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2013年2月26日 (火)

議会は常識、国家は非常識

朝刊を見ていたら、日本評論社の広告に大田英昭『日本社会民主主義の形成』という本があった。副題に「片山潜とその時代」とあって、「大正デモクラシー、戦後民主主義、市民運動へと連なる日本近代思想史の巨大な水脈を堀り起こす」と内容の説明がある。ネットで見ると、大田英昭氏は1974年生まれの若い学者で、なるほどこういう見直しも出てきたのかと思ったところ。

一方、片山潜に始まる日本の社会民主主義の巨大な水脈の再発見もいいけど、私には違和感もある。それは、私は現在「堺利彦とその時代」みたいなことを書こうとしていて、それは堺利彦に始まる労農派社会主義が、コミンテルン系の社会主義に対して、社会民主主義型の社会主義として戦後の日本社会党にひきつがれ、その流れの見直しの中から社会主義の再生を考えているからである。

戦後の日本社会党は、自らの社会民主主義としての社会主義路線をずっと見直しつづけてきた。仙台ヒデさんは、その最後の見直しの責任者みたいな学者さんであった訳だが、その社会民主主義の見直しの結論はどうであったかと言うと、日本が参考にした第2インターナショナル以来のヨーロッパ型社会主義民主主義の国家主義的な限界に気づくことであった。今日の夕刊にあるイタリアの総選挙における緊縮派と反緊縮派の均衡という結果は、限界からの解決口がまだ見つからないところにあるのだと思うところである。

私はまだ大田英昭『日本社会民主主義の形成』を読んでいなから何とも言えないけど、片山潜の議会主義を評価すると、逆に幸徳秋水の無政府主義、直接行動主義が批判されることになる。曰く「労働者の自覚が低く、労働組合の組織もきわめて弱い時期に、ゼネラル・ストライキ等の直接行動を如何にして実行し得るか。ナンセンスである」といった批判であり、大逆事件によって日本の社会主義運動が潰えたことに対する批判であり、現実的で民主的な普選運動が正しかったとする見方であり、これらの批判は大河内一男はじめ戦後のリベラリストに至るまでけっこうある。

片山潜は、アメリカ留学中に改良主義的な社会主義に目覚め、帰国後は労働組合運動や普選運動に取り組む一方で毀誉褒貶も多いから、一度素直に見直すことは必要だと思うところだが、同様に同じ時代にあって、片山潜があんなものは社会主義ではないと批判した無政府主義についても見直すことが必要であると思うところで、それをやらないと「日本社会民主主義の形成」は、「大正デモクラシー、戦後民主主義、市民運動」から現実へと連なるばかりで、その先には進めないということになると思われるところである。

平民社に始まる日本の社会主義運動は、大逆事件後の冬の時代に堺利彦を中心にして孤塁を守り、ロシア革命によって出来た第3インターナショナル(コミンテルン)系の共産党が跋扈するのに対して、堺利彦と山川均を中心とする労農派によってその土着社会主義が引き継がれた。そしてコミンテルンは、労農派や友愛会を社会民主主義と規定して、社民主要打撃論の対象とした訳だが、片山潜はそのコミンテルンの執行委員であった

堺利彦を中心とした日本の土着社会主義の運動は、大日本帝国からコミンテルンも含めて、国家主義との闘争であり、その中で堺利彦は、論争はしても無政府主義を社会主義の敵だとすることはなかった。大杉栄が本を出せば、堺利彦はその序文を書いた。無政府主義とは反国家主義であり、まあ、その辺りから社会主義民主主義の国家主義的な限界を超えるカギをみつけたいと思っているところである。

これもまた新聞からだが、一昨日の日曜日の朝刊の読書欄にアントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著『コモンウェルス』(NHKブックス)の書評があった。「帝国」と「マルチチュード」の次は、「コモンウェルス」である。コモンウェルスは、共同体よりも、コミュニティよりも、もっと小さい単位であるようだが、概念は似たようなところにある。評者は以下のように書いている。

