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2013年1月19日 (土)

幸徳秋水の社会主義

 前述したように、明治30年12月に労働組合期成会によって日本で初めての労働組合である鉄鋼組合ができ、その機関誌として『労働世界』が出されると、その創刊号と2号に「資本家の言」を書いた横山源之助は、明治31年4月頃に片山潜といっしょに貧民研究会というのを始めた。そして、その第1回の集まりで「以外人物」に接したと、後年に横山源之助は以下のように回想している。
 「以外人物といふのは、知名の人といふ意味でない。・・実は名もない一雑兵で・・萬朝報に秋水の名を以て論説を掲げはじめた萬朝記者で・・傍らにしょんぼりとしていたのは秋水と呼んだ萬朝記者其の人であった。・・此の萬朝記者は、極めて揚らない風采の人で、始終無口で通していたやうだった」と。
 これは、アメリカ帰りのクリスチャンらによって立ち上げられた運動の場に幸徳秋水が初めて登場した時であったと思われるが、幸徳秋水の風采は、明治26年に『自由新聞』に初就職した頃の幸徳秋水を同僚の小泉三申が「背の低い色の黒い、風采甚だあがらざる青年」と書いているのと同じである。
 『自由新聞』から『広島新聞』、『中央新聞』とジャーナリストとしてのキャリアを積んでいった幸徳秋水は、明治31年2月に『中央新聞』が伊藤博文に買収されて藩閥政府の御用新聞になったためにそこを退社、中江兆民の紹介で『萬朝報』の論説委員になった。そして同年10月に、前述したように村井知至を会長とする社会主義研究会が立ち上がる訳であるが、幸徳秋水は同年11月の『萬朝報』に書いた論説「社会腐敗の原因とその救治」を読んだ村井知至と片山潜から誘われて、社会主義研究会に参加することになった。幸徳秋水が明治40年3月に日刊『平民新聞』に書いた「社会主義史について」という文章には、以下のようにある。
 「村井、片山氏二氏連名の端書を以て社会主義研究会設立の旨を報じ、且つ予の入会を勧誘し来れり、予喜んで之に応じ同月廿日芝ユニテリアン惟一館の図書室に開ける同会に赴けり、此日列席せるは前記の安部、片山、杉村、岸本、神田、佐治、豊崎の諸氏にして、予に取ては皆な生面の人なりしも、一見旧知の如く、真に愉快に堪へざる者ありき、其他十数名のユニテリアン會員の傍聴者ありき。・・・會は毎月開會せり、初めは歴史的講演より漸時に実際問題に及べり、予は岸本能武太氏がサンシモンを述ぶるを聞けり、豊崎善之助氏がプルードンを讃するを問けり・・而して予は謂らく此會や実に真面目なる学者の淵叢にして熱誠なる志士の集合なり、此會にして能く発達せば日本思想界の一勢力、一明星たること猶ほ英國のファビアン協會の如くなるを得んと、而して會員諸氏の志も亦此に在りし也、嗚呼十年の春秋は早く夢と過ぎぬ、日本のファビアン協會の諸名士、今将た如何の状ぞ」と。
 アメリカの大学に留学したクリスチャンらに比べれば、幸徳秋水に大きな学歴はない。高知中学に通いながら漢学を学び、高知中学を除籍になった後は中江兆民の書生となり、国民英学校に通って英語を学んだ。国民英学校卒業後は、『自由新聞』に入って「月給大枚六円!其れで毎日ルーター電報を約することを命ぜられ」、翻訳係をしながら世界情勢の知識を得て、さらにルポルタージュしながら記事や論説も書いて、実践的に学んだ訳である。明治29年に書いた「織物会社を観る」の記事には、以下のようにある。
 「器械学の進歩と分業の法は資本の跋扈と伴ふて無数の活人を把つて可憐血肉ある器械となし・・」、「遠隔の地より来つて『寄宿舎』に寄宿せる少女三百人差は六時より夕の六時迄十二時間暗寥たる工場内の土間に無心単調なる器械に向かって黙然として立尽すなり其間僅か三十分の食事時間を与ふるのみ・・」、「労働者保護律の如き其説早く吾国識者の唱ふる所吾人は速やかならんことを希ふ」と。
 これは明治29年12月の『中央新聞』に書かれたルポルタージュ記事であるが、この頃は未だ労働組合期成会もできていない。また、幸徳秋水が初めてヨーロッパの社会主義思想にふれたのは明治30年、母方の再従兄の安岡雄吉がイギリス留学から帰国し、彼が持ち帰ったシュッフレの『社会主義真髄』の英訳本を借りて読んで以来だという。そしてこれも、社会主義研究会の設立よりも早い。しかも、幸徳秋水は土佐に生まれ、十代半ばにして板垣退助らの民権運動家に接し、共に暮らして中江兆民から学んだ民権運動の思想を礎にして、それらを受け入れていったのである。
