年(明治39)10月の鈴木三重吉宛の手紙には、以下のようにある。『我輩は猫である』は、中江兆民の『三酔人経綸問答』を思わせるところがあるが、漱石のこの気概はもうほとんど民権運動左派にも通じている。

 ・・単に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寝ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。・・丁度維新の当士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら紳経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。・・・僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文學者の様な気がしてならん。・・・

 イギリスで漱石と知り合った日本人に犬塚武夫なる人物がいる。犬塚は旧豊津藩主小笠原長幹のイギリス留学に随行し、この時、漱石と同じ下宿に逗留し懇意となったわけだが、犬塚は小宮豊隆の従兄弟にあたり、1905年(明治38)に東京帝国大学に入学した小宮豊隆は、犬塚に紹介されて漱石に在学中の保証人になってもらい、以後漱石のもとに出入りするようになる。荒正人編『漱石研究年表』を見ると毎日のように漱石を訪ねて宿泊もをしており、小宮豊隆は『三四郎』のモデルとも言われている。そして、豊津と言えば犬塚武夫は堺利彦と同郷で、ふたりは晩年に至るまで「本当の謂ゆる同郷竹馬の友」であったという。小宮豊隆も堺利彦と同じ豊津中学の卒業であったから、時に漱石と小宮豊隆は堺利彦のことを話題にすることもあったかもしれない。
 漱石の『我輩は猫である』(上篇)は1905年(明治38)10月に発行になり、二十日間で初版を売り切ったという。すると同月下旬に堺利彦は夏目漱石に、「新刊の書籍を面白く読んだ時、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦」との感想を送っている。堺利彦は『家庭雑誌』の1906年(明治39)7月号に、「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と書いたりもしている。そしたら、この「ナツメ」が電車賃値上げ反対運動の最中に「夏目」と誤解されて風評を呼び、夏目漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書いた新聞記事があったのだが、夏目漱石はそれを心配してその新聞記事の切抜きを送ってきた友人に対して、1906年(明治39)8月に、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候。・・都下の新聞に一度に漱石が気狂になったと出れば小生は反ってうれしく覚え候」と書いている。
 ロンドン留学中にモリスの『地上楽園』を購入した漱石は、堺利彦の翻案的な訳文に対してどう思ったかは別にして、堺利彦が『理想郷』を訳していたのは知っていたと思われる。漱石はロンドンに留学すると、ラスキンが青年時代を過ごしたハーン・ヒルを訪ね、モリスの『The Earthly Paradise(地上楽園)』を購入している。これはカーライル博物館を訪ねるのよりも早いのだが、「カーライル博物館」は書いてもラスキンやモリスについては何も書いてはいない。では、関心は無かったのかというと、ロンドン留学中にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランに何度か行っていおり、帰国後は「倫敦塔」や「カーライル博物館」を『韮露行』という短編集として出版して、その装丁はウィリアム・モリスを模しているから、漱石はモリスを気に入っていた気と思われる。後に小宮豊隆は『漱石の芸術』で夏目漱石のほぼ全作品について解説していても、以上のようなことには少しも触れていない。『漱石の芸術』は戦中に書かれた本だから、おそらく書けないこともあったのだろうと思われるが、その一番最後に「漱石蔵書目録については・・・即ち漱石は、自分で読む為に本を買ひ、買った本は大抵は読んでいるという事だけを、言って置けば足りるだらうと思ふ」と書いている。書けなかったことについては、蔵書目録を見てくれということだろうか。
それでも、夏目漱石には神経衰弱がひどくなっている時期に書いた日記があったらしく、破り捨てたか、紛失したらしいが、一部小宮豊隆が編集したものが「断片」として残されており、1905~06年(明治38~39)に「天皇の御意向の変化について」書かれた以下の文章がある。

 ○Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず。団栗の脊くらべを生ず。数千の耶蘇、孔子、釈迦ありといへと遂に数千の公民に過ぎず。・・・
 ○昔は御上の御威光なら何でも出来た世の中なり。
 ○今は御上の御威光でも出来ぬ事は出来ぬ世の中なり。
 ○次には御上の御威光だから出来ぬといふ時代が来るべし。威光を笠に着て無理を押し
 という。

 この文章は、そのまま『吾輩は猫である』の中で、獨仙君が語るのであるが、最初の「Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず」の部分だけは『吾輩は猫である』には書かれてはいない。漱石は、おそらく社会主義を意識しながらも、それ的なことを直接表現することは懸命に避けており、小説に書き込む時はすべてを諧謔の中に包み込んでいる。しかし、漱石は西洋の近代文明がどのようなものであり、それがどうなって行くかについては、苦沙彌先生を訪ねて来る哲学者や獨仙君に大いに語らせている。例えば、隣の学校の生徒にボールを打ち込まれた先生が腹を立てることに対して、哲学者は次のように語る。

 西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持って居るよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつ迄積極的にやり通したって、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。・・・山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ。それだから君見給へ。禅宗でも儒家でも屹度根本的に此問題をつらまへる。・・・とにかく西洋人の積極主義許りがいいと思ふのは少々誤って居る様だ。君の様な貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしやうと云ふのが抑も君の不平の種さ。どうだい分ったかい。

 とにかく人間に個性の自由を許せば許す程御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチエが超人なんか担ぎ出すのも全く此窮屈のやり所がなくなって仕方なしにあんな哲學に変形したものだね。・・・吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困って居る。夫だから西洋の文明杯は一寸いいやうでもつまり駄目なものさ。之に反して東洋ぢや昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給へ個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりと云ふ句の價値を始めて発見するから。無為にして化すと云ふ語の馬鹿に出来ない事を悟るから。

 要は「消極的の修養で安心を得ろ」と説法した訳であり、西洋文明の「Self‐consciousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」(「断片」)に対しては、『論語』にある「王者の民蕩々たり(太平の民はのびやかである)」や『老子』にある「無為にして化す(何もしないで感化をおよぼす)」をもってするようなところがあるが、「然れどもその自覚せる時は既に神経過敏にして何らの術もこれを救済する能はざるの時なり」(「断片」)とあるように、その後の漱石の歩みは、それにつきるものではない。しかし、明治の時代においてその生き方は、漱石に「発狂」することや神経衰弱、それに胃潰瘍をもたらし、漱石の死を早めた。
 1915年(大正4)6~9月に書かれた『道草』は、『吾輩は猫である』と同じ時代を描いた漱石の自伝的小説ではあるが、表現、内容とも全く異なる小説である。その第「五十七」には、以下のようにある。

 無信心な彼は何うしても、『神には能く解ってゐる』と云ふことが出来なかった。・・「みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何にも欲しくないのだ」
 斯う考へて見ると、自分が今迄何をして来たのか解らなくなった。
 彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられても其方に使ふ時間を借がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの學校から四十圓貰って、それで満足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺に取られた。残る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食ってゐた。然し彼は其間に遂に何事も仕出かさなかった。
 其時分の彼と今の彼とは色々な点に於て大分変ってゐた。けれども経済に余裕のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、何處迄行っても変わりがなささうに見えた。
 彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうち何方かに中途半端な自分を片付けたくなった。・・・何うして好いか解らない彼はしきりに焦れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。

 『吾輩は猫である』から『道草』へ至る間に、おそらく「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」が漱石の眼に這入って来たのであり、そのプロセスこそがその後の漱石の作品群であろう。夏目漱石と堺利彦は、お互いの面識はなかったものの、外来崇拝や自然主義や恐露病に対して嫌悪感を隠さない漱石が堺利彦にシンパシーしたのは、その心情と生き方に通じ合うものを感じたからではあるまいか。堺利彦は、1904年(明治37)の「晩夏初秋の感」(「家庭雑誌」9月号)に、以下のように書いている。

 去年平民社を起こして以来、予の家の支出は常にその収入を越えていた。しかも収入を増さんがために、予はかつて何らの運動をしたことが無い。予の全力は平民社の事業に注がれていた。この家庭雑誌にすら毎号寄稿することができぬほどに多忙であった。そして平民社からもらうだけの金で、ただやれるだけやって行く。それ以上の金を得ようとも思わず、それ以上の事をしようとも思わず、貧乏の間にも心は誠に気楽であった。しかるに巣鴨行きという事件が突然として起こった。
 ・・・人はこれをこじき生活と笑うか知れぬが、予はこのこじきの生活に安んずるがよいではないか。月給の多寡にあせったり、貯金や内職に苦労をしたりして、そして独立だの独歩だのと威張ろうより、人の親切と自然の成行きとに打ちもたれて、流れに従って行く方が、何ほど気楽で、何ほど安心であるか知れぬ。予はともかくも平民社からいくらかの月給をもらっている。予と予の女児との生活はそれでもってささえられる。予はただ平民社の事業と予の主義とのために働きうるだけ働けばそれでよいのだ。予はかくのごとく一身一家の財政において全然他力主義を取ることとなった。

 これらを読むと、堺利彦はもうほとんど『吾輩は猫である』の苦沙彌先生である。そして、ここ夏目漱石と堺利彦の出あいの中に、日本の内発型土着社会主義の出発点があると、私は思うわけである。

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2013年9月20日 (金)

