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2013年6月18日 (火)

宇野弘蔵と山川均

宇野弘蔵は『「資本論」五十年』の冒頭の語りだしで、大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文の添えられた「社会主義鳥瞰図」を示す訳だが、それが意図したことは何かと考えるに、そこに宇野弘蔵の社会主義観の原点があったからであるように思われる。宇野弘蔵は「社会主義というのは・・恐ろしいものだと思っていた。ところが堺さんの一覧図を見ると・・ぼくははじめて社会主義というのはこういうものかと思ったんだな。つまり個人主義、それから国家主義、国家社会主義、社会主義、共産主義、こういうものが並んでいる。こういうものかと思って、初めて社会主義なるものに興味をもって、それで大杉のものに特別の興味を持つようになった」と語る。宇野弘蔵が『生の闘争』を読んだのは、中学5年の頃であったという。

宇野弘蔵の実家は本屋をやっていて、『生の闘争』はたまたま店にあったから読んだようであるが、高梁中学時代の友人の西雅雄から教えられて、その頃はまだ無名であった石川啄木を読み、その流れで高校に入ると土岐哀果を読み、高校2年の頃に土岐哀果の文芸的社会主義雑誌『生活と芸術』の叢書として出された大杉栄の『労働運動の哲学』を読んだようである。これが宇野弘蔵のサンディカリズムとの出会いであり、大杉栄が「労働者のエネルギーを説くところは、非常にわかりやすかった」という。ほかにも、中学生の頃からの宇野弘蔵の読書暦は多彩である。中学時代には徳富蘆花や国木田独歩、高校時代にはクロポトキンやリッケルト、萩原朔太郎や有島武郎やドフトエフスキーを愛読したという。マルクスについては、高校時代に西雅雄から『新社会』を教えられ、『新社会』でカウツキーの『資本論解説』を読んで初めてマルクスを知り、「高等学校の後半にぼくは『資本論』をどうしても知りたいと思うようになった」という。

しかし、大学に入ってからも宇野弘蔵は「サンディカリズムとしての社会主義を知っているだけ」で、マルクスがどんなののかはほとんど知らなかったという。アナルコ・サンディカリズムの魅力について、宇野弘蔵は「つまり労働者の中のエネルギーが自然発生的に社会改造の新しいエネルギーと思想を展開してくるという考え方です」と説明する。そして大学に入ると、そこには権田保之助というサンディカリズムの煽動者がいて、権田保之助の研究会で宇野弘蔵がサンディカリズムの報告をしたら、大いにほめられたという。

余談だが、当時、権田保之助はモリスに興味をもっていたそうだが、早稲田中学の生徒だった頃から『平民新聞』を配ったりした早熟の人で、早稲田中学では安部磯雄の教え子であり、騒動を起こして早稲田中学を辞めた後は外国語学校に入って、そこでは櫛田民雄といっしょになり、高野岩三郎に呼ばれて櫛田民雄とともに東大の助手になったようである。大学時代は美学を専攻して、その時の先生は夏目漱石の友人の大塚保治であったという。さらに余談を書けば、大塚保治の妻は大塚楠緒子、1910年に楠緒子が早死すると、漱石は「有る程の菊なげ入れよ棺の中」の句をたむけている。大学卒業後に大原社会問題研究所に入った宇野弘蔵は、権田保之助の下で調査仕事を手伝っている。

当時、サンディカリズムは労働運動の有力な思想であり、堺利彦や山川均がそうであったように、マルクス主義者であることとサンディカリストであることは矛盾することではなかった。これが分岐するのは、ロシア革命が起こって後のことあり、宇野弘蔵が言うように、「堺さんや山川さんたちはボルシェビジムより前からマルクス主義者であった」訳である。山川均は1907年に「マルクスの『資本論』」という研究資料を『大阪平民新聞』に連載している。ネタ本はモリスとバックスの共著『社会主義』である。ロシア革命が起こるまで、堺利彦も山川均もレ-ニンを知らなかった訳で、ロシア革命以降に振って沸いたコミンテルン系左翼からは、遅れた社会主義のように否定される訳であるが、逆にそうであったが故に、堺利彦と山川均の社会主義は堺の言う「正統なマルクス主義」であれた訳である。

赤旗事件によって千葉刑務所に入獄した山川均は、そこでフランス語の勉強をして、フランスのサンディカリズムを知ろうとする。大逆事件後の冬の時代をしのいだ後に、再登場した山川均が『新社会』に載せだした社会主義論のベースにはサンディカリズムがあって、1918年の「立場立場からの政治運動と経済運動」にはこう書かれている。
●「ところで経済運動とは何ぞやといえば「ゴムパースからヘイウッドまで」を含む労働運動である。近来ゴムパースのA・F・Lは著るしくヘイウッドのI・W・Wに接近したということである。・・・ドイツのことなど詳しく知らないが、多くの人の話によれば、社会党堕落の原因はただただ多くの投票を掻き集めんとしたる為だということである。・・・これに対する対案として現われたのが、議会政策の社会党と同じく、資本制度の撤廃と、階級的自覚の上に立ちつつ経済運動を主張する労働組合主義である」と。

また、1919年前後に書かれたと思われる「国家社会主義と労働運動」とにはこう書かれている。
●「マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。・・・賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である」と。

これらの論の背景には、当時の売文社内で国家社会主義を唱えだした高畠素之への批判がある。そして、そこでは国家社会主義への批判の論拠として「労働力の商品化」をあげ、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」としている。サンディカリズムは「労働力の商品化の廃止」としての社会主義につながる思想であると思うところ。宇野弘蔵は、『「資本論」五十年』の時でさえ、「ぼくには思想的にはやっぱりサンディカリすティックなものが残っているかもしれない」と語っている。そこには、堺俊彦の「社会主義鳥瞰図」にインスパイアされ、『資本論』を知った後でもサンディカリズムと『資本論』は無理なく受け入れる柔軟な思考と、「社会主義にしてもその解決するものの限度を知ることが大切なのではないか、科学的理論としては」(p83)と語る含蓄がうかがえるのである。

山川均について宇野弘蔵は、以下のように語っている。
●「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。
●「(ぼくは)ああいうことはできない。らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。

向坂逸郎が聞いたら怒りそうな言だが、実際に『「資本論」五十年』を献本された向坂逸郎は、宇野弘蔵を批判するようになり、この辺りは前にも書いたとおりである。

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