« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »

2013年6月18日 (火)

宇野弘蔵と山川均

宇野弘蔵は『「資本論」五十年』の冒頭の語りだしで、大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた序文の添えられた「社会主義鳥瞰図」を示す訳だが、それが意図したことは何かと考えるに、そこに宇野弘蔵の社会主義観の原点があったからであるように思われる。宇野弘蔵は「社会主義というのは・・恐ろしいものだと思っていた。ところが堺さんの一覧図を見ると・・ぼくははじめて社会主義というのはこういうものかと思ったんだな。つまり個人主義、それから国家主義、国家社会主義、社会主義、共産主義、こういうものが並んでいる。こういうものかと思って、初めて社会主義なるものに興味をもって、それで大杉のものに特別の興味を持つようになった」と語る。宇野弘蔵が『生の闘争』を読んだのは、中学5年の頃であったという。

宇野弘蔵の実家は本屋をやっていて、『生の闘争』はたまたま店にあったから読んだようであるが、高梁中学時代の友人の西雅雄から教えられて、その頃はまだ無名であった石川啄木を読み、その流れで高校に入ると土岐哀果を読み、高校2年の頃に土岐哀果の文芸的社会主義雑誌『生活と芸術』の叢書として出された大杉栄の『労働運動の哲学』を読んだようである。これが宇野弘蔵のサンディカリズムとの出会いであり、大杉栄が「労働者のエネルギーを説くところは、非常にわかりやすかった」という。ほかにも、中学生の頃からの宇野弘蔵の読書暦は多彩である。中学時代には徳富蘆花や国木田独歩、高校時代にはクロポトキンやリッケルト、萩原朔太郎や有島武郎やドフトエフスキーを愛読したという。マルクスについては、高校時代に西雅雄から『新社会』を教えられ、『新社会』でカウツキーの『資本論解説』を読んで初めてマルクスを知り、「高等学校の後半にぼくは『資本論』をどうしても知りたいと思うようになった」という。

しかし、大学に入ってからも宇野弘蔵は「サンディカリズムとしての社会主義を知っているだけ」で、マルクスがどんなののかはほとんど知らなかったという。アナルコ・サンディカリズムの魅力について、宇野弘蔵は「つまり労働者の中のエネルギーが自然発生的に社会改造の新しいエネルギーと思想を展開してくるという考え方です」と説明する。そして大学に入ると、そこには権田保之助というサンディカリズムの煽動者がいて、権田保之助の研究会で宇野弘蔵がサンディカリズムの報告をしたら、大いにほめられたという。

余談だが、当時、権田保之助はモリスに興味をもっていたそうだが、早稲田中学の生徒だった頃から『平民新聞』を配ったりした早熟の人で、早稲田中学では安部磯雄の教え子であり、騒動を起こして早稲田中学を辞めた後は外国語学校に入って、そこでは櫛田民雄といっしょになり、高野岩三郎に呼ばれて櫛田民雄とともに東大の助手になったようである。大学時代は美学を専攻して、その時の先生は夏目漱石の友人の大塚保治であったという。さらに余談を書けば、大塚保治の妻は大塚楠緒子、1910年に楠緒子が早死すると、漱石は「有る程の菊なげ入れよ棺の中」の句をたむけている。大学卒業後に大原社会問題研究所に入った宇野弘蔵は、権田保之助の下で調査仕事を手伝っている。

当時、サンディカリズムは労働運動の有力な思想であり、堺利彦や山川均がそうであったように、マルクス主義者であることとサンディカリストであることは矛盾することではなかった。これが分岐するのは、ロシア革命が起こって後のことあり、宇野弘蔵が言うように、「堺さんや山川さんたちはボルシェビジムより前からマルクス主義者であった」訳である。山川均は1907年に「マルクスの『資本論』」という研究資料を『大阪平民新聞』に連載している。ネタ本はモリスとバックスの共著『社会主義』である。ロシア革命が起こるまで、堺利彦も山川均もレ-ニンを知らなかった訳で、ロシア革命以降に振って沸いたコミンテルン系左翼からは、遅れた社会主義のように否定される訳であるが、逆にそうであったが故に、堺利彦と山川均の社会主義は堺の言う「正統なマルクス主義」であれた訳である。

