« 幸徳秋水の社会主義のつづき | トップページ | 脱労働力商品化の過程 »

2013年2月 2日 (土)

家庭をベースにした堺利彦の社会主義

※堺利彦については2010年10~11月頃に、このブログで書いたところですが、今回全体の流れの中で、以下のとおりに、それを少し書き直すところです。

 堺利彦については「明治20年代の幸徳秋水と堺利彦」でも少しふれたが、あらためて書き直せば生まれは明治3年で(1870)で明治4年生まれの幸徳秋水よりもひとつ年上、福岡豊津小笠原藩士の三男という武士の出である。前述したように、明治29年に堀美知子と結婚してから、同郷の先輩で自由民権運動をなし当時は自由党の衆議院議員であった征矢野半弥に誘われて福岡の『福岡日日新聞』に入社、翌年そこを退社して上京した後は、やはり同郷の末松謙澄のこねで芝白金の毛利家編輯所にて『防長回天史』の編纂に従事、明治32年6月に編輯所が解散になった後、同年7月に萬朝報に入社する。
 前述したように、幸徳秋水は明治31年(1898)に萬朝報に入社して社会主義研究会に参加、明治33年の社会主義協会、明治34年の社会民主党の結成に参加して社会主義者となっていき、萬朝報に入社した堺利彦はそこで幸徳秋水と知り合う訳であるが、その頃、堺利彦はまだ社会主義者にはなっていなかった。萬朝報入社前の明治32年1月の堺利彦の日記には、「わが将来はたしていかん、遠き将来はもとより測るべからず、近き将来の今年中はいかん、一面は編集事業にて過ごすなるべし、一面は新聞記者の知識を得るに努むべし、しかして他の一面は文学界に現わるる運動もまた可ならずや」とある。
 おそらく、当時まだ堺利彦がやりたかったのは文学だったのではるまいかと思われるところで、『防長回天史』の編纂作業をしている間も『福岡日日新聞』や『讀賣新聞』に小説を書いているし、32年7月の萬朝報入社後は、「よろず文学」欄を担当して多彩な論評を書いていて、やがて親しくなった同僚の幸徳秋水から「ひとり自ら清うするにとどまる者」と評されている。
 明治32年6月の日記に「今日山路に金十円借る」とある。山路とは徳富蘇峰の『国民新聞』記者であった山路愛山のことで、この頃は堺利彦といっしょに『防長回天史』の編纂作業をしていて、二人の交友は後に山路愛山が国家社会主義を唱えた後までもつづいた。この頃の堺利彦の日記には「金尽きんとす」、「金いよいよつきたり」とか「この月末非常の不足なり、質を置き尽してなお足らざらんとす、いかにしてこれを補うべきか」とかの記述が毎月のように出て来るが、それは長男の不二が脳膜炎にかかって治療を要し、不二の死後は妻の美知子が肺病を患って療養を要し、そのために堺利彦は万朝報社の給料だけでは生活費が足りなかった訳で、毎月前借するほかに他社に新聞小説を書いたり、『言文一致普通文』や『家庭の新風味』、『枯川随筆』などの著作をしている。
 明治34年(1901)5月20日の日記には、「片山潜、木下尚江、河上清、幸徳伝次郎等が社会民主党というを組織した、予も入党するはずであったが、今日内務大臣から結社を禁止せられた」とある。これはよく知られた話で、堺利彦はなぜ社会民主党に参加しなかったのかと思われるところだが、当時の堺利彦の生活は以下のとうりであった。
 同年5月9日の日記には、「このごろ内職に時間を取られて読書の閑なし、予はいったい、何をして生涯を終わるのであるか、このごろしきりに煩悶にたえぬ」とあり、5月22日の日記には、「これから先、ミチの病中、二年か三年か五年か知らぬけれど、予は全くミチを養うために働こうと思う、予の功名心はそのあとで満足させればよい、予が国家社会のために働くべきことがあるならば、やはりそのあとで働けばよい、病みたる女房のある間は、その療養と看護とのために予の全力を費やして少しも残念でない、功名心なんぞはどうでもよい、国家社会のためなんぞに働かなくてもよい、予はただ予の情を満足させればそれでよい、人は馬鹿というか知らぬがおれはそれでよい」とあり、5月25日の日記には、「このごろ長崎絵入新聞に送る小説の翻訳でいそがしい、ばかげきっている、しかしそれでこそわずかに鎌倉の費用(※美知子夫人の療養費)等を支えているのだ・・今月中に書いてしまわねば月末の勘定がとても引き足らぬ」とある。
 萬朝報に勤めながらも、女房の療養と看護の費用を稼ぐために、堺利彦は内職と称して文章を書きつづける。6月2日の日記には「いろいろ金の不足に困る・・・言文一致の本を早くこしらえて一かたづけしたいものだ」と書き、7月8日の日記には「『言文一致普通文』ができて来た。奇麗な小さな本だ、つまらぬ本でも自分のこしらえたものと思えばはなはだうれしい。・・・ミチは近来だいぶんよい、梅雨にもあまりよわらぬ様子」とあり、6月に『言文一致普通文』の原稿料50円が入ると、6月26日の日記には以下のように書く。
 「原稿料五〇円を煙にしてはなはだすまぬここちがするから、伝票をして丸善に出かけた。
French and German Sosialism.
History of the World Politics of the End of 19th Century.
の二冊を買って来た、近来内職に忙わしくて本を読んだことがない、ちとこれから読まねばならぬ」と。
