« 脱労働力商品化への道 | トップページ | 利子率革命とアベノミクス »

2013年2月26日 (火)

議会は常識、国家は非常識

朝刊を見ていたら、日本評論社の広告に大田英昭『日本社会民主主義の形成』という本があった。副題に「片山潜とその時代」とあって、「大正デモクラシー、戦後民主主義、市民運動へと連なる日本近代思想史の巨大な水脈を堀り起こす」と内容の説明がある。ネットで見ると、大田英昭氏は1974年生まれの若い学者で、なるほどこういう見直しも出てきたのかと思ったところ。

一方、片山潜に始まる日本の社会民主主義の巨大な水脈の再発見もいいけど、私には違和感もある。それは、私は現在「堺利彦とその時代」みたいなことを書こうとしていて、それは堺利彦に始まる労農派社会主義が、コミンテルン系の社会主義に対して、社会民主主義型の社会主義として戦後の日本社会党にひきつがれ、その流れの見直しの中から社会主義の再生を考えているからである。

戦後の日本社会党は、自らの社会民主主義としての社会主義路線をずっと見直しつづけてきた。仙台ヒデさんは、その最後の見直しの責任者みたいな学者さんであった訳だが、その社会民主主義の見直しの結論はどうであったかと言うと、日本が参考にした第2インターナショナル以来のヨーロッパ型社会主義民主主義の国家主義的な限界に気づくことであった。今日の夕刊にあるイタリアの総選挙における緊縮派と反緊縮派の均衡という結果は、限界からの解決口がまだ見つからないところにあるのだと思うところである。

私はまだ大田英昭『日本社会民主主義の形成』を読んでいなから何とも言えないけど、片山潜の議会主義を評価すると、逆に幸徳秋水の無政府主義、直接行動主義が批判されることになる。曰く「労働者の自覚が低く、労働組合の組織もきわめて弱い時期に、ゼネラル・ストライキ等の直接行動を如何にして実行し得るか。ナンセンスである」といった批判であり、大逆事件によって日本の社会主義運動が潰えたことに対する批判であり、現実的で民主的な普選運動が正しかったとする見方であり、これらの批判は大河内一男はじめ戦後のリベラリストに至るまでけっこうある。

片山潜は、アメリカ留学中に改良主義的な社会主義に目覚め、帰国後は労働組合運動や普選運動に取り組む一方で毀誉褒貶も多いから、一度素直に見直すことは必要だと思うところだが、同様に同じ時代にあって、片山潜があんなものは社会主義ではないと批判した無政府主義についても見直すことが必要であると思うところで、それをやらないと「日本社会民主主義の形成」は、「大正デモクラシー、戦後民主主義、市民運動」から現実へと連なるばかりで、その先には進めないということになると思われるところである。

平民社に始まる日本の社会主義運動は、大逆事件後の冬の時代に堺利彦を中心にして孤塁を守り、ロシア革命によって出来た第3インターナショナル(コミンテルン)系の共産党が跋扈するのに対して、堺利彦と山川均を中心とする労農派によってその土着社会主義が引き継がれた。そしてコミンテルンは、労農派や友愛会を社会民主主義と規定して、社民主要打撃論の対象とした訳だが、片山潜はそのコミンテルンの執行委員であった

堺利彦を中心とした日本の土着社会主義の運動は、大日本帝国からコミンテルンも含めて、国家主義との闘争であり、その中で堺利彦は、論争はしても無政府主義を社会主義の敵だとすることはなかった。大杉栄が本を出せば、堺利彦はその序文を書いた。無政府主義とは反国家主義であり、まあ、その辺りから社会主義民主主義の国家主義的な限界を超えるカギをみつけたいと思っているところである。

これもまた新聞からだが、一昨日の日曜日の朝刊の読書欄にアントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『コモンウェルス』(NHKブックス)の書評があった。「帝国」と「マルチチュード」の次は、「コモンウェルス」である。コモンウェルスは、共同体よりも、コミュニティよりも、もっと小さい単位であるようだが、概念は似たようなところにある。評者は以下のように書いている。

「著者は、<共>こそがそうした「所有」への呪縛を乗り越えてゆく概念であり、「人民」や「労働者」といった特定の単位に収斂されない多種多様な人びとの集合体=マルチチュードが依拠し、蓄積すべきものだと説く」と。

『帝国』と『マルチチュード』には、20世紀初頭のアメリカにおける労働組合のIWW(世界産業労働組合)がマルチチュードの先例として書かれている。明治38年(1905)にアメリカに渡った幸徳秋水が接触してインスパイアされたのが、まさにIWWである。議会主義というのは、謂わば「常識」である。中国なども早くこの「常識」を学ばねばならないと思うところだが、この「常識」だけでは世界はどうにもならない。「国家」という非常識について考えることが必要だと思うところであり、幸徳秋水はそれを考えていた訳である。

|

« 脱労働力商品化への道 | トップページ | 利子率革命とアベノミクス »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 議会は常識、国家は非常識:

« 脱労働力商品化への道 | トップページ | 利子率革命とアベノミクス »