赤旗事件によって千葉刑務所に入獄した山川均は、そこでフランス語の勉強をして、フランスのサンディカリズムを知ろうとする。大逆事件後の冬の時代をしのいだ後に、再登場した山川均が『新社会』に載せだした社会主義論のベースにはサンディカリズムがあって、1918年の「立場立場からの政治運動と経済運動」にはこう書かれている。
●「ところで経済運動とは何ぞやといえば「ゴムパースからヘイウッドまで」を含む労働運動である。近来ゴムパースのA・F・Lは著るしくヘイウッドのI・W・Wに接近したということである。・・・ドイツのことなど詳しく知らないが、多くの人の話によれば、社会党堕落の原因はただただ多くの投票を掻き集めんとしたる為だということである。・・・これに対する対案として現われたのが、議会政策の社会党と同じく、資本制度の撤廃と、階級的自覚の上に立ちつつ経済運動を主張する労働組合主義である」と。

また、1919年前後に書かれたと思われる「国家社会主義と労働運動」とにはこう書かれている。
●「マルクスの経済学説によれば、剰余価値の搾取は、労働力が商品として売られることに基因するものである。・・・賃銀制度は必然に労働力を商品とみなすことを前掲としてのみ、なりたち得るものである。したがって賃銀制度は必然に、剰余価値の生産を意味するものである。そして剰余価値の生産の存続する限りは、労働問題は永久の宿題として存続するに相違ない。そこでこの最後の意味における国家社会主義が、労働問題を解決するかどうかという問題は、必ずしも単に国家社会主義の結果が、資本私有制度を撤廃するか否かという《ことによってのみ決定せられるものではなく、》その資本私有制度の撤廃が、賃銀制度の廃止を意味するや否やという一事にかかっている。・・・《賃銀制度の廃止を伴なわぬ国家社会主義は、畢竟、国家資本主義である」と。

これらの論の背景には、当時の売文社内で国家社会主義を唱えだした高畠素之への批判がある。そして、そこでは国家社会主義への批判の論拠として「労働力の商品化」をあげ、社会主義を「賃銀制度=労働力の商品化の廃止」としている。サンディカリズムは「労働力の商品化の廃止」としての社会主義につながる思想であると思うところ。宇野弘蔵は、『「資本論」五十年』の時でさえ、「ぼくには思想的にはやっぱりサンディカリすティックなものが残っているかもしれない」と語っている。そこには、堺俊彦の「社会主義鳥瞰図」にインスパイアされ、『資本論』を知った後でもサンディカリズムと『資本論』は無理なく受け入れる柔軟な思考と、「社会主義にしてもその解決するものの限度を知ることが大切なのではないか、科学的理論としては」(p83)と語る含蓄がうかがえるのである。

山川均について宇野弘蔵は、以下のように語っている。
●「山川さんでも一時はサンディカリスティックだったのだが、本来はマルキスティックだったのではないか。そしてそれから後にはボルシェヴィズムにはいるというわけでしょう。ボルシェヴィズムにはいれば当然政党運動ということになる。おそらくそこに例の方向転換に行くきっかけがあるのじゃないかな」。
●「(ぼくは)ああいうことはできない。らっぱ吹いたり旗をふることはどうしてもできん。それが悪いというのではないが、できない。山川さんも、ぼくはそう思うんだけれど、政党政治家になれないのが当然だという感じがするんだ。それは性格的にそうだと思う。・・だから戦後、大分活動されたが、ぼくにはどうも山川さんのなさるべきことでけなかったような気がするんだね」と。

向坂逸郎が聞いたら怒りそうな言だが、実際に『「資本論」五十年』を献本された向坂逸郎は、宇野弘蔵を批判するようになり、この辺りは前にも書いたとおりである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月14日 (金)

宇野弘蔵と福本和夫・つづき

前回書いた「宇野弘蔵と福本和夫」について、石見尚氏に意見を求めたら、「平山昇氏の『宇野理論と労農派』についての感想的意見」という返信があった。向坂派でない労農派論の形成と宇野理論のルーツ探しを始めたら、かつて私淑して学んだ石見尚氏の協同組合論に戻ってしまったところだが、石見尚氏が福本和夫の直系であり、いま宇野理論を学んでいる仙台ヒデさんこと大内秀明氏は宇野弘蔵の直系であるから、結局私は、宇野弘蔵と福本和夫が留学から帰国する船上で交わした会話の中をぐるぐると回っているだけなのかもしれないと思うところ。

石見尚氏からの返信には「貴稿の文中に福本和夫氏や小生の名前も登場しますので、それに関する限りの問題で、世に見落とされている大切な事項二つについて述べます」とあり、「1 福本氏の明治維新ブルジョア革命説について」と「2 資本論第3巻について」の2点について書いてあり、最後に「私は、資本論、特に第三巻からアソシエーション的生産様式による資本主義を超える社会体制の可能性を導き出しました。それはまた国家資本主義・社会主義の否定です。そしてスターリン社会主義経済学を批判しました。批判の点では一部、宇野氏と同じですが、論拠は違います」とあった。

