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2012年11月30日 (金)

馬場辰猪と中江兆民

 自由民権運動は、薩長による藩閥政治に対して、明治7年1月に土佐の板垣退助や後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出し、愛国社を設立したことに始まる。当初この民権運動を主導したの士族民権家であったが、人々の間では「一つとせ、人の上には人はなき・・/ 三つとせ、民権自由の世の中に・・/ 六つとせ、昔思えばアメリカの・・」といった「民権数え歌」が歌われ、青年たちにはスペンサーやミル、スミス、ベンサム、ルソーが読まれ、アメリカの独立やフランス革命といった西洋事情は広く知られて、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の『御誓文』は、「民撰議院の設立」を要望する民衆運動へと発展して行った。
 土佐に生まれた愛国社は、全国的に広がる運動によって明治11年に再興され、明治13年の愛国社第4回大会には全国から民権運動家が結集して国会期成同盟が発足し、国会解説要求の書名は24万余に達し、自由民権運動は全国的に大きく高揚した。民権運動の高揚に対して、藩閥政府は明治13年に「集会条例」を発布して演説会や集会を規制したが、明治14年に入ると北海道開拓使払い下げ汚職事件で追い詰められ、同年10月に伊藤博文は『国会開設の勅書』を発表して明治23年に国会を開設するとし、併せて政敵の大隈重信を政府から追放するという「明治十四年の政変」を断行した。
 東京では沼間守一の嚶鳴社、イギリス帰りの馬場辰猪や小野梓らによる共存同衆、福沢諭吉の慶応義塾系の交詢社、中江兆民の仏学熟といった演説団体や塾が起こり、銀座通りには新聞社が軒を連ねて言論活動を活発化させていた。そして『国会開設の勅書』が出されると、国会開設に向けて、明治14年には板垣退助を総理とする自由党が、明治15年には大隈重信を総理とする立憲改進党が結成されたが、民権運動の最盛期はこの頃までであった。
 国会開設の腹を決めた伊藤博文は、新たにつくる憲法を学びにイギリス、フランスではなく、ドイツ帝国に渡り、併せて自由党の分裂を図り、資金を提供して板垣退助を外遊に赴かせた。板垣退助は、国会開設が決まったことで民権運動の目的が達成されたとして、これから与えられる国会と憲法に対して、その内容に関係なく満足してしまい、提供された金で7カ月間のヨーロッパ漫遊を決め込み、帰国後は自由党を解党してしまったのである。秩父事件が起るのは、自由党の解党大会の直後であった。
 この板垣退助を猛烈に批判した民権家がいる。前項の樋口一葉の明治27年(1893)3月の日記に、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし」と書かれた馬場孤蝶の兄の馬場辰猪である。
 馬場辰猪は、嘉永3年(1850)に土佐藩の士族の家に生まれ、福沢諭吉の慶応義塾に学び、明治3年(1870)にイギリスに留学。明治11年(1878)に帰国し、帰国後は政府に仕えずに、共存同衆や国友会といった演説団体を通じて民権思想の啓蒙活動にあたった。長年にわたるイギリス留学で得た知識と思想と批判力で自由民権運動最高の思想家とされたが、それを恐れた藩閥政権による冤罪で入獄、出獄後の明治19年(1886)6月にアメリカに渡り、明治21年(1888)11月に結核によりフィラデルフィアで客死した。
 馬場辰猪は、イギリス留学中に『日本語文典』という本を英文で書いている。これは明治6年に森有礼がアメリカで『日本の教育』を出版して「英語採用論」を唱えたことに対して、インドを例に英語採用という近代化論は国民の上層下層の間で英語デバイドが生ずるとした批判の書であった。これについて萩原延壽は、「森は国際的な利益を優先させ、馬場は国内的な影響を憂慮した。・・・二人の議論が露呈したのは、日本の近代化に対する二つの道・・国権と民権のいずれを優先すべきかという・・論点ではなかったろうか」(『馬場辰猪』中央公論社)と書いている。この議論は、形を変えて今なおつづく議論ではあるまいか。
 馬場辰猪の代表作と言われる『天賦人権論』は、明治15年に出された東京大学総理加藤弘之の『人権新説』に対する批判として書かれた。加藤弘之は明治6年に『国体新論』を書いて、天賦人権論にもとづく民権思想を喚起したのだが、『人権新説』においては「優勝劣敗、適者生存」の進化論をもって天賦人権論を否定した。加藤は自らの西欧派ぶりを示しながら日本の民権運動を否定したわけだが、馬場はこの型の「西欧派」知識人をゆるすことが出来なかったわけである。
 先進国のイギリスに学び、その議会でディズレーリやグラッドストーンの議論するのを聴き、彼らに自ら書いた『条約改正論』を贈った馬場は、帰国後、「観念としての民衆と事実としての民衆の乖離」という壁に突き当たる。そして「理念に対する確信と運動に対する失望」に引き裂かれていく。この「西洋と日本」という課題は、馬場の後に生きた日本の知識人における課題であり、その葛藤の中で在野に生きることを志した馬場の生き方と最期は、先に書いた二葉亭四迷や、この後に書く夏目漱石に通じるものである。
 もうひとつ、ヨーロッパ漫遊から帰国した板垣退助が突然自由党を解散してしまった後、馬場辰猪は末広重恭、大石正己とともに独立党という政治結社を組織したのであるが、この結社は組織をもたなかったという。そしてそれは、「自由民権運動の一大結合の日のために、先駆的な役割を果たすことを期していた」からだという。運動は分裂するものであるが、運動を分裂させないためにはすべからくそういう組織の在りようが必要な訳で、馬場の構想した組織なき独立党は、後の組織なき土着型共同戦線党の原点かと思うところである。
 当代最高の知性と能力を持ちながら藩閥政府に仕える栄達の道を選ぶことなく、「民心の改革」を自らの使命として在野に生きた馬場辰猪は、遠くアメリカは東部で貧困のうちに客死した。樋口一葉が、ある日訪れた馬場孤蝶を日記に「故馬場辰猪君の令弟なるよし・・うれしき人也」と書いたのは、亡き馬場辰猪へのシンパシーであったのではなかろうか。