「著者は、<共>こそがそうした「所有」への呪縛を乗り越えてゆく概念であり、「人民」や「労働者」といった特定の単位に収斂されない多種多様な人びとの集合体=マルチチュードが依拠し、蓄積すべきものだと説く」と。

『帝国』と『マルチチュード』には、20世紀初頭のアメリカにおける労働組合のIWW(世界産業労働組合)がマルチチュードの先例として書かれている。明治38年(1905)にアメリカに渡った幸徳秋水が接触してインスパイアされたのが、まさにIWWである。議会主義というのは、謂わば「常識」である。中国なども早くこの「常識」を学ばねばならないと思うところだが、この「常識」だけでは世界はどうにもならない。「国家」という非常識について考えることが必要だと思うところであり、幸徳秋水はそれを考えていた訳である。

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2013年2月16日 (土)

脱労働力商品化への道

今日は雨降りで外出しないから、2月8日に書いた「脱労働力商品化の過程」の最後でふれた「労働力商品における個人と自由の問題」について、少し考えてみるところ。これまでのように社会主義を国家主義化させないためには、国家を資本家的所有とか労働者的所有とかの生産関係の所有論からみるのではなくて、労働力商品をベースにみることになる。

前述したように、私的には社会主義国家は「脱労働力商品化した人々によるコミュニティ」をベースに、その連合体としての最小限国家という組み立てになる訳だが、この場合の国家は小国の方が成り立ちやすく、大国の場合はEUのようなリージョナルな連邦国家となる。また単位国家の形は、北欧にみられるように王国や立憲君主国であってもいいわけである。

これまでの社会主義論では、国家との仲立ちに「党」が介在して、そうでないものは無政府主義ということになって、社会主義にあらずとされた訳だが、党主体の社会主義の経過と現状をみれば、そうである限り社会主義は国家主義と縁が切れない。かつて社会主義とは「党」が介在することが当たり前のように考えられていた訳だが、それは謂わば後知恵で、レーニン主義以前はそうではなかった。例えば、堺利彦の社会主義など、1914年に書かれた「大杉君と僕」という文章には、以下のように社会主義が解説されている。

Photo_2 「日本の社会主義運動に三派の別が生じていた。今でもボンヤリその形が残っている。
 一、温和派(あるいは修正派)
 一、マルクス派は(あるいは正純派)
 一、直接行動派(あるいは無政府的社会主義)
 これを人について言えば、安部磯雄君は右翼に属し、幸徳秋水君は左翼に属し、僕自身は中間派に属していた。そのうち、幸徳君は殺されたが、安部君と僕とはほぼ昔のままの立場で続いている。そして今日、幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である。・・・ すべて主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宜上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論の上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」というふうにあり、上図のような「社会主義鳥瞰図」が載っている。

日本の社会主義運動は平民社に始まり、やがて三つの流れになったと書く訳だが、その三つの流れは対立している訳ではない。「幸徳君の立場を継承している者は、すなわち大杉栄君である」訳で、堺利彦にあっては、社会主義と無政府主義は濃淡のボカシをもって連続しているのである。

同様に、「表の左端なる無政府的個人主義者中の、宗数的文芸的なる逃避者耽溺者(日本現時文芸家の多数)を取って考える時には、表の右端なる個人主義の下に付記したる、平和無害なる独善独楽家とすこぶるよく相似ていることを発見する」というふうにつながっている。永井荷風の『断腸亭日乗』を読んでいたら、永井荷風が銀座のカフェで辻潤にからまれて逃げ出すという話があったが、堺利彦流に解釈すれば、永井荷風と辻潤はそうちがう訳ではない。私はどちらも好きである。

宇野弘蔵の『「資本論」五十年』によれば、宇野弘蔵の社会主義入門は、中学から高校にかわる頃に大杉栄の『生の闘争』に堺利彦が書いた「大杉君と僕」という序文を読んでからということで、そこには「社会主義鳥瞰図」が添付されており、宇野弘蔵の『「資本論」五十年』はここから語りだされている。

