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2013年6月 4日 (火)

宇野弘蔵と向坂逸郎

1012先週末は雨との予報だったから、図書館から石河康国『労農派マルクス主義』を借りてきて、家でごろごろしながら上下巻で800ページを一挙に読んだ。この本の上巻は戦前の労農派の通史になっているが、下巻は戦後の向坂社会主義協会史で、最後は新社会党で終わる。民権運動をくぐって平民社に生まれた日本の土着社会主義、堺利彦に始まる労農派が、最後はほとんど知られない新社会党に収斂してしまうのははなはだ寂しい限りで、戦後の向坂社会主義協会史ならともかく、それでは労農派を語るところではないと思うところ。

少ないページだが、下巻の宇野弘蔵と宇野派についての批判には、著者のこだわりが感じられる。そして、そこから改めて感じられたことだが、堺利彦と山川均以降の労農派にとって、やはり宇野弘蔵と向坂逸郎はキイマンになるということである。

宇野弘蔵と向坂逸郎は東京帝国大学経済学部で3年間いっしょに学び、しじゅう行き来して語り合ったという。1921年に大学を卒業すると、宇野は大原社研に入所し、向坂は東大の助手になり、同じ頃にドイツに留学して二人とも『資本論』を勉強し、そこでも語り合ったという。もっとも宇野弘蔵によれば、いつも宇野が一方的に語っていたようであり、向坂逸郎はせっせとマルクス主義文献を買い集めては読んでいたようである。向坂逸郎は『流れに抗して』に「私は勉強家の宇野君からたくさんの刺激を受けました」と書いている。良き友であり、出し抜こうとするほどの良きライバルであったのであろう。

帰国後、宇野弘蔵は東北帝大の助教授になり、向坂逸郎は九州帝大の助教授になった。向坂逸郎は、1926年にはには教授に昇進し雑誌『労農』の同人になるが、1928年に九州帝大教授を辞任させられ、1930年代の日本資本主義論争では、講座派と比べれば学者の少なかった労農派で論客として活躍した。向坂逸郎は、戦後も山川均と社会主義協会をつくって行く。向坂逸郎にとってマルクス主義のキイワードは「理論と実践」であった。

一方、学生時代に宇野弘蔵は向坂逸郎よりも早く山川均を訪ね、非常に近い同郷のよしみを感じるが、『労農』に参加することはなかった。実践については、当初はどちらかと言うと、コンプレックスを持っていたかもしれない。そして、日本資本主義論争においては、仙台にあって、大原社研における先輩の櫛田民雄と親友の向坂逸郎が奮闘するのを見ながら、1935年に「資本主義の成立と農村分解の過程」を書き、後の段階論につながる視点を提起し、1936年には『経済政策論・上』を出版した。

そして1937年12月の人民戦線事件で大森義太郎や向坂逸郎、1938年2月の教授グループ事件で大内兵衛や宇野弘蔵も逮捕され入獄した。宇野弘蔵にしてみれば、自分は労農派ではないのにと、割り切れないものもあったと思われるが、権力からすれば、人民戦線事件で逮捕した者全員が労農派であって、大内兵衛も宇野構造も労農派なのであった。

大内兵衛も自分は労農派ではないと言うが、労農派の学者グループを育てたのは大内兵衛である。宇野弘蔵と向坂逸郎は、東大の1年生で森戸辰男からドイツ語を習い、2年生では権田保之助からサンディカリズムやモリスを聞かされた。そして森戸事件が起こると、向坂逸郎は学生大会を開いて大内兵衛と知り合い、東大の助手になってからは大森義太郎や有沢広巳と懇意になったという。一方、大原社研に入所した宇野弘蔵は、そこで森戸事件で東大から大原社研に移った森戸辰男や櫛田民雄、権田保之助といっしょになる。ついでに書けば、そこで宇野弘蔵は大原社会問題研究所の所長である高野岩三郎の娘と結婚し、その仲人は山川均の幼友達で日本のロバート・オウエンと言われた大原孫三郎であった。

