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2013年6月 8日 (土)

宇野弘蔵と福本和夫

宇野理論のルーツ探しで、前回は宇野弘蔵と向坂逸郎の関係から考えてみた訳だが、向坂逸郎とは「いつもしゃべるのはぼくの方で」という関係であったようで、いっしょにベルリンにいた時も、「彼は自分の読んでいるものをあまり話さない。そういう性質ですよ。ぼくは読むとすぐ話すのだが・・」(宇野弘蔵『資本論五十年』上巻)だったそうである。

宇野弘蔵は向坂逸郎よりも1年早く帰国するのだが、帰国する船で同じく留学から帰国する福本和夫と乗り合わせ、福本和夫とはけっこう議論をやったようである。『資本論五十年』には、「はじめは1日か2日ずいぶんやった」、「(議論の焦点は)唯物史観と経済学の関係だな。・・彼は唯物史観を絶対のようにいっていた。・・もともと唯物史観と経済学の関係との関係についてぼんやりとした疑問をもっていたので、そういう疑問を言ったように覚えている」とある。

さらに宇野弘蔵は、「ぼくは東北大学へ行ってから間もなく福本君の論文を読んで関心した。これはたいしたもんだなと思った」、「たとえば『資本論』1巻、2巻と3巻の関係というようなことはそれまでぼくは明確には理解していなかったし・・福本君が2巻と3巻とは論理段階が違うんだというのをきいて驚いたのだ。これは後までぼくにとっては大事なヒントとなったわけだ。内容はたいしてなかったように思う」と語っている。

福本和夫は、帰国後に「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか、我々はいまそれのいかなる諸過程をを過程しつつあるか」を書いて山川均を批判、「結合の前の分離」を唱えて共産党の理論家ととしてはなばなしくデビューし、「福本イズム」旋風を巻き起こした人。3.15事件で入獄、14年間非転向で戦後の一時期は共産党に復党、獄中以来ライフワークの『日本ルネッサンス史論』ほかを書いた。ドイツ語の「エントフレムドゥンク」を「疎外」と訳した人でもある。

宇野弘蔵によれば、福本和夫は「戦後うちにときどき来たけど、やっぱり一人で大いにメートル上げて帰っていくよ。(笑)」と語られる訳だが、『資本論五十年』で自らが論じられたことに対して、福本和夫は「宇野理論の次元で論じられては」と宇野弘蔵に電話で抗議をしたという。

この話は、福本和夫から「苦楽をともにした25年来の友人」とされた石見尚氏の『福本和夫』(論創社1993)に書かれている。石見尚氏は、戦後に福本和夫と共に活動した人で、私的には日本最高の協同組合理論家と言える人である。石見尚氏は宇野理論について、以下●のように書いている。

●福本和夫は、宇野弘蔵の資本論研究を、労農派の学者のなかでは異色の業績として評価していた。・・・宇野はスターリン論文に異を唱えた少数の学者の一人である。1960年頃、福本と宇野の長く途絶えていた友好は再び結ばれた。しかし福本は・・それがマルクス主義であるとはけっして認めていなかった。・・・
 宇野の経済学方法論の「原理論、段階論、現状分析」は、福本がかつて『経済学批判の方法論』(1962)で展開した資本論の構成分析と表面的には共通性がある。資本の内在的運動の抽象理論と資本の現実的運動の研究のために、福本が下部構造への下向と上部構造への上向と言うところを、宇野の言葉では、原理論、段階論、現状分析と言うのかと、一読した最初はそう思う。しかし、両者の間には、重大な点で大きい相異がある。
 宇野の「原理論」とは、純粋な経済過程の抽象理論であり、その設定のうえになされる「段階論」は資本主義の発展段階による原理の修正の研究であり、経済学研究の究極目標として設定される「現状分析」は、原理論、段階論を媒介として、法律学、政治学などの他の社会科学とも協同できるとしている。それは、マルクス経済学の基礎的原理を直ちに現実の実践に当てはめる粗雑な観念的方法にたいして、分かり易く方法を解説するには適している。しかし、それはどこまで行っても、経済過程の客観的解釈に終るのであって、この学風からは、マルクスが指摘した世界の変革のための主体的な理性が生まれない。この点、福本の苦心は、経済過程に純化した研究からいかに脱皮するかの論理の確立にあったのである。(石見尚『福本和夫』p65-67)

●福本と私はソ連社会主義が、マルクスのいう資本法則を実質的に揚棄した経済であると考えたことは夢にもなかった。スターリンが樹立したのは、官僚的国家資本主義であると考えた。そのために、生産力的に停滞ないし破綻がおこる可能性を指摘していた。生産意欲の低下を党と国家の強権で補い、また官僚的非能率を市場経済の導入と価値法則の利用、利潤導入で刺激しようとしても、それらは揚あたり的な政策にすぎない。本質的にはマルクス主義による社会主義を始める王道しかほかに方法がないのである。・・・一言で言えば、中央集権的国家――共産党と政府の癒着――による官僚的支配を徹底的に民主化すること、工場の一部と農場を民主制と自主性のある生産協同組合に転換すること、単純な市場経済への復帰ではなく、所有と利用の不公正を社会的に是正することを合む協同組合制市場へ移行すること、経済の社会的公正を誘導するため権力の地方分権と自治の強化、福祉と環境と健康と完全雇用を指標とするグリーン混合経済への移行を経過点とすることである。(前掲書p71)

●宇野理論の、原理論、段階論、現状分析という区分けは、結局、歴史の変化の後追い的解釈に終始することになるのではないかと言う印象をうけた。その解釈は緻密であっても、マルクスの弁証法的唯物論の主体的認識論とは違っている。宇野理論は朱子学だというのは、実践をとおした主体形成的認識のない学風を指すものである。福本和夫は労農派では、宇野弘蔵の資本論研究を評価していたが、けっして満足してはいなかった。(前掲書p109)

