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2013年5月25日 (土)

労農派と宇野理論

130524_3昨日、湾岸の高層ビル38階にあるVIPルームで、元社会党副書記長の曽我祐次氏から戦後労農派の話をうかがった。戦後労農派と言うと、所謂向坂派社会主義協会とみなされがちだが、戦前の労農派(堺利彦〜鈴木茂三郎)系の人たちが戦後みな向坂派社会主義協会に行ってしまった訳ではなく、労農派が非コミンテルン系社会主義の流れであることからすれば、ソ連一辺倒であった向坂派社会主義協会は労農派の正統な後継者とは言えない。

戦後の社会党は、非コミンテルン系の総結集であったから、広い意味では労農派系となる訳だが、結党呼びかけ人の高野岩三郎、安部磯雄、賀川豊彦らは友愛会系、キリスト教社会主義系であり、河上丈太郎や片山哲などもそうである。また、戦前の無産運動系でも浅沼稲次郎や加藤勘十など無産運動右派系が多い訳だが、鈴木茂三郎は左派で、曽我祐次氏は鈴木茂三郎系である。

しかし、戦後の労農派というのはイコール社会党ではないし、労農派系の大くは労働運動や農民運動の現場や学者系などにあって、ゆるやかにつながっていただけである。そして労農派がユニークなのは、戦前において堺利彦と山川均が第1次共産党を解党してしまったように、戦後においてもレーニン主義型の党組織を作らなかったことである。それに対して、内部からレーニン主義型の党組織を作ろうとしたのが社会主義協会であり、日本社会党が二本社会党になってしまうのは、みんなそれ故であった。

この間、仙台ヒデさんとすすめてきた労農派研究会は、GWに行った研究会で仙台ヒデさんの整理が出され、その第5章は「労農派と講座派」であり、それはさらに「1.労農派と講座派の対立」、「2.日本資本主義論争」、「3.労農派と宇野理論」に分けられている。宇野三段階論の着想は、日本資本主義論争を契機に得られたと言われるところであり、戦前の宇野弘蔵の学問環境には、同郷の山川均と義父でもある高野岩三郎とその周辺の学者グループがあった。

今日、曽我祐次氏に話をうかがったのは、労農派論の戦後の部分をどうまとめるかの相談でもあった。戦後初の社会党内閣であった片山内閣がつぶれた後、「森戸・稲村論争」という論争が起こり、その後左派にかつがれて鈴木茂三郎が委員長になる訳だが、これは労農派のまた裂きであったように私には思える。鈴木茂三郎は堺・山川系の労農派本流で「青年よ銃を取るな」の演説で有名で左派とされるる訳だが、右派とされた森戸辰男は高野岩三郎系で宇野弘蔵周辺の学者であった。

どこでも左派と右派の間で抗争が起こるのは、ロシア革命以来、ボルシェヴィズムが社会主義の正統性を主張したからであり、左派とはそれを信じて、より左であることが正しいという左翼主義をとる訳だが、鈴木茂三郎系の左派は必ずしもそうではなかった。だいたいソ連が嫌いであった。

そこで、左派とされる社会主義協会と鈴木茂三郎系の社会主義研究会が、右派とされた構造改革派をいじめて追い出した後、今度は社会主義協会と社会主義研究会が協会派と反協会派となって派閥抗争を始めることになる。これは私的には、自称労農派の向坂社会主義協会と鈴木茂三郎系の抗争である。

当時、向坂社会主義協会系の学者が中心になってまとめた「日本における社会主義の道」という文章が、社会党の綱領的文章とされた訳だが、内容的にはソ連型社会主義をめざすとするものであった。1960年代から70年代にかけては、革新自治体が各地に誕生し、学生運動は過激化する一方で、世界的に「転換期」と言われ出した時代でもあった。

そこで反協会系は、「日本における社会主義の道」の路線の見直しを始めた訳だが、曽我祐次氏はそれに関わる訳である。60年代に社会党の都本部の委員長であった曽我氏は、美濃部都政の成立に大きく貢献する。新しい都知事候補を求めて、大内兵衛を中心とする所謂学者グループに相談し、学者グループは鎌倉の料亭に集まって「美濃部君を社会党に差し出そう」と決めたという。

この会議は、通称「和光会議」と呼ばれているのだそうだが、そこには戦後の労農派がみんな集まったという。会議を主導したのは大内兵衛で、向坂逸郎は隅の方にいたというから、向坂派社会主義協会が戦後の労農派を代表していた訳ではないことが分かる。

大内兵衛の息子は、東大教授で宇野派の大内力である。大内力を宇野弘蔵の兄弟子とすれば、その弟弟子筋に当時若手の仙台ヒデさんほかの学者グループがいた。70年代になると、大内力は自主管理研究を始めた。これは「労働力商品化」を資本主義の矛盾とする宇野理論からすれば、当然の成り行きであり、曽我祐次氏は仙台ヒデさんらの若手の学者グループの頭を借りて、「日本における社会主義の道」の見直しを始めた訳であった。

まあ、以上が今日曽我祐次氏の話を聴いてアバウトに思いついた戦後労農派の流れである。自由民権運動と儒教を支柱に平民社に誕生した日本の土着社会主義は、堺利彦と山川均によって労農派となり、日本資本主義論争を経て、高野岩三郎系の学者グループから宇野弘蔵の三段階論を生み出した。戦後、社会党の周辺に拡散した労農派ではあるが、非コミンテルン系で、労働力商品化の矛盾をふまえた発想によって、労働運動における自主生産闘争や協同組合運動ほか多様な社会運動の中に行きつづけていると思うところ。話を整理して、曽我祐次氏に再度話をうかがうこととした。

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