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2013年1月23日 (水)

幸徳秋水の社会主義のつづき

 さらに、幸徳秋水は「熱烈なる天皇崇拝者であった」とも批判される。その論者は、下記の幸徳秋水が書いた「日本の民主主義」などをその論拠のひとつに上げたりする訳だが、私的にはこの幸徳秋水の民主主義観は、民権運動がそこに論拠を置いたように、民権運動を引き継いだ幸徳秋水においては「天皇崇拝」の論拠というよりは「土着」の論拠と思われるところである。
 「夫れ然り而して吾人の所謂民主々義が、國史の上に無前の光輝を放てるは、實に今上の維新中興の際に在りき、戊辰三月、畏くも親く天地神明に誓ひ玉へる五箇条の御誓文を見よ、彼萬機公論に決すと云ひ、上下心を一にすと云ひ、官武一途庶民に至るまで各其志を遂げしめんと云ひ、天地の公道に基くと云ひ、知識を世界に求むと云ふ、豈是れ所謂民主々義の神髄精華を発揮し尽して餘ウンなき者に非ずや」と。
 幸徳秋水が「日本の民主主義」を書いたのは明治34年5月であり、その前月、『廿世紀の怪物帝国主義』を出版したのと同じ頃、「我は社会主義者也」という一文に「吾人は再び断言す・・『我は社会主義者也、社会党也』と宣言するの真摯と熱誠と勇気のある人に非ざれば、未だ労働問題の前途を託するに足らざる也」と書き、それ以降、独学で社会主義を学んでいき、その成果は明治36年(1903)7月に『社会主義神髄』とし刊行された。
 『社会主義神髄』に社会主義の「鳥眼観(バーヅアイ・ビュー)を描こうとした秋水は、「本書執筆の際、参照に資しは」として、マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』、マルクスの『資本論』、エンゲルスの『空想より科学へ』、イリー教授の『社会主義と社会改良』、バックスとモリスの『社会主義』など揚げ、「教授イリー曰く」、「ロバート・オーエンは」、「近世社会主義の祖師カルル・マルクスは」、「フリードリヒ・エンゲルスも亦曰く」、「パウル・ラフワルギュは曰く」、「碩学スペンサーの如きすら亦曰く」、「ウィリアム・モリス曰く」、「ミル曰く」「ラッサル曰く」と、それらを引用しながら論を展開している。
 例えば、マルクスからの引用は以下のとおり。
 「マルクスは蓋し謂らく、『交換は決して價格を生ずる者に非ず、價格は決して市場に於て創造せらる者に非ず。而も資本家が其の資本を運転するの間に於て、自ら其額を増加することを得るは何ぞや。他なし、彼等は實に價格を創造し得る所の驚く可き力を有する商品を購買するを得れば也。此の商品とは何ぞや、人間の労働力是れ也。夫れ此力の所有者は其生活の必要の為に、之を低廉に賣却せざることを得ず、而して此の力が一日に創造するの價格や、必ず其所有者が一日の生活を支持するの費用として受くる賃銀の債務よりも、遙かに多し。例せば一日六シリングの富を創造し得るの労働力は、一日三シリングを以て購買せらる。其差額を名けて過剰價格と云ふ。彼等資本家が其資本を増加することを得るは、唯だ此過剰價格を労働者より掠奪して、其手中に堆積するが為めのみ』と。
 然り「剰余価格」の略奪は、資本を増加せしめて已まず・・・而して来る者は即ち資本の過多也、資本家は之を投ずるの事業なきに苦しむ、生産の過多也、商品は之を輸するの市場なきに苦しむ、労働供給の過多也、工業的予備兵は之を雇使するの工場なきに苦しむ。今の文明諸国、荀くも近世工業を採用するの地、皆な此ヂレンマに陥り、若くば陥りつつあらざる者なきに非ずや。於是乎『生産過多』の叫聲は到處に反響す」と。
 初めて出会ったであろう経済学との格闘と理解がうかがえるが、その「結論」は『廿世紀の怪物帝国主義』に通じて、以下のとおりである。
 「嗚呼近世物質的文明の偉観壮観は、加此にして始めて能く眞理、正義、人道に合することを得可きにあらずや。眞理、正義、人道の在る所、是れ自由、平等、博愛の現ずる所に非ずや。自由、平等、博愛の現ずる所、是れ進歩、平和、幸福の生ずる所に非ずや。人生の目的唯だ之れ有るのみ、古来聖賢の理想、唯だ之れ有るのみ。・・ 起て、世界人類の平和を愛し、幸福を重んじ、進歩を希ふの志士、仁人は超て。超つて社会主義の弘通と實行とに力めよ。予不敏と雖も、乞ふ後へに従はん」と。
 『社会主義神髄』について、後のコミンテルン系社左翼によるように、「弁証法的唯物論が把握されていないために、唯物史観が進化論的に歪曲されており、社会発展の推進力としての階級闘争の意義が理解されていないために、社会主義自然成長論の傾向をこっていること、したがってプロレタリアートの歴史的使命にたいする認識が欠けている」と批判しても意味がない。幸徳秋水の社会主義は、講座派的な外来種社会主義なのではなくて、謂わば内発的な土着会主義理論なのであり、またそうであったが故に歴史の検証にも耐えうると思うところである。

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