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2012年12月29日 (土)

高野房太郎の夢と放浪

 明治学院を卒業後、庇護者の吉村忠道からアメリカに仕事を学びに行くことを期待されていた島崎藤村は、吉村の横浜の雑貨店を手伝いながらも心は文学へと向かい、アメリカに行くことはなかったが、それより前に、やはり横浜で伯父の経営する店に奉公しながら、商業を学びにアメリカに行くことを決心した高野房太郎という青年がいた。
 明治政府は優秀な官僚をヨーロッパに送り出して、その制度を学ばせた。一方、向学心のある貧乏人は、太平洋の先にある身近なアメリカに渡って苦学した。アメリカに渡った人々の中には、民権運動の理論家の馬場辰猪や活動家で北村透谷の友人の石坂公歴らのように、運動の挫折から半ば亡命のようにアメリカに渡ってそこに客死した者もいるが、キリスト教を学ぶために、仕事を覚えるために、稼ぐためにアメリカに渡った若者たちは、やがて新しい思想や運動を持ちかえった。
 明治20年代の後半は、日清戦争とその勝利による多額の賠償金により資本主義が興隆した時代であり、職工の増加とともに労働運動が起こり、そこにアメリカ帰りの一群の若者たちが労働組合や社会主義の思想を伝え、日本の社会主義運動はそこから始まったと言えるであろう。明治30年前後のことである。
 高野房太郎は、明治2年(1869)に長崎に生まれ、明治10年(1877)に東京に移り住むも父親の死亡後、明治14年(1881)に横浜で回漕店を営む伯父の下で働く。その時に改進党系の自由民権運動にふれ、明治19年(1886)に商業研究之為にアメリカに渡った。そのアメリカ行きの船には、北村透谷の妻の美那の弟である民権運動家の石坂公歴も乗船していたという。
 高野房太郎は、雑貨店を開業したが失敗。その後は家事手伝い、皿洗い、ウェイター、製材所と、家族に送金するために働きつづけながらサンフランシスコで1年弱商業学校へ通い、経済学書や労働運動の本を読み、労働騎士団やAFLの労働運動にふれて、独学したのであろう。明治22年頃から『讀賣新聞』に「米国桑湊通信」などアメリカ事情を書き送り続け、明治23年(1892)5~6月に連載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」には、以下の文章がある。
 「労働は一個の商品に外ならず労役舎らはその商品を売っての生活を為し居る者なり。それ己に一個の商品なり、しからばまた需供の理に支配せらるべき者なり」、「労役者は他の商品の如く容易にその居住の地を離るることを得ず、否彼らはその所在の地において常にその商品を売らざるべからず、いかに安直なる価格にても彼らはこれを売らざるべからず。しからずんば彼らは餓死せざるべからず・・」と。また、さらにこうも書いている。
「(米合衆国中において諸般の職業に従事する)労役者の無業なる者二百万人なり。・・・この千万人の就業者と二百万人の無業者との関係は如何。・・・すなわち彼二百万人の無業者に業を授くるの目的より成り立てる労働時間短縮の挙に出づるのほかなきなり。米国において有名なる八時間労働の挙はけだしこれがために起りたるにほかならざるなり。英国の古詩に曰く、“Eight hours to sleep / Eight hours to play / Eight hours to work / And eights bob a day.”この遊興のために充てたる八時間は正にこれ労役者が教育を修むるの好時間にあらずや。試みに思え、現時労役者の労働時間は大抵十時間にして、もしこれを短縮して八時間となすとせば、二百万人の無業者は正にこれがためにその業を得るにあらずや・・」と。
 高野房太郎の受けた教育は、横浜とサンフランシスコでの商業学校であり、ほかに高等教育は受けていない。しかし渡米4年目、若干21歳にして「労働は一個の商品に外ならず」と認識し、現在につづく失業問題の解決策まで提案している。志がなければ出来ないことで、明治24年(1891)にはサンフランシスコで城常太郎、沢田半之助らと職工義友会を立ち上げ、同じ頃に『讀賣新聞』の社友となり、「日本における労働問題」を連載し、そこには以下のように書いている。
