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2012年11月30日 (金)

馬場辰猪と中江兆民

 自由民権運動は、薩長による藩閥政治に対して、明治7年1月に土佐の板垣退助や後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出し、愛国社を設立したことに始まる。当初この民権運動を主導したの士族民権家であったが、人々の間では「一つとせ、人の上には人はなき・・/ 三つとせ、民権自由の世の中に・・/ 六つとせ、昔思えばアメリカの・・」といった「民権数え歌」が歌われ、青年たちにはスペンサーやミル、スミス、ベンサム、ルソーが読まれ、アメリカの独立やフランス革命といった西洋事情は広く知られて、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の『御誓文』は、「民撰議院の設立」を要望する民衆運動へと発展して行った。
 土佐に生まれた愛国社は、全国的に広がる運動によって明治11年に再興され、明治13年の愛国社第4回大会には全国から民権運動家が結集して国会期成同盟が発足し、国会解説要求の書名は24万余に達し、自由民権運動は全国的に大きく高揚した。民権運動の高揚に対して、藩閥政府は明治13年に「集会条例」を発布して演説会や集会を規制したが、明治14年に入ると北海道開拓使払い下げ汚職事件で追い詰められ、同年10月に伊藤博文は『国会開設の勅書』を発表して明治23年に国会を開設するとし、併せて政敵の大隈重信を政府から追放するという「明治十四年の政変」を断行した。
 東京では沼間守一の嚶鳴社、イギリス帰りの馬場辰猪や小野梓らによる共存同衆、福沢諭吉の慶応義塾系の交詢社、中江兆民の仏学熟といった演説団体や塾が起こり、銀座通りには新聞社が軒を連ねて言論活動を活発化させていた。そして『国会開設の勅書』が出されると、国会開設に向けて、明治14年には板垣退助を総理とする自由党が、明治15年には大隈重信を総理とする立憲改進党が結成されたが、民権運動の最盛期はこの頃までであった。
 国会開設の腹を決めた伊藤博文は、新たにつくる憲法を学びにイギリス、フランスではなく、ドイツ帝国に渡り、併せて自由党の分裂を図り、資金を提供して板垣退助を外遊に赴かせた。板垣退助は、国会開設が決まったことで民権運動の目的が達成されたとして、これから与えられる国会と憲法に対して、その内容に関係なく満足してしまい、提供された金で7カ月間のヨーロッパ漫遊を決め込み、帰国後は自由党を解党してしまったのである。秩父事件が起るのは、自由党の解党大会の直後であった。
 この板垣退助を猛烈に批判した民権家がいる。前項の樋口一葉の明治27年(1893)3月の日記に、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし」と書かれた馬場孤蝶の兄の馬場辰猪である。
 馬場辰猪は、嘉永3年(1850)に土佐藩の士族の家に生まれ、福沢諭吉の慶応義塾に学び、明治3年(1870)にイギリスに留学。明治11年(1878)に帰国し、帰国後は政府に仕えずに、共存同衆や国友会といった演説団体を通じて民権思想の啓蒙活動にあたった。長年にわたるイギリス留学で得た知識と思想と批判力で自由民権運動最高の思想家とされたが、それを恐れた藩閥政権による冤罪で入獄、出獄後の明治19年(1886)6月にアメリカに渡り、明治21年(1888)11月に結核によりフィラデルフィアで客死した。
 馬場辰猪は、イギリス留学中に『日本語文典』という本を英文で書いている。これは明治6年に森有礼がアメリカで『日本の教育』を出版して「英語採用論」を唱えたことに対して、インドを例に英語採用という近代化論は国民の上層下層の間で英語デバイドが生ずるとした批判の書であった。これについて萩原延壽は、「森は国際的な利益を優先させ、馬場は国内的な影響を憂慮した。・・・二人の議論が露呈したのは、日本の近代化に対する二つの道・・国権と民権のいずれを優先すべきかという・・論点ではなかったろうか」(『馬場辰猪』中央公論社)と書いている。この議論は、形を変えて今なおつづく議論ではあるまいか。
 馬場辰猪の代表作と言われる『天賦人権論』は、明治15年に出された東京大学総理加藤弘之の『人権新説』に対する批判として書かれた。加藤弘之は明治6年に『国体新論』を書いて、天賦人権論にもとづく民権思想を喚起したのだが、『人権新説』においては「優勝劣敗、適者生存」の進化論をもって天賦人権論を否定した。加藤は自らの西欧派ぶりを示しながら日本の民権運動を否定したわけだが、馬場はこの型の「西欧派」知識人をゆるすことが出来なかったわけである。
 先進国のイギリスに学び、その議会でディズレーリやグラッドストーンの議論するのを聴き、彼らに自ら書いた『条約改正論』を贈った馬場は、帰国後、「観念としての民衆と事実としての民衆の乖離」という壁に突き当たる。そして「理念に対する確信と運動に対する失望」に引き裂かれていく。この「西洋と日本」という課題は、馬場の後に生きた日本の知識人における課題であり、その葛藤の中で在野に生きることを志した馬場の生き方と最期は、先に書いた二葉亭四迷や、この後に書く夏目漱石に通じるものである。
 もうひとつ、ヨーロッパ漫遊から帰国した板垣退助が突然自由党を解散してしまった後、馬場辰猪は末広重恭、大石正己とともに独立党という政治結社を組織したのであるが、この結社は組織をもたなかったという。そしてそれは、「自由民権運動の一大結合の日のために、先駆的な役割を果たすことを期していた」からだという。運動は分裂するものであるが、運動を分裂させないためにはすべからくそういう組織の在りようが必要な訳で、馬場の構想した組織なき独立党は、後の組織なき土着型共同戦線党の原点かと思うところである。
 当代最高の知性と能力を持ちながら藩閥政府に仕える栄達の道を選ぶことなく、「民心の改革」を自らの使命として在野に生きた馬場辰猪は、遠くアメリカは東部で貧困のうちに客死した。樋口一葉が、ある日訪れた馬場孤蝶を日記に「故馬場辰猪君の令弟なるよし・・うれしき人也」と書いたのは、亡き馬場辰猪へのシンパシーであったのではなかろうか。