石川三四郎のアナキズム

 
 これまで何度か名前が出てきたが、幸徳秋水と堺利彦が1903年(明治36)に萬朝報を退社して平民社を立ち上げた時に、ふたりを追って萬朝報を退社を退社して平民社に参加した古参に石川三四郎がいる。石川三四郎は平民社の古参ではあるが一八七六年(明治9)の生まれで、幸徳や堺よりは少し歳若のクリスチャンである。堺利彦が「石川は中央大学の出身で、郷里埼玉における自由党の諸先輩に教育され、一面には海老名弾正らのクリスチャンの感化を受け、後万朝報記者として社会主義協会に加入した。クリスチャン系統と自由党系統とは、誠によくこの人において結合されていた」と書いているように、若くして郷里の先輩である自由党員の家に預けられ、哲学館と東京法学院に学んで一九〇二年(明治35)に萬朝報社に入社、その頃に木下尚江と知り合う。
 社会主義とは真理の実現であり、政治的革命よりも思想的革命をより根底的なものとした石川三四郎は非政治的であり、最初の著作は一九〇四年(明治37)に平民社から出した『消費組合之話』という冊子である。『消費組合之話』の前書きには、「平民社で著述出版を計画した時、予に『消費組合の話』を割当てて呉れたのは枯川兄である、兄は更に之を安部磯雄氏に談じ、安部氏は有益なる参考書を送り賜はつた・・」とある。「枯川兄」とは堺利彦のことであり、石川三四郎の性格に合わせて安部磯雄から「有益なる参考書」を借りて、石川三四郎に本を書かせたのであろう。「有益なる参考書」とは、ホリヨーク著の『ロッチデールの先駆者たち』のことであろうが、安部磯雄はアメリカに留学時にイギリスにも渡っているから、そこで手に入れたのであろう。
 日本における協同組合の紹介は、前述したように、一八九八年(明治31)に高野房太郎が横浜で鉄工組合横浜支部を指導して創った「横浜鉄工共営合資会社」という「共働店」と、一八九九年(明治32)に同じく高野房太郎が京橋区八丁堀で石川島造船・沖電気の労働者を対象に創った「共営社」があり、片山潜も『六合雑誌』や労働組合期成会の機関誌『労働世界』でイギリスにおけるロッチデールの協同組合や消費組合運動の歴史や機能を紹介したが、それらよりもずっと早く、「イギリスで展開した協同組合思想は、日本では明治初期に輸入書籍が流入するとともに、その翻訳書によって普及し」、「日本人によるイギリス消費組合の紹介は、一八七八年(明治11)『郵便報知新聞』に掲載された馬場武義の「協力商店創立ノ議」が最初である。この翌年、共立商社その他の日本初の消費組合が設立された」(※一橋大学附属図書館HPより)。資本主義や株式会社が未発達な中で、法人企業のひとつの形態として試されたのだと思うが、当時の実業家には、それをやってみようという志もあったということであろうか。
 労働組合期成会を設立した高野房太郎は、労働組合の結成と工場法の必要を訴えるのとあわせて、相互扶助を目的として共済制度と共働店=消費組合の結成を訴えて「共働店」づくりをすすめたわけであるが、産業革命以降の労働運動というのは、いきなり現在あるような労働組合づくりをめざしたのではない。イギリスの産業革命期においてもそうであったように、当初の労働運動は自然発生的な抵抗やストライキを除けば、労働者自身による相互扶助をめざしたのであり、その形態は「共済制度と共働店=消費組合」であった。しかし、高野房太郎らの運動はやがて行きづまり、労働者の団結を禁止した一九〇〇年(明治33年)制定の治安警察法により終焉を余儀なくされた。同年、明治政府はドイツの協同組合を参考に産業組合法を制定する。官製でない協同組合は不可能となったのであった。
 資本主義の生成期で、労働組合は出来たばかりで、いわゆる消費者というものが存在しなかった時代に、数少ない組合員だけを対象にした協同組合の存続は困難であった。このことは、一八二〇~三〇年代のイギリスにおいてもたくさんの協同組合づくりが試みられながらも、一八四四年のロッチデール公正開拓者組合の出現までは、そのどれもが長続きできなかったことと同じである。しかし、私は、最初の試みが長続きしなかったことを否定的に考えない。いつの時代でも、先駆者が運動が起こすとはそういうことなのである。当時、徳島に住んで平民新聞を購読していた十七歳の賀川豊彦は、一九〇五年(明治38)に『消費組合之話』を読んで大きな感銘を受け、やがて日本の協同組合運動の指導者になる。現在、日本の協同組合の組合員数は二〇〇〇万人を超えるが、そのひとつぶの種こそ石川三四郎の『消費組合之話』だったわけである。
 一九〇五年(明治38)の『平民新聞』の廃刊後、石川三四郎は木下尚江や安部磯雄らと『新紀元』を創刊し、一九〇六年(明治39)には谷中村をたびたび訪問して田中正造と出会い、前述したように『新紀元』に載せた「階級戦争論」に、「予、頃者、栃木県谷中村に、田中正造翁を訪ふ、翁曰く、『私は曹から儒教の精神で固められたものでがすで、何でも上から下を治めると言ふ方に許り心が向いて、下層人民の中に入って、彼等自身に力を付け、彼等自身に事をヤラせる方にャ、マダ此頃まで眼が着かなかったでがす』と、嗚呼、正義の苦闘、人道の難戦、二十年の長き実験を経て、翁亦此言あり、嗚呼、翁の肉体は仮令遂には滅ぶとも、谷中村は仮全潰海と化するとも、此の一言は永久に伝へて以て改革者の一大教訓たらん、吾れ此の一言を耳にせるの時、感謝の熱涙の吾が全身を搾りて湧出するを覚えぬ」と書いた。田中正造の一言こそは、「民衆自治」の思想であろう。
 同年に堺利彦から日本社会党に誘われた時に、石川三四郎は『堺兄に与へて政党を論ず』を書いて、「予は・・政党を以て、社会改革の手段として、左程重要なるものと考ふること能はざる者なり」、「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書き、それに対して堺利彦は、「石川三四郎君に告ぐ」に「僕は君が常にひとり、しかりただひとり、新紀元城の矢面に立つをみて、これを射るに忍びざる者である。僕はただ君の誠実と真摯とに感じ、君が他日必ず来たって僕らの群に投ずべきを信じ、静かにその時を待つの外ないのである」と書いた。『新紀元』は、堺利彦から謂わば分派したわけだが、互いを論じ合うことはなはだ涙もろい。ふたりは、石川三四郎が「回顧すれば五年の昔、予は大兄が紹介によりて『萬朝報』に入り、体系の誘導庇護を受くること頗る多かりき。然るに・・」と書く関係であり、その後も道は違えども、二人の関係はそういうものとしてつづくのである。
 日刊『平民新聞』が計画されると石川三四郎はその創立人となり、一九〇七年(明治40)の第二回社会党大会では評議委員会の幹事に選出された。日刊『平民新聞』の発行責任者でもあった石川三四郎は、新聞条例違反で同年四月から一年余の入獄をすると獄中でマルクス、クロポトキン、カーペンターから『老子』や『古事記』まで多くの本を読み、”Prisoner’s Note”をとり、出獄後に『虚無の霊光』にまとめた。例えば、以下のように書かれている。
 「予は、社会的協同と個人的自治とは人生生活に欠くべからざる両方面であると思ふ」、「自我といふ独立の自覚ありて始めて玆に自治といふ作用が起こる。自我に自治の能力あればこそ、協同生活の実も挙るのである。協同生活の実挙りて此に始めて社会が成立するのである」。「例へば、カルル・マルクス等の社会民主々義は産業及び政権の統一を主張し、クロポトキン等の無政府共産主義では産業及び政権の分置を唱導して居る。・・・戦争には統一制度を必要とし、平和には自治制度を便利とするので、夫の人生進化の動的観察に基きて階級戦争論を唱導するに至ったマルクスは自然に統一主義に傾き、人生理想の静的観察に基いて相互扶助論を主張するに至ったクロポトキンは自然に自治主義に傾いたのである」。「此精神的無政府主義のトルストイや、前掲の個人的無政府主義のスチルネルが、共に理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へたのは甚だ面白い。未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」と。
 「然れども一たび我が衷に蟠まれる「物慾の蔭」を断絶して且つ虚無に反り、天真爛漫たる本来の面目を打開するの時、流転生死の無常観は赫々たる霊光の中に熔化し去りて生滅不二に帰するのである。かくて動中に静あり、流転中に永生あり、虚無の中に実在を得るのである」。「前段捿々言へる如く消極的厭世は変じて積極的の革命となるのである。達磨大師も『捨世塵而欲求道者宛如求兎角(せじんをすててみちをもとめんとほつするはあたかもとかくをもとむるがごとし)』と言はれたそうだが、今は之に一言を加ふるの余地も必要もあるまい」と。
 石川三四郎はキリスト教か社会主義かで悩んでいたわけだが、マルクスとクロポトキンというよりは、カーペンターとスチルネルと達磨大師に、それらをつつみこむ「『虚無の霊光」をみたわけである。辻潤がマックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を翻訳して、『自我経』として出版したのが一九二〇年(大正9)だから、その十年以上も前におそらく英訳本で読んだのだと思われるが、その要諦を「理想の満足を将来に望まんとするを排して之を脚下に求めよと唱へた」ととらえて、「未来は永遠に到来せぬものである。個人の平安は常に個人の脚下に在る」としたのは、はなはだ卓見である。これは『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの「共産主義とは、われわれにとって成就されるべきなんらかの状態、現実がそれへ向けて形成さるべきなんらかの理想ではない。われわれは、現状を止揚する現実の運動を、共産主義と名づけている。この運動の諸条件は、いま現にある前提から生ずる」という書き込みにも通じている。若きマルクスが心はどこか「聖マックス」に通じていながらも、エンゲルスと共に「聖マックス批判」をやって、さらに「統一制度」としての社会主義を唱え、やがて石川三四郎に「自治制度」と対比されているのは、日本の黎明期の社会主義の水準を思わせるものがある。後に石川三四郎はフランスを中心に八年近い亡命生活を送り、キリスト教社会主義者からアナキストとなって帰国するわけだが、『虚無の霊光』を書いた時点で、すでに石川三四郎は明治社会主義から生まれた土着型のアナキストとなったと言えるだろう。
 石川三四郎は、一九〇七年(明治40)には福田英子が創刊した『世界婦人』を手伝って編集発行人をしている。福田英子は旧姓景山英子といい、自由民権運動家の大井憲太郎が朝鮮の独立を支援しようとして起こした大阪事件の際、爆弾の運び役をやった女性で、大井健太郎と別れた後は福田友作と再婚して福田英子となり、『世界婦人』を発行した。十代の頃に頃東京に出てきた石川三四郎は同郷の先輩である福田友作宅に寄宿して世話になり、その後も寄食していたから、三四郎が『世界婦人』の編集発行人なったのは、筆禍事件で福田英子が刑務所入りをしないで済むようにという配慮であったというが、一九一〇年(明治43)に『婦人世界』の筆禍事件で刑務所に入っていたおかげで、石川三四郎は大逆事件の難をのがれることができたのであった。
 石川三四郎が獄中でたくさんの本を読み、ノートを取ったのは、出獄後に出版をするためであった。同じ頃に獄中にあった堺利彦も獄中で出獄後の生業企画を立てている。この後にふれる売文社の企画で、堺利彦は自らだけでなく同志たちの食い扶持まで考えた事業企画であり、石川三四郎の場合は自らの『西洋社会運動史』と『虚無の霊光』の出版企画ではあるが、いずれにせよ入獄した社会主義者は出獄を待ちわびながらも、その後の食い扶持を心配し、しのぎを考えねばならなかったわけである。
 しかも、大逆事件後の野蛮な取締りによって、『虚無の霊光』は製本中に差し押さえられ、現在読める『虚無の霊光』も途中が欠落したものである。出獄後に横浜に移り住んだ石川三四郎は、出来上がった『西洋社会運動史』を渡辺政太郎の手を借りて、警察に押収される前に発送し、警察に引致され本は発売禁止とされるも釈放された。
 一九一一年(明治44)に、石川三四郎は渡辺政太郎と渡辺方に子供を集めて日曜学校を始めている。渡辺政太郎は、山梨出身のクリスチャンの社会主義者で工員、丁稚奉公、床屋、児童養護事業などに従事、片山潜の『社会新聞』や、そこから分かれた『東京社会新聞』などに協力、貧困の中で子供相手の一銭床屋やアメ屋をやりながら社会主義の伝道をした。大正期に入ると大杉栄と荒畑寒村が主宰するサンジカリズム研究会に参加して共鳴し、小石川指ヶ谷町の書店「南天堂」の二階で、後に「北風会」となる研究会を主催した。その清貧な人柄から「白山聖人」と呼ばれた人格者であったが、ひとつだけ罪つくりがあったとすれば、辻潤に大杉栄を紹介したことだろうか。教え子である伊藤野枝に惚れられて彼女と同棲を始めた辻閏は、染井に家を構え、近くの福田英子宅に出入りしていて、そこで渡辺政太郎と会って仲よくなった。そして、渡辺政太郎が辻潤の家に連れてきたのが大杉栄であった。辻閏の「社会運動に対する情熱のないことにあきたらず」伊藤野枝は大杉栄のもとに走り、残された辻潤は浅草にパンタライ(万物流転)社を構えて「英語・尺八・ヴァイオリン教授」の看板を掲げ、やがて、比叡山の宿坊にこもってマックス・シュテイルナーの『唯一者とその所有』の翻訳をすすめ、『自我経』の教祖となった。関東大震災後、大杉栄と伊藤野枝が虐殺さてたのを聞いた辻潤は、『ふもれすく』に以下のように書いている。
 「(野枝さんは)ひどくゴルドマンの思想に影響されて、やがて日本のゴルドマンになろうとする程の情熱を示してきた。・・・野枝さんは至極有名になって、僕は一向にふるわない生活をして、碌々と暮らしていた。・・・そこへ大杉君が現れてきた。一代の風雲児が現れてきた。とても耐ったものではない」、「しかし僕は野枝さんが好きだった」と。
 石川三四郎はクリスチャンで求道者的なところがあったが、女性に関しては大杉栄と同様に自由恋愛主義的なところがあった。そしてインテリでもあったわけだが、獄中でカーペンターを読んだのと渡辺政太郎の生き様に接して、自らも生業をして生きねばと生業を考えたようで、後に『自叙伝』に以下のように書いている。
 「私は当時自分の生活態度に随分深刻な悩みを持っていました。今日の資本主義的社会組織の不合理を唱え、それを改革せねばならぬと主張する者が、自らその制度の余沢によって些かでも搾取的生活をしたのでは、主張も唱道も意義をなさない、こうした不合理な生活から些かでも自分の身を軽くする方法は、今の社会におこなわれる最下級の労働を出来るだけ分担した上、自分の生活を最小限度に縮めることだと私は考えました。当時私は深くエドワアド・カアペンターの思想と生活態度に心酔していました」と。
 しかし、なかなか手に職はつかず、横浜に石川三四郎を訪ねた堺利彦に横浜駐在ベルギー副領事に紹介され、その領事の友人から亡命をすすめられた石川三四郎は、一九一三年(大正2)三月一日にヨーロッパに向けて非合法出国をし、それは第一次世界大戦期の七年半にわたるヨーロッパでの亡命となった。フランスのアナキストのポール・ルクリュ一家の世話になって五年間農業に従事、イギリスのエドワード・カーペンターも四度訪ねて親しく交わり、カーペンターから「デモクラシー」の「デモス」とは「土地につける民衆」の意味であると教えられ、「デモクラシー」は「土民生活」であるとして、一九二〇年(大正9)一〇月三〇日に帰国すると、「土民生活(デモクラシー)」を唱え、一九二四年(大正13)には安部磯雄らと日本フェビアン協会をつくったりもしたが、一九二七年(昭和2)からは多摩郡千歳村で、農耕と著述の生活に入った。石川三四郎は、謂わばエコロジストの先駆けでもあり、戦後まで生きた。
 戦後に書かれた『五十年後の日本』は、名称的にもE.ベラミーの『かえりみれば(百年後の世界)』を意識したユートピア小説であり、そこには「購買組合、信用組合、販売組合、生産組合、水利・電利組合、保険組合、教育組合、警察組合」といった組合が複合化された社会がたえず変化発展していくという社会が描かれおり、これからの協同組合のあり方を考える上でも、今また語られる「協同組合地域社会」や「社会的企業」という概念に対しても、示唆に富んだものを持っている。