福本和夫は山川均や労農派を批判したが、1926年の第2次共産党設立時には、明治維新については「不十分ではあるがブルジョワ革命」として認めていたという。それが27年テーゼでコミンテルンから批判され、、獄中で『日本ルネッサンス史論』を構想し、戦後それを書きつづけることになる。戦後の捕鯨やフクロウや北斎の研究も、その一環であった。1957年には晩年の山川均を訪ね、翌年には宇野弘蔵とも再会する。1983年に89歳で長寿を全うする訳だが、亡くなる前に「自分はもう書くことができないから、あとを頼む」と石見尚氏に言ったという。

1970年代の半ばから生活協同組合で働き出した私は、70年代の後半のある日、「日本ルネッサンス研究所」に石見尚氏を訪ねた。当時、私は下町の小さな地域生協で働きながらSP(社会党)の活動をやり、地域の労働運動にも顔を出していた。その頃、下町の労働運動では倒産した企業の自主生産闘争が盛んであって、そこでは生産協同組合が語られていた。そして石見尚氏は、その数少ないと言うか唯一の理論家であったからである。1977年に出版された石見尚氏の『協同組合新論』(家の光協会)には、以下のようにあった。

●協同組合は事業の効率性から見れば大規模がよく、組合員の参加のしやすさの観点にたてば小規模が優れるのである。社会的市場経済に対応して、協同組合の機能が国民経済的範囲をカバーすることを求められてくると、効率性と民主制との自家撞着が表面化してくるのである。・・本書の研究の主題である分権化された生産協同組合を基本とする協同組合的生産様式に発展しないかぎり、最終的には解決しないであろうと思うが、いかがであろうか。市場調整型の協同組合では単位組合で人的結合体としての民主主義を強化し、連合会で経済的効率性を実現するという補完関係を形成するというのが、せいいっぱいの限度であろう。

そして、これを読んだ私は「福本イズム」ならぬ石見理論にストンと落ちたのであった。1980年代初頭の生協状況は、数の上では共産党系の主流派が圧倒的で、ほかに構造改革系の生活クラブ生協と、私のいたSP系の小さな生協群がわずかにあって、主流派はどんどん拡大し、石見尚氏ほかをイデオローグに持っていた生活クラブ生協はワーカーズ・コレクティブをはじめ多様な運動を展開していたが、SP系には理論も運動もほとんどなかった。

80年代半ばのある日、私のいた生協のボス(理事長)が「我々も生協運動の研究会をつくろう」と言いだして、私はその事務局をやることになった。研究会の座長は、SP、労農派系の高木郁朗氏と田中学氏にお願いし、私は両先生に相談して研究会の講師に、当時SPの理論センターに集まっていた大内秀明氏や新田俊三氏、それに大内力氏などを招き、さらに石見尚氏もお招きしたのであった。

大内力氏は70年代からSP内で「自主管理研究会」を始めていたし、その後のSPの理論センターでは「中間組織」が語られていたし、私はその「中間組織」に生産協同組合を入れられないかなと思ったところであったし、そういうものとしての協同組合運動をつくりたいと思ったからであった。

余談だが、ある時、生活クラブ生協に関心を持った私は構造改革論を勉強しようと、飯田橋にあった現代の理論社に安東仁兵衛氏を訪ねたことがあった。安東氏は大いに喜んでくれて、「これを読みなさい」と言って、何冊もの本をくれた。その後、上記の生協運動の研究会の「報告書」をまとめると、それを安東氏にも送ったのだったが、その後安東氏とお会いした時に、それを大いにほめられた。90年代の後半に安東仁兵衛氏から「丸山真男研究会」の案内をいただき、私は会員になった。丸山真男に関心はなかったが、安東仁兵衛氏には大いに惹かれたのであった。しかし、私が生協を辞める頃、私は安東仁兵衛氏の訃報を聞いたのだった。

80年代から、私は石見尚氏に私淑していっしょに研究会活動をやり、協同組合について多くを学んだ。しかし90年代に入ると、私は生産協同組合だけではなくて他の非営利企業、とりわけアメリカのNPOに関心を持つようになった。市場否定型の組合よりも、市場適応型のNPOだと思った訳で、協同組合を中心にした「協同組合共同体」よりも広い、アメリカ型のNPOやコミュニティ・ビジネスやSOHOや独立自営型企業も含めた「コミュニティ」について考えだした訳である。そして、石見尚氏とは少しずつ距離ができていったのだった。

最初はそんなことを意識していた訳ではなかったが、『協同組合新論』は「生産の社会的性質と生産手段の矛盾の解決」としての生産協同組合論である。2000年に生協の関連会社勤めを辞めた私は、大内秀明氏が所長をしていた中小企業研究所のスモールビジネス研究会に参加し、やがて仙台に通って宇野理論の恐慌論や労働力商品論を学ぶようになった。石見尚氏が『福本和夫』に書くように「福本の経済史と宇野経済学は違う」と思うところで、「労働力商品化の矛盾」の解決としての「コミュニティ」を構想し、その一環としての大内秀明氏の「仙台羅須地人協会」※のお手伝いなどするところである。 ※http://www9.ocn.ne.jp/~kenji827/

130608そして、そのための理論的な整理として、堺利彦と平民社に始まる日本の土着社会主義としての新たな「労農派論」をまとめようとしている訳だが、なんと先月、石見尚氏から「冊子」が送られて来たのであった。お会いしなくなって以降は賀状の交換だけになっていて、「協同社会研究会」を案内する久しぶりの「冊子」には、送られて来たタイミングのシンクロニシィティと共に、それ故にまた感慨深いものがあったのだった。(つづく)

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