石見尚氏の『福本和夫』には、「宇野理論の体系を示すものとして、多くの信奉者を作り出した『経済学方法論』(1962)が宇野によって著わされたとき、福本は宇野から寄贈をうけた。福本はところどころ傍線を引きながら読んだ跡のある同書を私に与えて、検討してくれと言った」(p66)とある。そこで石見尚氏は、前々回の日記「宇野弘蔵と福本和夫」に引用した宇野理論についての見解をまとめたようであるが、1962年に福本和夫と石見尚氏は雑誌「マルクス主義公論」(1962年7月)に特集「社会主義と生産協同組合の問題」をまとめる。石見尚氏が「福本和夫と私とが、あらましこのようなことを話し合って作った」というその論旨を私的に引用すれば、以下●のようになる。

●「福本和夫と私は、60年安保闘争の一段落した1962年の初め頃から、スターリン主義を発生させたソ連の政治経済機構について検討した」、「私たちは、マルクスが『コータ綱領批判』(1875)で述べる意見と、エンゲルスが『反デューリング論』(1878)第三編「社会主義」で行なう説明との間に微妙な差異があることを問題にした」、「社会主義への移行にかんするエンゲルスの不十分な説明は、国家と党の揚棄を曖昧にした。スターリン主義の政治集団がエンゲルス説を悪用して、過渡的国家とそれに従属する未熟な企業組織を、やがて国家資本主義として体制化し固定化していく余地を残したのである」
●「協同組合工場のように生産過程が連帯しあう個人の集団によって統治される経済組織が発達しなければならない。農村においても、協同組合工場に相当する、自治と自己教育を基本とする経済共同組織が必要である。それは、個人農民が出資し管理運営する生産協同組合である。そして、都市、農村の大衆が習熟した生産協同組織の運営原則を応用した、各種の社会団体、文化・教育団体などが地域社会と共和国を形成する。これが、マルクスが想定していた社会主義であろう」
●「マルクスはその研究過程で、協同組合的様式による生産体制が、資本主義経済を揚棄する可能性をもつことを発見した。つまり資本主義的市場経済では、価値法則は個々の生産者から独立し、あたかも人間の外部にある自然法則のように働く必然性を帯びたのであるが、協同組合生産は人間組織の内部に価値法則を内在化し、市場価値法則による疎外を人間社会の内部で克服する条件をもつ点に着目した。それは『資本論』第1巻第11章での、マンチェスターの労働者と資本家との共同所有の針金製造工場についてのコメントにあらわれ、第3巻第39章で、「資本制的社会形態が揚棄されて社会が意識的かつ計画的な組合(アソシエイション)として組織されると考えてみれば、10クォターは、240シリングに合まれているのと同等量の自立的労働時間を表示する。だから社会は、この土地生産物を、それに合まれている現実的労働時間の二倍半では買い取らないであろう」とのべている。これは、協同組合的生産がひろく社会に普及した場合には、市場経済が生み出す虚偽の社会的価値によって、商品の価値が評価されるのではなく、商品経済があっても価値法則はそのまま通用するのではないことを、差額地代に即してのべた注目すべき箇所である」
●「マルクスは社会主義における国家の死滅を、アソシエイションによる分権的計画経済とその自主管理体制または自治の進展と不可分に結びつけて考えていたことが、以上によって理解できるであろう。マルクス主義では、国家が先導して、国家に従属した協同組合を育成するということはありえない。その逆である。協同組合的な自主管理の原理、方式が定着し、社会統治制度にまで発展することによって、新しい市民社会の文字どおりの民主政治が同時的に成長し、古い国家−資本家国家であれ、労働者国家であれ−に交代していくのである。だから、マルクスは『ゴータ綱領批判』で、労働者国家が総労働の社会主義的組織を発生させるために、国家補助により生産協同組合を設立するという、ラッサールの国家社会主義を断乎として斥けるのである」と。(p109-116)