そこで宇野弘蔵は、大杉栄と山川均からアナキズムとサンディカリズムの影響を受けたことや、萩原朔太郎を愛読したことを隠さない。果たして含蓄経済学と言われる宇野理論は、いかなるボカシを通してそれらとつながっているのだろうかと妄想するところ。宇野弘蔵は、大正13年(1924)にドイツ留学から帰国して東北帝大の助教授になってから昭和14年(1938)に2月に教授グループ事件で検挙されて入獄、昭和17年(1941)に東北帝国大を辞職し、戦中は民間の研究所でしのいでいる。

銀座のカフェで永井荷風にからんだ辻潤は、昭和19年の空襲の最中に居候先のアパートで虱まみれで餓死してしまう。辻潤はかつて女房の伊藤野枝を大杉栄に寝取られ、マックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』を訳し、尺八門付けの放浪をし、低人を自称するニヒリストであったが、その生き方は萩原朔太郎に共感され、宮沢賢治の『春と修羅』を発見して評価した。

別に辻潤は宇野弘蔵と関係がある訳ではないが、ここに登場した堺利彦以下の面々にはどこか通底するものがあるように私には思えて、それは何かと言えば、やはり個人と言うより私にこだわる自由な生き方をもって人生をしのいだということであるように思う。そしてこの私の自由は、唯物史観的なブルジョワ概念にある個人主義や自由主義といった歴史的概念とは別のものであると思う訳である。

例えば、原発がなくならないのは、結局は原発容認派が多数になってしまうからであり、そうなってしまうのは、生活水準を落とさないためには原発が必要だという考え方が産業社会では合理的判断とされるからである。だから、ブルジョワ概念にある常に合理性を求める個人主義や自由主義のレベルではその合理的判断を批判できない。生活水準を落とさないためには原発が必要だという合理的判断に基づく生き方は、労働力商品的な生き方であると思うところである。

一方、「生活水準」を落としても涼しい顔をして生きていくというブルジョワ合理主義から自由なスタイルが、脱労働力商品化への道だと思うところであり、そのためにはブルジョワ概念にある個人主義や自由主義や営利企業ではない、新たな個人と自由とコミュニティが必要となると考えるところ。

ブルジョワ概念にある個人主義や自由主義を否定して、協同主義や共産主義をもってするにしても、その協同主義や共産主義が権威に転化することは大いにありうることで、それを防ぐには、あらゆる権威に対置しうる個人と言うよりは私が必要であると思うところ。コミュニティと脱労働力商品化との関係でいえば、個人における脱労働力商品化の営みが先なのである。

ネットを見てたら、小出裕章さんがインタビューに答えて以下のように言っていた。
「どういう社会を作るべきなのか? が最も重要なテーマです。原発事故は、代替エネルギーをどうするか? 経済をどう成長させるか? というようなレベルの話ではありません。私たちの生き方そのものが問われていることに気づいてほしいと思います」と。
ひとりひとりの脱労働力商品化による新しい社会のイメージが見くるところである。

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2013年2月12日 (火)

あらためて文学とは何かを思う

※今回も労農派論からは少し回り道をして、今読んでいる永井荷風の『断腸亭日乗』の読後メモなぞ書くところ。昨晩読んだ昭和16年の日記などは、ほとんど反軍国主義小説としても読める。中国への侵略戦争は既に行われており、2.26事件以降政党政治は軍を中心にした翼賛会政治に変わりゆき、日常生活の規制も日増しに増えて行った。昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まる訳だが、永井荷風は腹を決めたように日々を書き記す。荷風へのリスペクトとシンパシーを込めて、昭和16年から72年経った今、備忘録的に以下メモを書き置くところ。

