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2013年4月13日 (土)

コモンへの道

72_2  アントニオ・ネグリが、来日中だったようである。そんで、私もちょうど『コモンスウェル』を読み終えたところ。3月31日に上巻の感想を書いたから、今回は下巻のそれを書く。

三部作最初の『帝国』をグローバリゼーションの現状分析とすれば、2作目の『マルチチュード』は主体形成論であり、3作目の『コモンスウェル』は革命論であろうか。実際に『マルチチュード』の日本語版解説には、「ネグリ&ハートは・・すでに『帝国』三部作の最期を飾る本にとりかかりはじめている。それは・・暫定的に『革命』と呼ばれているそうだ」と書かれている。という訳で、『コモンスウェル』の最終章(第6部)の表題は「革命」である訳だが、私的に要約すれば、以下のような展開になっている。

「革命的共産主義が、同一性の解放ではなく自由への生成のプロジェクトであるためには、別の言い方をすれば、労働の解放ではなく、労働から自由になることのプロジェクトであるためには、労働者のアイデンティティを超える自己変容のプロセスが開始されなければならないのだ」(p206-7)。

「アイデンティティから特異性へと視点を転換させることにより、とりわけこのプロセスにおける革命的な瞬間〔=契機〕を明確にすることが可能になる。アイデンティティの観点からは、革命的プロセスは自己廃棄という形で否定的・逆説的にしか理解できないのに対し、特異性の観点に立つことで、それは姿態変換の瞬間として〔肯定的・積極的に〕とらえられるようになる。・・・特異性は〈共〉を多数多様性から成る領域として指し示し、それによって所有財産の論理を打ち壊す。所有財産にとってアイデンティティにあたるものが、〈共〉にとっての特異性なのだ。・・アイデンティティは同一性の解放を手にすることはできるかもしれないが、自由への生成を獲得できるのは特異性だけなのである」(p217)。

「アイデンティティの廃棄はまた、先に述べたような〈共〉の腐敗をもたらすすべての制度──家族、企業、ネーション〔=民族/国民〕といった──を打ち壊すことを必要とする。こうした破壊行為にはたいていの場合、支配権力に対する暴力的な闘いが合まれているし、それらの制度が今、私たちが何者であるかを部分的に規定するものであることから、流血をしのぐ苦痛を伴う作業がもたらされることも必至だ。革命は臆病なハートの弱い人間のためのものではない。それは怪物のためのものなのだ。自分か何になる〔=生成変化する〕ことができるかは、いま自分がそうであるところのものを失ってこそ見えてくるのだから」(p218)と。

千坂恭二さんも書いているが、ネグリは謂わば構造改革派の延長にあり、ネグリの言う革命は、私的には「コモンの生成」と、それを担う「マルチチュードの主体形成」と読める。ならばどこが「革命」なのかと言うと、以下のようになる。

「今日、私たちが現出しつつあるのを目のあたりにしている別の近代性──諸々の特異性から成るマルチチュードと〈共〉との相互作用を基盤とするもの──以外に、革命にふさわしい領域はない。きわめて図式的にいえば、近代性を規定するアイデンティティー−所有財産−主権の三本柱は、別の近代性において、特異性−〈共〉−革命によって取って代わられる。今や革命が、ついにもっとも重要で必要なものとなりつつあるのだ」(P226)と。

「アイデンティティの廃棄」とは、俗っぽく言えば「家族、企業、ネーション〔=民族/国民〕」からくる「○○家の出とか、□□会社の社員とか、××国の国民」とかいった属性の廃棄であり、それを通してマルチチュードはこれらを超えて姿を現す。かつては革命的であるためには、自らのアイデンティティを自己否定しようとしたものだが、必要なのは「アイデンティティを超える自己変容のプロセス」であり、それは「特異性の観点に立つことで、それは姿態変換」するという。資本の墓堀り人としてのマルチチュードは、以下のように登場する。