1962年に福本和夫と石見尚氏の間でこういう議論がなされた背景には60年安保闘争やスターリン批判があり、宇野弘蔵から贈られた『経済学方法論』(1962)があったのかもしれないが、もうひとつ戦後の福本和夫には『日本ルネッサンス史論』というライフワークがあり、それが着想されたのは1936年、釧路の獄中であったという。そして「その着想のモメント」について、石見尚氏はこう書く。「この謎を解く鍵は、労作『日本ルネッサンス史論』自体のなかに見出される。それは、この学術的研究書のなかに不協和音ともおもわれる、かつての日本資本主義論争にたいする批判が挿入されている点である。すなわち明治維新の革命の性格やその後の日本国家の権力の規定について、封建派と労農派の見解にたいして、自説を展開せざるをえないという筆の異常なはみ出しが、その動機を物語っている」と。

宇野弘蔵は、『中央公論』1935年11月号に「資本主義の成立と農村分解の過程」を書くが、これも「講座派と労農派の見解にたいして、自説を展開」するところにモチーフがあったと思われる。獄中の福本和夫がこれを読んだとは思われないが、ふたりのモチーフに通じるものがあるのは、1930年代という時代のせいであろうか、船上で交わした会話のせいであろうか。

留学からの帰国の船上で議論して「ケンカ分かれになった」という福本和夫について、宇野弘蔵は「ぼくはどうもコルシュじゃないかという感じをそのときからもっていた」と語っている。経済学部出身でひたすら『資本論』を勉強してきた宇野弘蔵は『資本論』の経済学を語り、法学部出身でルカーチやコルシュにも会ってきたという福本和夫はひたすら唯物史観について語たものと思われる。帰国後、宇野弘蔵は東北大学の先生になり、福本和夫はコミュニズム運動のリーダーになった。

大学生になって向坂逸郎編の『マル・エン選集』(新潮社)でマルクス主義入門をした私は、その後ルカーチやコルシュを読んで刺激を受け、その後宇野弘蔵を読んで、「脱労働力商品的に生きることが社会主義につながる」と思い、その後を生きた。そんなことを思い出しながら、留学からの帰国の船上で宇野弘蔵と福本和夫はどんな議論をしたのかを想像すると、自分の考えていることなど、結局は自分がしてきた読書の世界を円環しているだけだと思わされる。

資本主義の矛盾は「生産力と生産関係の矛盾」であるとする所有論的アプローチからすれば、石見尚氏の書くように、社会主義とは生産力と生産関係の矛盾を止揚するものとしての「協同組合的所有と協同組合共同体」となる。一方、資本主義の矛盾は「労働力商品化の矛盾」であるとする宇野理論からすれば、社会主義とは労働力商品化が止揚された社会である訳で、私はそれを「脱労働力商品化した人々によるコミュニティ」であると考える訳だが、「協同組合的所有と協同組合共同体」を否定するつもりはない。それもあるし、「共同体」や「アソシエイション」や「コミュニティ」はもっと多様にあるのだと思うところで、そのつなぎ方を考えるところ。それが、私の「労農派論」であろうか。

130613さて、こうなると、次はやはり山川均の共同戦線論、「宇野弘蔵と山川均」について考えてみようと思うところで、図書館に『山川均全集』をリクエストした。今週はやっと梅雨らしい日々となったから、外出はひかえて、本を読むにはちょうどいい。梅雨は、あと1ヶ月くらいだろうか。梅雨が明けたら何をするか、今年は昨年行かれなかったキャンップをしに行こうと、ネットでキャンプ用のコンロとチェアを注文して、昨日届いた。梅雨明けを楽しみにしながら、当面は読書を楽しむところである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 8日 (土)

宇野弘蔵と福本和夫

宇野理論のルーツ探しで、前回は宇野弘蔵と向坂逸郎の関係から考えてみた訳だが、向坂逸郎とは「いつもしゃべるのはぼくの方で」という関係であったようで、いっしょにベルリンにいた時も、「彼は自分の読んでいるものをあまり話さない。そういう性質ですよ。ぼくは読むとすぐ話すのだが・・」(宇野弘蔵『資本論五十年』上巻)だったそうである。

宇野弘蔵は向坂逸郎よりも1年早く帰国するのだが、帰国する船で同じく留学から帰国する福本和夫と乗り合わせ、福本和夫とはけっこう議論をやったようである。『資本論五十年』には、「はじめは1日か2日ずいぶんやった」、「(議論の焦点は)唯物史観と経済学の関係だな。・・彼は唯物史観を絶対のようにいっていた。・・もともと唯物史観と経済学の関係との関係についてぼんやりとした疑問をもっていたので、そういう疑問を言ったように覚えている」とある。

さらに宇野弘蔵は、「ぼくは東北大学へ行ってから間もなく福本君の論文を読んで関心した。これはたいしたもんだなと思った」、「たとえば『資本論』1巻、2巻と3巻の関係というようなことはそれまでぼくは明確には理解していなかったし・・福本君が2巻と3巻とは論理段階が違うんだというのをきいて驚いたのだ。これは後までぼくにとっては大事なヒントとなったわけだ。内容はたいしてなかったように思う」と語っている。