東大に経済学部をつくり、大内兵衛を育て、櫛田民雄や権田保之助を呼び、森戸事件後は大原社会問題研究所をつくったのは高野岩三郎である。高野岩三郎はマルクス学者ではないが、その兄は日本で初めて労働組合を立ち上げた高野房太郎であり、その兄の志を受け継いで生きた。東大を休職になった大内兵衛も大原社研に世話になる訳だが、やがて東大に復職した大内兵衛の門下には、土屋喬雄、有沢広巳、大森義太郎、山田盛太郎、脇村義太郎、高橋正雄、阿部勇、美濃部亮吉といった学者が育った。そして以上の人々が、所謂労農派系の学者グループを形成し、戦後にも引き継がれる訳である。

戦後、宇野弘蔵と向坂逸郎は『資本論』の研究会を始める。また、山川均は社会主義協会をつくり、そこは社会党左派系の思想・研究団体として労農派系の多くの学者たちを再結集し、山川均が亡くなった後は大内兵衛と向坂逸郎が代表になる。宇野弘蔵は雑誌『唯物史観相』に寄稿する程度だが、宇野弘蔵門下の若手の学者たちは社会主義協会に参加する。しかし、宇野弘蔵が『「資本論」と社会主義」を出した頃から、宇野弘蔵と向坂逸郎の間には隙間風が吹き出し、やがて批判し合うようになる。(※もっとも、仙台ヒデさん曰く「会えば抱き合う仲」であったとのことだが。)

向坂逸郎からすれば、社会主義と『資本論』の理解にとって大切なのは理論と実践の統一であり、量から質への飛躍という弁証法的認識であり、階級性やイデオロギーであり、平和革命の必然性であり、それらは謂わばエンゲルス流のマルクス主義理解である訳なのだが、宇野弘蔵にとってそれらは『資本論』とは何の関係もないものであった。

石河康国『労農派マルクス主義』下巻は、宇野弘蔵と向坂逸郎の関係が伏線になっている。それは向坂協会にとって、社会党内で60年代に社会主義協会がつくった「日本における社会主義の道」の路線が70年代に見直され、「参加・介入路線」という社会民主主義路線にとって代わられた背後には、反協会系が宇野派を利用したという思いがあるからだろうか。石河康国は、こう書いている。
「協会内部に波紋をおこしたのが理論センターの陣容である。大内力ら自主管理社会主義グループと、協会員であった鎌倉孝夫、福田豊、田中慎一郎らを結びつけるのに、かつて協会で活躍した大内秀明(東北大学教授)を大内力の次の理論センター座長に据えるなどは、学者の内部関係にも通じていた者の知恵である。・・・そして決定的となったのは社会党理論センターの勉強会に、福田豊らが参加しはじめたことである」と。

宇野弘蔵は1977年に亡くなり、向坂逸郎は1985年まで生きるのだが、向坂逸郎の最後の仕事は宇野派批判であったという。向坂逸郎は『流れに抗して』に以下のように書いている。
「私は勉強家の宇野君からたくさんの刺激を受けました。・・・私は生涯を通じて、宇野君から理論的刺激を受けるでしょう。しかし、三〇歳前後から、宇野君のわたしにたいする刺激は、多くは消極的なもので、マルクシズムは宇野君の考えるようにあってはいけないという面からくるものでした。これは決して皮肉ではありません」と。

おそらく宇野弘蔵にあっても、30歳前後から「マルクシズムは向坂君の考えるようにあってはいけない」と考えていたのではあるまいか。と、まあ石河康国『労農派マルクス主義』を読んだおかげで、宇野理論誕生のひとつのルーツに思い至った訳である。そして、石河康国の書く「大内秀明を大内力の次の理論センター座長に据えるなどは、学者の内部関係にも通じていた者の知恵である」については、先日、曽我祐次氏から話をうかがったのは、その辺りの話を聞くためでもあったのだった。

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