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2013年1月 6日 (日)

安部磯雄と社会民主主義

 明治30年に労働組合期成会が発足して、その年末に日本初の労働組合である鉄工組合ができた翌年の明治31年に社会主義研究会が発足した。社会主義研究会を立ち上げたのは、同志社出身のアメリカ帰りの留学生たちで、会長は村井知至であった。村井知至は同志社出身で明治22年(1893)に渡米、アンドーヴァー進学校に学び、明治25年(1892)に同じくアンドーヴァー進学校に入学した片山潜と知り合う。
 村井知至と同志社で同級生だった安部磯雄は同志社を卒業して岡山の教会に赴任後、明治24年(1891)にアメリカに留学、エドワード・ベラミーの『かえりみれば』を読んで、社会主義者になったという。引きつづきドイツにも留学するも、明治30年(1897)に帰国して同年に高野房太郎が結成した労働組合期成会の評議員になった。明治32年(1899)に東京専門学校(後の早稲田大学)の講師になり、その頃に社会主義研究会に入会した。余談だが、後の高野岩三郎グループの権田保之助は、早稲田中学における安部磯雄の教え子である。
 社会主義研究会は三田の惟一館(ユニテリアン協会)に本拠が置かれ、『萬朝報』に「社会腐敗の原因と其救治」を書いた幸徳秋水は村井知至らに誘われて入会するが、幸徳秋水をのぞいてみなクリスチャンであり、翌年、安部磯雄がユニテリアン派の機関誌『六合雑誌』の編集にあたるようになると、社会主義研究会の報告は『六合雑誌』に載るようになった。
 社会主義研究会では、サン・シモン、フーリエ、プルードン、ラッサール、マルクスなどが紹介されており、社会主義研究会は明治33年(1900)には安部磯雄を会長にした社会主義協会となり、さらに明治34年(1901)には日本初の社会主義政党社会民主党へと発展した。参加者は安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎、河上清の6名で、安部磯雄は「如何に貧富の懸隔を打破すべきかは実に二十世紀に於ける大問題なりとす」で始まるその宣言文を書いた。「貧富の懸隔」は21世紀においても未だ解決されないどころか、世界中で大問題となっている。
 こう見てくると、日本に最初に社会主義が入ってきたルートというのは、アメリカに留学したクリスチャンを通してであることが分かる。後の賀川豊彦のアメリカ留学もそうであるが、カルヴィニズム系のアメリカの教団のミッションが、結果的には日本への社会主義の導入にも貢献していた訳である。アメリカン・ルネッサンスにおける超絶主義も、カルヴィニズムに対して批判的に誕生したユニテリアリズムを経て誕生したが、日本ではユニテリアリズムを介してキリスト教社会主義となり、日本における社会主義の先駆けとなった訳である。
 日本におけるキリスト教は、さほど大きな広がりにはならなかった。前述した「内地雑居」による外資の導入に心配した政府が、同時にキリスト教による精神的外資の流入に心配して、ミッション・スクールに対して「宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許サザルベシ」とし、これに反すれば徴兵猶予などの特典を与えないとしたこともあるかもしれない。一方、安部磯雄が帰国後に教壇に立った同志社を辞め、当時は学生だった山川均が同志社を退学したきっかけは、この政府の施策にあったことを思うと、思わぬところで後の重要な社会主義者を東京に追いやったとも言える。
 明治のキリスト教社会主義者には、同志社系のほかにも西川光二郎や木下尚江や石川三四郎がいる。明治36年(1903)に幸徳秋水と堺利彦によって平民社が設立されると、社会主義運動の中心は平民社に移ることになるが、安部磯雄と木下尚江は平民社の相談役となり、安部磯雄は『平民新聞』の英語欄を担当し、木下尚江は毎日新聞社に所属しながら平民社に通い、石川三四郎は幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎と共に平民社の社員となった。片山潜もクリスチャンであり、労働運動が治安警察法によって禁止された後もキングスレー館を拠点にして渡米支援事業などをしながら、『労働世界』を『社会主義』と改題して出し続けてしたが、平民社が設立された後に再度渡米した。