福本和夫は、帰国後に「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか、我々はいまそれのいかなる諸過程をを過程しつつあるか」を書いて山川均を批判、「結合の前の分離」を唱えて共産党の理論家ととしてはなばなしくデビューし、「福本イズム」旋風を巻き起こした人。3.15事件で入獄、14年間非転向で戦後の一時期は共産党に復党、獄中以来ライフワークの『日本ルネッサンス史論』ほかを書いた。ドイツ語の「エントフレムドゥンク」を「疎外」と訳した人でもある。

宇野弘蔵によれば、福本和夫は「戦後うちにときどき来たけど、やっぱり一人で大いにメートル上げて帰っていくよ。(笑)」と語られる訳だが、『資本論五十年』で自らが論じられたことに対して、福本和夫は「宇野理論の次元で論じられては」と宇野弘蔵に電話で抗議をしたという。

この話は、福本和夫から「苦楽をともにした25年来の友人」とされた石見尚氏の『福本和夫』(論創社1993)に書かれている。石見尚氏は、戦後に福本和夫と共に活動した人で、私的には日本最高の協同組合理論家と言える人である。石見尚氏は宇野理論について、以下●のように書いている。

●福本和夫は、宇野弘蔵の資本論研究を、労農派の学者のなかでは異色の業績として評価していた。・・・宇野はスターリン論文に異を唱えた少数の学者の一人である。1960年頃、福本と宇野の長く途絶えていた友好は再び結ばれた。しかし福本は・・それがマルクス主義であるとはけっして認めていなかった。・・・
 宇野の経済学方法論の「原理論、段階論、現状分析」は、福本がかつて『経済学批判の方法論』(1962)で展開した資本論の構成分析と表面的には共通性がある。資本の内在的運動の抽象理論と資本の現実的運動の研究のために、福本が下部構造への下向と上部構造への上向と言うところを、宇野の言葉では、原理論、段階論、現状分析と言うのかと、一読した最初はそう思う。しかし、両者の間には、重大な点で大きい相異がある。
 宇野の「原理論」とは、純粋な経済過程の抽象理論であり、その設定のうえになされる「段階論」は資本主義の発展段階による原理の修正の研究であり、経済学研究の究極目標として設定される「現状分析」は、原理論、段階論を媒介として、法律学、政治学などの他の社会科学とも協同できるとしている。それは、マルクス経済学の基礎的原理を直ちに現実の実践に当てはめる粗雑な観念的方法にたいして、分かり易く方法を解説するには適している。しかし、それはどこまで行っても、経済過程の客観的解釈に終るのであって、この学風からは、マルクスが指摘した世界の変革のための主体的な理性が生まれない。この点、福本の苦心は、経済過程に純化した研究からいかに脱皮するかの論理の確立にあったのである。(石見尚『福本和夫』p65-67)

●福本と私はソ連社会主義が、マルクスのいう資本法則を実質的に揚棄した経済であると考えたことは夢にもなかった。スターリンが樹立したのは、官僚的国家資本主義であると考えた。そのために、生産力的に停滞ないし破綻がおこる可能性を指摘していた。生産意欲の低下を党と国家の強権で補い、また官僚的非能率を市場経済の導入と価値法則の利用、利潤導入で刺激しようとしても、それらは揚あたり的な政策にすぎない。本質的にはマルクス主義による社会主義を始める王道しかほかに方法がないのである。・・・一言で言えば、中央集権的国家――共産党と政府の癒着――による官僚的支配を徹底的に民主化すること、工場の一部と農場を民主制と自主性のある生産協同組合に転換すること、単純な市場経済への復帰ではなく、所有と利用の不公正を社会的に是正することを合む協同組合制市場へ移行すること、経済の社会的公正を誘導するため権力の地方分権と自治の強化、福祉と環境と健康と完全雇用を指標とするグリーン混合経済への移行を経過点とすることである。(前掲書p71)

●宇野理論の、原理論、段階論、現状分析という区分けは、結局、歴史の変化の後追い的解釈に終始することになるのではないかと言う印象をうけた。その解釈は緻密であっても、マルクスの弁証法的唯物論の主体的認識論とは違っている。宇野理論は朱子学だというのは、実践をとおした主体形成的認識のない学風を指すものである。福本和夫は労農派では、宇野弘蔵の資本論研究を評価していたが、けっして満足してはいなかった。(前掲書p109)