 堺利彦は明治37年(1904)1月、『平民新聞』第7号の「予はいかにして社会主義者となりしか」に「予が最初に読んだ本はイリー氏のフレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズムであって」と書いているから、ここでやっと社会主義を勉強し始めた訳である。この本は、明治31年(1898)10月に社会主義研究会を始めた安部磯雄や片山潜らは既に読んでおり、幸徳秋水も『帝国主義』の参考文献にあげていて、当時の社会主義入門的な本であったかと思われる訳だが、堺利彦の社会主義が、アメリカから直輸入された社会主義思想そのままでないのは、「予はいかにして社会主義者となりしか」に、「(フレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズム)この本によって、予はフランス革命の結果がその真の目的にそわなんだ次第と、したがって社会主義の起こりきたった理由とを初めてよくのみ込んだ。予はこれに一道の光明を得た。予はこの光明によって予の頭の中にあるすべての思想を照らしてみた。それでついに大混雑の思想が整頓して、影もなく、暗も無く、もつれも無く、一理貫徹、まずは安心を得たつもりである。予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」と書いているのを読むとよく解る。
 堺利彦は、同年9月1日の日記に、「『家庭の新風味』ができた・・・評判もまずまずよさそうである・・・近来新聞にも、いろいろなものを書くし、ちょいちょい本もこしらえるので、枯川先生の名がだいぶん聞こえてきた」と自ら書いている。幸徳秋水や山川均や大杉栄にはそれぞれ代表作があり、近代思想全集などには個人別の巻があって現在でも読めるが、堺利彦にはそれがない。『自伝』が、日本の社会主義思想史として読まれるくらいであろうか。ほかは、ジャーナリスト的な文章が多くて、代表作とか名著とは言われない。その中でも『家庭の新風味』は、内職で書いたものではあるが、ページ数も多く、私は忘れられた代表作だと思う。私流には、要点は以下のとおりである。
 「元来嫁に行く婿を取るというのが間違った話で、今後はただ、一人の男子と一人の女子とが結婚するのである」。「今後の社会は家族を単位とせずして個人を単位とする。家族というものが代々伝わってゆく訳ではなく、一人の男子と一人の女子とが結婚して、そこで新たに家を作ってゆくのである」。「我輩の考うるところによれば、将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならぬと思う。社会の人がすべて夫婦、親子、家族のごとく相愛し、相譲って共同生活を営むのが、すなわち理想の社会であろう。してみれば今の家庭は理想の社会のひな形である。ひな形と言うよりは種とも芽とも言うべきで、この家庭より漸々に発育成長して、ついに全社会に及ぼすべきものである。これが今日の家庭と社会との関係である。・・・社会には不人情がある、家庭には人情がある、社会には競争がある、家庭には和楽がある、社会には詐欺がある、家庭には信実がある、要するに、社会には悪徳がある、家庭には道徳かある・・・」と。
 堺利彦は『家庭の新風味』を「健全なる中等社会を目安とする書」と書き、そこに立憲政治の下に実現すべき家庭の理想を書いた。さらに、そこに貧富論としてこうも書いている。「貧とは支出が収入より多い場合を言い、富とは支出が収入より少ない場合を言う。・・・いくら収入が多くても、それに不相応な支出をしておれば、常に不安心な不愉快な貧者の生活をせねばならぬ。いくら収入は少なくても、それに相応の支出をしておれば、常に安楽な平和な富者の生活ができる。一家の主婦たる者は、こういう貧富論を持っていてもらいたい」と。これは今でも現在の「無縁社会」への処方箋として通用するだけのものを十分に持っているし、要はこういう家庭が崩壊して、国も家庭も借金して支出をするようになったから、それから100年して、財政危機だの無縁家族みたいなことが起っているわけである。
 また、明治36年の「社会と家庭」には、「社会主義の主張するところは、畢竟、善良なる家庭に行なわるるがごとき共同生活を、社会全般に行ないたいというのである。・・・ゆえに、社会主義の実行を期し、真の共同生活の実現を望む者は、必ずまず多くの力を家庭の改革に用い、十分なる社会思想、共同思想をこの間に養うことを勤めねばならぬと思う」と書いて、この考えを実践するために明治36年(1903)4月に堺利彦は由分社はじめて『家庭雑誌』を発行し始めた。堺利彦が大事にしたのは、国家よりも個人であり、家族であり、例え貧乏であろうと相応の生活と品性であった。堺利彦の社会主義は、幸徳秋水と同様に「その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教である」のと同時に、もうひとつ、家庭をベースにした社会主義と言えるだろう。

|

« 幸徳秋水の社会主義のつづき | トップページ | 脱労働力商品化の過程 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 家庭をベースにした堺利彦の社会主義:

« 幸徳秋水の社会主義のつづき | トップページ | 脱労働力商品化の過程 »