 馬場辰猪と同じく土佐藩の出身で、同じくヨーロッパに留学して、馬場辰猪と並ぶ民権運動の思想家であった人に中江兆民がいる。二人は渡欧前にも鍛冶橋の土佐藩邸で会っており、フランスに留学した中江兆民は明治6年(1873)秋にロンドンに馬場辰猪を訪ねていて、馬場もフランスに行っている。この頃のロンドンはヴィクトリア期の最盛期でマルクスやモリスも健在な時期であり、この頃のフランスはパリ・コミューンの直後のフランスであった。この二人はそういう時代と空間を体験し、帰国後は日本に民権思想を根付かせようと苦闘し、藩閥政治との闘いに倒れたのであった。
 中江兆民は、弘化4年(1847)に土佐藩の足軽の家に生まれた。明治4年(1871)にフランスに留学。明治7年(1874)に帰国し、帰国後は仏蘭西学舎(後の仏学塾)を設立してルソーの『民約論』を翻訳、仏学塾は「民権論の源泉」となり、入塾者は延べ2000名に達したという。明治8年(1875)2月に東京外国語学校の校長になったが、3カ月足らずで辞め、同年5月に元老院の書記官となったが、これも元老院幹事の陸奥宗光と意見を異にして、明治10年(1877)年に退職。明治14年(1881)にパリ留学中に交遊のあった西園寺公望を社長、中江兆民を主筆とする『東洋自由新聞』が創刊され、フランス流の自由平等の説を唱えたのであったが、政府による弾圧のためにすぐに廃刊。明治15年には板垣退助社長の『自由新聞』が創刊され、兆民は社説掛に招かれたが、これも板垣退助の洋行問題で馬場辰猪とともに板垣退助の下を去った。
 中江兆民は、その後ルソーなどを翻訳、出版、遊説、言論活動をつづけながら、明治20年(1887)5月に『三酔人経綸問答』を刊行。その書き出しにある「南海先生はなはだ酒を嗜みはなはだ政治を論ずることを好む」とあるように、自らも南海先生の如く生きていたようだが、同年再び民権運動が活気づくと藩閥政府は保安条例を公布して、兆民ほか有力な政治家を東京から追放してしまった。そこで中江兆民は、大阪に退いて『東雲新聞』を創刊して国会開設に向けて論陣を張るのだが、その兆民の家に学僕として住みこんだのが幸徳伝次郎で、後に兆民から秋水の号を与えられるのである。
 明治22年2月に大日本憲法が発布されると、幸徳秋水の『兆民先生』に曰く、「先生嘆じて曰く・・憲法果たして如何なる物乎、玉か瓦礫か・・憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑するのみ」であったという。そして兆民は、未解放部落の人たちの応援を得て明治23年の衆議院選挙に大阪四区から立候補して一位で当選するも、民党統一に対する土佐派の裏切りに憤慨して、これも3カ月たらずで辞めてしまった。
 せっかく議員になったのにと思うよりも、「無血虫の陳列上」に議員でありつづける兆民こそ想像できないところで、議員を辞めた兆民は明治24年に北海道に渡って、やがて紙問屋などの事業を始めて失敗しつづける。秋水は『兆民先生』に曰く、「二十六年より、二十七八年に至る間、先生北海道より東京に、東京より大阪に、往復しきりにして、而して家益々貧に、衣服典しつくし、蔵書売りつくして、晏如たり、曾て笑って曰く、大飢饉なる哉、朝暮唯だ豆腐の滓と野菜のみ、何ぞ惨なるや」と。
 『三酔人経綸問答』は明治20年に書かれたものであるのに、そのリアリティは現在も少しも失われていない。洋学紳士君の民主制の主張と豪傑君の侵略主義の主張は、それから125年の時を経ても、相も変わらずに繰り返されている。そして南海先生は、「所謂民権なる者は自ら二種有り、英仏の民権は恢復の民権なり、下より進みて之を取りし者なり、世叉一種恩賜的の民権と称す可き者有り、上より恵みて之を與ふる者なり」と言うわけだが、英仏の「恢復の民権」こそが兆民の言わんとするところかと思えば、『三酔人経綸問答』の結末の南海先生の言うところを読めば、必ずしもそうではない。答えはいまだに投げられたままなのである。
 幸徳秋水は『兆民先生』に、「先生は決して恩賜的の民権を以て満足する者にあらざりし也・・我党宜しく恩賜的の民権を変じて、進取的民権と成さざる可からず」と書いて、次には「先生は所詮主義の人也、理想の人也」と書いた。秋水が兆民の死後に『兆民先生』を書いたのは、「我党宜しく恩賜的の民権を変じて、進取的民権と成さざる可からず」と、兆民の意志を自らに課したことと思われる。
 北村透谷は明治26年9月に「兆民居士安くにあるか」に、「世、兆民居士を棄てたるか、兆民居士、世を棄てたるか、抑も亦だ仏国思想は遂に其の根基を我邦土の上に打建つるに及ばざるか。居士が議会を捨てたるは宜なり、居士が自由党を捨てたるも亦た宜なり、・・然れども何が故に、居士は一個の哲学者たるを得ざるか」と書くが、これは残念だというよりも、必要なのは哲学であるという共感の表明であろう。この透谷の一文を兆民が読んだかどうかは分からないが、明治34年(1901)4月に中江兆民は喉頭がんを宣告されてから書き始めた『一年有半』には、「我日本古より今に至る迄哲学なし」と批判し、さらに書きつづけた『続一年有半』は、死の直前における以下のような「ナカエニスム」の展開であった。
 「夫れ世界萬有は、無始無終で有て・・即ち神は絶対に無いので有る、而して精神は如何にで有るか 余は云ふ 不滅としての精神は無いのである」、「他日幸に其人を得て此間より一のナカエニスムを組織することが有るならば、著者に取って本懐の至りで有る」と。
 言うなれば、これは土着の唯物論の表明であり、それを受け継いだ者こそ幸徳秋水であった。西洋に近代化を学び始めた時はもとより、現在にいたるまで外発まかせで近代化を押しすすめて来た日本は、今に至るまで自らの哲学を持ちえないで来た。『三酔人経綸問答』の洋学紳士君は、馬場辰猪がモデルだと言われている。そして、豪傑君に類する人は、今ますます増えつつあるのを見れば、私たちが立ちかえるべき明治は、日露戦争後の「坂の上」ではなくて、日露戦争前の「坂の下」であろうかと思うところである。

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2012年11月20日 (火)