Photo 昭和16年に永井荷風は63歳、今の私と同年で、元旦の日記の書き出しは以下である。
「昭和十六(一九四一)年昭和十年辛巳正月起稿荷風散人年六拾三
正月一日風なく晴れてあたたかなり。炭もガスも乏しければ湯たんぽを抱き寝床の中に一日をおくりぬ。昼は昨夜金兵衛の主人より貰ひだる餅を焼き夕は麺麭と林檎とに餓をしのぐ。思へば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりで見れば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折り折りの感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり。時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る折など、何とも言へぬ思のすることあり。哀愁の美感に酔ふことあり。かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能はず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり」と。

崖上の洋館に一人住み、女中も置かなくなって久しい4畳半で自炊しながら、「時雨ふる夕、古下駄のゆるみし鼻緒切れはせぬかと気遣ひながら崖道づたひ谷町の横町に行き葱醤油など買うて帰る」の景など、ああ荷風はいいなと思うばかりで、この先かみさんに先に死なれたりしたら、私の貧乏生活もかくなるものかとアナロジーすれば、老いていくことなどもさほど気にならなくなる。次の2月の日記もいい。
「二月初四。立春 晴れてよき日なり。薄暮浅草に往きオペラ館踊子らと森永に夕餉を食す。楽屋に至るに朝鮮の踊子一座ありて日本の流行眼をうたふ。声がらに一種の哀愁あり。朝鮮語にて朝鮮の民謡うたはせせば嘸ぞよかるべしと思ひてその由を告げしに、公開の場所にて朝鮮語を用ひまた民謡を歌ふことは厳禁せられゐると苔へさして憤慨する様子もなし。今は言ひがたき悲痛の感に打たれざるを得ずりき。彼国の王は東京に幽閉せられて再びその国にかへるの機会なく、その国民は祖先伝来の言語歌謡を禁止せらる。悲しむべきの限りにあらずや。今は日本人の海外発展に対して歓喜の情を催すこと能はず。むしろ嫌悪と恐怖とを然してやまざるなり。今かつて米国にありし時米国人はキューバ島の民のその国の言語を使用しその民謡を歌ふことを禁ぜざりし事を聞かぬ。今は自由の国に永遠の勝利と光栄とのあらかことを願ふものなり」と。

「今は自由の国に永遠の勝利と光栄とのあらかことを願ふものなり」なんて書いちゃって大丈夫?、特高に日記を押収されたら獄入り確実だよと心配になるが、荷風の腹は決まっている。6月15日、18日の日記には、以下のようにある。
「六月十五日。・・日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変して聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧洲戦乱以後英軍振はざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人ら及猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。・・・欧羅巴の天地に戦争やむ暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず」と。
「六月十八日。(町の噂)芝口辺米屋の男三、四年前召集せられ戦地にありし時、漢口にて数人の兵士と共に或医師の家に乱入したり。この家には美しき娘二人あり。医師夫婦は壷に入れたる金銀貨を日本兵に与へ、娘二人を助けてくれと歎願せしが、兵卒は無慈悲にもその親の面前にて娘二人を裸体となし思ふ存分に輪姦せし後親子を縛って井戸に投込みたり・・・かの兵士は漢口にて支那の良民を凌辱せし後井戸に投込みしその場の事を回想せしにや、ほどなく精神に異状を来し、戦地にてなせし事ども衆人の前にても憚るところなく語りつづくるやうになりしかば、一時憲兵屯所に引き行かれ、やがて市川の陸軍精神病院に送らるるに至りしといふ」と。

荷風は「無智の軍人ら及猛悪なる壮士ら」を恐れることなく「聖戦」の実態を記す訳だが、この営み、今の世の人の「聖戦」への反省の程を知れば、荷風の驚き、嘆きは街の変貌どころではないであろう。9月の日記には、以下のようにある。
「九月初三。晴。日米開戦の噂しきりなり」。
「九月初六。(無題録)・・米国と砲火を交へたとへサンフランシスコやパナマあたりを占領して見たりとて長き歳月の間には何の得るところもあらざるべし。もし得るところありとせんか。そは日本人の再び米国の文物に接近しその感化に浴する事のみならむ。即デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇することなるべし。(薩長人の英米主義は真のデモクラシイを了解せしものにあらず。)」と。