 社会主義に関心を抱いた幸徳秋水は、限りない探究心と勉学の志をもって幅広く外電を読んだであろうと思われる。だから、幸徳秋水が「社会腐敗の原因とその救治」に、「ヘンリーヂョーヂが言へるが如く、今日の社会は実に、生産力の発達し富の増加するにも拘らず、貪困窮乏亦隨つて増加するてふ、極めて不正不道理の仕合也、是れ一に現存の制度組織が、資本家に向つて莫大の保護を加へて、而も富の一部に集積するを制限することなきが故に、貧富の懸隔をして益す大ならしむれば也」と書いて、それを読んだアメリカで社会主義の知識を仕入れてきた村井知至と片山潜が直ちに社会主義研究会の入会を勧誘しに来たのはむべなるかなであった。
 一方、社会主義研究会が休会になったりすると幸徳秋水は催促したというから、当時の幸徳秋水がこの会に期待したものは大きかったと思われる。さらに秋水は社会主義研究会が「英國のファビアン協會の如くなるを得んと、而して會員諸氏の志も亦此に在りし也」と期待した訳だが、明治40年には「嗚呼十年の春秋は早く夢と過ぎぬ、日本のファビアン協會の諸名士、今将た如何の状ぞ」と書くしかなかった。
 社会主義の研究を目的とした社会主義研究会は、明治33年1月に社会主義の普及を目指して社会主義研協会と改組され、明治34年5月には日本初の社会主義政党となる社会民主党を結党したが、結党2日後には禁止になってしまった。結党メンバーは、社会主義研協会と同じく安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎、木下尚江、河上清の6名で、いずれも明治30年代の社会主義運動をになうのであるが、社会主義研協会の多数を構成したクリスチャンたちは社会主義運動からは早々にいなくなっていった。先の「社会主義史について」の終わりに書かれた「日本のファビアン協會の諸名士、今将た如何の状ぞ」には、それが書かれた明治40年の運動の分裂状況が反映されているようにも思われる。
 明治30年代に日本の社会主義運動が分岐していく背景は、外国から持ち込まれた知識によるモダニズム型社会主義と、日本の運動に根差した土着型社会主義との分化であるように思える。
 明治34年5月に結成された社会民主党の「宣言書」は、前述したように安部磯雄が書いた訳だが、そこにはドイツの社会民主党の綱領を参考にして、①人種的差別の撤廃、②世界平和のための軍縮会議、③階級制度の廃止、④生産手段である土地と資本の公有、⑤交通機関の公有、⑥財産の公平な分配、⑦政治への平等な参加、⑧教育費の全額国庫負担、の8項目の理想綱領と普通選挙などの目標が掲げられた。一方、その1か月前に幸徳秋水は処女作の『廿世紀の怪物帝国主義』を刊行し、その1章「緒言」と5章「結論」は、以下のようである。
 1章「緒言」には、「我は信ず、社会の進歩は、其基礎必ずや眞正科学的智識に待たざる可らず、人類の福利は、其源泉必ずや眞正文明的道徳に帰せざる可らず。而して其理想は必ずや自由と正義に在らざる可らず、其極致は必ずや博愛と平等に在らざる可らず。夫れ古今東西、能く之に順ふ者は栄ふ、松柏の凋に後るるが如し、之に逆ふ者は亡ぶ、春の夜の夢の如し」と。
 5章「結論」には、「嗚呼二十世紀の新天地、吾人は如何にして之が経営を完くせん歟。吾人は世界の平和を欲す、而して帝国主義は之を撹乱する也。吾人は道徳の隆興を欲す、而して帯国主義は之を残害する也。吾人は自由と平等を欲す、而して帝国主義は之を破壊する也。吾人は生産分配の公平を欲す、而して帝国主義は之が不公を激成する也。文明の危険実に之より大なるは莫し」と。