北村透谷と『文学界』

 一葉が「我れは営利の為に筆をとるか」、「文学は糊口の為になすべき物ならず」と書いたちょうど同じ頃に、「然れども文学は事業を目的とせざるなり」、「嗚呼文士、何すれぞ局促として人生に相渉るを之求めむ」と書いて文学における功利主義を批判し、一葉にも深く共感せしめただろう若者がいた。この文章は、明治26年(1893)に刊行された『文学界』2号『人生に相渉るとは何に謂ぞ』に書かれ、筆者は北村透谷である。
 北村透谷は、明治元年(1868)に小田原に生まれ、明治14年(1881)に東京に移住して泰明小学校に転校。おりからの自由民権運動に熱中して、明治16年(1883)には神奈川県会の臨時書記となり、英語の勉強のためにグランド・ホテルでボーイをやり、三多摩自由党の領袖石坂昌孝と知り合い、石坂公歴や大矢正夫らの青年壮士と交友し、明治17年(1884)頃には、父宛の書簡『哀願書』に、以下のように書いている。
 「豚児門太郎謹ンデ一篇ノ哀願書ヲ以テ大人ノ座下ニ捧グ、児、曾テ経国ノ志ヲ抱イテヨリ日夜寝食ヲ安フセズ。単ヘニ三千五百万ノ同胞及ビ連聯皇統ノ安危ヲ以テ一身ノ任トナシ、且ツヤ、又タ世界ノ大道ヲ看破スルニ、弱肉強食ノ状ヲ憂ヒテ、此弊根ヲ掃除スルヲ以テ男子ノ事業ト定メタリキ」と。
 しかし、この秋に大矢正夫がら自由党左派の大井憲太郎が企んだ後に言う大阪事件の資金活動に参加するのを求められると、当時の壮士型民権運動に批判的でもあった透谷はこれを断り、民権運動から離脱した。その後、透谷は石坂公歴の姉でクリスチャンであったミナと激しく恋愛、明治21年に数寄屋橋教会で洗礼を受けキリスト教に入信、ミナとの新婚生活に入り、明治22年(1889)に『楚囚之誌』を、明治24年(1891)には『蓬莱曲』を自費出版し、戯曲から文学へとのめり込んで行く。
 小田切秀雄は、「北村透谷は明治一八年に自由民権の政治家から敗退したが、二葉亭四迷は明治二二年に近代文学から敗退した」と書いた。「文学から敗退した」二葉亭四迷は松原岩五郎や横山源之助と底辺社会をフィールドワークし、「自由民権の政治家から敗退した」北村透谷は政治から文学への道を歩む訳だが、二葉亭四迷がなおツルゲーネフを翻訳するが如くに、透谷においても以下のように書くのを読むと、透谷の中にも民権運動からの思いがなお引き継がれているように思われる。
 「君知らずや、人は魚の如し、暗きに棲み、暗きに迷ふて、寒むく、食少なく世を送る者なり。家なく、助けなく、暴風暴雨に悩められ、辛うじて五十年の歳月を踏み超ゆるなり・・・」(『女学雑誌』明治23年3月「時勢に感あり」)。
 「一国の最多数を占むる者は貧民なり、而して一国の隆替を支配する者も亦貧民なり。侯卿貴人は昌ゆるとも亦た衰ろふとも、彼等は一呼吸にありて出来たり、又た一呼吸によりて没す可し、一国を守る者は勇敢なる勉励なる農夫、若くは貧民にあり、彼等若しー度び滅されなば、国と家とを守る者、果して誰となす」(明治24-25年頃「慈善事業の進歩を望む」)と。
 明治22年にクェーカー教徒によって平和運動団体の「日本平和会」がつくられると、透谷はそれに協力してフレンド派の伝道を手伝い、明治25年にはその機関誌『平和』の編集主筆になっている。そして、その頃に島崎藤村と知り合った透谷は、明治26年1月に島崎藤村に代わって明治女学校の教師になり、『文学界』が創刊され、その2号に『人生に相渉るとは何に謂ぞ』を書いた透谷は、引きつづき雑誌『評論』に『明治文学管見』を連載して、徳富蘇峰の民友社的功利主義を批判した文学論を展開した。
 そこに透谷は、「維新の革命は政治の現象界に於いて旧習を打破した、万目の公認するところなり」、「明治文学は斯の如き大革命に伴いて起れり・・精神の自由を希求するは人性の大法にして、最後に到達すべきところは、各人の自由にあるのみ」と書く。そして、4回の連載の最後の部分に、「吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於いて空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。即ち民権といふ名を以て起りたる個人精神、是なり」と書いたところまでで、この連載を中断したのであったが、同年5月の『文学界』に書かれた『内部生命論』に、透谷は以下のように書く。
 「造化(ネーチュア)は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり。造化の権は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり」、「真正の勧懲は心の経験の上に立たざるべからず、即ち内部生命(インナーライフ)の上に立たざるべからず、故に内部の生命を認めざる勧懲主義は、到底真正の勧懲なりと云ふべからざるなり。・・到底偏狭なるポジチビズム(※実証主義)の誤謬を免かれざりしなり」。「詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命を語るより外に、出づること能はざるなり。内部の生命は千古一様にして、神の外は此を動かすこと能はざるなり」と。
 透谷は、ここで民友社的功利主義、外的な権威による勧善懲悪的価値観に対に対する批判の論理として、内部生命に判断基準を求めて「自由の精神は造化に黙従するを肯せざるなり」と唱えた訳である。このことは『文学界』に集まった若き青年たちに衝撃を与え、今風に言えば、彼らに「自立」の根拠を与えた訳である。そして、とりわけそれに激しくそれにインスパイアされたのが、島崎藤村と樋口一葉であったと思うところである。
 島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、当時の北村透谷が以下のように描かれている。
 「高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・『なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね』と青木は半分自分を嘲るように言出した。 ・・・『青木君にもそういう時代があったかなあ』と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた」と。
 自分を嘲るように言い、藤村たちとは別の道を歩いているような透谷は、その頃に「十四の年に政治演説をやるような少年だった」頃のことを『三日幻境』に書いている。「五十年の人生の為に五十年の計を為すは・・二十五年を労作に費やし、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き寸法なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり」と『内部生命論』に書いた透谷の思いは、はるか空の空にあったのだろうか。
 後に島崎藤村が『春』などに描いた北村透谷の印象は、共に文学にかける仲間というよりは、むしろ達観した若年寄りといった印象である。『文学界』明治26年10月所載の『漫罵』などを読めば、「一夕友とともに歩して銀街を過ぎ、木挽町に入らんとす・・」の書き出しにある銀街の先の風景と透谷の心象に始まり、引きつづき「今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪ぱれつつあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の衝突より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり」と書かれる。政治に敗れ、「自由の精神」としての文学の道を切り開こうとした透谷は、西洋の思想と文学と日本の現実、政治と文学の間で挫折した最初の日本人であった訳である。
 『文学界』の青年たちは、やがて龍泉寺町の一葉宅へあらわれ、丸山福山町の一葉宅に出入りするようになる。しかし、同じ『文学界』に文章を書きながら、北村透谷と樋口一葉が会うことはなかった。和田芳恵は、一葉のただ一人の男弟子であった穴沢清次郎氏から聞いた話として、『一葉の日記』に以下のように書いている。
 「一葉が穴沢清次郎氏に、透谷を尊敬していたこと、また、自殺したその日に、家人に一葉を訪ねると云って出たが、砲兵工廠のあたりまできて気がかわって帰った。もし、逢っていたら、死ななかったかもしれないのに、残念なことをしたと語ったそうである」と。
また、穴沢清次郎氏は、以下のように語っている。
 「北村透谷のことをしきりにほめていた」、「弱き者、不遇の人に強き同情を寄せ、得意がって反省なき世の幅利き者に、辛辣に当たった女史をして、若し当世に活かしめば、人は左翼文壇の系列に女史を数えたかもしれません」と。
 創刊号から『文学界』を読んだ一葉は、とりわけ北村透谷の書く評論を近眼の目を皿のようにして読み、透谷に会いたかったのであろうかと思われる。樋口一葉と北村透谷の一生は、二人合わせて50年という短いものであった。しかし、透谷が『内部生命論』に「生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり」と書くように、透谷の切り開いた「自由の精神」への道は、現在にいたるまでなお生きるところである。

 『文学界』は、明治26年(1893)1月に第1号が出る。そして、3月に平田禿木が一葉宅を訪れる。第2号に予定していた一葉の書いた『雪の日』の掲載が、第3号への掲載となったことを伝え、次の掲載も頼みに来たのである。その後、『文学界』に一葉の小説が掲載される毎に、その同人の一葉宅訪問は増えていく。
 最初に訪れたせいか、同人の中では平田禿木からの書状や訪問が多くみられるが、晩年に平田禿木は、「もし、一葉の恋人を探すとしたら、馬場孤蝶だろうと語った」という。明治26年(1893)12月1日の「塵中日記」には、「『文学界』十一月号来る。・・・孤蝶子が『さかわ川』など・・をかしき物なり。『さかわ川』は・・今一息と見えたり」とあり、明治27年(1893)3月に、馬場孤蝶が初めて樋口一葉宅を訪れた日の「日記ちりの中」には、「禿木子、及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし 二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。不平々々のことばを聞く。うれしき人也」とある。
 一葉にとって馬場孤蝶は、書くものは「今一息」であるが、対面した本人は「うれしき人也」なのである。これが島崎藤村(※当時は古藤庵)になると、両者の性格と趣味が合わなかったのか、日記への記述も少ない。馬場孤蝶と島崎藤村を比べれば、年齢は馬場孤蝶が上だが、文学的には島崎藤村の方が上である。共にミッション系の明治学院の出だが、馬場孤蝶は土佐藩の武士の末裔で、寄席に通い義太夫の趣味があり、優しそうである。一方、島崎藤村は無口、文学以外は無趣味で、いつも思いつめているようなところがある。顔も、馬場孤蝶の方が面長でイケメンであろうか。
 島崎藤村の『春』(百九)には、以下の場面がある。