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2013年9月19日 (木)

片山潜の遥かなる旅路 

  島崎藤村は、明治39年(1906)3月に『破戒』を自費出版する。すぐにそれを読んだ夏目漱石は、4月3日づけで森田草平宛に「破戒讀了。明治の小説として後世に伝ふべき名編也」と書き送る。藤村は毀誉褒貶の多い作家であり、その作品にも生き方にも批判があり、『破戒』についても、主人公の丑松が「亜米利加のテキサスで農業に従事しようと」アメリカに渡る結末は不自然であると言われてきた。しかし、前述したように藤村自身がアメリカに仕事の修行に行かされようとしていたし、これは全く不自然ではない。前述したように、馬場辰猪をはじめ数々の民権運動家がアメリカに渡っているし、社会主義者の片山潜は13年間アメリカで苦学して、ちょうど藤村が『破戒』を書いている頃に、テキサスで1万エーカーの農場経営までやろうとしていた。第2回社会党大会の直後の2月18日に、片山潜はアメリカから帰国したが、これは農場経営のために第3回目の渡米をして、それが失敗して帰って来たときのことである。
 片山潜は、日露戦争の最中の明治37年(1904)にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名だが、それは二度目の渡米の時のことである。その第2回目の渡米の時に片山潜は第2インターナショナルのアムステルダム大会に出席するのだが、大会後はアメリカに戻ってテキサスに数百エーカーの農場を買い、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしまうのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、先の島崎藤村の『破戒』の最後に、被差別部落出身の大物「大日向某」が買ったアメリカの農場に丑松が行くというのは、少しも不自然ではないのである。かえって、『破戒』という近代日本文学の傑作にふさわしい終り方であるとさえ言える。片山潜がテキサスでの1万エーカーの農場経営を企画して日本に帰ったのが明治39年(1906)、『破戒』もその年に出版されている。