 「試みに日本労働者の現状を見よ。社会の組織は平等を欠きたるがため彼らは空しく不正なる制抑の下に屈服し、天賦の権利は名ありて実なく、優勝劣敗の作用よりして常に厳急なる淘汰を蒙り、財産なく恒心なく教育なく勇気なし、これ実に彼らが現状にあらずや。労働者の境遇既に斯の如し。ここにおいてか一に他人の駆使する所に応じ、狡猾なる請負師のためにその収入を壟断せられ無慈悲なる親方のために不正の利益を貪らる。しかるもなお、かつてこれに抵抗するの勇気なく、終年終日営々として手足を休むるの余きなし。家内団欒の快はほとんどこれを得る能わず、しかも妻子は飢寒に泣き、兄弟溝壑にてん転す・・」と。
 これは、先に書いた北村透谷の「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」。「一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。・・・一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」の一文と、書かれた時期も含めて通じるものがある。両者に共通するのは、青春期に横浜で関わった民権運動と英語の勉強という体験もそうであるが、共に民権運動の純粋な継承者であったというころであろうか。
 明治26年(1893)にAFLの指導者のサミュエル・ゴンバースに手紙を書き、ゴンバースから日本の労働者の状態を寄稿するように求められると、明治27年(1894)『アメリカン・フェデレイショニスト』に「日本における労働運動」を寄稿。明治27年(1894)4月にニューヨークに移り住むと、日本への帰国を考えてか、アメリカ海軍の水兵に職を得て、同年9月にゴンバースに面会。ゴンバースからAFLのGeneral organizer に任命され、て11月に砲艦に乗務。明治28年(1895)、砲艦上から書き送った「日清戦争と日本の労働問題」には、「この戦争は、予想もしなかった恩恵をもたらしてくれました。・・それは他でもなく、この戦争が日本の労働運動に及ぼす影響です」と書き、志しを抱いての砲艦乗務であることをにじませている。寄稿した原文は英文で書かれている訳だが、在米の房太郎に日本の情報を送っていたのは、房太郎からの仕送りで東京帝大に学んでいた弟の岩三郎である。
 砲艦の水兵と言っても高野房太郎の任務はコックであったようで、砲艦マチャイアスは大西洋→地中海→スエズ運河→インド洋→香港→長崎→上海→中国→朝鮮と周って、明治29年(1896)に横浜に寄港。そこは勝手知った街だとばかりに高野房太郎は予定通りに脱艦して帰国したのであった。
 帰国当初は横浜で英字新聞の記者をしたり、『和英辞書』の編集をしたりした高野房太郎は、明治30年(1897)1月に東京に移り住むと、岩三郎の紹介で社会政策学会に入会し、そこで活版印刷所秀英舎の佐久間貞一と知り合う。佐久間貞一は、先に書いたように、横山源之助が『日本の下層社会』を書いた時にもそれを援助した当代一の印刷会社であった秀英舎の経営者で、片山潜曰く「日本のロバアト・オエンと云うべき人」である。佐久間貞一と会って、工業協会総会での講演を依頼された高野房太郎は、1897年(明治30)4月6日に講演、秀英舎で印刷した『職工諸君に寄す』のパンフレットを配布。サンフランシスコ時代の仲間の城常太郎、沢田半之助と職工義友会を再組織して、6月25日に職工義友会主催の演説会を開いて労働組合期成会の結成を呼び掛け、同年7月5日に労働組合期成会発足させた。
 同年12月には、労働組合期成会によって鉄工組合が組織され、12月1日に行われたその発会式は、開会の辞・高野房太郎、祝辞及び演説・佐久間貞一、島田三郎、高野岩三郎、鈴木純一郎、閉会の辞・片山潜であった。島田三郎は衆議院副議長で「我国の政治家中最も社会改良に熱心なる一人」で、毎日新聞の社主であり、横山源之助も彼に雇われたわけだが、この6名が日本の初期労働運動の立役者であったと言えるだろう。