荷風は「今日は将来を予言すべき時にあらず」としながらも、ほとんど4年後の日本をを言い当てている。そして、12月の日記は以下である。
「十二月八日。褥中小説『浮沈』第一回起草。ほ下土州橋に至る。日米開戦の号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。・・」。
「十二月九日。くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより近隣物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声しょうしょうたり」と。

あらためて文学とは何かを思うところ。以上の覚書は、『断腸亭日乗』の極一部であるに過ぎない。『断腸亭日乗』は戦後に陽の目を見る訳だが、それは日記と言うよりは、『墨東奇譚』に並ぶ荷風文学の傑作である。別に戦争のことばかりを書いている訳ではなく、全編が矜持ある生き方の指南書でもあるから、とりわけこれから老後に向かわれる方には、ぜひ一読をお勧めしたい。

※偏奇館跡の図は、松本泰生「東京の階段」(日本文芸社)から。
 図の左下が谷町。現在の首都高速の谷町Jctの辺り。

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2013年2月 8日 (金)

脱労働力商品化の過程

※この話は、この間書いている「労農派論」のつづきではなくて、「労農派論」の後段で書く予定にしている部分のメモ書きです。でも、ここまで到達するにはあとどのくらいかかるのやらです。

昨晩、晩酌をしながらNHKの「クローズアップ現代」を見ていたら、「協同労働」の特集ということで、スペインはバスク地方のモンドラゴンの協同組合が紹介されていた。かつて私は生協に働いていて、30年くらい前には生産協同組合にばかり関心を持っていたから、なつかしかった。

先日、SNSに、「国家主義と功利主義への抵抗は、組織そのものが組織主義と功利主義によって成り立っているが故に、組織的には成立し難いものがある。そうなると、やはり個人の生き方をベースにすることが一番確かであり、私的にはそれが謂わば無政府主義の基である」と書いたら、いくつかコメントがあり、それに書いたコメントを以下ここにも書くところです。

政党でも労働組合でも生協でも、組織は大衆を功利主義的に組織して成り立ちます。一方、共同体は非功利主義・非個人主義で成り立っていますが、その共同体が社会主義的共同体になる場合、それはそれまでの共同体とどこがちがうのかと考えると、社会主義的共同体とは「脱労働力商品化した人々によるコミュニティ」であると思うところです。

そして問題は、脱労働力商品化はいかなるプロセスを経るのかということであり、「無政府主義の基」に仙台ヒデさんから、「近代国民国家の超克の仕方が、単なる否定か、組織的死滅か、その違いではないか?宇野さんには質問したこと無かったです」のコメントをいただいた訳ですが、それにインスパイアされて、以下を考えるところです。

仙台ヒデさんによれば、労働力商品論について「宇野先生は南無阿弥陀仏と言うだけでした」ということですが、それは私的には「それが全ての要諦である」と聞こえるところで、宇野理論が形成される背景から思えば、それは講座派的、エンゲルス的なマルクス理解に対する実質的な批判でもあります。

もうひとつ、その時代、労農派はコミンテルンからは社会民主主義とされて社民主要打撃論の対象とされた訳ですが、社会民主主義とは何かの問題があります。コミンテルンの三二年テーゼを前提とした社会民主主義の理解というのは、左翼を自称する人の間では未だにつづいているところがあり、それは先日、仙台ヒデさんの講演会に行った時も、その主催者の発言の中にも感じたところです。

利彦の社会主義は、国家主義でないものとしての社会主義の追及であって、その流れは政治的には共同戦線党ということになります。共同戦線党というのは、コミンテルンの指示した唯一の全国単一政党(=共産党)の対局にあり、謂わば地域政党連合であり、私的にはプルードン主義に言うアソシアシオンの連合がアナロジーされるところですが、戦前・戦後の運動状況の中では、やはりコミンテルン的な規定が圧倒的に影響力を持っていましたから、労農派は国家論を持たないがゆえに批判されてきました。