 片山潜は、1859年(安政6)岡山県の生まれで、日本の社会主義者の中では年長者である。農家の二男に生まれ、「貧乏と学問と成功、この三つは渡米によっていっきょに解決されるのでは」と1884年(明治17)に渡米。アメリカで13年間苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、明治29年(1896)に帰国した。そして、最初の渡米を含めて、4度渡米して、1914年(大正3)の4度目の渡米の後、1921年(大正10)に革命後のロシアに渡り、1933年(昭和8)そこで生涯を終えた。だから、その間の2度の渡米を含めると、日本での活動期間はそれほど長くはない。活動は海外での方が長いくらいである。
 最初の帰国後は、『六合雑誌』に寄稿、1897年(明治30)に神田三崎町でキングスレー館を開いてセツルメント事業を始め、前述したように職工義友会主催の演説会に弁士として参加、同年12月に鉄工組合が結成され、機関誌『労働世界』が発刊されるとその編集長になった。当初はラッサール流の改良主義的な社会主義者であったが、社会主義研究会に参加するようになってからは、『労働世界』でも社会主義を唱える様になって高野岩三郎らと対立するようになった。
 1903年(明治36)末に2度目の渡米をするまでの片山潜の活動は、労働運動と社会主義の謂わばオルグである。そのために全国を旅行、遊説している。また、鉄工組合がなくなった後『労働世界』は片山潜の個人所有とし、これを出し続けた。さらに、明治33年(1900)に安部磯雄らの社会主義研究会が社会主義協会へと改組されると、その事務所を芝のユニテリアン協会からキングスレー館へと移し、1901年(明治34)にはそれらの活動をまとめて、西川光二郎との共著で『日本の労働運動』を出版した。
 片山潜がすごいのは、運動を自らに集中する能力と、そのための努力である。武骨で不器用そうにみえながらも、用意周到でしぶといわけである。この時代に運動する人がたいへんなのは、喰うことである。運動は金にならないのに、自分が食べるための金はおろか、全国遊説するための費用も誰かが出してくれるわけではい。自らまかなわなくてはいけない訳で、アメリカ帰りの留学生であった安部磯雄などは学校の先生をする。学校の先生になれなければ、幸徳秋水のように新聞社などに勤めてジャーナリストになる。そして、片山潜はどうするかというと、アメリカの教会から助成を受けてキングスレー館というセツルメント施設を作って幼稚園をやったり、そこを活動の拠点にして出版をやり、『労働世界』を出し続ける。さらに、前述した横山源之助の『内地雑居後之日本』といった叢書や自分の渡米経験を生かして『学生渡米案内』を出したりする。この『学生渡米案内』は、キングスレー館の事業としては一番もうかったそうで、さらに「渡米教会」をつくって渡米者の組織化までしようとしており、3度目の渡米から帰った後には「労働奨励会」や「奮学会」をつくって、新聞売子や苦学生を組織しようとしている。
 この時代、片山潜が他に抜きんでているのは、運動をつづけるにはそれを支えるための食いぶちをつくらなくてはいけないことを理解していて、自ら事業を企画して自らの運動にもそれを結び付けてやったということである。要は、片山潜は日本で初めての近代的オルガナイザーであったのであり、自らが確信をもったことを自らが中心になって推し進めようとした。長いアメリカ暮らしで得た「マスター・オブ・アーツ」の資格と本場で学んできたという自負、それにアメリカナイズされた合理的な思考と持って生まれた忍耐力、これが片山潜のアドバンテージであった。
 片山潜が明治36年(1903)12月末、11月に『平民新聞』が発刊されたすぐ後に2度目の渡米をする。平民社の立ち上がると、そこが社会主義運動の中心となり、片山潜のキングスレー館に置かれていた社会主義協会もそこに移った。おそらく片山潜は自らの運動の拠りどころを求めたのであろう、2度目の渡米の目的は翌年にで開かれる第2インターナショナルのアムステルダム大会に出場することと、テキサスで農場経営を試みるためでもあった。それは第2インターナショナル、片山的には「万国社会党」との結びつきと、アメリカにおける事業拠点づくりをも追及するためでもあり、片山潜は「万国社会党」の幹事になって帰って来た。2度目の渡米は、アムステルダムに渡ったこともあり2年間に及んだ。その間に日本では、明治38年(1905)に『平民新聞』が廃刊になり、同年10月には平民社も解散になった。片山潜が帰国したのは明治39年(1906)1月で、片山潜は同年2月に結成された日本社会党の評議委員に選出される。同年6月には幸徳秋水もサンフランシスコから帰国して直接行動論を展開するようになるが、同年7月に片山潜はテキサスにおける農場経営のために三度目の渡米をする。
 1907年(明治40)1月に日刊『平民新聞』が創刊され、2月17日に日本社会党の第二回大会が開かれ、そこでは幸徳秋水らの「直接行動派」と田添恭二らの「議会政策派」とが正面衝突し、テキサスでの農場経営に失敗した片山潜はその直後に帰国する。日本社会党の第二回大会における直接行動派の幸徳秋水の演説は前述のとおりだが、議会政策派の片山潜は、日刊『平民新聞』3月5日の第40号に「労働者諸君に告ぐ」と題して、「記憶せよ! 帝国憲法の下には我々臣民の権利(人権及財産権)は法律に依って始めて生ず、而して斯法律は人民の代表者が先づ議決して後、天皇の裁可を経て始で完成す、然らば我々の権利は少くとも我々帝国臣民の先議なくして生ぜずと謂つべし、故に我々労働者は宇内の大勢を通観して一致の行動に出で、先づ普通選挙権を得て堂々議会に於て其権利を主張すべし、是れ今日執るべき唯一の方針なりと信ず、請ふ、諸君の深思熟考を煩はさん」と書き、同3月10日の第45号には「労働問題の前途」と題して、「労働者の前途は先づ組合を組織して常に秩序ある行為に出づべきなり、是れ実に吾人が天下の労働者に向かつて熱心に勧告せんと欲する所なり」と書き、田添鉄二とともに憲法の範囲内での議会主義を主張した。
 同年4月に日刊『平民新聞』は廃刊になり、日本社会党も結社禁止となる。分裂した直接行動派と議会政策派は、同年6月に幸徳秋水と堺利彦は森近運平と大阪で『大阪平民新聞』を発刊、片山潜は西川光二郎らと「社会主義中央機関」と称して週刊『社会新聞』を発刊し、論争した。片山潜がアメリカに行き来する間に、日本の社会主義運動の中心はすっかり平民社へと移っていたわけだが、片山潜と西川光二郎が発行した『社会新聞』が「社会主義中央機関」と称したことについて、堺利彦は「社会新聞と小生らの関係」という文章に、以下のように書いている。
 「機関紙の経営ということは・・それに従事する人々の衣食の問題である。・・・ある一部の人々がその衣食の道を独占するというようなきらいがあっては、はなはだ相済まぬ訳である。・・・社会新聞は、「社会主義中央機関」として打って出て、片山、西川の両君これを経営し、旧平民新聞社一同これを援助するという訳であった。しかるに、社会新聞第1号の「創刊の辞」を見るに、何とやら小生ら(もしくは小生らの一人)に当てつけたようなことが書いてある」。「片山君が幸徳の宅に来訪せられた。・・そして、なにぶんにも目下君らが助けてくれなくては社会新聞の維持がむずかしいとて・・種々助力を求められた。幸徳はこれに対し、直接行動派、その他各派の意見も社会新聞に掲ぐるならばもちろん異存はなしと答えた。・・・堺はなお、中央機関紙には諸派の意見をなるべく自由に発表せねばならないということを話し、片山君は・・相談のうえ、返答するということで別れた」と。
 要は、片山潜としては幸徳、堺と別々にやったのでは読者の獲得がおぼつかないが、直接行動派は分派として排除したいということであったのであろう。堺利彦は、片山潜らには「欧州社会党の分派を説き・・・かかる分派の発生はわが党運動の進歩を意味するもので、むしろ喜ぶべきことである。ただ中央機関紙たるものは、各分派の意見をなるべく自由にその紙上に発表せしめねばならぬ」と説いていたわけだが、片山潜は「堂々たる長論文」の『社会主義鄙見』を書いて、「無政府主義者、もしくは無政府主義的傾向を有する者、もしくは議会政策を排する者は、断じて社会主義者にあらず」とする。『社会主義鄙見』で、片山潜はこう書いている。
 「余の社会党に対する地位は明確なり、未だ一点も変更せしを記憶せず、万国の社会党員の間に余の立場は明知され居ればなり。余は未だ曾って万国社会党の綱領宣言に異なる主張をなしたる事なし。政治運動即ち立法及議会政策を排する者は、口は社会主義と云ふも其信奉主張は無政府主義なり、政治団体を排斥する者は万国社会党員にあらず、彼若し自ら社会主義者なりと自称するも万国社会党員は彼を同志と認めざるなり、余は社会主義の実行を期せんが為めに議会政策を主張し、先づ普通選挙権を得んことに努めんと欲す、是万国の主義者が以て最良の社会主義実行手段となし、経験したる所なればなり、又我邦労働者の状態に照して最良手段なるを信ずればなり」と。
  両派は分裂して激しく対立するようになる。『社会新聞』1907年(明治40)11月17日に片山潜は、「自然の結果(幸徳、堺両君と予の立場)」に、以下のように書いて、運動から無政府主義を排除する。
