« 二葉亭四迷の社会主義 | トップページ | 一葉の日記から »

2012年11月14日 (水)

横山源之助

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、明治4年(1871)に富山県魚津に生まれ、左官屋に引き取られた私生児であった。富山県中学校に入学したものの、翌年には東京に出て木賃宿を泊まり歩き、英吉利法律学校(後の中央大学)に学んで弁護士をめざした頃に二葉亭四迷の『浮雲』を読んで、それに打たれて二葉亭四迷を訪ね、そうこうするうちにそこで松原岩五郎や内田不知庵(露庵)らと知り合いになる。
 松原岩五郎は、横山源之助曰く「放浪組の隊長」で、当時徳富蘇峰主筆の『国民新聞』にいて、下層社会のルポルタージュなどを書き、内田魯庵のつてで二葉亭四迷と知り合った。そして、明治26年(1893年)に『最暗黒の東京』をルポルタージュする訳だが、当時は政府の殖産政策による新しい産業が起こる一方で、都市ではそこに描かれたように、車夫をはじめとする雑多な生業が底辺部を構成し、まさに松原岩五郎がこれをルポしたごとくに、たくさんの新聞、出版、印刷などのジャーナリズムが起こってくる。
 当初ならんとした弁護士への思を絶ち、天涯茫々のフーテンとなった横山源之助は、「隙間さえあると長谷川君(二葉亭四迷)を尋ね」、「遠慮会釈もあればこそ、ずるずるべったりに泊りこんだことも一、二度ではない。君はその頃英国職工の生活や賃金を調べていた」と二葉亭四迷の回想記に書いている。そして、松原岩五郎や横山源之助の「長谷川君に服していた連中」は、よく議論をし、前章で書いたようにいかがわしい場所に出入りした。これは3人のフーテンが巷間を飲み歩いたというよりは、明治20年代における意識的な下層社会のフィールドワークであり、日本のプレ社会主義的営みである。
 横山源之助は、明治27年(1894)に毎日新聞に入社すると、底辺生活のルポルタージュを書いて好評を得る。明治29年(1896)からは地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようと、同年2月には佐久間貞一を訪ねてその支援を得て、3月に桐生・足利へと旅立った。松原岩五郎の『最暗黒の東京』が、明治20年代前半の東京における底辺層の生業ルポであったのに対して、日清戦争に勝利した後に、繊維産業を中心に資本主義の生成期に入った日本社会では、そこに新たな底辺社会を誕生させつつあり、横山源之助はそれをルポしに旅立ったわけである。それはやがて『日本の下層社会』にまとめられる訳だが、その陰には日本のロバート・オウエンと言われた佐久間貞一の援助があった。
 明治30年7月、横山源之助が関西で調査活動をしていた時に、高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会が設立され、同年10月に帰京した横山源之助は、積極的にそれに関わって行く。同年末に鉄工組合の機関誌「労働世界」が発行されると、そこに文章を書き、編集も担って行く。そして、明治32年(1899)に労働新聞社の社会叢書で横山源之助の『内地雑居之日本』が発行される。
 内地雑居とは、明治32年から実施された諸外国との通商航海条約の改正によって、諸外国によるそれまでの治外法権と関税自主権の廃止への引き換えとして、外国人の国内居住が自由になったことであり、謂わば「自由化」であった。高野房太郎が労働組合期成会を設立した背景にも内地雑居がある。『内地雑居之日本』に横山源之助は、こう書く。
「日清戦争により最も激しく影響を見たるは、工業社会を第一となす、各種の機械工業起こりたるも、此二三年来の事にして、即ち日清戦争以来のことなり・・・労働問題の起こりたるも、同盟罷工生じたるも、工場条例の発布せられんとするも、皆戦争以後なり、今ま内地雑居の暁、資本に欠乏せる我が工業界に外国の資本入り込み、外国の資本家が親ら工場を建て、我が労働の安きを機会として、工業に従事する暁は果たして如何なるべきや・・・」(岩波文庫P14-15)と。
 そして、『内地雑居之日本』に横山源之助は、その結論をこう書く。
 「労働問題最後の解釈は賃金問題にあらず、時間の短縮問題にあらず・・・工業社会に占むる労働者は位置問題なり、或意味にては資本家に対する権利問題なり、之を他の意味にていへば失業者問題なり、此の問題を解釈するを得るにあらざれば、未だ労働問題を解釈し得たりと見るべからず」(P111)
 「即ち余は諸君に工業上の共和を望めるを以て、政治の上に於ても社会主義を取るべしと唱導せんとす。・・・君主政治の国家に於ても共和は之を容るるに足る、英国は君主政治なり、然れども政治上の共和は行われ居るにあらずや、且国体に反するの故に、社会主義を排斥するが如きは、愚の骨頂なり・・・国体云々を口実として社会主義の入来るを排斥せんとするものあらば、却って社会主義の勢力を大ならしむべし」(P117-118)と。
横山源之助は、安部磯雄や片山潜のようにアメリカ帰りであった訳ではない。魚津に生まれ、職人に育てられ、上京してからは谷中辺りを根城に天涯茫々のフーテン生活を送り、職を得た後は全国の底辺に生きる人々をルポして歩いた。そこから生まれたものが、横山源之助にとっての社会主義であった訳である。
 また、横山源之助は、安部磯雄や片山潜らの社会主義研究会に参加せず、明治34年の社会民主党の創立にも参加していない。英吉利法律学校でイギリスの法律と社会を勉強していたせいか、革命的な社会主義思想についても否定的である。社会主義にシフトした片山潜と分かれて、非革命的な改良主義的な労働運動を志向、実践しようとしたわけだが、それは横山源之助を頼って富山から東京に出てきた育ての親家族10名の生活を背負って売文業をせざるを得なかったせいでもあった。
 大正4年6月3日、横山源之助は貧困の中、白山前町の間借りの2階で結核に肺炎を併発して死んだ。横山源之助の名は日本の社会主義運動の中では忘れられてしまったが、『日本の下層社会』と『内地雑居之日本』は、生成期の日本の資本主義から生まれ、「日本的風土、日本的労働運動に適応された最初の社会主義」(立花雄一『評伝・横山源之助』P150)と言えるだろう。