 社会主義協会は、平民社が設立された後も隔月1回の大演説会と月2、3回の小演説会をひらいており、外国語学校教授の村井知至や安部磯雄も演説し、荒畑寒村は安部磯雄の演説について「当時の指導者のなかで、安部の弁舌はその玲朧珠のごとき人格を反映して温雅荘重を極め、時に感情が高潮に達すると双頬を紅く輝かした」と書いている。
 この頃、安部磯雄はマルクスの『資本論』の翻訳にとりかかるが、堺利彦は「平民日記」に「安部磯雄君は相変わらずマルクスの『資本論』の翻訳に従事して居ます、『こんなむずかしい本を読んだ事はない・・』との事・・」と書いている。アメリカ留学に引きつづいてドイツにも留学した安部磯雄ではあっても、やはり経済学は苦手と言うよりは、当時の日本はまだ経済学部はどこにもなかった時代であった。
 やがて平民社がキリスト教社会主義者からすれば過激な唯物論社会主義となって行き、政府の弾圧も強まると、学校の先生をしていることもあって村井知至も安部磯雄も平民社から足が遠のいて行く。明治38年(1905)1月に『平民新聞』が廃刊になって、やがて平民社も解散になると、堺利彦の再婚問題などを批判したキリスト教社会主義の石川三四郎、安部磯雄、木下尚江は『新紀元』を発行し、明治39年(1906)2月に日本社会党が結成された時にも石川三四郎はそこに参加しない。
 同年6月に前年に渡米した幸徳秋水が帰国して直接行動論を唱えて以降、明治の社会主義は直接行動主義と議会主義に二分される。議会主義を支持する常識からすれば、幸徳秋水らの直接行動派は自ら弾圧を招いて自滅したと見る。社会民主党の結党宣言にあるように、当初の日本の社会主義のすすめ方は幸徳秋水も含めてそういうものであったのではなかったかと穏健派は問うところがあるが、果たしてどうか。
 大正時代に入ると、かつてのキリスト教社会主義たちの多くは既にキリスト教から離れてしまうが、新たに鈴木文治と賀川豊彦の二人のクリスチャンが日本の労働運動に登場する。大正元年に友愛会を立ち上げた鈴木文治はクリスチャンであり、高野岩三郎の教え子でもあった。関西の友愛会を率いた賀川豊彦は日本を代表するクリスチャンであり、協同組合主義者であった。
 そして安部磯雄はと言えば、長らくヨーロッパに亡命生活をしていた石川三四郎が帰国し、大正13年(1924)に安部磯雄と日本フェビアン協会をつくる。大正14(1925)年5月に普通選挙法(女性は除外)が公布され、大正15年(1926)12月に社会民衆党が結成されると、安部磯雄はその委員長に就任、昭和3年(1928)に第16回衆議院議員総選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員当選連続4回。社会民衆党党首、社会大衆党執行委員長を歴任。戦後は日本社会党の顧問となった。
 このあたりのことはまた後にふれるが、日本におけるキリスト教社会主義の役割というのは、けっこうしぶといものがある。それは、日本における社会民主主義のルーツであり、やがて日本型社会民主主義となる訳だが、それは安部磯雄と賀川豊彦と高野岩三郎が結党呼びかけ人であった戦後の日本社会党にもつづいている。
 日本における社会主義の見直しは、日本における社会民主主義の見直しとも一体である。果たしてそれはいかなるもので、どう根付くものなのか。むかし早稲田にあった安部球場というのは、安部磯雄から来ている。1905年(明治38)に、安部磯雄が監督をしていた早稲田大学野球部が渡米したおりに、留守を心配した安部磯雄は堺利彦に「警察とは穏やかにやってください」と言い、それを聞いた荒畑寒村は「その無理解と冷淡さとをあきたらず感じたものである」と書いているが、キリスト教もマルクス主義も日本にはなじまなかった中、野球だけは土着化した。安部磯雄は、それを見通していたのかもしれない。

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