 「どうだね、これから堤さんの許へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ」こう菅が言出した。 ・・・そこには堤姉妹か年老いた母親にかしずいて、侘しい風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話の面白い人達であったが、ことに姉は和歌から小説に人って、既に一家をなしていた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである。で、その日も菅は岸本を誘って、市川と三人連で出掛けようと思った。
 飄逸な、心の置けない堤姉妹の家ですら、岸本は黙って、皆なの談話を聞いて帰るばかりである。どこへ行くのも気が進まなかった。「まあ僕はよそう」と彼は言った。

 「堤姉妹」とは樋口一葉、邦子の姉妹がモデルで、足立は馬場孤蝶、菅は戸川秋骨、市川は平田禿木、岸本は藤村がモデルで、「連中の雑誌」とは『文学界』のことである。平田禿木や馬場孤蝶や戸川秋骨らは、丸山福山町に一葉を訪ねては夜遅くまで話し込んだが、藤村は誘われても、「まあ僕はよそう」が多かったのかもしれない。
 この頃より少し前、明治25年(1892)頃のことだろうか、藤村が透谷を訪ねた時のことが、島崎藤村の『桜の実の熟する時』に、以下のように描かれている。

 高輪東禅寺の境内にある青木の寓居を指して、捨吉は菅と連立って出掛けた。・・・「なにしろ君、僕なぞは十四の年に政治演説をやるような少年だったからね」と青木は半分自分を嘲るように言出した。
 この青木の話を聞いている中に、もう長いこと忘れていてめったに思出しもしなかった捨吉自身の少年の日の記憶が引出されて行った。曽ては捨吉の周囲にもさかんな政治熱に浮かされた幾多の青年の群れがあった。彼は田辺の小父さん自身ですら熱心な改進党員のー人であったことを思出した。鸚鳴社の機関雑誌、その他政治上の思想を喚起し鼓吹するような雑誌や小冊子が彼の手の届き易い以前の田辺の家の方にあったことを思出した。・・・
 「青木君にもそういう時代があったかなあ」と、捨吉は自分に言って見て、今では全く別の道を歩いているような青木の顔を眺めた。

 藤村がモデルの捨吉が、戸川秋骨がモデルの友人の菅誘って、北村透谷がモデルの青木を訪ねた場面である。これを読むと、少年時代の島崎藤村にも民権運動の論争に「胸の血潮を波打つようにさせた」ことがあったのかと思わされる。透谷と藤村は、ともに銀座に住み、泰明小学校に通った。この頃の銀座通りには、新聞社と民権運動の結社が並び、隣の築地の外国人居留区からは新しい思想が流れ込んでいた。
 「田辺の小父さん」とは、没落した木曽は馬籠の庄屋の四男春樹=藤村の庇護者となった吉村忠道のことである。若き藤村は、ゆくゆくは「田辺の小父さん」の商売を手助けすべく、共立学校から明治学院へと学ぶが、これは「田辺の小父さん」が藤村に英語を学ばせて、アメリカに商売の勉強に行かせるためであろうか、高野房太郎の渡米の目的が「商業研究のため」であったことに通じている。しかし、横浜にある「田辺の小父さん」の店を手伝いに行ったりはするものの、藤村の心は文学へと向かい、藤村が関西への放浪の旅へ向かうところで『桜の実の熟する時』は終わる。
 藤村の『春』は、内容的には『桜の実の熟する時』の続編で、岸本捨吉が関西から帰って来る場面から始まり、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と捨吉が東北にくだるところで終わるわけだが、『文学界』が熟した頃の話で、以下の文章がある。
 「青木は死ぬ、岡見は隠れる、足立は任地を指して出掛けてしまう、市川、菅、福富(は相継いで学問とか芸術の鑑賞とかいう方へ向いた。連中は共同の事業に疲れて来た。・・・
何のかんのと言っても、連中は互いに離れることが出来なかった。こういう中で岸本は大根畠の二階に籠って、自分は自分だけの道路を進みたいと思っていた。自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った。・・」と。
 岡見は星野天知が、福富は上田敏がモデルである。
1894年(明治27)に北村透谷が自殺し、やがて『文学界』の同人たちはそれぞれの道を歩き始める。一葉と藤村には反りの合わないところがあるが、二人が文学をやろうと決めたのは、ほぼ同時期である。それから一葉は「文学は糊口の為になすべき物ならず」と決めて「奇跡の十四ヶ月」を生き、藤村は「母親さん、僕はもう麹町の学校を辞めようと思います。・・そのかわりこれから筆の方で稼ぎます」と決めて、明治女学校を退職し、東北学院に職を得た藤村は、明治29年(1896)9月に仙台に向かった。一葉が死んだのは、その1ヶ月後のことである。
 島崎藤村は、仙台において『若菜集』をまとめあげ、その後、小諸義塾の教師として7年間の信州暮らしを送り、その間に『千曲川のスケッチ』の習作を通じて散文に転向、明治39年(1906)3月に『破戒』を発表する。それが朝日新聞の新聞小説になったのは、二葉亭の勧めによるものであったという。「自分等の眼前にはまだまだ開拓されていない領分がある。・・青木はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」とは、こういうことであったのだろうか。一葉と藤村の文学をブレイクさせたものこそ北村透谷であり、透谷に始まった日本のロマン主義であったと思うところである。
 1893年(明治26)の『文学界』の創刊に始まる新しい文学の息吹は、19世紀イギリスのラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)をアナロジーさせる。『桜の実の熟する時』には、「あの岸本さん(『女学雑誌』を主宰していた巌本善治がモデル)にも、こうした『モダアン・ペインタアス』などを繙こうとした静かな時があったのであろうかと想像してみた」とあり、後の『千曲川のスケッチ』には、藤村が小諸義塾の絵の教師とラスキンの『近代絵画』やミレイの絵についての語り合いが描かれており、『春』には以下の描写がある。

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場処のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向易くなった。・・・
 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新にこの部屋を飾った。・・この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸を通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話になると、連中はもう我を忘れて、眉を揚たり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰返された。中世紀あたりの男女の物語、怪しい僧侶の恋、その他詩人美術家の情事に関したことなどもよく詮索された。(『春』百十一) 。

 これは『文学界』におけるラファエル前派流のBrotherhood な世界である。ラファエル前派の生まれた時代のイギリスは、まさに資本主義の成長期にあったが、その一方にはエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級』に描いた底辺社会があり、ラスキンによる資本主義への批判と芸術の復興運運動があった。そして、『文学界』の時代は、日清戦争を背景に、日本の資本主義と「日本の下層社会」が生まれた時代であったのである。
 横山源之助の交友した幸田露伴は、1891年(明治24)に『五重塔』を書いて、やがて姿を現す資本主義という近代社会の予兆に対して、江戸の職人気質を対置する。「職人とは無名なる芸術家であり、職人気質はかれらが体現した中世の精神である」(岩波文庫の解説より)のは、それより50年前のイギリスにおけるラファエル前派も同様である。
 そして、イギリスにおけるカーライルやラスキンやラファエル前派の流れの中からウィリアム・モリスの営為と社会主義が生まれたように、明治20年代の日本のささやかなロマン主義があって、それは明治30年代における文学や堺利彦らの社会主義にも引き継がれたのであろうかと思うところである。

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2012年11月15日 (木)