 「余は両兄等と一切の関係を絶つべし。而して地方の同志諸君に向つて、予等は万国社会党の宣言綱領に則りて活動する者なりと言はんとす。余は無政府主義の空想を排斥し、今日迄顕はれたる無政府主義の政策手段には絶対的反対を表す。国家の規律を非認し議会政策を非認する無政府主義者と提携するの余地なきを信ず。予は社会主義者なり。万国社会党員なり。社会の進化に伴ふて我党の政策に亦進化発達あるを認むるも他主義に変化する亜流にあらず。又無政府主義を社会主義なりと曲解して天下の青年に説くの勇気をも有せず。愚直なる予は専ら予の信ずる社会主義を労働者諸君に説かんと欲す。是れ万国社会党の取るべき方針なり。請ふ之を諒せよ」と。
 それに対して、堺利彦は、『日本平民新聞』1907年(明治40)11月20日に、「社会新聞を見るに、社会主義同志会大会は我々は従来とり来たる万国社会党の主義綱領をもって進む者たることを宣言すという決議をなしたる由、それも至極結構なるべし。しかしそういうと何だか中央政府の訓令に従って行動するような気がする。・・・予の考えでは、大づかみにいう社会主義運動は、その右端は少しく国家主義的になり、その左端は少しく無政府主義的になると思う」と書くのであった。
 片山潜は、アメリカ留学中にラサール流の社会主義に傾倒したほか、イギリスを旅行して、そこでセツルメントなどの社会事業やグラスゴーの都市改良事業、消費組合などを見学し、イェール大学の卒業論文は「欧米の都市問題」である。ラサールから学んだドイツ流の国家社会主義と欧米の先進的な事例モデルから学んだ「市有」による都市社会主義的なものが、片山潜の社会主義観のベースになっており、それに第2インターナショナルという「万国社会党」との提携が片山潜の拠りどころであった。運動の進め方は、帝国憲法下での合法的な普通選挙運動と労働組合というのが基本である。幸徳秋水も短い期間ではあったが、アメリカの運動を見て「近時、米国社会党中、其運動政策に関して二派の議論闘はされつつあり、一は主として殊に独占的事業のパブリック、オーナシップ(国有若くは市有)を提げて選挙場裡の武器となさんとし、他は純乎たる社会主義の理想を以て旗幟となさんとする者也。・・・今日の制度の下に国有市有を賛するは、是れ社会改良家、国家社会主義に向つて譲歩する者也」と書いている。幸徳秋水からすれば、都市社会主義ではだめなのである。議会政策か直接行動かという対立の背景には、民権左派的な幸徳秋水、宥和主義的な堺利彦の土着社会主義と、合理的思考とで機能論的方法の外来種社会主義があるわけである。
 平民社とその周辺には、幸徳秋水と堺利彦のほかに、安部磯雄と片山潜も含めて、石川三四郎や山川均や大杉栄ほか多様な社会主義者が集まり、その事務所にはマルクスとエンゲルスとモリスとクロポトキンの肖像画が飾られていたという。これは万国社会党を知らず、科学的社会主義とユートピア社会主義と無政府主義の区別がつかなかったからというよりかは、万国社会党も含めて社会主義というものをそういうものとして受容したという証である。しかし、本場で社会主義を見て学んで誰よりも知識も労働運動の体験も豊富な先駆者であり、万国社会党の幹事でもあるという自負をもった片山潜からすれば、立法及議会政策を排する無政府主義を排した「社会主義中央機関」が必要であったのである。海外の事情を実際に見聞きしてきた訳ではなく、社会主義と無政府主義の区別もつかない日本の社会主義運動にあっては、自らの認識で運動を集約して広めることが正しい運動のすすめ方であると片山潜は思い、それまでの日本の運動を『日本の労働運動』にまとめ、『社会新聞』を「社会主義中央機関」と銘打って、後の「全国政治機関紙」的に位置付けようとしたのであろう。片山潜は、近代的オルガナイザーのはしりであったのと同時に、「主義」によって行動する近代的セクト運動家のはしりでもあったわけである。
 堺利彦は、1906年(明治39)11月の『光』に「社会主義と無政府主義」と題して、以下のように書いている。
 「予は最も公平に諸種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。・・・そこで予は思う、この社会主義と無政府主義との調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合をみるであろうと。・・・かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかにみえると思う。日本においては、最初片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。・・・ 日本のごときは、現在の万事がドイツ式なるに従って、革命運動もまたドイツ式となるべき形勢もみえる。・・・それにまた一つ、シナという大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた大いにその影響を受けぬとも限らぬ」と。
  外来の「主義」は、他に先んじてそれを喧伝する者にとってはイデオロギーと化し易い。ところが土着の堺利彦は、その行く末も含めて、それをさらりと受け流すのである。
 片山潜と西川光二郎が書いた『日本の労働運動』には、「明治二十九年の末に至り、・・先づ澤田半之助及城常太郎の両氏は・・翌三十年四月に・・職工義友会を起こし・・」とあり、その記述から高野房太郎の名をはずしている。また、この本には鉄工組合の共働店も片山潜の指導によってつくられたみたいにも書かれているが、後に「消費組合」のパンフレットは書くも、片山潜は実際に協同組合に関わったことはない。前述したように、実際に「共働店の規約」を書き、自らその運営を担ったのは高野房太郎であった。また『労働世界』の編集には横山源之助が協力し、そこで横山を中心に「下層社会研究会」が開かれているのだが、片山潜と別れた横山源之助のことは書かれていない。『日本の労働運動』は、初期の日本の労働運動を網羅した本ではあるが、片山潜の「オレがオレが」が目立つ本でもある。
 『日本の労働運動』を共著で出版したように、片山潜は西川光二郎と長年コンビで運動をやって来たわけだが、1908年(明治41)12月に片山潜は西川光二郎らによって自らのグループから除名されてしまう。同年1月には屋上演説事件が、6月には赤旗事件が起こり、2年後の大逆事件に向かって時代が流れていく中で、西川光二郎らは直接行動派を批判する「主義」から離れて行った訳であるが、彼らには片山潜のアメリカ流合理主義が、男気なしの不人情やケチと写ったのもあるのかもしれない。1884年(明治17)に渡米し、民権運動をスルーして長年アメリカ暮らしをしていた片山潜には、幸徳秋水や堺利彦のように、故郷の先輩や民権運動の先輩といった人脈はなく、日本語にも拙かったと言うから、なおさら合理的な考え方とやり方で運動をすすめるしかなかったのかもしれないが、そのことはまた、アメリカ帰りの社会主義者がベラミーやラッサールの影響は受けて機能論的に国家社会主義や改良主義を受け入れる下地にもなっていると思われる。幸徳秋水や堺利彦が「中央機関紙」的発想や国家主義を嫌うのは、民権運動の流れから来ていると思われるところである。
 一方、幸徳秋水が片山潜のことを「五分刈りの頭、薄痘痕の顔、短い服、古い背広を纏ふた中肉の身体、全体に鍛鉄の如く引締つた風采を一見すれば、何人も君が幼年から今日迄、如何に浮世の風浪と手痛き戦ひを続けたか、如何に多くの苛酷な迫害に堪へ来つたか、如何に苦痛の労働に服して来たかといふ来歴を、髣髪として読み取ることが出来るであらう。・・・外に出ては、予は一回も君が人力車に乗ったのを見ない」と書いたのは、片山潜がケチでったからではあるまい。そして片山潜は、「演説が済んで家に帰ると、妻君が不在なれば不在で、さっさと冷い飯に水をふっかけ、漬物を齧りながら食った。食ってしまふと、着のみ着のままでその儘ごろりと寝る」と山崎今朝弥が語るがごとき生活をしていたのであろう。妻に先立たれた時には、「何もしてやれなかった」と「片山はたくましい両手で面をおおう、声を立てて泣」いたという。そして、西川光二郎らが去った後に片山潜の後について来たのは、みな労働者型の人であったという。日本に帰ってからの片山潜の思いは労働者に向いていた。隅谷三喜男は「片山に対する毀誉褒貶は実に様々である。だが、唯一確かなことは、かれが一身の幸福を犠牲にし、終生労働者大衆の解放のために戦った、ということである」書いている。おそらく、そうだったのであろう。
 大逆事件後の明治44年(1911)、年初に幸徳秋水が処刑された年の年末に市電労働者の同盟羅業が起ると、翌年1月に片山潜は羅業を扇動したとして検挙され、入獄した。このことは、「憲法の範囲内で」の穏健な活動をすすめて来た片山潜にとってはショックであり、「今日の渡米は日本で逆境に堪へ得ないからである」と、大正3年(1914)9月に4度目の渡米をした。日本の社会主義たちは壮行会を開いたが、荒畑寒村は「日本にいては運動もできず、生活にも困るからと米国に行くと述べたのを聞いて・・・涙がこぼれた」と書いている。
 そこから先の片山潜は、二度と日本に戻ることはなかった。アメリカに渡った片山潜は、そこでトロツキーやブハーリンと知り合い、1921年(大正10)に1等客室の旅客となってソヴィエトに渡り、翌年にはコミンテルン執行委員会幹部会委員に選出された。アジアの革命は最も資本主義のすすんだ日本からと考えたコミンテルンは片山潜を厚遇し、片山潜は二十七テーゼも、三十二年テーゼも全面的に賛成し、日本に共産党をつくらせる際には「堺だけははずせ」と言ったという。スターリンを指導者として仰いだ片山潜は、1933年(昭和8)にクレムリン病院で74年の生涯を閉じ、その棺はスターリンによって担がれ、手厚くクレムリンに葬られた。

