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2012年11月14日 (水)

二葉亭四迷の社会主義

※「労農派論」の1章になる「二葉亭四迷の社会主義」が書けたので、以下、載せておきます。

 私は、会社勤めを辞めて失業生活に入った時に、二葉亭四迷の『浮雲』を再読した。二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治19年(1886)に書かれた小説だとはとても思えなかったのだった。そして、もっと二葉亭四迷を知りたいと思った。すると二葉亭四迷は、日本でかなり早くから社会主義という言葉を自らに引きつけて自覚した人でもあったのだった。
 二葉亭四迷は『予が半生の懺悔』(明治41)にこう書いている。
 「私のは、普通の文学者的に文学を愛好したといふんぢゃない。寧ろロシアの文学者が取扱ふ問題、即ち社会現象を文学上から観察し、解剖し、予見したりするのが非常に興味のあることとなったのである。で、面白いといふことは唯だ趣味の話に止まるのだが、その趣味が思想となって来たのが即ち社会主義である」、「社会主義を抱かせる関係のあった露国の作家は、それは幾つもあった。ツルゲーネフの作物、就中「ファーザーズ、エンド、チルドレン」中のバザーロフなんて男の性格は、今でも頭にしみ込んでゐる。その他チェルヌイシェフスキー、ヘルツェン、それから露国の作家ぢゃないがラッサール、これはよく読んだものだ」(全集5巻p266)と。
 明治14年(1881)に外国語大学露文科に入学した二葉亭四迷は、1887年(明治20)に言文一致で『浮雲』を書く以前に上記の読書を成し、ベーリンスキーを愛読し、ツルゲーネフ『父と子』を翻訳し、社会主義を自覚していた。これは実に、自由民権運動最中のことであり、安部磯雄の社会主義研究会よりも10年以上早く、明治17年にアメリカに渡って苦学した片山潜が、1891年(明治24)にグリンネル大学の経済学の授業で「ラサール伝を読み、始めて自分は社会主義者となった」のよりも5年くらい早い。
 また、『余の思想史』には(明治41)にはこう書いている。
 「社会主義にかぶれたといふのは露文学の感化が非常によって力があったのだが、社会主義といった処で、非常に幼稚なもので、政府のやる仕事となれば、何でも気に喰はなかったり、つまらん處に自由だ自由だなどと騒いで見たり、今から考へて見ると実に滑稽なやうなものだが、その当時は、どうしてどうして大真面目であったのだ」と。
 その社会主義は所謂マルクス主義ではなかったにせよ、それが若き二葉亭四迷に与えた影響は、マルクス主義が後年の学生運動に与えたものとさほど変わらない。そして実際に外国語学校が商業学校に統合合併されてしまった時に、それに反発して進学するのを辞めてしまった二葉亭四迷は、独立独行の道を歩もうと文学の道を志し、明治18年1月に坪内逍遥を訪ねる。これは、坪内逍遥の『小説神髄』(明治18)を読んで思うところがあったのであろう。二葉亭四迷は、それを評するためにか「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に、模写こそ小説の真面目なれ」、「模写といへることは実相を借りて虚相を写しだすといふことなり」と書いた『小説総論』(明治19)と、自ら「美術は真理の直接の観察若しくは形象中の意匠なり」で始まり、文中には「意匠の由て生ずる所のものは真理なり」と翻訳したベリンスキーの『美術の本質』を持参した。『小説神髄』に沢山の朱墨を入れて訪ねて来た二葉亭四迷と話した坪内逍遥は、「全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(「柿の帯」)と、大いに驚いたようである。二葉亭四迷の語った文学論は、当時脚光をあびた写述主義ではなくて、まさに近代的なリアリズム文学論であったのだった。
 坪内逍遥は二葉亭四迷に文学への道を勧め、二葉亭四迷は『浮雲』を書く訳だが、その前、明治19年(1886)に二葉亭四迷はツルゲーネフの『父と子』を抄訳して『虚無党形気』という書名で、坪内逍遥の斡旋で大阪の版元から出す予定であった。そして広告もし、原稿料も支払われたのであったのが、原稿がどこかにいってしまい、そのままになってしまったという話がある。
 このことについて、木下尚江は二葉亭四迷を追悼した『長谷川二葉亭君』という文章で、以下のように書いている。
 「第一に、二葉亭が『父と子』翻訳の目的如何。・・・明治19年の彼は、文学を事業としての初発心の時で、それが特に『父と子』を選訳したと云ふことには、其処に深甚の意味を推測するの義務を感ずる。文章は第二の問題で、眼目は思想問題だ」。「然らば何故に『父と子』の出版を中止したか。これが第二の問題だ。・・・僕には、出版屋の都合から来たものでは無いかと云ふ邪推が湧いて来る。それは二葉亭が付けた『虚無党形気』といふ標題を見て、さふ思ふ」(全集9巻p248)と。