一葉の日記から

 横山源之助が亡くなった白山前町は、晩年の樋口一葉が住んだ丸山福山町とは目と鼻の先である。横山源之助が明治23年頃から4年間住んだ谷中初音町も、同じ頃に本郷菊坂下に住んだ一葉の生活圏にあり、二人は同じ頃に同じエリアで貧乏生活をしていた。そして、一葉晩年の明治29年(1896)1月に、横山源之助は一葉を訪ねている。
 樋口一葉は、明治5年(1872)に東京で生まれた。父義則は甲州の百姓の出で、幕末に江戸に出て八丁堀同心の株を買い幕臣になり、一葉は父義則の死後、17歳で戸主になった。明治23年(1890)に本郷菊坂下の貸家に住み、裁縫と洗い張りで生計を立てるが、やがて金を得るために小説を書こうと半井桃水を訪ねて教えを請い、上野の帝国図書館に通って文学を勉強し、半井桃水に恋心を抱きながら、それで家族を養おうと一人夜ランプの灯の下で近眼の目を机にへばりつかせながら、肩をこおらせこおらせ小説を書いた。世は明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布され、曲がりなりにも議会政治が始まり、立憲自由党や立憲改進党といった民党が登場する頃である。
 明治25年(1892)に一葉は、桃水の主宰する『武蔵野』に初めて『闇桜』を書き、この時に初めて「一葉」のペンネームを使った。由来は達磨の葦の一葉で、「おあしがない」に因んだとものと言われている。
 桃水の紹介で『改進新聞』にも『別れ霜』を書いているせいか、「我が『改進新聞』も・・」と書くように、一葉は『改進新聞』をよく読んでいたようで、一葉の日記には議会の動きが割と頻繁に書かれている。しかし、桃水系に書いた作品はほとんど金にならず、明治25年11月に歌塾「萩の舎」の先輩の田辺龍子の紹介で『都の花』に『うもれ木』を書いて、初めて原稿料十一円七十五銭を得た。
 その頃、田辺龍子は自らもその創刊に関わった北村透谷と星野天知発行の新雑誌『文学界』に一葉を推薦した『文学界』は、明治26年(1893)1月に第1号が出て、そこには北村透谷や古藤庵(島崎藤村)らの青年たちが、非商業的な同人として新しい文学の息吹を伝えようとしていた。明治26年(1893)2月6日の日記には、以下のようにある。
 「こころざすは完全無双の一美人をつくらんの外なく、目をとぢて壁にむかひ、耳をふさぎて机に寄り、幽玄の間に理想の美人をもとめんとすれば、天地みなくらく成りて、そのうつくしき花の姿も、その愛らしきびんがの声も、心かがみにうつりきたらず。・・・おもひおもひて心は天地の間をかけめぐり、身は苦悩の汗しとゞに成りぬ。思慮につかれては、ひる猶夢の如く、覚めたりとも覚えず睡れりとも覚えず。さしも求むる美の本体、まさしくありぬべきものとも、なかるべきものとも、定かに見とむるは何時の暁ぞも。我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老たる母あり、妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど、こころのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづらにかみくだく筆のさやの、哀れ、うしやよの中」と。
 「我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでにおもひをこらす」の一文は、桃水と離れた一葉に『文学界』の登場に共感を呼び起こしたことをうかがわせる。3月21日に、一葉の書いた『雪の日』はその第3号に載せる由を伝えるために一葉を訪ねて来た高等中学の生徒なる平田喜一(禿木)と遅くまで話し込んだ一葉は、「『叉こそ』とて別れぬ」した。
 しかし、「昨日より、家のうちに金といふもの一銭もなし、母君これを苦るしみて、姉君のもとより二十銭かり来る」(3月13日)、「我家貧困日ましにせまりて、今は何方より金かり出す道もなし」(3月30日)、「われこそはだるま大師に成りにけれ とぶらはんにもあしなしにして」(4月19日)、「窮甚し」(5月29日)という日々の生活の様が度々書かれて、6月29日の日記に、一葉は以下のように書く。
 「此夜一同熱義実業につかん事決す。・・・これよりの行路難いかにぞや。されども、我らはらからは、うきよのほめそりしをけへり見るものならず。唯おのれのよしとみて進む処にすすまんのみ。霜ばしらくずれなば、叉立てなほさんのみ」と。6月30日の日記には、「人つねの産なければ、常のこゝろなし。・・・かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。・・・せめて文学の上にだけも義務少なき身とならばやとてなむ。・・・とにかくにこえるをみまし空せみのよわたる橋や夢のうきはし」と志し、荒物・駄菓子屋を開こうと竜泉寺町に転居するのである。
 明治26年10月25日の『塵中日記』には、「此夜、田辺査官来訪、貧民救済之事につきてはなしあり」とある。遊郭のある竜泉寺町に転居して以来、一葉は毎日店を訪れる吉原辺りの子供たちに接しながら、やがては遊郭に売られてゆく娘たちに同情と共感を寄せたものと思われる。
 明治27年2月に、一葉は久佐賀義孝という謂わば相場師を訪ねて、「顧問になり呉れ殊に会計云々」と久佐賀義孝から千円の金を引き出そうとしている。この話は、やがて久佐賀義孝から「妾になれ」と言われた一葉がそれを拒否して終わるのだが、では一葉はこの金を何に使おうとしたのかについて、一葉研究家の和田芳恵は「一葉が頼んだ事業は、和歌以外のものと考えられる」、「この事業は、日記にはないが、下層社会を対象にした実際運動であったらしい」と書いている。
 明治27年5月に、一葉は、竜泉寺町から本郷丸山福山町に転居する。そこは小石川の砲兵工廠に近く、その職工なども集まる銘酒屋や安待合のある坂下の湿った処であったが、そこには『文学界』の若い同人たちがしばしば訪れるようになった。その年末、久佐賀義孝から「妾になれ」と言われてそれを拒否した一葉は、『大つごもり』を『文学界』に書き、年をあけての明治28年1月には『たけくらべ』を『文学界』に連載し出し、同年9月には『にごりえ』を発表するのである。これは、文学史上で「奇跡」と呼ばれる出来事であるが、これこそが下層社会に生きる人々に共感した一葉における「事業」であったのであろうと思われる。
 そして、この「奇跡の十四ヶ月」が終わろうとする頃に、横山源之助が訪ねて来る。一葉の日記には以下の記述がある。
 「かどを訪ふ者、日一日と多し。毎日の岡野正味、天涯茫々生など不可思儀の人々来る。茫々生は、うき世に友といふ者なき人世間は目して人間の外におけりとおぼし。此人とび来て、二葉亭四迷に我れを引あはさんといふ。半日がほどをかたりき」と。
 その頃の横山源之助は、底辺社会のルポルタージュを書いて好評を得て、地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようとしていた時期であった。一葉に「うき世に友といふ者なき人」と目された横山源之助は、半日がほどの間に一葉と一体何を語ったのか。
 1月22日の一葉の日記「みづの上」には、以下の記述がある。
 「みたりける夢の中には、おもふ事こゝろのまゝにいひもしつ、おもへることさながら人のしりつるなど嬉しかりしを、さめぬれば、又もやうつせみのわれにかへりて、いふまじき事、かたりがたき次第など、さまざまぞ有る。・・・はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有ふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな詫しからずや。かかる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事かあらぬか」と。
 明治29年(1896)は一葉最期の年であり、前年に発表した『たけくらべ』以来、一葉の名声は上がるばかりで、多くの文人たちが一葉を訪れるようになる。しかし、この「みづの上」の一葉はクールである。「さめぬれば、又もやうつせみのわれにかへりて、いふまじき事、かたりがたき次第など、さまざまぞ有る」とは、一体何がさまざま有り、語りたかったのであろうか。そして、この感慨と横山源之助の訪問は、何か関係があるのだろうか。
一葉訪問後に横山源之助が一葉に送った手紙から推測して、和田芳恵は以下のように書いている。
 「どういうことが二人の話題になったかわからない。しかし、一葉が文学者生活をやめて、そのことを実行してみようと云ったらしいことは考えられる。また、源之肋が共感しているのだから、下層社会のことだろう。・・・一葉が社会の不条理を感じてのことだから、素描な意昧での社会主義的なものかもしれない」と。
 横山源之助は、やはり同じ頃に一葉を訪ねた斎藤緑雨と一葉をめぐってつばぜり合いを演じたようでもある。関良一『一葉研究小史』によれば、「緑雨によれば、一葉は緑雨にたいして、もし死後に自身の作品集が刊行されるならば、緑雨か横山か、ふたりのうちのいづれかがその編纂に当ってほしいと遺言したといふ」とある。晩年の一葉が頼りにしたのは。世間に外れて生きるこの二人であったのかもしれない。
 明治29年6月23日の一葉の日記に、「毎日社の横山、鎌倉材木坐にありて文おこす。民支社の人と同宿し居るなりとて、事ありげの書きぶり成き。返じやらず」とある。一葉に心を寄せて手紙を書き送るも、軽くいなされながら横山源之助は、後に『日本の下層社会』にまとめられる調査の旅に出る。そして、調査活動をしていた最中の同年11月に、樋口一葉はその短い生涯を終えるのである。

