« 家庭をベースにした堺利彦の社会主義 | トップページ | あらためて文学とは何かを思う »

2013年2月 8日 (金)

脱労働力商品化の過程

※この話は、この間書いている「労農派論」のつづきではなくて、「労農派論」の後段で書く予定にしている部分のメモ書きです。でも、ここまで到達するにはあとどのくらいかかるのやらです。

昨晩、晩酌をしながらNHKの「クローズアップ現代」を見ていたら、「協同労働」の特集ということで、スペインはバスク地方のモンドラゴンの協同組合が紹介されていた。かつて私は生協に働いていて、30年くらい前には生産協同組合にばかり関心を持っていたから、なつかしかった。

先日、SNSに、「国家主義と功利主義への抵抗は、組織そのものが組織主義と功利主義によって成り立っているが故に、組織的には成立し難いものがある。そうなると、やはり個人の生き方をベースにすることが一番確かであり、私的にはそれが謂わば無政府主義の基である」と書いたら、いくつかコメントがあり、それに書いたコメントを以下ここにも書くところです。

政党でも労働組合でも生協でも、組織は大衆を功利主義的に組織して成り立ちます。一方、共同体は非功利主義・非個人主義で成り立っていますが、その共同体が社会主義的共同体になる場合、それはそれまでの共同体とどこがちがうのかと考えると、社会主義的共同体とは「脱労働力商品化した人々によるコミュニティ」であると思うところです。

そして問題は、脱労働力商品化はいかなるプロセスを経るのかということであり、「無政府主義の基」に仙台ヒデさんから、「近代国民国家の超克の仕方が、単なる否定か、組織的死滅か、その違いではないか?宇野さんには質問したこと無かったです」のコメントをいただいた訳ですが、それにインスパイアされて、以下を考えるところです。

仙台ヒデさんによれば、労働力商品論について「宇野先生は南無阿弥陀仏と言うだけでした」ということですが、それは私的には「それが全ての要諦である」と聞こえるところで、宇野理論が形成される背景から思えば、それは講座派的、エンゲルス的なマルクス理解に対する実質的な批判でもあります。

もうひとつ、その時代、労農派はコミンテルンからは社会民主主義とされて社民主要打撃論の対象とされた訳ですが、社会民主主義とは何かの問題があります。コミンテルンの三二年テーゼを前提とした社会民主主義の理解というのは、左翼を自称する人の間では未だにつづいているところがあり、それは先日、仙台ヒデさんの講演会に行った時も、その主催者の発言の中にも感じたところです。

利彦の社会主義は、国家主義でないものとしての社会主義の追及であって、その流れは政治的には共同戦線党ということになります。共同戦線党というのは、コミンテルンの指示した唯一の全国単一政党(=共産党)の対局にあり、謂わば地域政党連合であり、私的にはプルードン主義に言うアソシアシオンの連合がアナロジーされるところですが、戦前・戦後の運動状況の中では、やはりコミンテルン的な規定が圧倒的に影響力を持っていましたから、労農派は国家論を持たないがゆえに批判されてきました。

戦後の社会党は、戦前の労農派系と友愛会系がいっしょになってつくられましたが、階級政党か国民政党かの左右論争をくりかえしながら、結局は国家を前提とする社会民主主義を追求したところでした。一方にソ連派の協会派があり、それに対して70年代以降に宇野派の学者ブループによって自主管理型社会主義が追求されながらも、未完のまま終わってしまいました。

しかし、この自主管理型社会主義の追求の理論的ルーツにしてツールこそ、戦前の1930年代に宇野弘蔵が構想した三段階論のコアである労働力商品論であると思うところで、それは堺利彦のめざした国家主義でないものとしての社会主義の流れにもつらなるものと思われます。

労農派の共同戦線党とは地域政党連合であり、個々の地域政党を支えるのは個々の地域内の多数のコミュニティであり、個々のコミュニティを支えるのはコミュニティ内にある多様な生産単位と個人です。生産単位とは、各種協同組合、NPOから個人事業ほか多様であり、これらの生産単位と個人は、コミュニティ・ビジネスの主体として、脱労働力商品化の過程にあると考えられます。

同時に、国家主義でないものとしての社会主義と言うか、国家を前提としない社会民主主義はありうるのかを考えると、それは地域政党連合としての国家ということになり、その場合でも営利企業も国家も残る訳ですが、EUにみられるように国家は機能としては縮小されていきます。

あと、「脱労働力商品化の過程」=「協同労働」となるのかどうかについては、少しちがう気がします。労働力商品における個人と自由の問題は、脱労働力商品化の過程を担保するものであり、それをなくせばコミュニティが国家主義にからめとられる危険性は常にあるからです。昨日「クローズアップ現代」を見ながら、30年前も同じことを考えていたなと思いながら、最近は永井荷風の個人主義に惹かれているところです。

|

« 家庭をベースにした堺利彦の社会主義 | トップページ | あらためて文学とは何かを思う »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 家庭をベースにした堺利彦の社会主義 | トップページ | あらためて文学とは何かを思う »