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2012年11月20日 (火)

北村透谷と『文学界』

 一葉が「我れは営利の為に筆をとるか」、「文学は糊口の為になすべき物ならず」と書いたちょうど同じ頃に、「然れども文学は事業を目的とせざるなり」、「嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之求めむ」と書いて文学における功利主義を批判し、一葉にも深く共感せしめただろう若者がいた。この文章は、明治26年(1893)に刊行された『文学界』2号『人生に相渉るとは何に謂ぞ』に書かれ、筆者は北村透谷である。
 北村透谷は、明治元年(1868)に小田原に生まれ、明治14年(1881)に東京に移住して泰明小学校に転校。おりからの自由民権運動に熱中して、明治16年(1883)には神奈川県会の臨時書記となり、英語の勉強のためにグランド・ホテルでボーイをやり、三多摩自由党の領袖石坂昌孝と知り合い、石坂公歴や大矢正夫らの青年壮士と交友し、明治17年(1884)頃には、父宛の書簡『哀願書』に、以下のように書いている。
 「豚児門太郎謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ以テ大人ノ座下ニ捧グ、児、曾テ経国ノ志ヲ抱イテヨリ日夜寝食ヲ安フセズ。単ヘニ三千五百万ノ同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ、且ツヤ、又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱肉強食ノ状ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男子ノ事業ト定メタリキ」と。
 しかし、この秋に大矢正夫がら自由党左派の大井憲太郎が企んだ後に言う大阪事件の資金活動に参加するのを求められると、当時の壮士型民権運動に批判的でもあった透谷はこれを断り、民権運動から離脱した。その後、透谷は石坂公歴の姉でクリスチャンであったミナと激しく恋愛、明治21年に数寄屋橋教会で洗礼を受けキリスト教に入信、ミナとの新婚生活に入り、明治22年(1889)に『楚囚之誌』を、明治24年(1891)には『蓬莱曲』を自費出版し、戯曲から文学へとのめり込んで行く。
 小田切秀雄は、「北村透谷は明治一八年に自由民権の政治家から敗退したが、二葉亭四迷は明治二二年に近代文学から敗退した」と書いた。「文学から敗退した」二葉亭四迷は松原岩五郎や横山源之助と底辺社会をフィールドワークし、「自由民権の政治家から敗退した」北村透谷は政治から文学への道を歩む訳だが、二葉亭四迷がなおツルゲーネフを翻訳するが如くに、透谷においても以下のように書くのを読むと、透谷の中にも民権運動からの思いがなお引き継がれているように思われる。
 「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」(『女学雑誌』明治23年3月「時勢に感あり」)。
 「一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。侯卿貴人は昌ゆるとも亦た衰ろふとも、彼等は一呼吸にありて出来たり、又た一呼吸によりて没す可し、一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」(明治24-25年頃「慈善事業の進歩を望む」)と。
 明治22年にクェーカー教徒によって平和運動団体の「日本平和会」がつくられると、透谷はそれに協力してフレンド派の伝道を手伝い、明治25年にはその機関誌『平和』の編集主筆になっている。そして、その頃に島崎藤村と知り合った透谷は、明治26年1月に島崎藤村に代わって明治女学校の教師になり、『文学界』が創刊され、その2号に『人生に相渉るとは何に謂ぞ』を書いた透谷は、引きつづき雑誌『評論』に『明治文学管見』を連載して、徳富蘇峰の民友社的功利主義を批判した文学論を展開した。
 そこに透谷は、「維新の革命は政治の現象界に於いて旧習を打破した、万目の公認するところなり」、「明治文学は斯の如き大革命に伴いて起れり・・精神の自由を希求するは人性の大法にして、最後に到達すべきところは、各人の自由にあるのみ」と書く。そして、4回の連載の最後の部分に、「吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於いて空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。即ち民権といふ名を以て起りたる個人精神、是なり」と書いたところまでで、この連載を中断したのであったが、同年5月の『文学界』に書かれた『内部生命論』に、透谷は以下のように書く。
 「造化(ネーチュア)は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり。造化の権は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり」、「真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち内部生命(インナーライフ)の上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。・・到底偏狭なるポジチビズム(※実証主義)の誤謬を免かれざりしなり」。「詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語るより外に、出づること能はざるなり。内部の生命は千古一様にして、神の外は此を動かすこと能はざるなり」と。
 透谷は、ここで民友社的功利主義、外的な権威による勧善懲悪的価値観に対に対する批判の論理として、内部生命に判断基準を求めて「自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり」と唱えた訳である。このことは『文学界』に集まった若き青年たちに衝撃を与え、今風に言えば、彼らに「自立」の根拠を与えた訳である。そして、とりわけそれに激しくそれにインスパイアされたのが、島崎藤村と樋口一葉であったと思うところである。
 島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、当時の北村透谷が以下のように描かれている。
 「高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・『なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね』と青木は半分自分を嘲るように言出した。 ・・・『青木君にもそういう時代があったかなあ』と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた」と。
 自分を嘲るように言い、藤村たちとは別の道を歩いているような透谷は、その頃に「十四の年に政治演説をやるような少年だった」頃のことを『三日幻境』に書いている。「五十年の人生の為に五十年の計を為すは・・二十五年を労作に費やし、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き寸法なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり」と『内部生命論』に書いた透谷の思いは、はるか空の空にあったのだろうか。
 後に島崎藤村が『春』などに描いた北村透谷の印象は、共に文学にかける仲間というよりは、むしろ達観した若年寄りといった印象である。『文学界』明治26年10月所載の『漫罵』などを読めば、「一夕友とともに歩して銀街を過ぎ、木挽町に入らんとす・・」の書き出しにある銀街の先の風景と透谷の心象に始まり、引きつづき「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪ぱれつつあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の衝突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり」と書かれる。政治に敗れ、「自由の精神」としての文学の道を切り開こうとした透谷は、西洋の思想と文学と日本の現実、政治と文学の間で挫折した最初の日本人であった訳である。
 『文学界』の青年たちは、やがて龍泉寺町の一葉宅へあらわれ、丸山福山町の一葉宅に出入りするようになる。しかし、同じ『文学界』に文章を書きながら、北村透谷と樋口一葉が会うことはなかった。和田芳恵は、一葉のただ一人の男弟子であった穴沢清次郎氏から聞いた話として、『一葉の日記』に以下のように書いている。
 「一葉が穴沢清次郎氏に、透谷を尊敬していたこと、また、自殺したその日に、家人に一葉を訪ねると云って出たが、砲兵工廠のあたりまできて気がかわって帰った。もし、逢っていたら、死ななかったかもしれないのに、残念なことをしたと語ったそうである」と。
また、穴沢清次郎氏は、以下のように語っている。
 「北村透谷のことをしきりにほめていた」、「弱き者、不遇の人に強き同情を寄せ、得意がって反省なき世の幅利き者に、辛辣に当たった女史をして、若し当世に活かしめば、人は左翼文壇の系列に女史を数えたかもしれません」と。
 創刊号から『文学界』を読んだ一葉は、とりわけ北村透谷の書く評論を近眼の目を皿のようにして読み、透谷に会いたかったのであろうかと思われる。樋口一葉と北村透谷の一生は、二人合わせて50年という短いものであった。しかし、透谷が『内部生命論』に「生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり」と書くように、透谷の切り開いた「自由の精神」への道は、現在にいたるまでなお生きるところである。