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柏木団の人びと

※3回目のリライトになりますが、7月にリライトしたものは削除しました。

 幸徳秋水が渡米中の1906年(明治39)2月、堺利彦は深尾韶と共に日本社会党を結党すると、3月には電車賃値上げ反対運動を起こした。桂内閣に代わった西園寺内閣は、弾圧一辺倒を多少ゆるめたわけであるが、電車賃値上げ反対運動では西川光次郎ら社会党幹部は検挙されてしまう。6月23日に帰朝した幸徳秋水は、28日に開かれた歓迎演説会で「世界革命運動の潮流」と題して、「三百五十萬の投票を有せる独逸社会党、九十人の議員を有せる独逸社会党、果して何事を焉したりや、依然として武断専制の國家に非ずや、依然として堕落罪悪の社会に非ずや、投票なる者甚だ恃むに足らざるに非ずや、代議士なる者の効果何ぞ甚だ少なきや、労働者の利益は労働者自ら掴取せざる可らず、労働者の革命は労働者自ら遂行せざる可らず、是れ近時欧米同志の叫声也」、「革命の運動か、議会の政策か、多数労働者の団結を先にすべきか、選挙場裡の勝利を目的となすべきか」と演説し、それまでの合法的な議会主義の路線からの転換をせまった。
 そして、9月頃から日刊『平民新聞』の発行計画がもち上がると、10月に堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光二郎、竹内兼七を創立人として平民社を起して日刊『平民新聞』の準備をすすめ、翌1907年(明治40)1月15日に日刊『平民新聞』は創刊され、その2月5日号に幸徳取水は「余が思想の変化」と題して、「余は正直に告白する、『彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に團結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依るの外はない』、余が現時の思想は実に如此くである」と書き、そこでそれまでの議会主義に代えて、ゼネラル・ストライキを提起した。
 1907年(明治40)2月4日には足尾銅山で大暴動が起こっていた。さらに、2月17日の第2回社会党大会において幸徳秋水は、「田中正造翁は最も尊敬すべき人格である・・・然るに此田中正造翁が、廿年間議会に於て叫んだ結果は、何れ丈の反響があったか、諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつたではないか、然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやった、のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか、暴動は悪るい、然しながら議会計年の声よりも三日の運動に効力のあつたこと丈は認めなければならぬ」と「眼は電光を放ち舌は火焔を吐くが如き雄弁」をなして、対立する田添鉄二の「議会政策必要論」を圧倒した。
 一方、普通選挙と議会主義を唱える田添鉄二は、日刊『平民新聞』2月15日の第25号に「議会政策論」と題して、「今日まで社会革命を志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、人為的に社会が破壊され構成されるという思想である。・・・予は深く信ず、日本に於ける社会主義の運動は、斯かる単調なる思想の支配の下には決して吾人が予期する如き効果を結ぶことが出来ないことを」「予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいと思ふ。一、平民階級の教育、階級的自覚の喚起。二、平民階級の経済的団結運動。三、平民階級の政治的団結運動。四、議会政策」と書き、第2回社会党大会においては、「私は日本社会党運動の有力なる一政策として、議会政策は何時でも握って行かなければならぬと信ずるものであります」と、肺患の病体をおして演説した。
 採決の結果は、堺利彦の出した本部案が28票、幸徳案が22票、田添案2票で、本部案が通ったのだが、「国法の範囲内での社会主義」というわくをはずしてしまったために、2月22日に日本社会党は「安寧秩序ニ害アリ」という理由で結社禁止となり、日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれたのであった。

 話を少しもどす。
 日刊『平民新聞』発行に際して、新たに平民社に参加した青年がいた。岡山は倉敷から上京した山川均である。山川均は倉敷の出身で、家は幕末まで郷宿という代官所に来る役人を泊める公認の指定旅館をやっていて、維新後は没落してしまう。高等小学校を卒業した山川均は、東京遊学を希望するが家が没落してかなわず、同志社出のクリスチャンであった姉の嫁ぎ先の林さんの口利きで、同志社に行くことを親に認めてもらう。同志社ではボート部に所属して琵琶湖を漕ぎまくる一方、読書についてはトルストイやカーペンターから強い感銘や印象を受けたとある。そして、授業に教育勅語が導入されたことに反発して、同志社を退学してしまう。
 それから東京に出て来て、学籍のない放浪学生をしながら、やがて知り合った守田有秋と「青年の福音」というキリスト教のパンフレットを出版するのだが、これに守田が大正天皇のご成婚について「人生の大惨劇」という文章が書いて不敬罪となり、20歳から3年半の獄中生活を送ることになる。義兄の林さんは、不敬罪で裁判にかけられた義弟を救おうと、山川均が発揚性鬱憂犯であるとしようとしたのだが、山川均は自ら刑に就き、それを聞いた林さんは自らの日記に「法廷に立ちて沈毅たり、鉄窓によりて平然たるものは、心中一点の信念、付して地に恥る所なきを以ての為なり」、「獄に下りたる後、その求むる所は社会経済に渉るの書、思うに之れ、彼が他日の志を成さんが為めの勉学ならん」、「富貴は彼の求むる所にあらず、功名亦彼れに期すべきにあらず。彼の成さんとする所は他にあらん」、「彼れが成さんと欲する所のものは、一身を捧げて社会のために貢献せんとするにあらん」と記し、山川均の決意のほどを理解する。
 二十歳からの獄中、山川均は経済学を勉強する。差入れされた本の中には、英訳の『資本論』まであったそうだが、入獄中はまだそこまでは手を出さない。そして、1904年(明治37)6月の出獄の日、差入れされたものの「看読不許」となっていた『週刊平民新聞』の創刊号をみつけた山川均は、岡山に帰る前に、数寄屋橋にあった平民社に立ち寄っている。
 故郷に帰ってからの山川均は、義兄の林さんの営む薬局の手伝いなどしながら、旧友の大原孫三郎から『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を借りて勉強する。山川均の幼友達で後に中国地方の財閥になる大原孫三郎は、山川均の入獄中に面会にも行っている。その頃、平民社を中心にした日本の社会主義運動は『平民新聞』や平民社発行のパンフレット類の「伝道行商」によって、すこしずつ地方にも伝えられ、岡山にも森近運平によって社会主義の小グループができた。やがて山川均は、「現在の生活は、もはやこれ以上つづけてはならない」と思うようになる。
 1906年(明治39)1月に それまでの抑圧的な桂内閣から西園寺内閣に代わると抑圧は緩和され、2月に「国法の範囲内において社会主義を主張する」とする日本社会党結党が結党されて、山川均は入党する。問題は、「ここを飛び出しても、どうして生活するのかという」ことであった。そこで、山川均は当時アメリカに渡っていた幸徳秋水に渡米希望の手紙を書くと、幸徳秋水からは「アメリカなんか来るところじゃない」という返信があったのだが、やがて帰国した幸徳秋水は『日刊平民新聞』の発行をすすめ、編集委員に山川均を誘う。1906年(明治39)12月に倉敷を立った山川均は、新橋につくと、その足で築地新富町の平民社をたずね、そこではじめて堺利彦と会う。出獄後、数寄屋橋にあった平民社を訪ねて以来二年半が経っていた。
 山川均は神田に下宿して、そこから通った。山川均にとって「平民社入社は、私にとっては、自分の収入で生活した初めての経験でもあ」り、月給は25円であたっという。幸徳秋水と堺利彦と石河三四郎が週刊『平民新聞』の経験者で、新聞編集未経験の山川均は行数勘定のような「奴隷仕事」をすすんでやったという。しかし、日刊『平民新聞』は、4月には早くも廃刊になってしまう。山川均は『ある凡人の記録』に「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった」と書いている。現在でも雇用難は深刻だが、明治の時代、しかも社会主義者にとってどうやって食うかは、山川均に限らず深刻な問題であったであろう。その手立てでもあった平民社が解散させられた後、彼等がいかに生きたのかを少し長くなるが、山川均の『ある凡人の記録』から「柏木団の人々」に見ておきたい。

 「新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。さいわい守田は結婚して日暮里の金杉に家をもち、秋山の二六新聞に勤めていた。それでともかく僕の家に来いというわけで、私は下宿を引き払って守田の家に同居させてもらうことになった。まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。この春は・・柏木の住人総動員で小金井の雪の桜を見物に出かけたことを覚えているから。そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた」。
 「幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・」。
 「青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見えるエンガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」。
 「このあいだに、守田の家も三度ばかり引越しをしたが、私はあいかわらず、守田の家に寄生をつづけていた。収入のないときは食費さえろくに払えなかったくせに、威張って居候していたが、守田夫妻は親切に世話をしてくれた・・・  『平民新聞』がなくなってから赤旗事件で入獄するまでの一年四ヵ月のあいだ、ろくに収入になる仕事もなく、いったい私はどうして生活していたものか、考えてみるがよく分らない。・・・しかしいまもこのとおり私が生きているところを見ると、ともかく生活していたものにはちがいない。・・私はそれから今日まで、定まった収入のない生活をしていた時期が多かったが、なんだか人間というものは、平均的にはどうやらこうやら最低生活だけは出来てゆくものだというような安心感があって、定まった収入のないことに、さまで不安を感じないで済んだ」。
 「幸徳が東京を離れるについては、幸徳、堺のあいだで今後の運動方針を協定しておく必要があったとみえ、改めて二人の会談がおこなわれた。たしか三河屋だったとおもう。四谷見附の大きなスキ焼屋で、食事をしながら話し合いがおこなわれたが、払はなんということなしに、その席に招かれた。二人がなぜ私をその席に加わらせたかは、よく分らぬが、たぶん二人の間の話し合いが、第三者によって確認されていることが望ましいと考えたからだろうと思う。そしてこの立会人に私が選ばれたのは、当時、私の思想上の立場が、やや二人の中間にあったためだったかもしれぬ。・・・幸徳さんは、二十七日に東京を立って土佐に向った。この夜の会合が、幸徳さんとの永久の訣別になろうとは、もとより夢にも思わなかった」と。