「〈私〉と〈公〉の両方の管理を逃れたマルチチュードの自律性の拡大、教育と実習訓練(協働、コミュニケーション、そして社会的な出会いの組織化における)を通した社会的主体の変貌、そしてその結果としての〈共〉の漸進的な蓄積・・その過程のなかで、資本は自らの墓堀り人を生み出すのだ。資本が自らの利益を追求し、自らの存続を維持しようとするならば、それは生産的なマルチチュードの力能と自律性の拡大を促進する以外にない。そして、その力能の蓄積がある一定の閥を超えたとき、「〈共〉的な富」を自律的に支配し、統治する能力をもつマルチチュードが姿を現すのである」(P172-3)と。

そして、上記のようなプロセスを経た「脱出(エクソダス)」が必要であり、「脱出」こそ階級闘争であるとネグリは言う訳である。3月31日の『コモンスウェル』上巻の評にも書いたように、それは私的には「脱労働力商品化の過程はコミュニティの形成と一体である」となる訳だが、ネグリはその過程のキイワードを「協働、自律、ネットワーク組織」とし、それ(参加と協働)をベースにネグリは民主主義、「市民が共に統治する社会」、「コモンスウェル」を構想する訳であり、その過程は、以下のように書かれている。

「レーニンは、党のヘゲモニー下で社会的闘争集団を接合することにより、対抗権力を形成するという計画を考え出したが、それはある点では、対決の相手である中央権力のアイデンティティを鏡像のように正確に模倣したものだった。・・・だが、主体性と革命的な意思決定の理論として考えたとき、それは今日の世界にとってまったく不適切なものでしかない。・・・必要なのは革命的な意思決定と、上からではなくマルチチュードの運動の内側からの支配権力の転覆を確立する組織化のプロセスである。・・・基本的な前提はきわめて単純だ。人びとが職場ですることと、そこで用いる技術(技術的構成)が、政治的行動の領域における彼(女)らの能力(政治的構成)に寄与するということである」(p236-7)。
「資本主義の指令が命じる垂直的・階層秩序的な協働の形態とは対照的に、生政治的労働は水平的なネットワーク状の協働の形態を剔出する傾向があるということだ。生政治的労働のもつこれら三つの特徴──協働、自律、ネットワーク組織──は、民主主義的な政治組織を築き上げるうえで堅固な構成要素となる」(p239)。
「革命は必ずしも流血を必要としないが、力の行使は必要とする。・・・今日では、「非武装のマルチチュード」のほうが武装集団よりはるかに実効性があり、脱出のほうが正面攻撃より強力である可能性が高まりつつあると私たちは見る。この文脈でいう脱出とは多くの場合、妨害行為や共同作業からの解脱、さまざまな対抗文化の実践、全般化された不服従といった形をとる」(p262-4)と。

こうなると、『帝国』~『コモンスウェル』の三部作は、大著でなにやら難しげに書かれてはいるが、結論はそう難しいものでもない。 柄谷行人の『世界共和国』や『世界史の構造』もそうだが、それぞれがそれぞれの特異性、切り口から入って、結論は同じようなところに来ている。僭越にもあえて言ってしまえば、私がブログに書きつづけていることもまたそうである。

ならば、ネグリの特異性は何かと言えば、マルクスも柄谷行人も「生産協同組合」とまでしか書かなかった〈共〉に向けての生成のプロセスを書いたことであろうか。協同組合から〈共〉へのキイワードは、「平等」や「相互扶助」や「功利主義」よりも、「特異性」と「協働」と「脱出」となる。「共同体の特異性」と「共同体の特異性」が出会うところから「〈共〉=(コモン)」は始まる訳である。

資本主義は、もはやバブルを繰り返すか、1%の富裕化と99%の貧困化へと格差を拡大する以外に稼ぐすべがなく、アベノミクスの金融政策はインフレによる財政赤字のチャラを目指しながら、やがて膨大な財政赤字を残して破綻するだろう。別な道を行くことこそ、まともな道である。「コモンへの道」を歩もう。

さて、季節はいよいよ脱寒である。「コモンスウェル」も読むだけではなくて、自らの脱労働力商品化と併せて試行錯誤したいもの。とは言っても、私はもうほとんど働いてはいないけど、GWの前後に「仙台羅須地人協会」へ行く予定。80年前に宮沢賢治が始めた謂わば「コモンの探究」を引き継ごうという試みである。耳のMRI検査は異常なかったし、季節は申し分ない。やっとこさ、いざ東北へである。

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