 横山源之助は、法律学校を卒業してから毎日新聞に入るまでの4年間を谷中初音町に住んでいたという。本人の「回想記」には、以下のようにある。
 「谷中に引っ込んで弁護士試験の準備に取り掛かったが、法律書は其方退に小説や宗教書に耽っていた。・・・空漠とした宗教書や、小説類を読み耽って、お仕舞には試験が一二か月前に迫ったが、其様なことに頓着なく、菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛けて、日を消したことが一二度ではない」と。
 また、島崎藤村の『春』には、以下の記述がある。
 「四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読する李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。思うさま泣いた」(『春』百十二)と。
 明治24年(1891)~明治28年(1895)頃、横山源之助は谷中初音町に住み、天涯茫々と自称する如くフーテンのように生きていて、司法試験の勉強そっちのけで「菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛け」、その少し後くらいだろうか、1895年(明治28)に島崎藤村は、李白の詩集を持って、道灌山に泣きに行っている。
 余談だが、私の出た高校は道灌山にあったから、勉強嫌いな私は授業を抜け出すと、谷中や道灌山周辺でわけもなく日を消したことが幾度もあった。そして、1972年の夏に、大学をやめると言って父と言い争いして家を出て働きだした私は、翌年に結婚をすると団子坂下のアパートで新婚生活を始めたのであった。アパートの裏には動坂から根津につづく藪下通りという間道があり、団子坂上から根津に向かってだらだらと下るその道は、ちょっと都会離れした小道であった。樋口一葉の『日記』、明治27年6月の「水の上日記」に、以下のくだりがある。
 「四日 はれ。午後より、小石川亡老君の墓参をなす。天王寺也。きのふ三年の祭成しを得ゆかざりしかば、邦子と共に参る也。墓前に花を奉り、静に首をあげてあたりをみれば、何方より来にけん、小蝶二つ、花の露をすひ、石面にうつり、とかくさりやらぬさま、哀れにもさびし。邦子としばしここにかたりて、それより寺内を逍ゑうす。雲井龍雄の碑文などをみる。夕日のかげくらく成ほど、雨雲さへおこりたちて、空の色の物すさまじかいに、そそやといそぐ。團子坂より藪下を過ぎて根津神社の坂にかかる。・・・」と。
 谷中天王寺に墓参りに行った帰り道に、「團子坂より藪下を」ぬけ、根津神社前の坂を上って、本郷追分から丸山福山町の自宅に帰ったのであろうか。一葉はよく谷中天王寺に墓参りに出かけたようだが、団子坂を下って谷中の墓地方面に三崎坂を上った辺りが、横山源之助の住んでいた谷中初音町である。

|

« 二葉亭四迷の社会主義 | トップページ | 一葉の日記から »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113260/56110695

この記事へのトラックバック一覧です: 横山源之助:

« 二葉亭四迷の社会主義 | トップページ | 一葉の日記から »