 馬場辰猪と同じく土佐藩の出身で、同じくヨーロッパに留学して、馬場辰猪と並ぶ民権運動の思想家であった人に中江兆民がいる。二人は渡欧前にも鍛冶橋の土佐藩邸で会っており、フランスに留学した中江兆民は明治6年(1873)秋にロンドンに馬場辰猪を訪ねていて、馬場もフランスに行っている。この頃のロンドンはヴィクトリア期の最盛期でマルクスやモリスも健在な時期であり、この頃のフランスはパリ・コミューンの直後のフランスであった。この二人はそういう時代と空間を体験し、帰国後は日本に民権思想を根付かせようと苦闘し、藩閥政治との闘いに倒れたのであった。
 中江兆民は、弘化4年(1847)に土佐藩の足軽の家に生まれた。明治4年(1871)にフランスに留学。明治7年(1874)に帰国し、帰国後は仏蘭西学舎(後の仏学塾)を設立してルソーの『民約論』を翻訳、仏学塾は「民権論の源泉」となり、入塾者は延べ2000名に達したという。明治8年(1875)2月に東京外国語学校の校長になったが、3カ月足らずで辞め、同年5月に元老院の書記官となったが、これも元老院幹事の陸奥宗光と意見を異にして、明治10年(1877)年に退職。明治14年(1881)にパリ留学中に交遊のあった西園寺公望を社長、中江兆民を主筆とする『東洋自由新聞』が創刊され、フランス流の自由平等の説を唱えたのであったが、政府による弾圧のためにすぐに廃刊。明治15年には板垣退助社長の『自由新聞』が創刊され、兆民は社説掛に招かれたが、これも板垣退助の洋行問題で馬場辰猪とともに板垣退助の下を去った。
 中江兆民は、その後ルソーなどを翻訳、出版、遊説、言論活動をつづけながら、明治20年(1887)5月に『三酔人経綸問答』を刊行。その書き出しにある「南海先生はなはだ酒を嗜みはなはだ政治を論ずることを好む」とあるように、自らも南海先生の如く生きていたようだが、同年再び民権運動が活気づくと藩閥政府は保安条例を公布して、兆民ほか有力な政治家を東京から追放してしまった。そこで中江兆民は、大阪に退いて『東雲新聞』を創刊して国会開設に向けて論陣を張るのだが、その兆民の家に学僕として住みこんだのが幸徳伝次郎で、後に兆民から秋水の号を与えられるのである。
 明治22年2月に大日本憲法が発布されると、幸徳秋水の『兆民先生』に曰く、「先生嘆じて曰く・・憲法果たして如何なる物乎、玉か瓦礫か・・憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑するのみ」であったという。そして兆民は、未解放部落の人たちの応援を得て明治23年の衆議院選挙に大阪四区から立候補して一位で当選するも、民党統一に対する土佐派の裏切りに憤慨して、これも3カ月たらずで辞めてしまった。
 せっかく議員になったのにと思うよりも、「無血虫の陳列上」に議員でありつづける兆民こそ想像できないところで、議員を辞めた兆民は明治24年に北海道に渡って、やがて紙問屋などの事業を始めて失敗しつづける。秋水は『兆民先生』に曰く、「二十六年より、二十七八年に至る間、先生北海道より東京に、東京より大阪に、往復しきりにして、而して家益々貧に、衣服典しつくし、蔵書売りつくして、晏如たり、曾て笑って曰く、大飢饉なる哉、朝暮唯だ豆腐の滓と野菜のみ、何ぞ惨なるや」と。