戦後の社会党は、戦前の労農派系と友愛会系がいっしょになってつくられましたが、階級政党か国民政党かの左右論争をくりかえしながら、結局は国家を前提とする社会民主主義を追求したところでした。一方にソ連派の協会派があり、それに対して70年代以降に宇野派の学者ブループによって自主管理型社会主義が追求されながらも、未完のまま終わってしまいました。

しかし、この自主管理型社会主義の追求の理論的ルーツにしてツールこそ、戦前の1930年代に宇野弘蔵が構想した三段階論のコアである労働力商品論であると思うところで、それは堺利彦のめざした国家主義でないものとしての社会主義の流れにもつらなるものと思われます。

労農派の共同戦線党とは地域政党連合であり、個々の地域政党を支えるのは個々の地域内の多数のコミュニティであり、個々のコミュニティを支えるのはコミュニティ内にある多様な生産単位と個人です。生産単位とは、各種協同組合、NPOから個人事業ほか多様であり、これらの生産単位と個人は、コミュニティ・ビジネスの主体として、脱労働力商品化の過程にあると考えられます。

同時に、国家主義でないものとしての社会主義と言うか、国家を前提としない社会民主主義はありうるのかを考えると、それは地域政党連合としての国家ということになり、その場合でも営利企業も国家も残る訳ですが、EUにみられるように国家は機能としては縮小されていきます。

あと、「脱労働力商品化の過程」=「協同労働」となるのかどうかについては、少しちがう気がします。労働力商品における個人と自由の問題は、脱労働力商品化の過程を担保するものであり、それをなくせばコミュニティが国家主義にからめとられる危険性は常にあるからです。昨日「クローズアップ現代」を見ながら、30年前も同じことを考えていたなと思いながら、最近は永井荷風の個人主義に惹かれているところです。

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2013年2月 2日 (土)