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2012年11月14日 (水)

横山源之助

 『日本の下層社会』で知られる横山源之助は、明治4年(1871)に富山県魚津に生まれ、左官屋に引き取られた私生児であった。富山県中学校に入学したものの、翌年には東京に出て木賃宿を泊まり歩き、英吉利法律学校(後の中央大学)に学んで弁護士をめざした頃に二葉亭四迷の『浮雲』を読んで、それに打たれて二葉亭四迷を訪ね、そうこうするうちにそこで松原岩五郎や内田不知庵(露庵)らと知り合いになる。
 松原岩五郎は、横山源之助曰く「放浪組の隊長」で、当時徳富蘇峰主筆の『国民新聞』にいて、下層社会のルポルタージュなどを書き、内田魯庵のつてで二葉亭四迷と知り合った。そして、明治26年(1893年)に『最暗黒の東京』をルポルタージュする訳だが、当時は政府の殖産政策による新しい産業が起こる一方で、都市ではそこに描かれたように、車夫をはじめとする雑多な生業が底辺部を構成し、まさに松原岩五郎がこれをルポしたごとくに、たくさんの新聞、出版、印刷などのジャーナリズムが起こってくる。
 当初ならんとした弁護士への思を絶ち、天涯茫々のフーテンとなった横山源之助は、「隙間さえあると長谷川君(二葉亭四迷)を尋ね」、「遠慮会釈もあればこそ、ずるずるべったりに泊りこんだことも一、二度ではない。君はその頃英国職工の生活や賃金を調べていた」と二葉亭四迷の回想記に書いている。そして、松原岩五郎や横山源之助の「長谷川君に服していた連中」は、よく議論をし、前章で書いたようにいかがわしい場所に出入りした。これは3人のフーテンが巷間を飲み歩いたというよりは、明治20年代における意識的な下層社会のフィールドワークであり、日本のプレ社会主義的営みである。
 横山源之助は、明治27年(1894)に毎日新聞に入社すると、底辺生活のルポルタージュを書いて好評を得る。明治29年(1896)からは地方にも及ぶ本格的な調査活動を開始しようと、同年2月には佐久間貞一を訪ねてその支援を得て、3月に桐生・足利へと旅立った。松原岩五郎の『最暗黒の東京』が、明治20年代前半の東京における底辺層の生業ルポであったのに対して、日清戦争に勝利した後に、繊維産業を中心に資本主義の生成期に入った日本社会では、そこに新たな底辺社会を誕生させつつあり、横山源之助はそれをルポしに旅立ったわけである。それはやがて『日本の下層社会』にまとめられる訳だが、その陰には日本のロバート・オウエンと言われた佐久間貞一の援助があった。
 明治30年7月、横山源之助が関西で調査活動をしていた時に、高野房太郎らによって日本初の労働組合である労働組合期成会が設立され、同年10月に帰京した横山源之助は、積極的にそれに関わって行く。同年末に鉄工組合の機関誌「労働世界」が発行されると、そこに文章を書き、編集も担って行く。そして、明治32年(1899)に労働新聞社の社会叢書で横山源之助の『内地雑居之日本』が発行される。
 内地雑居とは、明治32年から実施された諸外国との通商航海条約の改正によって、諸外国によるそれまでの治外法権と関税自主権の廃止への引き換えとして、外国人の国内居住が自由になったことであり、謂わば「自由化」であった。高野房太郎が労働組合期成会を設立した背景にも内地雑居がある。『内地雑居之日本』に横山源之助は、こう書く。
「日清戦争により最も激しく影響を見たるは、工業社会を第一となす、各種の機械工業起こりたるも、此二三年来の事にして、即ち日清戦争以来のことなり・・・労働問題の起こりたるも、同盟罷工生じたるも、工場条例の発布せられんとするも、皆戦争以後なり、今ま内地雑居の暁、資本に欠乏せる我が工業界に外国の資本入り込み、外国の資本家が親ら工場を建て、我が労働の安きを機会として、工業に従事する暁は果たして如何なるべきや・・・」(岩波文庫P14-15)と。
 そして、『内地雑居之日本』に横山源之助は、その結論をこう書く。
 「労働問題最後の解釈は賃金問題にあらず、時間の短縮問題にあらず・・・工業社会に占むる労働者は位置問題なり、或意味にては資本家に対する権利問題なり、之を他の意味にていへば失業者問題なり、此の問題を解釈するを得るにあらざれば、未だ労働問題を解釈し得たりと見るべからず」(P111)
 「即ち余は諸君に工業上の共和を望めるを以て、政治の上に於ても社会主義を取るべしと唱導せんとす。・・・君主政治の国家に於ても共和は之を容るるに足る、英国は君主政治なり、然れども政治上の共和は行われ居るにあらずや、且国体に反するの故に、社会主義を排斥するが如きは、愚の骨頂なり・・・国体云々を口実として社会主義の入来るを排斥せんとするものあらば、却って社会主義の勢力を大ならしむべし」(P117-118)と。
横山源之助は、安部磯雄や片山潜のようにアメリカ帰りであった訳ではない。魚津に生まれ、職人に育てられ、上京してからは谷中辺りを根城に天涯茫々のフーテン生活を送り、職を得た後は全国の底辺に生きる人々をルポして歩いた。そこから生まれたものが、横山源之助にとっての社会主義であった訳である。
 また、横山源之助は、安部磯雄や片山潜らの社会主義研究会に参加せず、明治34年の社会民主党の創立にも参加していない。英吉利法律学校でイギリスの法律と社会を勉強していたせいか、革命的な社会主義思想についても否定的である。社会主義にシフトした片山潜と分かれて、非革命的な改良主義的な労働運動を志向、実践しようとしたわけだが、それは横山源之助を頼って富山から東京に出てきた育ての親家族10名の生活を背負って売文業をせざるを得なかったせいでもあった。
 大正4年6月3日、横山源之助は貧困の中、白山前町の間借りの2階で結核に肺炎を併発して死んだ。横山源之助の名は日本の社会主義運動の中では忘れられてしまったが、『日本の下層社会』と『内地雑居之日本』は、生成期の日本の資本主義から生まれ、「日本的風土、日本的労働運動に適応された最初の社会主義」(立花雄一『評伝・横山源之助』P150)と言えるだろう。

