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2012年8月 6日 (月)

この夏は

退院後は病院の近くの古本屋で1冊100円で買った『日本の歴史』(中央公論社)20~24巻を読んだ。60年代に定期刊行された箱入り本で、各巻に「月報」がついている。24巻『ファシズムへの道』の「月報」は、執筆者の大内力と鈴木茂三郎との対談である。鈴木茂三郎が亡くなる3年前の対談で、大内力が鈴木茂三郎に戦前の運動について、あれこれと訊いている。

鈴木茂三郎は、新聞記者をしながら雑誌『労農』の同人となり、1928年(昭和3)に東京無産党をつくって以降、合法無産政党運動に専念し、戦後は日本社会党の委員長になった人で、対談では「いちばん強い印象でわたしの心をつかんでいるのは、堺利彦さんだ」と語る生粋の労農派である。

戦前の社会運動というのは、前回の日記上段の図にあるように、農民運動も、労働運動も、政党運動も離散集合をくりかえした。はじめは友愛会系が立ち上げて、それなりの結集を集めるのだが、鈴木茂三郎が語るには、そうすると「共産党がなだれこみ戦術でザーッと入ってきて中央の役員をきめてザーッと帰って行く・・・まったく始末に困った」といった状況で、やがて右派が離れて別組織をつくり、共産党系は少数になって、また合同をくりかえすといったことのくり返しであったようである。

「(共産党は)自分たちの方針をきめると、それを遮二無二押しつけてきて力で支配しようとする。これではとてもいっしょにやっていけないという考えを持ったので、われわれは労働農民党が解散されてから、共同戦線党論によって無産大衆党をつくったのです。・・・共産党は合法無産政党にたいしては社会ファッショという規定で反対していたのです」と鈴木茂三郎は語っている。

秘密フラクションをつくって組織を支配しようとする左翼運動のこの構造は、戦後の左翼運動でも、共産党に限らずに新左翼でも社会主義協会でも行っていたことだったが、その大元には彼らの信じた社会主義思想と、その運動論があった。それは、マルクス主義の唯物史観的理解にもとづく階級闘争論であり、より左を正しいとする左翼主義である。

この左翼主義は、「ボルシェヴィキ→コミンテルン→共産党」という権威によって成り立っていて、戦後の新左翼はコミンテルンと共産党を批判したけど、代わりにレーニンを持ってきたくらいで、構造的には同じである。そして、労農派というのは、その権威に寄りかからなかった日本土着の社会主義であったといことである。

日本で最初にできた共産党は、それまでのマルクス主義者が集まったもので、堺利彦が委員長になって1922年(大正11)7月に結成されたが、翌年6月の第1次共産党事件による検挙と、1922年(大正11)8月に出た山川均による「合法政党をつくって労働者や農民の中に組織をのばすべきだ」とする「方向転換」によって解党された。後に「共産党との決別」という文章で、山川均は以下のように書かれている。

「今後共産党が国民多数の支持をえて政権をにぎることがあるとしたならば、その共産党はボリシェヴィズム党の原型とはまるでちがった性格の党となっているにちがいない。・・これがボリシェヴィズム党としての共産党というものにたいする僕の考え方だ。そこで共産党再建運動への参加を求められたとき、僕はこういうボリシェグィズムとその特殊な運動の組織としての共産党の道を選ぶか、それとも僕の方向転換論の考え方の線に進むか、どちらかの決定を迫られたわけだ。それで僕は旧友と別れても自分の道を進もうと決意したのだ」と。

同文章には、1925年(大正14)にコミンテルンからの党再建指令(上海テーゼ)に対する山川均の対応が、以下のように書かれている。

「党再建運動の代表者の一人から、この上海テーゼを示され、このテーゼにもとづいて党を再建することになったから参加してくれという申入れを受けた。僕はテーゼを一読した後、自分はこの計画に参加しないという答えをすると、堺君も、自分も同意見だと答え、話は10分か15分間で終わった」と。

その後、1927年(昭和2)末に、堺利彦と山川均は雑誌『労農』を発刊するのであるが、この頃になると、運動のイニシアティブは山川均の方に移って行ったようである。堺利彦は、昭和3年に結成された無産大衆党の委員長になるが、同時期の遊説中に倒れる。同年12月に無産大衆党は7党合同で日本大衆党になり、堺利彦は中央委員になる。この辺りの動きは、山川均の共同戦線党の方針にもとづいて鈴木茂三郎が動いている訳で、昭和4年に堺利彦は日本大衆党から東京市議選に立候補して当選し得するが、日本大衆党の分裂後、昭和5年に労農派系の東京無産党から衆院選に立候補して落選する。

あれこれと無産政党が出来て、選挙に参加するようになった背景には、1925年に成立した普通選挙法がある訳だが、これは治安維持法と抱き合わせで成立したものであり、そのまた背景には、ソ連における社会主義革命とそれによる日本における社会主義運動の激化があった。要は、権力者側の社会運動に対する警戒と対策がその背景にある訳だが、この構造は、明治22年の大日本帝国憲法発布にも通じている。当時の藩閥政権は、明治14年の政変以降の混乱と、自由民権運動がむすびつくことを恐れた訳である。

この間、明治以降の近代史を読んで思うのは、社会に多少の進歩はあっても、人間自体は変わらないから、何かにつけ歴史はくり返すということであろうか。藩閥政治下の議会と議員も、普通選挙以降の議会と議員も、現在の議会と議員も、その見識と自己保身とご都合主義は少しも変わらない。むかし通りにやっているとしか思えないほどである。

それでも、わずかに歴史が変わるのは、かつての自由民権運動や社会主義運動のように、社会運動が政権に危機感を抱かせるほどのプレッシャーをかけた時である。そしてまた、そういう時代が始まりつつあることを、この夏に実感している。

6月末の金曜日に、初めて国会前のデモに行った。その後は耳の病気の具合が良くなくて、退院後は家で療養。ひょっとしたら、また入院になるかもしれない。そんなで、外出もできないから、またこのブログを書くかと思う。

大内力が鈴木茂三郎に話をきくという「月報」を読みながら、まだ大内力氏が元気だった頃に、あれこれと話を聞いておけばよかったと思うところ。しかし、それが叶わなくても、既に世間からは忘れられた労農派の話ではあるが、残りの筋道はたてておきたいと思うところで、この夏はせっかく病気のおかげで遊べない訳だから、そうしようと思う訳である。

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