家庭をベースにした堺利彦の社会主義

※堺利彦については2010年10~11月頃に、このブログで書いたところですが、今回全体の流れの中で、以下のとおりに、それを少し書き直すところです。

 堺利彦については「明治20年代の幸徳秋水と堺利彦」でも少しふれたが、あらためて書き直せば生まれは明治3年で(1870)で明治4年生まれの幸徳秋水よりもひとつ年上、福岡豊津小笠原藩士の三男という武士の出である。前述したように、明治29年に堀美知子と結婚してから、同郷の先輩で自由民権運動をなし当時は自由党の衆議院議員であった征矢野半弥に誘われて福岡の『福岡日日新聞』に入社、翌年そこを退社して上京した後は、やはり同郷の末松謙澄のこねで芝白金の毛利家編輯所にて『防長回天史』の編纂に従事、明治32年6月に編輯所が解散になった後、同年7月に萬朝報に入社する。
 前述したように、幸徳秋水は明治31年(1898)に萬朝報に入社して社会主義研究会に参加、明治33年の社会主義協会、明治34年の社会民主党の結成に参加して社会主義者となっていき、萬朝報に入社した堺利彦はそこで幸徳秋水と知り合う訳であるが、その頃、堺利彦はまだ社会主義者にはなっていなかった。萬朝報入社前の明治32年1月の堺利彦の日記には、「わが将来はたしていかん、遠き将来はもとより測るべからず、近き将来の今年中はいかん、一面は編集事業にて過ごすなるべし、一面は新聞記者の知識を得るに努むべし、しかして他の一面は文学界に現わるる運動もまた可ならずや」とある。
 おそらく、当時まだ堺利彦がやりたかったのは文学だったのではるまいかと思われるところで、『防長回天史』の編纂作業をしている間も『福岡日日新聞』や『讀賣新聞』に小説を書いているし、32年7月の萬朝報入社後は、「よろず文学」欄を担当して多彩な論評を書いていて、やがて親しくなった同僚の幸徳秋水から「ひとり自ら清うするにとどまる者」と評されている。
 明治32年6月の日記に「今日山路に金十円借る」とある。山路とは徳富蘇峰の『国民新聞』記者であった山路愛山のことで、この頃は堺利彦といっしょに『防長回天史』の編纂作業をしていて、二人の交友は後に山路愛山が国家社会主義を唱えた後までもつづいた。この頃の堺利彦の日記には「金尽きんとす」、「金いよいよつきたり」とか「この月末非常の不足なり、質を置き尽してなお足らざらんとす、いかにしてこれを補うべきか」とかの記述が毎月のように出て来るが、それは長男の不二が脳膜炎にかかって治療を要し、不二の死後は妻の美知子が肺病を患って療養を要し、そのために堺利彦は万朝報社の給料だけでは生活費が足りなかった訳で、毎月前借するほかに他社に新聞小説を書いたり、『言文一致普通文』や『家庭の新風味』、『枯川随筆』などの著作をしている。
 明治34年(1901)5月20日の日記には、「片山潜、木下尚江、河上清、幸徳伝次郎等が社会民主党というを組織した、予も入党するはずであったが、今日内務大臣から結社を禁止せられた」とある。これはよく知られた話で、堺利彦はなぜ社会民主党に参加しなかったのかと思われるところだが、当時の堺利彦の生活は以下のとうりであった。
 同年5月9日の日記には、「このごろ内職に時間を取られて読書の閑なし、予はいったい、何をして生涯を終わるのであるか、このごろしきりに煩悶にたえぬ」とあり、5月22日の日記には、「これから先、ミチの病中、二年か三年か五年か知らぬけれど、予は全くミチを養うために働こうと思う、予の功名心はそのあとで満足させればよい、予が国家社会のために働くべきことがあるならば、やはりそのあとで働けばよい、病みたる女房のある間は、その療養と看護とのために予の全力を費やして少しも残念でない、功名心なんぞはどうでもよい、国家社会のためなんぞに働かなくてもよい、予はただ予の情を満足させればそれでよい、人は馬鹿というか知らぬがおれはそれでよい」とあり、5月25日の日記には、「このごろ長崎絵入新聞に送る小説の翻訳でいそがしい、ばかげきっている、しかしそれでこそわずかに鎌倉の費用(※美知子夫人の療養費)等を支えているのだ・・今月中に書いてしまわねば月末の勘定がとても引き足らぬ」とある。
 萬朝報に勤めながらも、女房の療養と看護の費用を稼ぐために、堺利彦は内職と称して文章を書きつづける。6月2日の日記には「いろいろ金の不足に困る・・・言文一致の本を早くこしらえて一かたづけしたいものだ」と書き、7月8日の日記には「『言文一致普通文』ができて来た。奇麗な小さな本だ、つまらぬ本でも自分のこしらえたものと思えばはなはだうれしい。・・・ミチは近来だいぶんよい、梅雨にもあまりよわらぬ様子」とあり、6月に『言文一致普通文』の原稿料50円が入ると、6月26日の日記には以下のように書く。
 「原稿料五〇円を煙にしてはなはだすまぬここちがするから、伝票をして丸善に出かけた。
French and German Sosialism.
History of the World Politics of the End of 19th Century.
の二冊を買って来た、近来内職に忙わしくて本を読んだことがない、ちとこれから読まねばならぬ」と。