 横山源之助は、法律学校を卒業してから毎日新聞に入るまでの4年間を谷中初音町に住んでいたという。本人の「回想記」には、以下のようにある。
 「谷中に引っ込んで弁護士試験の準備に取り掛かったが、法律書は其方退に小説や宗教書に耽っていた。・・・空漠とした宗教書や、小説類を読み耽って、お仕舞には試験が一二か月前に迫ったが、其様なことに頓着なく、菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛けて、日を消したことが一二度ではない」と。
 また、島崎藤村の『春』には、以下の記述がある。
 「四月のはじめ、彼は独りで家を出て、上野公園から谷中を通って、道灌山まで歩いて行った。誰も来ないような場所へ彼は行きたいと思うのであった。彼の懐には平素愛読する李白の詩集があった。そこまで彼は泣きに行った。思うさま泣いた」(『春』百十二)と。
 明治24年(1891)~明治28年(1895)頃、横山源之助は谷中初音町に住み、天涯茫々と自称する如くフーテンのように生きていて、司法試験の勉強そっちのけで「菜根譚の写本を懐にして、飄然と道灌山や滝の川に出掛け」、その少し後くらいだろうか、1895年(明治28)に島崎藤村は、李白の詩集を持って、道灌山に泣きに行っている。
 余談だが、私の出た高校は道灌山にあったから、勉強嫌いな私は授業を抜け出すと、谷中や道灌山周辺でわけもなく日を消したことが幾度もあった。そして、1972年の夏に、大学をやめると言って父と言い争いして家を出て働きだした私は、翌年に結婚をすると団子坂下のアパートで新婚生活を始めたのであった。アパートの裏には動坂から根津につづく藪下通りという間道があり、団子坂上から根津に向かってだらだらと下るその道は、ちょっと都会離れした小道であった。樋口一葉の『日記』、明治27年6月の「水の上日記」に、以下のくだりがある。
 「四日 はれ。午後より、小石川亡老君の墓参をなす。天王寺也。きのふ三年の祭成しを得ゆかざりしかば、邦子と共に参る也。墓前に花を奉り、静に首をあげてあたりをみれば、何方より来にけん、小蝶二つ、花の露をすひ、石面にうつり、とかくさりやらぬさま、哀れにもさびし。邦子としばしここにかたりて、それより寺内を逍ゑうす。雲井龍雄の碑文などをみる。夕日のかげくらく成ほど、雨雲さへおこりたちて、空の色の物すさまじかいに、そそやといそぐ。團子坂より藪下を過ぎて根津神社の坂にかかる。・・・」と。
 谷中天王寺に墓参りに行った帰り道に、「團子坂より藪下を」ぬけ、根津神社前の坂を上って、本郷追分から丸山福山町の自宅に帰ったのであろうか。一葉はよく谷中天王寺に墓参りに出かけたようだが、団子坂を下って谷中の墓地方面に三崎坂を上った辺りが、横山源之助の住んでいた谷中初音町である。

