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2012年12月25日 (火)

明治20年代の幸徳秋水と堺利彦

 日本の社会主義の事始めを書こうとして、二葉亭四迷だの樋口一葉だの北村透谷だのと、文学系のことばかり書いて来た訳だが、日本に社会主義が登場するのは明治30年代になってからであり、その前のことから書こうとしたらそうなったところでもある。明治を代表する社会主義者である幸徳秋水は、明治20年代には何をしていたかを幸徳秋水自筆の『年譜』みると、例えば明治24年は以下のようである。
 「四月上京、寓中江家、六月獲病、一時轉白山心光寺、國民英學會に通學す、七月、神楽坂小野に移る、郷里より七圓つつ送り来ることとなれるより、森川町に下宿す、此頃文學書のみを讀めり。此頃より吉原に通ひ始む。此頃の讀書は皆貸本によれり」と。
 これを読むと、幸徳秋水は病弱な文学青年の印象であり、「此頃文學書のみを讀めり」とは何を読んでいたのかと言うと、明治22年4月の『後の形見』によれば、中国や日本の古典のほかに、『春の屋著書生気質』や二葉亭四迷の『あいびき』と『浮雲』なども読んでいるのであった。そして、幸徳秋水が新聞などにものを書きだすのは、明治26年(1893)に中江兆民の推薦で板垣退助の主宰する『自由新聞』の記者になってからであるのだが、何とそこには小説を連載しているのである。『自由新聞』に3編ある内の一つは翻訳ものだが、残り2編の『浮世の秋』と『おそこ頭巾』は幸徳秋水が書いた小説である。
 『浮世の秋』は明治27年8月に秋水の号で連載され、巻頭にディケンズからの引用があり、「五十稲荷の縁日に、夜市見せてよ、とせがむ妹を伴ひて、石油の煤煙空を掠むる小川町の群集押分けての帰途、駿河台を上り果つれば着更へし浴衣また汗となりしに、少時納涼まんと欄干に立よれば、激さんとして泡立てるお茶の水に、碎くる月光金鱗を流すも面白く、莽蒼として黒み渡れる水道橋を、通ふ燈影の流螢と扮ふも風情あり、四顧寂寥として、心地清々しき儘に去も得やらず、古き詩歌など口吟みて、覚えずも夜を更かし、残暑を払ふ秋風の、露を吹て冷かなるに驚きし折の、心長閑けく楽しかりしを、思出るもなつかしき、早や四歳の前とぞなりぬる」の書き出しに始まる、内容は車夫となった男の話である。中江兆民は幸徳秋水に「お前は文学的な人間でとても官途にむく男ではない」といっていたそうで、この書き出しを読めば、幸徳秋水がなかなかの文学青年であったことが分かる。
 また、『おそこ頭巾』は同年11〜12月に「いろは庵」の号で連載され、主人公は新平民という設定である。これも中江兆民が未解放部落の人々から支持されていたことからきているのではと思うところで、後に島崎藤村が同じく新平民を主人公にして『破戒』を書くのよりも10年以上早く書かれており、文体も口語に近いのには驚きであった。この小説での号が「いろは庵」になっているのは、小説入門の意味もあるようだが、当時『自由新聞』の給料が安くてそれだけでは生活が出来なくて、同僚の小泉三申とアルバイト的に書いたせいでもあったからだという。小泉三申は当時の小泉三申の印象を「背の低い色の黒い、風采甚だあがらざる青年」と記している。
 ついでに書けば、やはり明治26年に大阪毎朝新聞に入社した堺利彦も翻案小説や新聞小説を書いていて、『たけくらべ』ならぬ『蝶くらべ』という小説を書いている。これは樋口一葉が『文学界』に『たけくらべ』の連載を始めるのよりも2年早く、幸徳秋水が小説を書くのよりも1年早い。どういう内容かと言うと、金持ちの娘と貧乏人の娘がいて、金持ちの娘は金持ちの男と結婚するが、やがて離婚されて不幸せになり、貧乏人どうしで結婚して幸せになった貧乏人の娘との比較の話で、なんともまあ他愛のない内容で、文体も古臭く、幸徳秋水の小説もそうだが、内容的には謂わば勧懲小説である。
 明治22年(1889)に月謝不納で一高を除席になった堺利彦は、大阪で小学校の教員をしながら小説を書き始めて、枯川漁史と称して地方新聞などに翻案小説を載せだし、明治26年(1893)に教員を辞めた後は「文士兼新聞小説家」になり、母の死後、東京に出てくる。当時、都新聞に勤めていた兄の1895年(明治28)の9月の日記には弟・枯川のことが以下のように書かれていると、後に堺利彦自身が自らの『堺利彦伝』に書いている
 「二二日、午後二時ごろより空少し晴れたれば父上を案内して枯川、小林も同道にて浅草に遊びー直に飲む。
 二三日、雨をおかし夜出で枯川と共に蕎麦を食う。
 二六日夜、父上枯川同道にて寄席に行く。
 二九日蹴月枯川と京橋の角に飲む。
 二日、夜父上のお供して寄常に行き女義太夫を聞きぬ」と。
 樋口一葉が、運命に追われるようにして、その「奇跡の十四カ月」を走り抜けている頃のことであるが、これが、後に労農派を創出した堺利彦の25歳の姿である。明治29年(1896)に結婚した頃から、堺利彦はやっと放縦生活から抜けて行き、明治32年(1899)に萬朝報に入社して、そこで幸徳秋水と出会う訳だが、同年に出た『一葉全集』を読んだ堺利彦は、『読一葉全集』として、以下のように書いている。
 「藤むらさきの表紙に碧梧の一葉、末枯の寂あはれにゆかしく、中天に題して一葉全集といふ。・・短生涯廿六年、苦辛を嘗め尽して世と戦ひたる故樋口夏子の遺著、読まんとして先づ涙さしぐむ。
我が始めて一葉女史の作を読みしは、去年一月の国民之友春期付録に於ける「別路」なりき。一読して先づ其の才思を認め、再読して稍不快の念を起しぬ。不快の念とは何ぞや。我は此に白状す、一女子にして此の如きを思ひ我が文の及ばざるを傀ぢたりし也。猶在住に云へば多少の嫉妬なりし也。之を三読するに及びては、坐に敬意今生じてふ止る所を知らざりき。後女史の作三、四を読むことを得て、いよく其の敬すべぎを知りぬ、それと同時に女史が艱難数奇なる半生の経歴を漏聞きては、いよいよますます其の敬すべきを知りぬ」と。
 幸徳秋水と堺利彦がまだ出合わずにいて、それぞれが文学青年で新聞に勧懲小説を書いていた頃、前述したように北村透谷は『内部生命論』を書いて功利主義と国家主義に対して「自由な精神」の出立を試みて自死し、透谷にシンパシーした樋口一葉は、美登利と信如と正太らの鮮烈な世界を描き上げた「奇跡の十四ヶ月」の後、その短い生涯を閉じた。幸徳秋水と堺利彦の小説はものにならなかったが、幸徳秋水は明治31年(1898)に萬朝報に入社して社会主義研究会に参加し、翌年に入社してきた堺利彦と出会い、以降二人は日本の社会主義を創り出していくのである。

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コメント

>日本に社会主義が登場するのは明治30年代になってから
東北が「東北」(=劣後の東北)として位置づけられるのも、明治30年代以降です。日清・日露戦争を発条に日本資本主義が「帝国主義」段階にいたる、そのタイミングです。

投稿: 樹堂 | 2012年12月26日 (水) 14時54分

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