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2013年3月31日 (日)

コモンウェルス

 今日で3月も終わり。早かったね。それまでの長い寒さが嘘のように、あっと言う間に桜が満開になった。しかし、今日は花冷え。昨日まで4日連続で外出したから、今日はどこにも出かけずにいて本を読んだ。

先日、出20130331かけたついでに買ってきたアントニオ・ネグロ&マイケル・ハートの『コモンウェルス上』(NHKブックス)の上巻を読んだ。ネグリとハートは、6年前に『帝国』を読み、それは、レーニンの『帝国主義』が帝国主義の時代を絵解きした如くに、グローバリゼーションの時代とマルチチュードの現出を絵解きしていて、その後に出た『マルチチュード』(NHKブックス)も読んだから、謂わばそのつづきを読んだ訳である。

 ネグリとハートはスピノザ的読み変えをベースにしながらも、やはりマルクスであろうか。やはり、ヴェラ・ザスーリチ宛ての手紙から「もし革命が適時に起こり、農村共同体が自由に飛躍できるよう革命が全力を集中するならば、ほどなくして農村共同体はロシア社会を再生させる要素として、また資本主義制度によって隷属させられている国々に優越する要素として発展するであろう」を引用し、「この反近代性の諸力の肯定」を「マルクスの抱える健全な矛盾」だとし、さらに「マルクスが直感しつつも明確に述べていない重要な要素がある。それは、反近代の革命的形態が〈共(コモン)〉にしっかりと埋め込まれているということだ」(p151)とする。

 〈共(コモン)〉の再評価ということであれば、別に目新しい見解ではないのだが、ネグリとハートは「階級闘争は脱出(エクソダス)の形をとる」として、以下のように展開する。
 「ここで脱出というのは・・労働力の潜勢的な自律性を実現することによって、資本との関係から身を引き離すことを意味する。したがって脱出とは、生政治的労働力の生産性を拒否することではなく、資本がその生産能力にかける束縛、増大しつつあるその束縛を拒否することだ,
 そこで、この階級闘争の形態を逃亡奴隷になぞらえてみたい。ブラジルの奴隷たちが集団で自由を奪う鎖を断ち切り、キロンボと呼ばれる逃亡奴隷の自治共同体を形成したように、資本との関係から身を引き離した生政治的労働力は、新たな社会的関係-その生産的なカ能を実現できる新たな生の形態-を見出し、構築しなければならない。だが逃亡奴隷の場合とは違い、この脱出は必ずしも別の場所に行くことを意味しない。私たちは今いるこの場にとどまりながら、私たちがそのもとで生きている生産関係と社会的組織化の様式を変革することによって、逃走線を追い求めることができるのだ。・・階級闘争には、資本との関係および資本主義的生産関係からの脱出もまた必要なのだ。・・・脱出は〈共〉を基盤にしたとき、初めて可能になる。言いかえれば、〈共〉へのアクセスと、〈共〉を活用する能力をともに有することによってのみ、脱出は可能になるのだ」(p244-245)と。

 この文脈を私的に読みなおせば、「脱労働力商品化の過程は、コミュニティの形成と一体である」ということである。私の言う「コミュニティ」=(共)である訳だが、ネグリとハートはそのベースは「家族、企業、ネーション〔=国民/民族〕」にあるとしながらも、それらは近代化の中では「一体化」して「腐敗」しているとしながらも、以下のように書く。
 「家族、企業、ネーション〔=国民/民族〕の三つの制度は、たとえ腐敗した形であっても、〈共〉への関与を通じて〈共〉を動員することによりマルチチュードの脱出にとって重要な資源を提供するということを忘れてはならない。・・・マルチチュードは家族、企業、そしてネーションから脱出しなければならないと同時に、それら三つが動員する〈共〉の約束を足場にして、〈共〉を築きなおさなければならない。生政治的生産の文脈で〈共〉へのアクセスをオープンにし、拡大することは、生産と再生産の管理を掌握することを意味する。それは資本から身を引き離し、マルチチュードの自律性を構築するプロセスの基盤となるものであり、この脱出のプロジェクトこそが今日の階級闘争のとる主要な形態であることを、私たちは肝に銘じなければならない」(p261)と。

 ネグリとハートはいっぱい勉強したせいか、前著に同様衒学的著述も多いが、上巻は一挙に読めた。そして、上巻の最後のキイワードは「愛」である。「同一性」と「統一性」によって腐敗した愛に対して、「愛において肝心なものは、主体性の生産と特異性同士の出会いであり、それが新たな組み合わせを作り上げ、新しい〈共〉の形態を構成するのである」(p297)とする。
 「主体性の生産と特異性同士の出会い」については、「ウォルト・ホイットマンの詩を思い浮かべていただきたい」とあるから、ネグリとハートの言う「愛」が、ジョン・レノンの言う「ラブ&ピース」とどこが違うのかと思うところでもあった。

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2013年3月18日 (月)

利子率革命とアベノミクス

朝、布団にゴロゴロしながら本を読んでいて、起き際に咳をしたらズキンと腰にきた。立ち上がるのも歩くのも難儀だから、膏薬を貼ってそのまま読書したら、水野和夫×大澤真幸『資本主義という謎』を読み終えた。