 木下尚江は、明治17年の加波山事件や、明治18年の大阪事件や、同年の自由党の名士馬場辰猪の爆発物の嫌疑と、翌明治19年に開かれたその公判を自らも傍聴したことを書いて、「二葉亭の命名『虚無党形気』が、当時の大阪の書肆に恐怖と躊躇を与へたと想像しても、あながち無根拠の妄想のみとは言はれまい」としている。
二葉亭四迷の青春時代とは、正にそういう時代だったのである。
 明治20年(1887)に『浮雲』が出るのだが、その後、二葉亭四迷は民友社の徳富蘇峰を訪ねており、その際に持参した自己紹介の挨拶文には、以下のようなことが書かれている。
 「小生の感情は真理の愛すべく敬ふべく真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざるを感ずれども小生の智識は真理を敬愛崇重すべき所以を理會する能はざるやう成果て候も是もまた怪しむべき義には不可有之候」と。
 自由民権運動を強圧的に押さえこんだ藩閥政治は、『浮雲』の内容にもなっている如くに旧官吏のリストラをすすめる一方で、上昇志向と栄達の道を誘う。それに対して二葉亭四迷は、ドフトエフスキーやヘーゲリアンであったベリンスキーの書を愛読することによって西洋哲学に馴染み、ツルゲーネフを愛読することによって西洋流の写実や詩想に触れ、自らの文学論と生き方、要は真理への道を生きようと、栄達の道である学士様になることを辞めて、「真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざる」と、親の意に背いて文学の道に入った訳である。この生き方は、革命的でなくて何であろうか。二葉亭四迷は、当時の心境を後に『予が半生の懺悔』(明治41)に、こう書いている。
 「私は当時「正直」の二文字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活がしたいといふ考えを有つてゐた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もつと大関係あるのは、私が受けた儒教の感化である。・・・つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学やらの感化とが結合つて、それに社会主義の影響もあつて、ここに、私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地に愧じざる「正直」が形づくられたのだ」と。
 しかし、『浮雲』第3編の載った『みやこのはな』を読んだ二葉亭四迷は、「かほどまで拙なしとはおもわざりしが・・殆ど読むにたえぬまでなり」と自らを卑下し、「正直という理想」と「芸術に対する尊敬心」との間で、「之は甚だしい進退維持(ヂレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイデアル)との衝突だ」となって、文学への道を捨ててしまう。1889年(明治22)に「人各能あり。吾の如きは能く小説家となり得べきや如何に・・」と書いて、『浮雲』第3編を書きっぱなしにして、外国語学校時代の恩師の世話で、内閣官報局に就職し、月俸三十円を支給されることになった。
 二葉亭四迷が内閣官報局に勤めていた8年間は、二葉亭四迷の生涯の中でも、比較的安定していた時期のようである。文学への思いに悶々としつつも、「正直」に生きようとすることの延長か、トルストイやスペンサーなど、文学というよりは哲学的な読書をしている。内閣官報局での仕事は、英字新聞や魯字新聞の翻訳であり、そこで得たロシアほかの社会運動の現状についての知識は、悶々とした文学への思いを実践に変えていく。この時期の二葉亭四迷について、内田魯庵は以下のように書いている。
 「一時好んで下層社会に出入するや、一面にはライフの研究者たると共に、一面には自ら下層社会伝習の悪俗の基いたる彼等の精神的欠陥を救うの教師を以て任じた」。「一体長谷川君は下層社会に興味を有して、人間の天真はお化粧した綾錦に包まれた高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の間に却って真のヒューマニティを見る事が出来る、と常に云っていた」と。
 内田魯庵によれば、二葉亭四迷は内閣官報局に勤めながら、「洋服の上に羽織を引掛けて・・田舎の達磨茶屋を遊び回ったり、印半纏に弥蔵をきめ混んで職人の間に入って見たり」したそうである。そして、二葉亭四迷は下層社会で出合った女と結婚までしてしまう訳だが、中村光夫はこう書いている。「彼は心から彼等の仲間になり、同類として生きることを望んだので、この無垢の心の生んだ悲劇が彼の最初の結婚であったと思われます」(中村光夫『二葉亭四迷伝』講談社文芸文庫p196)と。
 そして、家を出て安下宿を転々とし、下層社会を徘徊する二葉亭四迷を、明治24年の初夏に横山源之助が訪ねてくる。