 片山潜は、最初から社会主義者であったのではなくて、若い頃は立身出世をめざして1884年(明治17年)にアメリカに渡り、1896年に帰国するまでの13年間をアメリカで苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、1896年(明治29)に帰国すると『六合雑誌』に寄稿、1897年(明治30)に神田三崎町でキングスレー館を開いて、セツルメント事業を始めた。職工義友会主催の演説会に弁士として参加、同年12月に鉄工組合が結成され、機関誌『労働世界』が発刊されるとその編集長になった。
 日清戦争後の資本主義の進展の中で、労働組合期成会は鉄工組合のほかに、日本鉄道矯正会という鉄道機関手の組合や活版工組合を組織し、労働組合期成会の会員は1899年(明治32)には5700名へと拡大した。労働運動や社会主義についての考え方において、高野房太郎はゴンバース流の労働組合主義であり、片山潜も当初はラッサール流の改良主義であり、ともに共済組合や共働店と称した協同組合に理解があった訳だが、やがて方法のちがいというか、性格のちがいみたいなものが現れる。
 高野房太郎は、生活の糧を得るために「日本における労働運動」の報告をAFLの機関誌などに送り続けたが、明治31年(1898)10月をもってこれを終了。同年11月には労働組合期成会と鉄工組合の常任委員も辞任し、同年12月に鉄工組合横浜支部を指導して「消費組合共営合資会社」を設立した。この共働店はうまくいって、共働店は全国でも試みられていった中、高野房太郎は1899年(明治32)7月には東京に戻ると、八丁堀に石川島造船・沖電気の労働者を対象に「消費組合共営舎」を設立し、働組合期成会と鉄工組合の常任委員にも復帰した。
 一方、片山潜は同じ頃に安部磯雄や幸徳秋水らと社会主義研究会を立ち上げると、鉄工組合の機関誌『労働世界』で「社会主義政党運動との結合に労働組合運動の発展の途を見出そうと」し、高野房太郎と対立するようになった。高野房太郎の働組合期成会と鉄工組合の常任委員復帰にも、高野房太郎に代わって常任委員になった片山潜への批判が鉄工組合内部にあったからだという。
 しかし、現実の組合においては想定を超える共済の給付金の発生や組合費の未納入が財政を圧迫、上からの切り崩しも激しく、1900年(明治33)に入ると急激に衰退し、同年3月に施行された労働者の団結を禁止した治安警察法の制定よって、息の根を止められ、労働組合基盤をなくした共営社や全国の共働店も失敗に終わった。そして、失意の高野房太郎は労働組合運動から身を引いて中国に渡り、流浪のはてに明治37年(1904)に青島で客死する。
 高野房太郎の死に際して横山源之助は、「労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず」と追悼したが、後の時代に講座派の平野義太郎は高野房太郎を「低調なる労使協調論者」と評した。
 横山源之助も高野房太郎も「階級的」ではなかったが故に、後の時代に平野義太郎から「科学的社会主義の理論をプロレタリアの実践闘争の中に活かした」とされた片山潜と比較され、否定され忘れ去られてしまったのであろうが、その階級闘争史観が見直されてみれば、日本の社会主義運動における高野房太郎の位置こそ見直されてしかるべきであろう。明治24年(1891)に『讀賣新聞』に連載した「日本における労働問題」には以下の文章がある。
 「労役者をして直接的利益を享有せしめんとせば、まずこの会合をして友愛協会たらしめんことを要す、すなわちその会員の疾病に罹るやこれを救助するの資金を与え、その死亡するやその家族に扶助金を給与し、その火災その他の不幸に遭遇するや、これを援助するの仕組みを設く、これその一方なり。労役者の貯金を集めて共同営業会社を設け、労役者をして資本家の地位を兼ねしめ、生産上分配上労役者をしてその利益を享有せしむるにあり。あるいは物品の製造に従事し、あるいは日用必需品の売捌に従事し、以て労役者の収入を増し、若しくはその生計費用を減ぜしむ、これその二なり」と。