 堺利彦は、議会主義にこだわる片山潜とアナキズムにシフトしていく幸徳秋水の間にあって、自らは正統派マルクス主義をもって任じた。正統派マルクス主義なのか無政府主義なのか、議会主義なのか直接行動なのか、堺利彦と幸徳秋水が何度となく議論をくりかえす様、日本における社会主義の形成をになった人々の生き様、しのぎ方がうかがえる。柏木団の人々の生活を支えているのはそれぞれのささやかなしのぎと、ささやかな稼ぎの中からの贈与、共有であり、そういった関係として成り立つ謂わば「コミュニティ」である。この風景は、日本の社会主義の原風景であろうかと思うところである。
 「この立会人に私が選ばれたのは・・」と書く山川均は、第二回日本社会党大会で書記をまかされたように、ここでは日本の社会主義の原風景記録係りをまかされている。その後、分裂した社会主義運動では議会主義派の片山潜と西川光次郎が「社会主義中央機関紙」と銘打って『社会新聞』を出し、直接行動派は森近運平が『大阪平民新聞』を出し、山川均は1907年(明治40)8月~9月に『大阪平民新聞』に「研究資料・マルクスの『資本論』」を連載する。内容的には、「モリス、バックス両氏の解説に従いて今その概要を示すべし」とあるように、モリス&バックスの『社会主義』からの『資本論』解説であるが、山川均は「ただしモリス氏等のは解説の便宣より順序を前後せるとこ少なからず。本論はこれを『資本論』の順序に復したり」としている。入獄時に英語版『資本論』を差し入れしてもらっていた山川均は、出獄後にモリス&バックスの『社会主義』を参考に、『資本論』にも眼を通したものと思われる。日本におけるマルクスの紹介は、前年の幸徳秋水と堺利彦による『共産党宣言』と『空想より科学へ』の翻訳である訳だが、この山川均の『資本論』紹介は、山川均は入獄においても、そこで始めた経済学の勉強においても、当時の社会主義者の中で一頭地を抜いていた訳である。しかし、しのぎについてはやはり「堺のオヤジ」が飛びぬけている。
 堺利彦は前の週刊『平民新聞』の廃刊後に、「わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ」と書いて、前述した平民會ミルクホールや平民書房訳など各人の「屯田策」を促した。そして自らのしのぎについては、「小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行している由分社の経営を助けることになりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目二七番地に移り住み、ここに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しずつ出版を試むることになりました。小生は今後これをもって一身の衣食を支えるつもりであります」と書いて、かつて万朝報勤めの頃、長男と妻の治療費を稼ぐために始めた内職の『家庭雑誌』と出版活動を再開した。さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。宣伝目的なら発行不可であった社会主義も、研究目的なら黙認された訳である。しかし『社会主義研究』はあまり売れずに5号で終刊、それから日刊『平民新聞』をたちあげ、日刊『平民新聞』が廃刊になった後は、また著述、出版活動を続けるのであった。
 「柏木団の人びと」にはもうひとり新顔が登場している。大杉栄である。大杉栄は、平民社のメンバーというよりは謂わばボランティアであったが、1906年(明治39)2月の日本社会党には参加し、電車賃値上反対運動であばれて入獄し、出獄すると堀保子と結婚した。堀保子は、堺利彦の最初の妻の美知子の妹である。結婚のはなむけにか、堺利彦は同10月に『家庭雑誌』を大杉夫妻に譲渡している。1898(明治31)年に社会主義研究会を起こして日本に社会主義を紹介したアメリカ帰りの留学生たちは、その後教職につくことによって職を得られた。しかし、幸徳秋水や堺利彦、山川均といった高等教育を終了せず、かつ社会主義運動を自らの生き方とした人たちは、自ら職を起こして食うしかなかった。そして書くことを生業としても、書いたものを載せられるメディアがない時代には、自らそれを持つことが生活の手段だったのであり、後に大逆事件後の冬の時代を、大杉栄も『近代思想』を創刊し、そうやってしのぐのである。
 日本社会党が結社禁止になった後、運動は幸徳秋水らの直接行動派と片山潜らの議会主義派に分裂してしまうのだが、1907年(明治40)の夏に、直接行動派と議会主義派が一緒に「社会主義夏季講習会」を開いている。講演者は『社会主義史』田添鉄二、『法律論道徳論』幸徳秋水、『社会の起源』堺利彦、『社会主義経済論』山川均、『労働組合論』片山潜、『ストライキ論』西川光二郎で、両派から講師を出しているが、この講演会がおそらく両派の協力した最後の機会であった。そして講習会の打ち上げだろうか、新宿角筈十二社での参加者の記念写真が残っていて、この写真には、上記のそうそうたる講師陣のほかに、大杉栄や福田英子から辻潤と中里介山まで写っている。辻潤は、当時まだ無名であったから、そこに集まったのが当時の社会主義者たちなのであろう。組織された社会主義者や労働者の団体がある訳ではなく、少数の人々がゆるやかにつながっていただけなのであろう。その写真は、日本に芽生えた社会主義が、翌1908年(明治41)の赤旗事件から1909年(明治42)の大逆事件へとつづく冬の時代に向かう前に、やがてはそれぞれの道へと歩みだす明治の社会主義者のつかの間のショットであった。

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2013年9月 6日 (金)

幸徳秋水が垣間見た夢

 週間『平民新聞』は 1904年(明治37)10月に発行一周年を記念して、幸徳秋水と堺利彦共訳の『共産党宣言』を掲載して発行禁止となる。さらに石川三四郎が書いた「小学教師に告ぐ」の筆禍事件により、編集人の幸徳秋水は禁錮5ヶ月の判決を受けて、1905年(明治38)2月に巣鴨刑務所に収監された。
 病弱の秋水ではあるが、入獄中はクロポトキンの『田野、製造所及工場』うあエンゲルスの『フォイエルバッハ論』などを読み、フランス語の勉強などもしている。放免が間近になって堺利彦に書き送った手紙には、「与の病気は次第に快方に赴けり、但し終日法廷に直立せしめられて、十分の弁論を為し得るには、今少し体力の恢復するを待たざる可からず」としながら、出獄後への思いを以下のように書いている。
 「予が出獄後に於ける慾望は甚だ多し、丸の内に大倉堂を建築し、同志の演説集合の湯に充て、且つ其一部を編集局として、一大日刊新聞を発行せんこと其一也、先づ米國に遊び、転じて欧洲に入り、中原に於ける同志の運動に參して淹留数年なる其二也、一切世事を断絶して科學、哲學、宗教の書を携へ、山中に遁れて新唯物論の著述に従事せんこと其三也、北海道或は朝鮮に田園を買ひ、数百人の農夫と理想的生活を為して、静かに天真を養ふ其四也、此等四者其一を行ふも数千乃至敷萬金を要す、赤貧なる予には遂に空想に過ぎざるべし、嗚呼我等は何時迄か数寄屋橋畔の一破屋、下水の臭気紛々たる處に瞼せざる可らざる乎、諸君感果して如何」と。これが、秋水35歳の夢である。堺利彦の夢とも重なる夢だが性格のちがいか、より切実さがあって万感胸に迫るものがある。
 発行禁止になった週間『平民新聞』は、その執行に先立って1905年(明治38)1月に廃刊にされ、加藤時次郎が発行していた『直言』をもってそれに代えるも、『直言』も7ヶ月の戦闘を継続して9月に発行停止となり、10月には平民社も解散となり、11月に幸徳秋水は横浜からサンフランシスコに旅立った。「夢」の実現に向けての第一歩となる幸徳秋水の洋行は、サンフランシスコとオークランドを中心とするエリアでの約半年間の亡命と癒しと再起に向けての滞在であった。
 平民社の解散の背景には、相次ぐ発行禁止と入獄という弾圧、印刷機の押収や支払いといった財政問題、キリスト教社会主義舎からの批判などがあり、平民社を離れた石川三四郎は安部磯雄らと『新紀元』を発行し、西川光次郎らは『光』を発行し、アメリカに渡った幸徳秋水はそに記事を送っている。シアトルに着いた幸徳秋水は、オークランドを経てサンフランシスコに到着する。そこには萬朝報いらいの盟友である岡茂樹が「平民社桑港支部」を構えており、その金文字看板を見た秋水は「見よ、平民社は未だ解散しないのである」と感激して、そこを「日本社会運動の策源地、兵姑部、および迫害された同志の避難所を作りだして」ロシア革命党員がスイスを運動の根拠としたようになりはしないかと空想したりしている。
 また、10年前にアメリカから戻った片山潜、安部磯雄、村井知至らの洋行は留学であり、新知識を持って帰ったわけだが、秋水が「小生は未だ米国中流上流の社会を知りません、また知りたくもありません。是等らは是までの洋行者の十分研究吹聴した所です。小生は唯だ下層の社会運動、革命運動の潮流に接触して見たいと思って居ります」と書いているのには、幸徳秋水の「夢」だけではない実践への思いがうかがえる。サンフランシスコ社会党の小集会に招かれた秋水は、「小生は彼等の運動方法を研究し、且つ彼等との提携を便にする為に、桑港社会党に入党」した。
 フリッチ婦人宅に滞在し、旧知の無政府主義者のジョンソン翁と交流し、桑港社会党本部を訪ね、露国革命党同情会や小集会に招かれてで演説する幸徳秋水は、さらに1905年に結成されたサンジカリズムの労働組合であるIWW世界産業労働者組合とも接触している。「桑港より-その2-」には、「この手紙を書きかけて居る所へ、世界工業労働者組合“Industrial Workers of the World”の会員三名が来て、彼等の集会に出席演説することを依頼して行きました」という記述があり、「桑港より-その5-」には、社会労働党の本部を訪ねた時の、「予は桑港に於ける労働組合の日本人排斥運動に対し、社会党労働者が如何なる態度を取るかを質して見たが、彼等は日本人に同情し、非常に排斥運動に反対していた、社会労働党の人々は、現時の米國に於ける『資本労働調和』的組合に反對せんが為め去年六月から新たに“世界(産業)労働者同盟”なる革命的組合を起こし、本部をシカゴに置て運動している、此の組合は其の名の示す如く、全く世界的で、人種的偏見など少しもない、若し日本人労働者が能く團結して此の組合の一部となって提携して運動することになれば、有力なる援助を得るのだが、哀しいかな日本労働者の多数は、社会主義も知らねば、世界的労働組合の存在も知らぬ・・」という記述がある。
 当時、アメリカでは黄禍論が起こったように、西海岸には沢山の日本人の出稼ぎ労働者がいた。幸徳秋水と同じ頃にアメリカに滞在した永井荷風の『あめりか物語』にも、当時日本人の出稼ぎ労働者の多く住んだタコマの日本人街の様子がリアルに描かれている。以下、少し回り道になるが、IWWについて少し書いておきたい。