福本和夫は山川均や労農派を批判したが、1926年の第2次共産党設立時には、明治維新については「不十分ではあるがブルジョワ革命」として認めていたという。それが27年テーゼでコミンテルンから批判され、、獄中で『日本ルネッサンス史論』を構想し、戦後それを書きつづけることになる。戦後の捕鯨やフクロウや北斎の研究も、その一環であった。1957年には晩年の山川均を訪ね、翌年には宇野弘蔵とも再会する。1983年に89歳で長寿を全うする訳だが、亡くなる前に「自分はもう書くことができないから、あとを頼む」と石見尚氏に言ったという。

1970年代の半ばから生活協同組合で働き出した私は、70年代の後半のある日、「日本ルネッサンス研究所」に石見尚氏を訪ねた。当時、私は下町の小さな地域生協で働きながらSP(社会党)の活動をやり、地域の労働運動にも顔を出していた。その頃、下町の労働運動では倒産した企業の自主生産闘争が盛んであって、そこでは生産協同組合が語られていた。そして石見尚氏は、その数少ないと言うか唯一の理論家であったからである。1977年に出版された石見尚氏の『協同組合新論』(家の光協会)には、以下のようにあった。

●協同組合は事業の効率性から見れば大規模がよく、組合員の参加のしやすさの観点にたてば小規模が優れるのである。社会的市場経済に対応して、協同組合の機能が国民経済的範囲をカバーすることを求められてくると、効率性と民主制との自家撞着が表面化してくるのである。・・本書の研究の主題である分権化された生産協同組合を基本とする協同組合的生産様式に発展しないかぎり、最終的には解決しないであろうと思うが、いかがであろうか。市場調整型の協同組合では単位組合で人的結合体としての民主主義を強化し、連合会で経済的効率性を実現するという補完関係を形成するというのが、せいいっぱいの限度であろう。

そして、これを読んだ私は「福本イズム」ならぬ石見理論にストンと落ちたのであった。1980年代初頭の生協状況は、数の上では共産党系の主流派が圧倒的で、ほかに構造改革系の生活クラブ生協と、私のいたSP系の小さな生協群がわずかにあって、主流派はどんどん拡大し、石見尚氏ほかをイデオローグに持っていた生活クラブ生協はワーカーズ・コレクティブをはじめ多様な運動を展開していたが、SP系には理論も運動もほとんどなかった。

80年代半ばのある日、私のいた生協のボス(理事長)が「我々も生協運動の研究会をつくろう」と言いだして、私はその事務局をやることになった。研究会の座長は、SP、労農派系の高木郁朗氏と田中学氏にお願いし、私は両先生に相談して研究会の講師に、当時SPの理論センターに集まっていた大内秀明氏や新田俊三氏、それに大内力氏などを招き、さらに石見尚氏もお招きしたのであった。

大内力氏は70年代からSP内で「自主管理研究会」を始めていたし、その後のSPの理論センターでは「中間組織」が語られていたし、私はその「中間組織」に生産協同組合を入れられないかなと思ったところであったし、そういうものとしての協同組合運動をつくりたいと思ったからであった。

余談だが、ある時、生活クラブ生協に関心を持った私は構造改革論を勉強しようと、飯田橋にあった現代の理論社に安東仁兵衛氏を訪ねたことがあった。安東氏は大いに喜んでくれて、「これを読みなさい」と言って、何冊もの本をくれた。その後、上記の生協運動の研究会の「報告書」をまとめると、それを安東氏にも送ったのだったが、その後安東氏とお会いした時に、それを大いにほめられた。90年代の後半に安東仁兵衛氏から「丸山真男研究会」の案内をいただき、私は会員になった。丸山真男に関心はなかったが、安東仁兵衛氏には大いに惹かれたのであった。しかし、私が生協を辞める頃、私は安東仁兵衛氏の訃報を聞いたのだった。

80年代から、私は石見尚氏に私淑していっしょに研究会活動をやり、協同組合について多くを学んだ。しかし90年代に入ると、私は生産協同組合だけではなくて他の非営利企業、とりわけアメリカのNPOに関心を持つようになった。市場否定型の組合よりも、市場適応型のNPOだと思った訳で、協同組合を中心にした「協同組合共同体」よりも広い、アメリカ型のNPOやコミュニティ・ビジネスやSOHOや独立自営型企業も含めた「コミュニティ」について考えだした訳である。そして、石見尚氏とは少しずつ距離ができていったのだった。