 『三酔人経綸問答』は明治20年に書かれたものであるのに、そのリアリティは現在も少しも失われていない。洋学紳士君の民主制の主張と豪傑君の侵略主義の主張は、それから125年の時を経ても、相も変わらずに繰り返されている。そして南海先生は、「所謂民権なる者は自ら二種有り、英仏の民権は恢復の民権なり、下より進みて之を取りし者なり、世叉一種恩賜的の民権と称す可き者有り、上より恵みて之を與ふる者なり」と言うわけだが、英仏の「恢復の民権」こそが兆民の言わんとするところかと思えば、『三酔人経綸問答』の結末の南海先生の言うところを読めば、必ずしもそうではない。答えはいまだに投げられたままなのである。
 幸徳秋水は『兆民先生』に、「先生は決して恩賜的の民権を以て満足する者にあらざりし也・・我党宜しく恩賜的の民権を変じて、進取的民権と成さざる可からず」と書いて、次には「先生は所詮主義の人也、理想の人也」と書いた。秋水が兆民の死後に『兆民先生』を書いたのは、「我党宜しく恩賜的の民権を変じて、進取的民権と成さざる可からず」と、兆民の意志を自らに課したことと思われる。
 北村透谷は明治26年9月に「兆民居士安くにあるか」に、「世、兆民居士を棄てたるか、兆民居士、世を棄てたるか、抑も亦だ仏国思想は遂に其の根基を我邦土の上に打建つるに及ばざるか。居士が議会を捨てたるは宜なり、居士が自由党を捨てたるも亦た宜なり、・・然れども何が故に、居士は一個の哲学者たるを得ざるか」と書くが、これは残念だというよりも、必要なのは哲学であるという共感の表明であろう。この透谷の一文を兆民が読んだかどうかは分からないが、明治34年(1901)4月に中江兆民は喉頭がんを宣告されてから書き始めた『一年有半』には、「我日本古より今に至る迄哲学なし」と批判し、さらに書きつづけた『続一年有半』は、死の直前における以下のような「ナカエニスム」の展開であった。
 「夫れ世界萬有は、無始無終で有て・・即ち神は絶対に無いので有る、而して精神は如何にで有るか 余は云ふ 不滅としての精神は無いのである」、「他日幸に其人を得て此間より一のナカエニスムを組織することが有るならば、著者に取って本懐の至りで有る」と。
 言うなれば、これは土着の唯物論の表明であり、それを受け継いだ者こそ幸徳秋水であった。西洋に近代化を学び始めた時はもとより、現在にいたるまで外発まかせで近代化を押しすすめて来た日本は、今に至るまで自らの哲学を持ちえないで来た。『三酔人経綸問答』の洋学紳士君は、馬場辰猪がモデルだと言われている。そして、豪傑君に類する人は、今ますます増えつつあるのを見れば、私たちが立ちかえるべき明治は、日露戦争後の「坂の上」ではなくて、日露戦争前の「坂の下」であろうかと思うところである。

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連載、愛読しています。教えられること多く、ご努力に感謝します。

投稿: 伊豆利彦 | 2012年12月20日 (木) 13時46分

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