 二葉亭四迷の最期は、朝日新聞社のロシア特派員となって革命前のロシアに渡り、そこで病に倒れて、明治42年(1909)5月に帰国する船の船上で亡くなった。一方、同じくラサールを読んで社会主義者となった片山潜は、最後は革命後のソ連に渡って、コミンテルンの指導部に入り、彼の地で死に、スターリンらに担がれた遺体はクレムリンに眠る。
 だから、片山潜こそ最後まで社会主義者であったとなるのだろうが、二葉亭四迷の革命性は以下のところにある。二葉亭四迷は『文壇を警醒す』(明治41)にこう書く。
 「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ、と真似をしたって到底だめなことは前にも言ふ通りだ。流行や書物で事を決めてるやうな事なら仕方がない。真に実感に訴えて、国民性に立ち戻って其處から行かなけりゃならぬ。世界が何うだって大陸諸国が何うだって・・日本は日本の長所でやったらいいじゃないか」と。その「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ」を、「マルクスだ、エンゲルスだ、レーニンだ」に置き換えれば、それも二葉亭四迷が言わんとしたことに通じている。
 また、二葉亭四迷は日本で初めて言文一致の小説『浮雲』を書いたその翌年には『あひゞき』と『めぐりあひ』を翻訳してた。ツルゲーネフの詩的なロシア語の原文を、味わいを変えずに如何に日本語で表現するのかに苦労した跡が、そのまま表現されていて、おそらく原文もこうなのであろうとさえ思わせるほどで、いま読んでも初々しい。そして、『浮雲』執筆の折には「行き詰て筆が動かなくなると露文で書いてから翻訳したそう」である。ロシア語に学んだ写述を日本語で為そうとした時に、どう表現すればそれが可能なのか、直訳でも意訳でもない表現を求めて、三段階的作業をしたわけである。
 二葉亭四迷は先駆者であったがゆえに。時代はまだ二葉亭四迷を受け入れるのには早すぎた。当時の数少ない理解者であった内田魯庵は、後に「二葉亭の人物」についてこう話している。
 「(長谷川君を評して)革命家の一語を以て評した方が適当だらうと思ふ。長谷川君は純粋の革命家の典型であった。然し革命家と云っても勿論、極端な虚無主義者や実行家では無い、クロポトキンのやうな理論上の革命家だ。コスモポリタニズムの思想の強い人だつたが、一面に於いては叉非常に愛国心の強い人でした」(全集9巻p241)と。

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