2年前に読んだ『超マクロ展望・世界経済の真実』で水野和夫氏は萱野稔人氏との対談で、以下のように語っていた。
「日本の超低金利は、近代主権国家にもとづく近代資本主義世界システムが転換期に入っていることを示唆しているように思う」、「先進国はどのみちバブルをつくって利潤率を維持せざるを得ない」、「(リフレ派の)主張があてはまるのは90年代前半までです。95年以降、つまりグローバリゼーションによって国際資本が自由化し、金融経済が全面化してしまうと、ベースマネーを増やしても国内の物価の上昇にはつながらなくなってしまった」、「低成長を前提とした脱近代的な社会システムをつくらないかぎり、財政赤字などの問題はおそらく根本的には解決されえないのではないでしょうか」と。

2年前にこの本が出て、私が読んだ後くらいに3.11が起こり、昨年末にはリフレ派自民党を総選挙で破った民主党が大敗して、昨今の日本経済はリフレ派主導の「アベノミクス」で大いに盛り上がり、安部政権の支持率も上昇しつづけている。困ったものだと思っているところへ、今度は大澤真幸氏との対談形式で本書が出たから、読んでみたところ。読後感は、期待を裏切らない。水野和夫氏は、持論の「利子率革命」を以下のように語る。

「資本主義の成立を、何をもって規定するかという点で、私も利子率が最も重要な指標だと思います。利子は資本の提供者から見れば、利潤蓄積そのものです」、「利子率革命というのは、その国が資本を過剰なまでに蓄積したから起きるという点が重要なのです」、「近代社会において覇権国=超低利国となります・・資本を過剰に蒐集する国がまさに覇権国に他なりません。・・蒐集は必ず『過剰・飽満・過多』に行き着くということを経済学的事象で表せば『利子率革命』ということになります。過剰な資本は必ず、利子率の低下につながっていくのです」、「現在の『利子率革命』は・・蒐集の限界を示唆しているということです。9.15(リーマンショック)は、『電子・金融空間』における蒐集の限界を、ユーロ・ソブリン問題は、『領土空間』における蒐集の限界を、3.11による東電福島第一原発事故は、エネルギーコストについての限界費用一定の法則という先進国の特権を崩壊させたのです」と。

そして、資本主義は投機的な方法や二極化=99%の貧困化をもってしか利潤を得られなくなっていることを、以下のように語る。
「なぜ、バブルが頻繁に起きるかといえば、新しい『実物投資空間』がなくなったからです。『実物投資空間』の膨張がインフレで、『電子・金融空間』の膨張がバブルです。つまり、インフレが生じなくなったから、バブルが繰り返し起き、バブル崩壊が同じだけ生じるのです。バブル崩壊でデフレが生じるのですから、そのデフレをインフレを起こして解消するというのは倒錯した議論です」、「利子率革命すなわち資本の低利潤化か長期化すると、過去の過剰資本に耐えられなくなって、具体的には働く人を貧しくすることでしか、資本を維持できなくなったのです。・・・米議会が非難したように、サブプライムローンは『略奪的貸付』だったのです」と。

水野和夫氏は元証券マンらしいが、その論の背景にはカール・シュミットやホイジンガをふまえて文明論的なところがあり、アベノミクスに対しては、「蒐集の時代は終わりつつあるのに、近代価値観に拘泥した『成長戦略』という竹槍で、ポスト蒐集の時代に立ち向かおうとしているのが今の日本です。近代的価値観を三つ集めて『三本の矢』と言っているようでは、先が知れています」と言う。「陳腐化しているとしか思えない『成長戦略』や規制緩和を未だに言い出す。あげくの果てに規制緩和の不徹底さゆえに、今の日本の低迷があると主張する」アベノミクスの信奉者にはぜひ読んでいただきたいと思うところ。「どうにかなるさ、イケイケどんどん」というヤンキーレベルの安部総理、甘利経済再生大臣の顔をテレビで見る毎に、そんなに遠くない将来、バブル再破綻の果てに絶望的なまでに積み上げた財政赤字にほっかむりする二人の顔が浮かぶのである。

「21世紀のグローバリゼーションの行き着く先は全世界の『過剰・飽満・過多』化です」というあたりは、宇野弘蔵の『恐慌論』に通じる。「日本は、世界がごく近い未来に突入する状態を先取りしているだけ」、「今必要なのは、蒐集からいかに混乱なく撤退するかということです。人類は有史以来はじめての課題に直面していることになります」、「グローバリゼーションの後、何十年後かはわかりませんが、今度は逆向きの力が働いてくるような気がします。それは国よりももっと小さい単位で、そこに地域ナショナリズムみたいなものが生まれていく可能性もあるでしょう」というあたりに、「脱近代的な社会システム」を考えようと思うところであった。

先週末、SNSで知り合ったmizu-pさんと飲んだ。mizu-pさんも私と同様に、水野和夫氏の言う「成長に代わる何かを模索するとしたら、それは人生観を変えることでもある」という少しはずれた生き方をしていて、初対面であったが、いろいろしゃべって、はみだし者のジジイ二人でけっこう飲んだ。何かやりたいとも思うが、耳鳴りガンガン、腰はギクギクの身体ボロボロ、まあ春を待つばかりである。

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