 『文学界』は、明治26年(1893)1月に第1号が出る。そして、3月に平田禿木が一葉宅を訪れる。第2号に予定していた一葉の書いた『雪の日』の掲載が、第3号への掲載となったことを伝え、次の掲載も頼みに来たのである。その後、『文学界』に一葉の小説が掲載される毎に、その同人の一葉宅訪問は増えていく。
 最初に訪れたせいか、同人の中では平田禿木からの書状や訪問が多くみられるが、晩年に平田禿木は、「もし、一葉の恋人を探すとしたら、馬場孤蝶だろうと語った」という。明治26年(1893)12月1日の「塵中日記」には、「『文学界』十一月号来る。・・・孤蝶子が『さかわ川』など・・をかしき物なり。『さかわ川』は・・今一息と見えたり」とあり、明治27年(1893)3月に、馬場孤蝶が初めて樋口一葉宅を訪れた日の「日記ちりの中」には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。
 一葉にとって馬場孤蝶は、書くものは「今一息」であるが、対面した本人は「うれしき人也」なのである。これが島崎藤村(※当時は古藤庵)になると、両者の性格と趣味が合わなかったのか、日記への記述も少ない。馬場孤蝶と島崎藤村を比べれば、年齢は馬場孤蝶が上だが、文学的には島崎藤村の方が上である。共にミッション系の明治学院の出だが、馬場孤蝶は土佐藩の武士の末裔で、寄席に通い義太夫の趣味があり、優しそうである。一方、島崎藤村は無口、文学以外は無趣味で、いつも思いつめているようなところがある。顔も、馬場孤蝶の方が面長でイケメンであろうか。
 島崎藤村の『春』(百九)には、以下の場面がある。