 堺利彦は明治37年(1904)1月、『平民新聞』第7号の「予はいかにして社会主義者となりしか」に「予が最初に読んだ本はイリー氏のフレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズムであって」と書いているから、ここでやっと社会主義を勉強し始めた訳である。この本は、明治31年(1898)10月に社会主義研究会を始めた安部磯雄や片山潜らは既に読んでおり、幸徳秋水も『帝国主義』の参考文献にあげていて、当時の社会主義入門的な本であったかと思われる訳だが、堺利彦の社会主義が、アメリカから直輸入された社会主義思想そのままでないのは、「予はいかにして社会主義者となりしか」に、「(フレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズム)この本によって、予はフランス革命の結果がその真の目的にそわなんだ次第と、したがって社会主義の起こりきたった理由とを初めてよくのみ込んだ。予はこれに一道の光明を得た。予はこの光明によって予の頭の中にあるすべての思想を照らしてみた。それでついに大混雑の思想が整頓して、影もなく、暗も無く、もつれも無く、一理貫徹、まずは安心を得たつもりである。予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」と書いているのを読むとよく解る。
 堺利彦は、同年9月1日の日記に、「『家庭の新風味』ができた・・・評判もまずまずよさそうである・・・近来新聞にも、いろいろなものを書くし、ちょいちょい本もこしらえるので、枯川先生の名がだいぶん聞こえてきた」と自ら書いている。幸徳秋水や山川均や大杉栄にはそれぞれ代表作があり、近代思想全集などには個人別の巻があって現在でも読めるが、堺利彦にはそれがない。『自伝』が、日本の社会主義思想史として読まれるくらいであろうか。ほかは、ジャーナリスト的な文章が多くて、代表作とか名著とは言われない。その中でも『家庭の新風味』は、内職で書いたものではあるが、ページ数も多く、私は忘れられた代表作だと思う。私流には、要点は以下のとおりである。
 「元来嫁に行く婿を取るというのが間違った話で、今後はただ、一人の男子と一人の女子とが結婚するのである」。「今後の社会は家族を単位とせずして個人を単位とする。家族というものが代々伝わってゆく訳ではなく、一人の男子と一人の女子とが結婚して、そこで新たに家を作ってゆくのである」。「我輩の考うるところによれば、将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならぬと思う。社会の人がすべて夫婦、親子、家族のごとく相愛し、相譲って共同生活を営むのが、すなわち理想の社会であろう。してみれば今の家庭は理想の社会のひな形である。ひな形と言うよりは種とも芽とも言うべきで、この家庭より漸々に発育成長して、ついに全社会に及ぼすべきものである。これが今日の家庭と社会との関係である。・・・社会には不人情がある、家庭には人情がある、社会には競争がある、家庭には和楽がある、社会には詐欺がある、家庭には信実がある、要するに、社会には悪徳がある、家庭には道徳かある・・・」と。
 堺利彦は『家庭の新風味』を「健全なる中等社会を目安とする書」と書き、そこに立憲政治の下に実現すべき家庭の理想を書いた。さらに、そこに貧富論としてこうも書いている。「貧とは支出が収入より多い場合を言い、富とは支出が収入より少ない場合を言う。・・・いくら収入が多くても、それに不相応な支出をしておれば、常に不安心な不愉快な貧者の生活をせねばならぬ。いくら収入は少なくても、それに相応の支出をしておれば、常に安楽な平和な富者の生活ができる。一家の主婦たる者は、こういう貧富論を持っていてもらいたい」と。これは今でも現在の「無縁社会」への処方箋として通用するだけのものを十分に持っているし、要はこういう家庭が崩壊して、国も家庭も借金して支出をするようになったから、それから100年して、財政危機だの無縁家族みたいなことが起っているわけである。
 また、明治36年の「社会と家庭」には、「社会主義の主張するところは、畢竟、善良なる家庭に行なわるるがごとき共同生活を、社会全般に行ないたいというのである。・・・ゆえに、社会主義の実行を期し、真の共同生活の実現を望む者は、必ずまず多くの力を家庭の改革に用い、十分なる社会思想、共同思想をこの間に養うことを勤めねばならぬと思う」と書いて、この考えを実践するために明治36年(1903)4月に堺利彦は由分社はじめて『家庭雑誌』を発行し始めた。堺利彦が大事にしたのは、国家よりも個人であり、家族であり、例え貧乏であろうと相応の生活と品性であった。堺利彦の社会主義は、幸徳秋水と同様に「その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教である」のと同時に、もうひとつ、家庭をベースにした社会主義と言えるだろう。

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