最初はそんなことを意識していた訳ではなかったが、『協同組合新論』は「生産の社会的性質と生産手段の矛盾の解決」としての生産協同組合論である。2000年に生協の関連会社勤めを辞めた私は、大内秀明氏が所長をしていた中小企業研究所のスモールビジネス研究会に参加し、やがて仙台に通って宇野理論の恐慌論や労働力商品論を学ぶようになった。石見尚氏が『福本和夫』に書くように「福本の経済史と宇野経済学は違う」と思うところで、「労働力商品化の矛盾」の解決としての「コミュニティ」を構想し、その一環としての大内秀明氏の「仙台羅須地人協会」※のお手伝いなどするところである。 ※http://www9.ocn.ne.jp/~kenji827/

130608そして、そのための理論的な整理として、堺利彦と平民社に始まる日本の土着社会主義としての新たな「労農派論」をまとめようとしている訳だが、なんと先月、石見尚氏から「冊子」が送られて来たのであった。お会いしなくなって以降は賀状の交換だけになっていて、「協同社会研究会」を案内する久しぶりの「冊子」には、送られて来たタイミングのシンクロニシィティと共に、それ故にまた感慨深いものがあったのだった。(つづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年6月 4日 (火)

宇野弘蔵と向坂逸郎

1012先週末は雨との予報だったから、図書館から石河康国『労農派マルクス主義』を借りてきて、家でごろごろしながら上下巻で800ページを一挙に読んだ。この本の上巻は戦前の労農派の通史になっているが、下巻は戦後の向坂社会主義協会史で、最後は新社会党で終わる。民権運動をくぐって平民社に生まれた日本の土着社会主義、堺利彦に始まる労農派が、最後はほとんど知られない新社会党に収斂してしまうのははなはだ寂しい限りで、戦後の向坂社会主義協会史ならともかく、それでは労農派を語るところではないと思うところ。

少ないページだが、下巻の宇野弘蔵と宇野派についての批判には、著者のこだわりが感じられる。そして、そこから改めて感じられたことだが、堺利彦と山川均以降の労農派にとって、やはり宇野弘蔵と向坂逸郎はキイマンになるということである。

宇野弘蔵と向坂逸郎は東京帝国大学経済学部で3年間いっしょに学び、しじゅう行き来して語り合ったという。1921年に大学を卒業すると、宇野は大原社研に入所し、向坂は東大の助手になり、同じ頃にドイツに留学して二人とも『資本論』を勉強し、そこでも語り合ったという。もっとも宇野弘蔵によれば、いつも宇野が一方的に語っていたようであり、向坂逸郎はせっせとマルクス主義文献を買い集めては読んでいたようである。向坂逸郎は『流れに抗して』に「私は勉強家の宇野君からたくさんの刺激を受けました」と書いている。良き友であり、出し抜こうとするほどの良きライバルであったのであろう。

帰国後、宇野弘蔵は東北帝大の助教授になり、向坂逸郎は九州帝大の助教授になった。向坂逸郎は、1926年にはには教授に昇進し雑誌『労農』の同人になるが、1928年に九州帝大教授を辞任させられ、1930年代の日本資本主義論争では、講座派と比べれば学者の少なかった労農派で論客として活躍した。向坂逸郎は、戦後も山川均と社会主義協会をつくって行く。向坂逸郎にとってマルクス主義のキイワードは「理論と実践」であった。

一方、学生時代に宇野弘蔵は向坂逸郎よりも早く山川均を訪ね、非常に近い同郷のよしみを感じるが、『労農』に参加することはなかった。実践については、当初はどちらかと言うと、コンプレックスを持っていたかもしれない。そして、日本資本主義論争においては、仙台にあって、大原社研における先輩の櫛田民雄と親友の向坂逸郎が奮闘するのを見ながら、1935年に「資本主義の成立と農村分解の過程」を書き、後の段階論につながる視点を提起し、1936年には『経済政策論・上』を出版した。

そして1937年12月の人民戦線事件で大森義太郎や向坂逸郎、1938年2月の教授グループ事件で大内兵衛や宇野弘蔵も逮捕され入獄した。宇野弘蔵にしてみれば、自分は労農派ではないのにと、割り切れないものもあったと思われるが、権力からすれば、人民戦線事件で逮捕した者全員が労農派であって、大内兵衛も宇野構造も労農派なのであった。