 「どうだね、これから堤さんの許へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ」こう菅が言出した。 ・・・そこには堤姉妹か年老いた母親にかしずいて、侘しい風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話の面白い人達であったが、ことに姉は和歌から小説に人って、既に一家をなしていた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである。で、その日も菅は岸本を誘って、市川と三人連で出掛けようと思った。
 飄逸な、心の置けない堤姉妹の家ですら、岸本は黙って、皆なの談話を聞いて帰るばかりである。どこへ行くのも気が進まなかった。「まあ僕はよそう」と彼は言った。

 「堤姉妹」とは樋口一葉、邦子の姉妹がモデルで、足立は馬場孤蝶、菅は戸川秋骨、市川は平田禿木、岸本は藤村がモデルで、「連中の雑誌」とは『文学界』のことである。平田禿木や馬場孤蝶や戸川秋骨らは、丸山福山町に一葉を訪ねては夜遅くまで話し込んだが、藤村は誘われても、「まあ僕はよそう」が多かったのかもしれない。
 この頃より少し前、明治25年(1892)頃のことだろうか、藤村が透谷を訪ねた時のことが、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、以下のように描かれている。

 高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・「なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね」と青木は半分自分を嘲るように言出した。
 この青木の話を聞いている中に、もう長いこと忘れていてめったに思出しもしなかった捨吉自身の少年の日の記憶が引出されて行った。曽ては捨吉の周囲にもさかんな政治熱に浮かされた幾多の青年の群れがあった。彼は田辺の小父さん自身ですら熱心な改進党員のー人であったことを思出した。鸚鳴社の機関雑誌、その他政治上の思想を喚起し鼓吹するような雑誌や小冊子が彼の手の届き易い以前の田辺の家の方にあったことを思出した。・・・
 「青木君にもそういう時代があったかなあ」と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた。