 堺利彦は1903年(明治36)にベラミーの『百年後の新世界』を抄訳しており、今日的には19世紀のアメリカにユートピア小説があったというのは意外であるようにも思えるが、メイデイも1886年にアメリカで起きた8時間労働を要求するストライキの際、ヘイマーケット事件の冤罪で死刑になった労働者を憲章して始まった世界的な労働者の祭典であるし、19世紀後半から20世紀の初頭にかけてのアメリカは労働運動の盛んな時代だったのである。
 当時のアメリカは、南北戦争以降の60年間にそれまでの農業国からイギリスをしのぐ工業国へと大発展しており、鉄道、鉄鋼、石油といった新しい産業を中心に「トラスト」と呼ばれる巨大な株式会社ができて、産業を支配していった。ロックフェラーのスタンダード石油や、J.P.モルガンのUSスチールといったトラストは国内市場や外国貿易を独占し、寡占化にともなって倒産した独立自営の小企業主たちは賃金労働者となったりした。また、南欧東欧からの新移民が激増して、アメリカの人口は1860年の3100万人から、1910年の9200万人へと3倍増し、言葉の不自由な新移民は都市のスラムに住んでスウェット・ワークして、工業化の底辺を支えていた。
 1892年にはカーネギー製鋼会社で、1894年にはブルマン車輌会社で大きなストライキが起こった。ベラミーの『かえりみれば』が出版されて、多くの読者を獲得していったのもこの頃であろうか。1892年にはPopulist Party(人民党)結成され、Populist movementとよばれる反独占闘争を行い、1901年にはアメリカ社会党が結成されて急速に支持を拡大していった。アメリカに社会主義政党などあったのかと思うが、アメリカ社会党は、1912年の大統領選挙では総投票数のほぼ6%に当る票を獲得し、党員数は13万5000人に達し、これは最大のイギリスの社会主義政党である独立労働党の6倍に上ったという。
 労働組合運動では、WASP系の熟練工を中心にした職業別労働組合であったAFLは、高い組合費による共済制度をもっていたが、非定住型の労働者や新移民の非熟練工が起こしたストライキに対しては冷淡であった。そこで、中西部の鉄道や鉱山や森林や農園で働く労働者や、東部の工場で働く新移民の非熟練工を組織するために産業別労働組合の必要性が提起されて、AFLを脱退した一部の組合や社会主義者が集まって、1905Wob年にシカゴにおいてIWWが結成されたから、幸徳秋水が接触したのはまさにその頃であった。
 IWWの研究家である久田俊夫氏の『妖怪たちの劇場』(厳松堂出版1999)によれば、IWWの革命的労働運動は、「アメリカの伝統に忠実で、典型的にアメリカ的な抵抗運動」であり、「それはまさしく貧困に喘ぐ多くのアメリカ人の『もう一つのアメリカの夢』」であり、「アメリカという新興国が、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、一方で急激に経済発展を遂げて、他方で経済的弱者を見殺しにしたので、弱者であった労働者は、作業現場で一斉蜂起する外なかった。それゆえ、IWWの運動は“政治に頼らない”草の根の労働運動であった。彼らは、唯一の特権であった“身動き自由な”境遇を生かして、“本能のままに”蜂起したにすぎない」、「彼らは、産業の統帥すなわち大富豪とは対極にあって、『アメリカの夢』とは無縁であったが、彼らもまた、当時のアメリカ社会における典型的なアメリカ人であった」ということで、IWWが幸徳秋水に影響を与えたということについては否定はしないが、肯定的ではない。
 ついでに『もう一つのアメリカの夢』とは何かを考えるに、それはベラミーの描いたユートピアへの共感が「ナショナリスト・クラブ」という国民主義的な運動になったように、1820年代にトクヴィルの見た「階級のない平等なコミュニティ」、建国時のアメリカの原風景への回帰願望とでもいうものだろうか。トクヴィルが見た「階級のない平等なアメリカ社会(コミュニティ)」というのは、南北戦争後にはアメリカ資本主義の急速な発展によって、アメリカ人の郷愁の彼方に消えていった。ヨーロッパや日本の社会主義運動の中でかかげられた「普通選挙制度」などは、アメリカでは既に実施されていたから、アメリカの労働運動の目的は、AFLのようなより豊かになるための権利の獲得か、IWWのような「より以前にはアメリカに厳として存在していたと広範な人々によって信じられていた経済的個人主義と政治的民主主義とを国民の手にとり戻そうと努力すること」(レンショウ『ウォブリーズ』年社会評論社1973)であったのであろう。それは、アメリカ流のサンジカリズムであろうか。それから100年の後、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、グローバリゼーションのすすむ『帝国』の時代における変革の主体としてのマルチチュードの先例として、IWWを再発見している。
 IWWの運動は、「ホーボー」と呼ばれた放浪者や、英語の話せない移民労働者や黒人までを組合員にして、一瞬でも輝きながらも、弾圧でわずか20年足らずで壊滅してしまった。「ホーボー」という言葉は日本語の「方々」から来たという説があるくらい、当時のアメリカには仕事を求めて放浪する日本人が多かったようである。しかし、ウォブリーと呼ばれたその活動家たちは伝説となって語り継がれ、ホーボー・ソングと呼ばれる労働歌はやがてフォークソングやロックミュージックになり、対抗文化運動の中で歌われるようになる。サンフランシスコは対抗文化運動の聖地であり、オークランドは古くはアメリカの社会主義者で作家のジャック・ロンドンを生んだ地であり、1960年代にはヘルズ・エンジェルズからブラック・パンサー党を生んだアメリカでも筋金入りの対抗運動の地である。
 1998年に法制化された日本のNPOも、1990年代の初頭に日本にアメリカにおけるNPOの存在と活動を知らせる活動をしたのも、オークランドにあるJPRN(日本太平洋資料ネットワーク)という日系のNPO団体であった。ここの活動家であった柏木宏氏や岡部一明氏は、日本をはみ出した留学生みたいなものであったが、日本にそれを伝えようとする熱意の背後には、かつてのオークランドの地における先人たちの霊があったのかもしれない。
 少し回り道をしてしまった。元にもどる。

 アメリカでの交流と経験は、幸徳秋水に新しい労働運動のイメージを垣間見せた。幸徳秋水は、「米国は、決して自由の楽土に非ず。若し楽土なりとせば、其は唯だ金を持てる人の楽土のみ、・・然り二十世紀の革命は経済的革命也、苟しくも貧富懸隔のある所、革命の怒濤は必ず来らんとする也」と書き、さらに社会主義運動の中にある二つの傾向について、以下のように書いた。
 「近時、米国社会党中、其運動政策に関して二派の議論闘はされつつあり、一は主として殊に独占的事業のパブリック、オーナシップ(国有若くは市有)を提げて選挙場裡の武器となさんとし、他は純乎たる社会主義の理想を以て旗幟となさんとする者也。・・・後者は曰く、今の所謂国有市有は賃銀制度を廃絶する者に非ずして、単に政府若しくば自治体てふ資本家を以て、私人の資本家に代ふるに過ぎず、社会主義は根本より賃銀制度を廃絶するを主張す、今日の制度の下に国有市有を賛するは、是れ社会改良家、国家社会主義に向つて譲歩する者也と。・・・此両者の争ひは今後益々盛なるを致すべし・・是れ我等日本人社会党の大に研究を要する問題にして、僕は我等日本人社会党が将来斯る意見の相違の為に争訌し分離するが如きことなからんことを祈る。然れども僕をして二者其一を揮ましめば、僕は理想的、革命的、急進的ならんことを欲す、微温的社会主義、砂糖水的社会主義、国家的社会主義を好まず」と。
 この問題は、まさに秋水帰国後の日本で大問題となるものである。1906年4月18日にサンフランシスコに大地震が起こり、それを体験した幸徳秋水は、「無政府共産制の実現」という以下の短文を書いた。
 「予は桑港今回の大変災に就て有益なる実験を得た、夫れは外でもない、去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は總て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)總て無賃、食料は毎日救助委員より分与する、食料の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼跡の片付や、避難所の造営や、總て壮丁が義務的に働く、買ふと云っても商品が無いので金銭は全く無用の物となった、財産私有は全く消滅した、面白いではないか、併し此理想の天地も向ふ数週間しか続かないで、叉元の資本私有制度に返るのだ、惜しいものだ」(桑港四月二十四日)と。「国家的社会主義を好まず」の秋水は、異国の地で一瞬サンジカリズムの共和国を垣間見、6月1日にオークランドで社会革命党を結成すると、帰国の途についたのである。

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