 そして、この幸徳秋水の「自由と正義」や「博愛と平等」を語るのはどこから来たのかと思えば、これは民権運動の思想からであることは明らかである。明治33年に藩閥政治の代表者の伊藤博文を党首にした立憲政友会が結成されて、かつての自由党がそこに吸収された時、幸徳秋水は「自由党を祭る文」に、「嗚呼彼れ田母野や、村松や、馬場や、赤井や、其熱涙鮮血を濺げる志士仁人は、汝自由党の前途の光栄洋々たるを想望して、従容笑を含んで其死に就けり、当時誰か思はん彼等死して即ち自由党の死せんとは、自由党死して即ち自由の死せんとは、彼等の熱涙鮮血が他日其仇敵たる専制主義者の唯一の装飾に供せられんとは」と書いて、志を新たにした。そして、20世紀の幕開けとなる明治34年(1901)に向けて、民権運動の志に20世紀の新しい思想である社会主義を継いで書いたのが『廿世紀の怪物帝国主義』である。
 この本はレーニンの『帝国主義』に先んじること15年、秋水のオリジナルな帝国主義論であり、その序に、内村鑑三は「君は嘗て自由国に遊びしことなきも真面目なる社会主義者なり、余は君の如き士を友として有つを名誉とし、玆に此独創的著述を世に紹介するの栄誉に與かりしを謝す」と書いた。これは、クリスチャンらとちがって外遊経験のない幸徳秋水が「独創的著述」を書き上げたことへの賛辞であろう。
 『廿世紀の怪物帝国主義』は、「帝国主義は所謂愛国心を経となし、所謂軍国主義を緯となして、以て織りなせる政策に非ずや」と論じられ、レーニンの『帝国主義』と比較されると、「資本主義の独占集中への傾向、それと結びついた対外政策としての帝国主義でなく・・・近代資本主義の発展の特定の段階としての帝国主義の理解までには距離がある」とされる。東京大学に経済学部が創設されるのが大正8年(1919)であることを思えば、無理からぬところ。4章「帝国主義を論ず」には、以下のようにある。
 「彼等は何を以て新市場の開拓を心要とするや、曰く資本の饒多と生産の過剰に苦めば也と。鳴呼是れの何の言ぞ、彼等資本家工業家が生産の過剰に苦しむと称する一面に於ては、見よ幾千萬の下層人民は常に其衣食の足らざるを訴へて号泣しつつあるに非ずや。彼等が生産の過剰なるぱ、眞に其需用なきが為めに非ずして、多数人民の購買力の足らざるが故のみ、多欲人民の購買力の乏しきは、富の分配公平を失して貧富の益す懸隔するの故のみ。
 而して思へ、欧米に於ける貧富の益す懸隔して、富と資本が益す一部少数の手に堆積し、多数人民の購買力が其衰微を極むるに至れるは、実に現時の自由競争制度の結果として、彼等資本家工業家が資本に對する法外の利益を壟断するが為めに非ずや。
 故に欧米今日の経済問題は、他の未開の人民を壓伏して、其商品の消費を強るよりも、先づ自国の多数人民の購買力を兀進せしむるに在らざる可らず、自国購買力を兀進せしむるは、資本に對する法外の利益を壟断するを禁じて以て、一般労働に封する利益の分配を公平にするに在らざる可らず、而して分配の公平を得せしむるは、現時の自由競争制度を根本的に改造して、社会主義的制度を確立するに在らざる可からず」と。
 これは日本人が書いた最初の社会主義論であり、その独創性は公式的な社会主義理解を超えている。例えば「愛国主義」についての叙述など、昨今の社会主義国との領土問題などを思うにつけリアルで現代的でさえあり、その独創性は際立っている。自称「愛国者」は。以下の文章などを読んで欲しいところである。
 「夫れ國民の尊栄幸福は、決して領土の偉大に在らずして、其道徳の程度の高ぎに在り、其武力の強盛に在らすして、其理想の高尚なるに在り、其軍艦兵士の多ぎに在らずして、其衣食の生産の饒きに在り。英国従来の尊栄と幸福が彼尨大なる印度帝國を有するに在らすして、寧ろ一個のセークスピアを有するに在るは、カーライル實に我を欺かざるに非ずや」のこれ也。
 また、幸徳秋水への批判には変革の主体を労働運動に置かずに「志士義人」に置いたということがある。これは、ひとつには幸徳秋水の社会主義が民権運動、「田母野や、村松や、馬場や、赤井や、其熱涙鮮血を濺げる志士仁」の延長にあったことと、自ら「孟子の『惻隠の心なきは人に非ざる也』といひ『惻隠の心は仁の端也』といふ、亦此意に近し、社会主義の倫理は蓋し此に外ならず、我は此点に於て孔子の徒たらんことを希ふ」と書く如く、幸徳秋水の思想と生き方の軸には儒教の教えがあったからであろうと思われる。幸徳秋水の社会主義は、民権運動と儒教からきた社会主義と言えるだろう。

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