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2013年7月 5日 (金)

非凡な凡人山川均の話①

130705前に書いたように、宇野弘蔵が語る山川均は、「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。「山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。同じ「倉敷もん」ならではであろうか、「山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど・・」というあたりに、宇野弘蔵の山川均への思いが交差する。

山川均の生家は、幕末まで郷宿という代官所に来る役人を泊める公認の指定旅館をやっていたが、維新後は没落してしまう。高等小学校を卒業した山川均は東京遊学を希望するが、家が没落してかなわず、姉の嫁ぎ先である同志社出のクリスチャンであった林さんの口利きで、同志社に行くことを親に認めてもらう。同志社ではボート部に所属して琵琶湖を漕ぎまくる一方、読書についてはトルストイやカーペンターから強い感銘や印象を受けたとある。そして、授業に教育勅語が導入されたことに反発して、同志社を退学してしまう。それから東京に出て来て、学籍のない放浪学生をしながら、やがて知り合った守田有秋と「青年の福音」というキリスト教のパンフレットを出版するのだが、これに守田が大正天皇のご成婚について「人生の大惨劇」という文章を書いて不敬罪となり、20歳から3年半の獄中生活を送ることになる。

山川均は、後に知り合う幸徳秋水や堺利彦よりは一回り若い。しかし、入獄においては先輩である。そして宇野弘蔵が、「山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど・・・それは性格的にそうだと思う」と語る山川均の性格は如何にであるかを考えるに、革命家というよりは探究心とこつこつと勉強するその凡人的なスタイルではあるまいか。一方、筆禍で何度も入獄を繰り返しながらも、山川均には大杉栄的な戦闘的な派手さはない。山川均は、最初の獄中生活期に経済学を勉強する。差入れされた本の中には、英訳の『資本論』まであったそうだが、入獄中はまだそこまでは手を出さない。そして、1904年(明治37)6月の出獄の日、差入れされたものの「看読不許」となっていた『週刊平民新聞』の創刊号をみつけた山川均は、岡山に帰る前に、数寄屋橋にあった平民社に立ち寄っている。

故郷に帰ってからの山川均は、義兄の林さんの営む薬局の手伝いなどしながら、旧友の大原孫三郎から『エンサイクロペディア・ブリタニカ』を借りて勉強する。山川均の入獄中に本の差し入れを行ったのは義兄の林さんであり、山川均の幼友達で後に中国地方の財閥になる大原孫三郎は、山川均の入獄中に面会にも行っている。前にも書いたように、宇野弘蔵は山川均の義兄の林さんの世話で高野岩三郎の娘さんと結婚し、その仲人を山川均の幼友達の大原孫三郎がやった訳で、そこには宇野弘蔵の言う「倉敷もん」の世界がある。義兄の林さんは、不敬罪で裁判にかけられた義弟を救おうと、山川均が発揚性鬱憂犯であるとしようとしたのだが、「山川均は自ら刑に就き、それを聞いた林さんは自らの日記に以下のように記している。
「法廷に立ちて沈毅たり、鉄窓によりて平然たるものは、心中一点の信念、付して地に恥る所なきを以ての為なり」、「獄に下りたる後、その求むる所は社会経済に渉るの書、思うに之れ、彼が他日の志を成さんが為めの勉学ならん」、「富貴は彼の求むる所にあらず、功名亦彼れに期すべきにあらず。彼の成さんとする所は他にあらん」、「彼れが成さんと欲する所のものは、一身を捧げて社会のために貢献せんとするにあらん」と。

出獄後の山川均が岡山で薬局の手伝いをしていた頃、平民社を中心にした日本の社会主義運動は『平民新聞』や平民社発行のパンフレット類の「伝道行商」によって、すこしずつ地方にも伝えられ、岡山にも森近運平によって社会主義の小グループができた。そして、山川均は、「現在の生活は、もはやこれ以上つづけてはならない」と思うようになる。1906年(明治39)1月に それまでの抑圧的な桂内閣から西園寺内閣に代わると抑圧は緩和され、2月に「国法の範囲内において社会主義を主張する」とする日本社会党結党が結党されて、山川均は入党する。問題は、「ここを飛び出しても、どうして生活するのかという」ことであった。そこで、山川均は当時アメリカに渡っていた幸徳秋水に渡米希望の手紙を書くと、幸徳秋水からは「アメリカなんか来るところじゃない」という返信があったのだが、やがて帰国した幸徳秋水は『日刊平民新聞』の発行をすすめ、編集委員に山川均を誘う。1906年(明治39)12月に倉敷を立った山川均は、新橋につくと、その足で築地新富町の平民社をたずね、そこではじめて堺利彦と会う。

幸徳秋水と堺利彦は、1903年(明治36)に、日露戦争に反対して萬朝報を辞めたが平民社を立ち上げ、週間の『平民新聞』を発行したが、創刊1周年の1904年(明治37)11月に『共産党宣言』掲載して発行禁止になり、それを引き継いだ週刊『直言』も1905(明治38)10月に発行禁止となり、平民社は解散する。筆禍で入獄した幸徳秋水は、出獄後アメリカに渡る。一方、堺利彦は1906年(明治39)2月に日本社会党結党を結党、生活のために自らの出版社である由分社から『家庭雑誌』を再刊。さらに由分社から月刊『社会主義研究』を出して、『共産党宣言』の全訳や『空想から科学へ』を載せ、W.モリスの『News from nowhere(ユートピア便り)』を『理想郷』と題して抄訳出版したりした。『平民新聞』では発行禁止とされた『共産党宣言』を全訳出版できたのは、月刊『社会主義研究』を「研究誌」としたからであったが、これも経営難のために5号で廃刊になった。

再刊された『家庭雑誌』というのは、堺利彦が1903年(明治36)4月に「社会主義は、まず家庭に於いて実現し発達させねばならないという思想」として立ち上げた雑誌で、当時堺利彦は既に萬朝報の社員ではあったが、妻や子が大病をしたために萬朝報からの給料だけでは食えず、兼業的に発行したもので、生活と家庭を基盤にした社会主義からの出発という堺利彦の原点がそこにある。1898(明治31)年に社会主義研究会を起こして、日本に社会主義を紹介したアメリカ帰りの留学生たちは、その後教職につくことによって職を得られた。しかし、幸徳秋水や堺利彦、山川均といった高等教育を終了せず、かつ社会主義運動を自らの生き方とした人たちは、自ら職を起こして食うしかなかった。1906年(明治39)9月に、大杉栄が堺利彦の義妹の堀保子と結婚すると、堺利彦は『家庭雑誌』の経営を大杉栄に譲っている。これも大杉栄夫妻の生活を支えるためであり、その後の『近代思想』の刊行など、大杉栄も出版でしのぐのである。

1906年(明治39)2月に誕生した日本社会党の評議員になた堺利彦は、3月に電車賃値上げ反対運動を起こす。この時、進路を決めかねていた大杉栄は初入獄して、そこで生涯の進路を決める。電車賃値上げ反対運動は8月頃までつづき、その頃に堺利彦はその前年に夏目漱石が出した『吾輩は猫である』の読後感を漱石に書き送る。堺利彦は夏目漱石がよほど気に入ったのか、『家庭雑誌』の1906年(明治39)7月号には、「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と書いている。そして、そんな噂を聞いて漱石を心配した人が、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってきたのだが、それに対して漱石は、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書いた。W.モリスへの関心も含め、堺利彦と夏目漱石の間には共感があったものと思われる。(つづく)

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