 これはただ友愛協会と称した共済組合のことを紹介している訳だが、ここにはゴンバース流の労働組合主義とはちがうものがあるように、私には思える。明治33年(1900)5月に書いた最期の提案であろう「鉄工組合刷新私案」にも、信用組合と販売組合と購買組合と生産組合の設立が提案されている。
 高野房太郎は、アメリカで当初はAFLよりかは労働騎士団から多くを学んでいるが、そこには放浪する労働者たちが描く「協同組合共和国」的な理想があった。労働騎士団の労働組合主義的側面はAFLに引き継がれたが、「
生産・消費協同組合の樹立による労働者の解放」を目標にした側面はIWW(世界産業労働組合)に引き継がれている。10年近くにわたってアメリカで働きながらその理想に触れた高野房太郎は、日本の現実に敗れた後、再び出稼ぎ的放浪に出たのではあるまいか。中国に渡った高野房太郎は、サンフランシスコ以来の友人の城常太郎と天津で商店を開き、そこを失敗すると山東省の青島でこれもサンフランシスコ以来の友人と貿易業を行い、明治37年(1904)に青島のドイツ病院で死去したという。
 馬場辰猪に馬場孤蝶という弟がいるように、高野房太郎には高野岩三郎という弟がいる。兄であった馬場辰猪と高野房太郎は長く海外に学びながら、共に日本の現実に敗れて客死し、惜しまれる生涯を終えた。しかし、弟たちは兄の志を継いでけっこうねばっこく生きるのである。

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2012年12月25日 (火)

明治20年代の幸徳秋水と堺利彦

 日本の社会主義の事始めを書こうとして、二葉亭四迷だの樋口一葉だの北村透谷だのと、文学系のことばかり書いて来た訳だが、日本に社会主義が登場するのは明治30年代になってからであり、その前のことから書こうとしたらそうなったところでもある。明治を代表する社会主義者である幸徳秋水は、明治20年代には何をしていたかを幸徳秋水自筆の『年譜』みると、例えば明治24年は以下のようである。
 「四月上京、寓中江家、六月獲病、一時轉白山心光寺、國民英學會に通學す、七月、神楽坂小野に移る、郷里より七圓つつ送り来ることとなれるより、森川町に下宿す、此頃文學書のみを讀めり。此頃より吉原に通ひ始む。此頃の讀書は皆貸本によれり」と。
 これを読むと、幸徳秋水は病弱な文学青年の印象であり、「此頃文學書のみを讀めり」とは何を読んでいたのかと言うと、明治22年4月の『後の形見』によれば、中国や日本の古典のほかに、『春の屋著書生気質』や二葉亭四迷の『あいびき』と『浮雲』なども読んでいるのであった。そして、幸徳秋水が新聞などにものを書きだすのは、明治26年(1893)に中江兆民の推薦で板垣退助の主宰する『自由新聞』の記者になってからであるのだが、何とそこには小説を連載しているのである。『自由新聞』に3編ある内の一つは翻訳ものだが、残り2編の『浮世の秋』と『おそこ頭巾』は幸徳秋水が書いた小説である。
 『浮世の秋』は明治27年8月に秋水の号で連載され、巻頭にディケンズからの引用があり、「五十稲荷の縁日に、夜市見せてよ、とせがむ妹を伴ひて、石油の煤煙空を掠むる小川町の群集押分けての帰途、駿河台を上り果つれば着更へし浴衣また汗となりしに、少時納涼まんと欄干に立よれば、激さんとして泡立てるお茶の水に、碎くる月光金鱗を流すも面白く、莽蒼として黒み渡れる水道橋を、通ふ燈影の流螢と扮ふも風情あり、四顧寂寥として、心地清々しき儘に去も得やらず、古き詩歌など口吟みて、覚えずも夜を更かし、残暑を払ふ秋風の、露を吹て冷かなるに驚きし折の、心長閑けく楽しかりしを、思出るもなつかしき、早や四歳の前とぞなりぬる」の書き出しに始まる、内容は車夫となった男の話である。中江兆民は幸徳秋水に「お前は文学的な人間でとても官途にむく男ではない」といっていたそうで、この書き出しを読めば、幸徳秋水がなかなかの文学青年であったことが分かる。