大内兵衛も自分は労農派ではないと言うが、労農派の学者グループを育てたのは大内兵衛である。宇野弘蔵と向坂逸郎は、東大の1年生で森戸辰男からドイツ語を習い、2年生では権田保之助からサンディカリズムやモリスを聞かされた。そして森戸事件が起こると、向坂逸郎は学生大会を開いて大内兵衛と知り合い、東大の助手になってからは大森義太郎や有沢広巳と懇意になったという。一方、大原社研に入所した宇野弘蔵は、そこで森戸事件で東大から大原社研に移った森戸辰男や櫛田民雄、権田保之助といっしょになる。ついでに書けば、そこで宇野弘蔵は大原社会問題研究所の所長である高野岩三郎の娘と結婚し、その仲人は山川均の幼友達で日本のロバート・オウエンと言われた大原孫三郎であった。

東大に経済学部をつくり、大内兵衛を育て、櫛田民雄や権田保之助を呼び、森戸事件後は大原社会問題研究所をつくったのは高野岩三郎である。高野岩三郎はマルクス学者ではないが、その兄は日本で初めて労働組合を立ち上げた高野房太郎であり、その兄の志を受け継いで生きた。東大を休職になった大内兵衛も大原社研に世話になる訳だが、やがて東大に復職した大内兵衛の門下には、土屋喬雄、有沢広巳、大森義太郎、山田盛太郎、脇村義太郎、高橋正雄、阿部勇、美濃部亮吉といった学者が育った。そして以上の人々が、所謂労農派系の学者グループを形成し、戦後にも引き継がれる訳である。

戦後、宇野弘蔵と向坂逸郎は『資本論』の研究会を始める。また、山川均は社会主義協会をつくり、そこは社会党左派系の思想・研究団体として労農派系の多くの学者たちを再結集し、山川均が亡くなった後は大内兵衛と向坂逸郎が代表になる。宇野弘蔵は雑誌『唯物史観相』に寄稿する程度だが、宇野弘蔵門下の若手の学者たちは社会主義協会に参加する。しかし、宇野弘蔵が『「資本論」と社会主義」を出した頃から、宇野弘蔵と向坂逸郎の間には隙間風が吹き出し、やがて批判し合うようになる。(※もっとも、仙台ヒデさん曰く「会えば抱き合う仲」であったとのことだが。)

向坂逸郎からすれば、社会主義と『資本論』の理解にとって大切なのは理論と実践の統一であり、量から質への飛躍という弁証法的認識であり、階級性やイデオロギーであり、平和革命の必然性であり、それらは謂わばエンゲルス流のマルクス主義理解である訳なのだが、宇野弘蔵にとってそれらは『資本論』とは何の関係もないものであった。

石河康国『労農派マルクス主義』下巻は、宇野弘蔵と向坂逸郎の関係が伏線になっている。それは向坂協会にとって、社会党内で60年代に社会主義協会がつくった「日本における社会主義の道」の路線が70年代に見直され、「参加・介入路線」という社会民主主義路線にとって代わられた背後には、反協会系が宇野派を利用したという思いがあるからだろうか。石河康国は、こう書いている。
「協会内部に波紋をおこしたのが理論センターの陣容である。大内力ら自主管理社会主義グループと、協会員であった鎌倉孝夫、福田豊、田中慎一郎らを結びつけるのに、かつて協会で活躍した大内秀明(東北大学教授)を大内力の次の理論センター座長に据えるなどは、学者の内部関係にも通じていた者の知恵である。・・・そして決定的となったのは社会党理論センターの勉強会に、福田豊らが参加しはじめたことである」と。

宇野弘蔵は1977年に亡くなり、向坂逸郎は1985年まで生きるのだが、向坂逸郎の最後の仕事は宇野派批判であったという。向坂逸郎は『流れに抗して』に以下のように書いている。
「私は勉強家の宇野君からたくさんの刺激を受けました。・・・私は生涯を通じて、宇野君から理論的刺激を受けるでしょう。しかし、三〇歳前後から、宇野君のわたしにたいする刺激は、多くは消極的なもので、マルクシズムは宇野君の考えるようにあってはいけないという面からくるものでした。これは決して皮肉ではありません」と。

おそらく宇野弘蔵にあっても、30歳前後から「マルクシズムは向坂君の考えるようにあってはいけない」と考えていたのではあるまいか。と、まあ石河康国『労農派マルクス主義』を読んだおかげで、宇野理論誕生のひとつのルーツに思い至った訳である。そして、石河康国の書く「大内秀明を大内力の次の理論センター座長に据えるなどは、学者の内部関係にも通じていた者の知恵である」については、先日、曽我祐次氏から話をうかがったのは、その辺りの話を聞くためでもあったのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年5月 | トップページ | 2013年7月 »