« この夏は | トップページ | 共同体社会主義ノート »

2012年8月15日 (水)

戦後の労農派

暑い上に体調も良くないから、外出はあまりしない。今年の夏は、仙台ヒデさんの作並の館にも行けそうにない。そおで、時間はあるので、戦後の労農派について少し読んでみようと、古書のネットを検索して、大内兵衛『経済学五十年』(』(東大出版会)と大内力篇『現代社会主義の可能性』(東大出版会1975)を購入した。

大内兵衛の『経済学五十年』は、戦前から戦後にわたる「学者グループ」の形成から戦後までをその中心人物が書いたもので、平民社に始まる日本の社会主義が堺利彦と山川均を経て、やがて労農派というグループが形成されて、戦後に継承される流れがよく分かる。戦後に出版された『日本資本主義の研究』(黄土社)について、大内兵衛は以下のように書いている。

「マルクスの理論は社会主義を別にして三つの主題をもつ。これは宇野弘蔵君の主張である。・・われわれは、以上三つの研究会をもって、われわれの社会主義の立場をデモンストレートし、それによってわれわれのマルクス学の全容を示した形となった。・・そこに一貫した一つの思想体系があることは疑い得なかった。もちろんわれわれ各自の理論、各自の知識、それは皆独立のもので、だれがリードしたということもなく、したがって完全な統一もなかったが、大まかな意味では似たような理解があり、一つのシステムがあった。これがため世間はわれわれを労農派と名づけ、それをマルクス主義の日本種、講座派に対する非教条派とした。・・・ぼくらが共通に準拠した科学的根拠、経済学、歴史観、社会理想は、遠くマルクス・エンゲルスに源を発する流れであったから、漠然としたグループであっても、一つの筋の通ったグループとなった。それで世間の注目をびたのである。これを自分たちはマルクス主義と思っていた。それは、当時流行のマルクス・レーニン・スターリン主義とは、どこか違っていることは知っていた。それで、ぼくは自らを「日和見主義」と称した。これはいわゆるスターリン主義者から自分を区別する意味でもあったが、そういう人々からくり返しくり返しその卑きょうをせめられた。残念ながら、この程度がぼくにちょうどせい一杯であった」と。(P386-7)

労農派は、左翼運動においてソ連の影響力が圧倒的であった戦後においても、「非教条派」として「当時流行のマルクス・レーニン・スターリン主義」とは自らを区別して「日和見主義と称した」訳であるが、この見識は階級闘争主義と左翼主義が幅をきかせていた状況の中では、批判の対象であった。

先日、たまたま社会党の書記局長だった曽我裕次氏にお話をうかがう機会があった。曽我裕次氏によれば、『日本資本主義の研究』を出版した黄土社というのは労農派系の出版社で、その社長をしていた小森武氏というのが、後の美濃部都政の仕掛け人であったということであった。1968年に鎌倉の料亭「和光」で、戦後の労農派がみんな集まる会議が開かれて、その場で美濃部亮吉君を社会党に差上げようということが決まったのだよ、と曽我裕次氏はおっしゃっていた。

大内兵衛を中心とする戦前からの学者グループは、美濃部都政の成立をもって、世代的にもその役割を終えるのだが、大内兵衛の息子の大内力的には、国家独占資本主義の終焉に合わせた終焉となった訳である。そして、それ以降は大内力を中心にして「新学者グループ」がつくられて、学者グループの世代交代がすすむ。時代は、60年代末の学生運動や社会運動が激化していく頃である。

70年代に入ると大内力は、「現代資本主義の命運」と「現代社会主義の可能性」という二つのシンポジウムを行う。それまでの労農派系学者グループは、戦前からの「資本論」研究者が中心であったが、大内力のシンポジウムの参加者は、宇野派の当時中堅の学者たちであった。そして、宇野派でも大内力系の学者の中から、労農派=社会党系と提携する「新学者グループ」が形成されて行くのである。

この場合、労農派系というのは所謂向坂協会のことではなくて、どちらかというと向坂協会系がつくった「日本における社会主義への道」という謂わば社会党の綱領的文章の見直しをすすめようとする反向坂協会系の左派グループのことである。ここに曽我裕次氏が居る訳で、やがて「新学者グループ」ができていく訳である。

向坂協会は、向坂逸郎が戦前からの労農派であったが故に労農派とみなされて来たが、労農派の要諦が「非教条派」であるなら、「ソ連型教条派」である向坂協会は労農派の本領であるとは言えない。戦前からの労農派の最善の流れは、「資本論研究→日本資本主義の研究→労働力の商品化の否定としての社会主義」という流れになる訳である。『現代社会主義の可能性』で、大内力は以下のように問題を提起する。

「もし資本主義のもっとも基本的な規定が労働力の商品化にあるとするならば、その否定としての社会主義は労働力の商品化の否定でなければならない。しかし、いったい労働力の商品化が否定されるというのはどういうことなのか。・・・その辺がうまく解明されていないことがこれまでの社会主義論を空疎にしてきたひとつの理由ではなかろうか、それがわれわれの問題意識です」と。

こうなると、私がこのブログを書き始めたモチーフ、「脱労働力商品論=脱労働力商品的生き方=新しいコミュニティの探究」というのは、既に40年前に語られ始めていたということになる。私は1970年代に生協で働き始めて、SPの活動などもするようになり、2000年にはそれらを辞めて、「脱労働力商品論=脱労働力商品的生き方=新しいコミュニティの探究」を始めた訳だが、まあ、凡人が考えたり、やったりすることは、何十年経っても同じようなものなのであろう。人生、何度でもふりだしに戻る訳である。

|

« この夏は | トップページ | 共同体社会主義ノート »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 戦後の労農派:

« この夏は | トップページ | 共同体社会主義ノート »