 また、『おそこ頭巾』は同年11〜12月に「いろは庵」の号で連載され、主人公は新平民という設定である。これも中江兆民が未解放部落の人々から支持されていたことからきているのではと思うところで、後に島崎藤村が同じく新平民を主人公にして『破戒』を書くのよりも10年以上早く書かれており、文体も口語に近いのには驚きであった。この小説での号が「いろは庵」になっているのは、小説入門の意味もあるようだが、当時『自由新聞』の給料が安くてそれだけでは生活が出来なくて、同僚の小泉三申とアルバイト的に書いたせいでもあったからだという。小泉三申は当時の小泉三申の印象を「背の低い色の黒い、風采甚だあがらざる青年」と記している。
 ついでに書けば、やはり明治26年に大阪毎朝新聞に入社した堺利彦も翻案小説や新聞小説を書いていて、『たけくらべ』ならぬ『蝶くらべ』という小説を書いている。これは樋口一葉が『文学界』に『たけくらべ』の連載を始めるのよりも2年早く、幸徳秋水が小説を書くのよりも1年早い。どういう内容かと言うと、金持ちの娘と貧乏人の娘がいて、金持ちの娘は金持ちの男と結婚するが、やがて離婚されて不幸せになり、貧乏人どうしで結婚して幸せになった貧乏人の娘との比較の話で、なんともまあ他愛のない内容で、文体も古臭く、幸徳秋水の小説もそうだが、内容的には謂わば勧懲小説である。
 明治22年(1889)に月謝不納で一高を除席になった堺利彦は、大阪で小学校の教員をしながら小説を書き始めて、枯川漁史と称して地方新聞などに翻案小説を載せだし、明治26年(1893)に教員を辞めた後は「文士兼新聞小説家」になり、母の死後、東京に出てくる。当時、都新聞に勤めていた兄の1895年(明治28)の9月の日記には弟・枯川のことが以下のように書かれていると、後に堺利彦自身が自らの『堺利彦伝』に書いている
 「二二日、午後二時ごろより空少し晴れたれば父上を案内して枯川、小林も同道にて浅草に遊びー直に飲む。
 二三日、雨をおかし夜出で枯川と共に蕎麦を食う。
 二六日夜、父上枯川同道にて寄席に行く。
 二九日蹴月枯川と京橋の角に飲む。
 二日、夜父上のお供して寄常に行き女義太夫を聞きぬ」と。
 樋口一葉が、運命に追われるようにして、その「奇跡の十四カ月」を走り抜けている頃のことであるが、これが、後に労農派を創出した堺利彦の25歳の姿である。明治29年(1896)に結婚した頃から、堺利彦はやっと放縦生活から抜けて行き、明治32年(1899)に萬朝報に入社して、そこで幸徳秋水と出会う訳だが、同年に出た『一葉全集』を読んだ堺利彦は、『読一葉全集』として、以下のように書いている。
 「藤むらさきの表紙に碧梧の一葉、末枯の寂あはれにゆかしく、中天に題して一葉全集といふ。・・短生涯廿六年、苦辛を嘗め尽して世と戦ひたる故樋口夏子の遺著、読まんとして先づ涙さしぐむ。
我が始めて一葉女史の作を読みしは、去年一月の国民之友春期付録に於ける「別路」なりき。一読して先づ其の才思を認め、再読して稍不快の念を起しぬ。不快の念とは何ぞや。我は此に白状す、一女子にして此の如きを思ひ我が文の及ばざるを傀ぢたりし也。猶在住に云へば多少の嫉妬なりし也。之を三読するに及びては、坐に敬意今生じてふ止る所を知らざりき。後女史の作三、四を読むことを得て、いよく其の敬すべぎを知りぬ、それと同時に女史が艱難数奇なる半生の経歴を漏聞きては、いよいよますます其の敬すべきを知りぬ」と。
 幸徳秋水と堺利彦がまだ出合わずにいて、それぞれが文学青年で新聞に勧懲小説を書いていた頃、前述したように北村透谷は『内部生命論』を書いて功利主義と国家主義に対して「自由な精神」の出立を試みて自死し、透谷にシンパシーした樋口一葉は、美登利と信如と正太らの鮮烈な世界を描き上げた「奇跡の十四ヶ月」の後、その短い生涯を閉じた。幸徳秋水と堺利彦の小説はものにならなかったが、幸徳秋水は明治31年(1898)に萬朝報に入社して社会主義研究会に参加し、翌年に入社してきた堺利彦と出会い、以降二人は日本の社会主義を創り出していくのである。

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