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二葉亭四迷の社会主義

※「労農派論」の1章になる「二葉亭四迷の社会主義」が書けたので、以下、載せておきます。

 私は、会社勤めを辞めて失業生活に入った時に、二葉亭四迷の『浮雲』を再読した。二葉亭の『浮雲』は日本初の言文一致小説だが、再読すれば日本初のリストラ小説であることも分る。『浮雲』の主人公の文三は、「人減らしで免職」になってしまう。そして「たとえ今課長に依頼して復職ができたといっても、とても私のような者は永くは続きませんから、むしろ官員はモウ思い切ろうかと思います」と腹を決めてしまうのである。こうなると私には、それが明治19年(1886)に書かれた小説だとはとても思えなかったのだった。そして、もっと二葉亭四迷を知りたいと思った。すると二葉亭四迷は、日本でかなり早くから社会主義という言葉を自らに引きつけて自覚した人でもあったのだった。
 二葉亭四迷は『予が半生の懺悔』(明治41)にこう書いている。
 「私のは、普通の文学者的に文学を愛好したといふんぢゃない。寧ろロシアの文学者が取扱ふ問題、即ち社会現象を文学上から観察し、解剖し、予見したりするのが非常に興味のあることとなったのである。で、面白いといふことは唯だ趣味の話に止まるのだが、その趣味が思想となって来たのが即ち社会主義である」、「社会主義を抱かせる関係のあった露国の作家は、それは幾つもあった。ツルゲーネフの作物、就中「ファーザーズ、エンド、チルドレン」中のバザーロフなんて男の性格は、今でも頭にしみ込んでゐる。その他チェルヌイシェフスキー、ヘルツェン、それから露国の作家ぢゃないがラッサール、これはよく読んだものだ」(全集5巻p266)と。
 明治14年(1881)に外国語大学露文科に入学した二葉亭四迷は、1887年(明治20)に言文一致で『浮雲』を書く以前に上記の読書を成し、ベーリンスキーを愛読し、ツルゲーネフ『父と子』を翻訳し、社会主義を自覚していた。これは実に、自由民権運動最中のことであり、安部磯雄の社会主義研究会よりも10年以上早く、明治17年にアメリカに渡って苦学した片山潜が、1891年(明治24)にグリンネル大学の経済学の授業で「ラサール伝を読み、始めて自分は社会主義者となった」のよりも5年くらい早い。
 また、『余の思想史』には(明治41)にはこう書いている。
 「社会主義にかぶれたといふのは露文学の感化が非常によって力があったのだが、社会主義といった処で、非常に幼稚なもので、政府のやる仕事となれば、何でも気に喰はなかったり、つまらん處に自由だ自由だなどと騒いで見たり、今から考へて見ると実に滑稽なやうなものだが、その当時は、どうしてどうして大真面目であったのだ」と。
 その社会主義は所謂マルクス主義ではなかったにせよ、それが若き二葉亭四迷に与えた影響は、マルクス主義が後年の学生運動に与えたものとさほど変わらない。そして実際に外国語学校が商業学校に統合合併されてしまった時に、それに反発して進学するのを辞めてしまった二葉亭四迷は、独立独行の道を歩もうと文学の道を志し、明治18年1月に坪内逍遥を訪ねる。これは、坪内逍遥の『小説神髄』(明治18)を読んで思うところがあったのであろう。二葉亭四迷は、それを評するためにか「小説に勧懲、模写の二あれど云々の故に、模写こそ小説の真面目なれ」、「模写といへることは実相を借りて虚相を写しだすといふことなり」と書いた『小説総論』(明治19)と、自ら「美術は真理の直接の観察若しくは形象中の意匠なり」で始まり、文中には「意匠の由て生ずる所のものは真理なり」と翻訳したベリンスキーの『美術の本質』を持参した。『小説神髄』に沢山の朱墨を入れて訪ねて来た二葉亭四迷と話した坪内逍遥は、「全く別種の文学論を聴き、別種の人格を見た」(「柿の帯」)と、大いに驚いたようである。二葉亭四迷の語った文学論は、当時脚光をあびた写述主義ではなくて、まさに近代的なリアリズム文学論であったのだった。
 坪内逍遥は二葉亭四迷に文学への道を勧め、二葉亭四迷は『浮雲』を書く訳だが、その前、明治19年(1886)に二葉亭四迷はツルゲーネフの『父と子』を抄訳して『虚無党形気』という書名で、坪内逍遥の斡旋で大阪の版元から出す予定であった。そして広告もし、原稿料も支払われたのであったのが、原稿がどこかにいってしまい、そのままになってしまったという話がある。
 このことについて、木下尚江は二葉亭四迷を追悼した『長谷川二葉亭君』という文章で、以下のように書いている。
 「第一に、二葉亭が『父と子』翻訳の目的如何。・・・明治19年の彼は、文学を事業としての初発心の時で、それが特に『父と子』を選訳したと云ふことには、其処に深甚の意味を推測するの義務を感ずる。文章は第二の問題で、眼目は思想問題だ」。「然らば何故に『父と子』の出版を中止したか。これが第二の問題だ。・・・僕には、出版屋の都合から来たものでは無いかと云ふ邪推が湧いて来る。それは二葉亭が付けた『虚無党形気』といふ標題を見て、さふ思ふ」(全集9巻p248)と。
 木下尚江は、明治17年の加波山事件や、明治18年の大阪事件や、同年の自由党の名士馬場辰猪の爆発物の嫌疑と、翌明治19年に開かれたその公判を自らも傍聴したことを書いて、「二葉亭の命名『虚無党形気』が、当時の大阪の書肆に恐怖と躊躇を与へたと想像しても、あながち無根拠の妄想のみとは言はれまい」としている。
二葉亭四迷の青春時代とは、正にそういう時代だったのである。
 明治20年(1887)に『浮雲』が出るのだが、その後、二葉亭四迷は民友社の徳富蘇峰を訪ねており、その際に持参した自己紹介の挨拶文には、以下のようなことが書かれている。
 「小生の感情は真理の愛すべく敬ふべく真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざるを感ずれども小生の智識は真理を敬愛崇重すべき所以を理會する能はざるやう成果て候も是もまた怪しむべき義には不可有之候」と。
 自由民権運動を強圧的に押さえこんだ藩閥政治は、『浮雲』の内容にもなっている如くに旧官吏のリストラをすすめる一方で、上昇志向と栄達の道を誘う。それに対して二葉亭四迷は、ドフトエフスキーやヘーゲリアンであったベリンスキーの書を愛読することによって西洋哲学に馴染み、ツルゲーネフを愛読することによって西洋流の写実や詩想に触れ、自らの文学論と生き方、要は真理への道を生きようと、栄達の道である学士様になることを辞めて、「真理の為には名誉財産は勿論生命だも尚且惜むに足らざる」と、親の意に背いて文学の道に入った訳である。この生き方は、革命的でなくて何であろうか。二葉亭四迷は、当時の心境を後に『予が半生の懺悔』(明治41)に、こう書いている。
 「私は当時「正直」の二文字を理想として、俯仰天地に愧じざる生活がしたいといふ考えを有つてゐた。この「正直」なる思想は露文学から養われた点もあるが、もつと大関係あるのは、私が受けた儒教の感化である。・・・つまり東洋の儒教的感化と、露文学やら西洋哲学やらの感化とが結合つて、それに社会主義の影響もあつて、ここに、私の道徳的の中心観念、即ち俯仰天地に愧じざる「正直」が形づくられたのだ」と。
 しかし、『浮雲』第3編の載った『みやこのはな』を読んだ二葉亭四迷は、「かほどまで拙なしとはおもわざりしが・・殆ど読むにたえぬまでなり」と自らを卑下し、「正直という理想」と「芸術に対する尊敬心」との間で、「之は甚だしい進退維持(ヂレンマ)だ。実際的(プラクチカル)と理想的(アイデアル)との衝突だ」となって、文学への道を捨ててしまう。1889年(明治22)に「人各能あり。吾の如きは能く小説家となり得べきや如何に・・」と書いて、『浮雲』第3編を書きっぱなしにして、外国語学校時代の恩師の世話で、内閣官報局に就職し、月俸三十円を支給されることになった。
 二葉亭四迷が内閣官報局に勤めていた8年間は、二葉亭四迷の生涯の中でも、比較的安定していた時期のようである。文学への思いに悶々としつつも、「正直」に生きようとすることの延長か、トルストイやスペンサーなど、文学というよりは哲学的な読書をしている。内閣官報局での仕事は、英字新聞や魯字新聞の翻訳であり、そこで得たロシアほかの社会運動の現状についての知識は、悶々とした文学への思いを実践に変えていく。この時期の二葉亭四迷について、内田魯庵は以下のように書いている。
 「一時好んで下層社会に出入するや、一面にはライフの研究者たると共に、一面には自ら下層社会伝習の悪俗の基いたる彼等の精神的欠陥を救うの教師を以て任じた」。「一体長谷川君は下層社会に興味を有して、人間の天真はお化粧した綾錦に包まれた高等社会には決して現れないで、垢面襤褸の間に却って真のヒューマニティを見る事が出来る、と常に云っていた」と。
 内田魯庵によれば、二葉亭四迷は内閣官報局に勤めながら、「洋服の上に羽織を引掛けて・・田舎の達磨茶屋を遊び回ったり、印半纏に弥蔵をきめ混んで職人の間に入って見たり」したそうである。そして、二葉亭四迷は下層社会で出合った女と結婚までしてしまう訳だが、中村光夫はこう書いている。「彼は心から彼等の仲間になり、同類として生きることを望んだので、この無垢の心の生んだ悲劇が彼の最初の結婚であったと思われます」(中村光夫『二葉亭四迷伝』講談社文芸文庫p196)と。
 そして、家を出て安下宿を転々とし、下層社会を徘徊する二葉亭四迷を、明治24年の初夏に横山源之助が訪ねてくる。

 二葉亭四迷の最期は、朝日新聞社のロシア特派員となって革命前のロシアに渡り、そこで病に倒れて、明治42年(1909)5月に帰国する船の船上で亡くなった。一方、同じくラサールを読んで社会主義者となった片山潜は、最後は革命後のソ連に渡って、コミンテルンの指導部に入り、彼の地で死に、スターリンらに担がれた遺体はクレムリンに眠る。
 だから、片山潜こそ最後まで社会主義者であったとなるのだろうが、二葉亭四迷の革命性は以下のところにある。二葉亭四迷は『文壇を警醒す』(明治41)にこう書く。
 「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ、と真似をしたって到底だめなことは前にも言ふ通りだ。流行や書物で事を決めてるやうな事なら仕方がない。真に実感に訴えて、国民性に立ち戻って其處から行かなけりゃならぬ。世界が何うだって大陸諸国が何うだって・・日本は日本の長所でやったらいいじゃないか」と。その「モーパッサンだ、ツルゲネフだ、イプセンだ」を、「マルクスだ、エンゲルスだ、レーニンだ」に置き換えれば、それも二葉亭四迷が言わんとしたことに通じている。
 また、二葉亭四迷は日本で初めて言文一致の小説『浮雲』を書いたその翌年には『あひゞき』と『めぐりあひ』を翻訳してた。ツルゲーネフの詩的なロシア語の原文を、味わいを変えずに如何に日本語で表現するのかに苦労した跡が、そのまま表現されていて、おそらく原文もこうなのであろうとさえ思わせるほどで、いま読んでも初々しい。そして、『浮雲』執筆の折には「行き詰て筆が動かなくなると露文で書いてから翻訳したそう」である。ロシア語に学んだ写述を日本語で為そうとした時に、どう表現すればそれが可能なのか、直訳でも意訳でもない表現を求めて、三段階的作業をしたわけである。
 二葉亭四迷は先駆者であったがゆえに。時代はまだ二葉亭四迷を受け入れるのには早すぎた。当時の数少ない理解者であった内田魯庵は、後に「二葉亭の人物」についてこう話している。
 「(長谷川君を評して)革命家の一語を以て評した方が適当だらうと思ふ。長谷川君は純粋の革命家の典型であった。然し革命家と云っても勿論、極端な虚無主義者や実行家では無い、クロポトキンのやうな理論上の革命家だ。コスモポリタニズムの思想の強い人だつたが、一面に於いては叉非常に愛国心の強い人でした」(全集9巻p241)と。

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