 藤村がモデルの捨吉が、戸川秋骨がモデルの友人の菅誘って、北村透谷がモデルの青木を訪ねた場面である。これを読むと、少年時代の島崎藤村にも民権運動の論争に「胸の血潮を波打つようにさせた」ことがあったのかと思わされる。透谷と藤村は、ともに銀座に住み、泰明小学校に通った。この頃の銀座通りには、新聞社と民権運動の結社が並び、隣の築地の外国人居留区からは新しい思想が流れ込んでいた。
 「田辺の小父さん」とは、没落した木曽は馬籠の庄屋の四男春樹=藤村の庇護者となった吉村忠道のことである。若き藤村は、ゆくゆくは「田辺の小父さん」の商売を手助けすべく、共立学校から明治学院へと学ぶが、これは「田辺の小父さん」が藤村に英語を学ばせて、アメリカに商売の勉強に行かせるためであろうか、高野房太郎の渡米の目的が「商業研究のため」であったことに通じている。しかし、横浜にある「田辺の小父さん」の店を手伝いに行ったりはするものの、藤村の心は文学へと向かい、藤村が関西への放浪の旅へ向かうところで『桜の実の熟する時』は終わる。
 藤村の『春』は、内容的には『桜の実の熟する時』の続編で、岸本捨吉が関西から帰って来る場面から始まり、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と捨吉が東北にくだるところで終わるわけだが、『文学界』が熟した頃の話で、以下の文章がある。
 「青木は死ぬ、岡見は隠れる、足立は任地を指して出掛けてしまう、市川、菅、福富(は相継いで学問とか芸術の鑑賞とかいう方へ向いた。連中は共同の事業に疲れて来た。・・・
何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来なかった。こういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自分は自分だけの道路を進みたいと思っていた。自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った。・・」と。
 岡見は星野天知が、福富は上田敏がモデルである。
1894年(明治27)に北村透谷が自殺し、やがて『文学界』の同人たちはそれぞれの道を歩き始める。一葉と藤村には反りの合わないところがあるが、二人が文学をやろうと決めたのは、ほぼ同時期である。それから一葉は「文学は糊口の為になすべき物ならず」と決めて「奇跡の十四ヶ月」を生き、藤村は「母親さん、僕はもう麹町の学校を辞めようと思います。・・そのかわりこれから筆の方で稼ぎます」と決めて、明治女学校を退職し、東北学院に職を得た藤村は、明治29年(1896)9月に仙台に向かった。一葉が死んだのは、その1ヶ月後のことである。
 島崎藤村は、仙台において『若菜集』をまとめあげ、その後、小諸義塾の教師として7年間の信州暮らしを送り、その間に『千曲川のスケッチ』の習作を通じて散文に転向、明治39年(1906)3月に『破戒』を発表する。それが朝日新聞の新聞小説になったのは、二葉亭の勧めによるものであったという。「自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」とは、こういうことであったのだろうか。一葉と藤村の文学をブレイクさせたものこそ北村透谷であり、透谷に始まった日本のロマン主義であったと思うところである。
 1893年(明治26)の『文学界』の創刊に始まる新しい文学の息吹は、19世紀イギリスのラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をアナロジーさせる。『桜の実の熟する時』には、「あの岸本さん(『女学雑誌』を主宰していた巌本善治がモデル)にも、こうした『モダアン・ペインタアス』などを繙こうとした静かな時があったのであろうかと想像してみた」とあり、後の『千曲川のスケッチ』には、藤村が小諸義塾の絵の教師とラスキンの『近代絵画』やミレイの絵についての語り合いが描かれており、『春』には以下の描写がある。

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場処のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向易くなった。・・・
 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新にこの部屋を飾った。・・この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸を通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話になると、連中はもう我を忘れて、眉を揚たり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰返された。中世紀あたりの男女の物語、怪しい僧侶の恋、その他詩人美術家の情事に関したことなどもよく詮索された。(『春』百十一) 。

 これは『文学界』におけるラファエル前派流のBrotherhood な世界である。ラファエル前派の生まれた時代のイギリスは、まさに資本主義の成長期にあったが、その一方にはエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級』に描いた底辺社会があり、ラスキンによる資本主義への批判と芸術の復興運運動があった。そして、『文学界』の時代は、日清戦争を背景に、日本の資本主義と「日本の下層社会」が生まれた時代であったのである。
 横山源之助の交友した幸田露伴は、1891年(明治24)に『五重塔』を書いて、やがて姿を現す資本主義という近代社会の予兆に対して、江戸の職人気質を対置する。「職人とは無名なる芸術家であり、職人気質はかれらが体現した中世の精神である」(岩波文庫の解説より)のは、それより50年前のイギリスにおけるラファエル前派も同様である。
 そして、イギリスにおけるカーライルやラスキンやラファエル前派の流れの中からウィリアム・モリスの営為と社会主義が生まれたように、明治20年代の日本のささやかなロマン主義があって、それは明治30年代における文学や堺利彦らの社会主義にも引き継がれたのであろうかと思うところである。

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投稿: 伊豆利彦 | 2012年12月20日 (木) 13時22分

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