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2012年8月15日 (水)

共同体社会主義ノート

120813 大内力篇『現代社会主義の可能性』は、1974年夏に行われたシンポジウムの記録で、宇野派らしく労働力商品の否定としての社会主義を構想する訳だが、大内力はマルクスが理想とした社会主義像を以下のようではなかったかと提起する。

「マルクスの社会主義像というのは、その出発点がいまの企業内分業というイメージにあるためか、どうも比較的小さい社会単位で、そこで人間がひとつの生産目標に向ってお互いに分業をしながらも、意識的に協力するようなゲマインヴェーゼンといったものになりがちだと思うのです。・・・むろん一面ではそれがなお生産力の低い段階に対応していることは認めながらも、むしろ力点は、後世になって私有財産制度ができ、階級的な関係がその中に含まれたためにそれらがゆがめられたのであって、そうなる以前の共同体社会は、かなり理想的な社会だという考え方がある。そしてかれの社会主義論というのは、いつもそこに回帰してゆくような習性をもっているのじゃないかという疑いをもっているんです。社会主義社会のスケールの問題はさっきのご報告にもあったが、マルクスのばあいはどうも直接民主主義みたいな小さい単位社会がイメージされがちなんじゃないかな」(p17)。

「マルクスの資本主義論の前提には・・共同的生産というか、共同体的社会というか、そういうものは人間の一般的本性にもとづいている。つまり人間はそもそも生産において共同をして、かれ自身他人のために労働し、他人の労働によって生活をするという関係をもたざるをえないし、またそうすることに努力する本性をもっている。むろん資本主義社会も、結果においてはこういう労働の交換をやっているのだけれども、それを商品経済的に編成してしまっている。そこに人間疎外の問題の生ずる根源がある、というのですね・・・アダム・スミスは人間はほんらい個人主義的で、その本性からいって商品交換をする必然性をもっていると考えている。マルクスはそれをひっくり返しにして、商品交換というのは特殊歴史的なものであり、否定されるべきものであって、それが否定されると人間がお互いに共同して一緒に合理的に生産の場に協力する体制ができる。それこそが人間の本性だ、というわけです。・・それとならんで、かれの社会主義論は、いきなり私有財産否定と結びつけられている。だから・・実際の管理の問題というところまでは考えていないで、生産手段が私有されているか否かということが決定的なことにされている。そしてその私有財産制度さえ否定されれば、商品経済もなくなるし、管理の編成の問題もなくなるし、専門家と一般労働者との区別もなくなる、そして一種の共同社会ができるということになっている。私有財産というものの魔法を解けば、何もかも悪いものはいっぺんに酒えてしまうというようなイメージがかなり残っているんじゃないかという感じがします」(p18)と。

そして、馬場宏二も以下のようにフォローしている。

「マルクスのばあい、途中までは東洋が実際には射程に入ってないのじゃないですか。それこそ唯物史観で、どの地域でも、生産力のいちばん高い資本主義の発達した西ヨーロッパ型の社会にだんだん近づくと思っている。それがやっているうちに、話がそればかりでもなさそうだということになって視野が拡がったといってもいいが、むしろ屈折するわけですね。その屈折のさいごが「ザスーリチ宛の手紙」になるわけですが、・・・非常に共同体主義的な感じのする社会形態論ですね。そこには先生がいわれたように、もともとかれのもっていた社会主義の魂が残ったのじゃないかと思う」(p27)と。

そして、次に協同組織のイメージについて、以下のような議論が展開される。

(田中学)「イギリスですと、協同組合主義みたいな考え方とか、実験とかいうのは、わりあい早くからありますね。たとえばロバート・オーエンなんかが協同組合論をやるわけですね。ああいう考え方や実験みたいなものが多少マルクスの社会主義論に影響を与えているとみていいですか」。
(日高晋)「だと思いますね。協同組合について-『ゴータ綱領批判』だったかな・・・社会主義になると、資本主義の中にあった自立的な協同組合が拡大していって、全社会をおおうといった感じじゃないですか」。
(大内力)「ただ、それについてあえて問題を出すならば、極端なことをいって、全世界が一つの協同組合になってしまえばいいのかもしれないけれども、地域的なり国民経済的なりに協同組合みたいなものができたばあい、その組合と組合の間の関係はどういうことになるのかな。なんとなく商品経済的になって、また商品が「世界のすきま」にのこるような気がする」。
(中山弘正)「そういう協同組合主義のようなことをいうとき、マルクスたちが考えていたのは、いわゆる「原論」の背景となる一国資本主義的な規模の裏返し、といったものでしょうね」。
(大内力)「ぼくはもっとローカルなものを考えていたような感じがする。具体的なイメージとしては・・アイルランドのララハインの話です。・・ともかくあれはいまの日本にも部分的にあるような、農業の共同経営みたいなものですね。最近の農林省式の言葉でいえば、全面協業だが、それが社会主義的な農業の模範のように考えられている」。
(日高晋)「そういう協同組合が拡がると考えたのじゃないですかね。拡大すれば社会主義になるという、限定づきで考えたのではないでしょうか」。
(大内力)「しかし、抽象的に考えたって、なにか計画を立ててそこで人々が共同で働くというばあい、しかもそこに直接民主制が貫かれるという形で考えるとしたら、とうぜんその社会の規模は限られてしまうでしょう。おそらく、最大限を考えたって組合員が数百とか干とかいう数で、万となったらとても直接民主制じゃゆきようがない。そうなると、だんだん代表民主制みたいなものにならざるをえないですね」(p22~23)と。

このシンポジウムが行われた頃に、私は生協で働き始めた。当時は、都内最大の生協であった都民生協の組合員数は2~3万人であって、私のいた江東区のたつみ生協の合員数は30千~4千人程度であった。今では都民生協もたつみ生協も、県域を越えた連合会組織になって、それぞれの組合員数はとうに100万人を超えている。

前回にも書いたが、最後まで空想的社会主義者であった私は、12年前に生協を辞めてしまったのであるが、生協とはちがう共同体、コミュニティのイメージについて、大内力の言う「ローカルなもの」「直接民主制が貫かれるという形で考えるとしたら・・最大限を考えたって組合員が数百とか干とかいう数」は示唆に富む。

以上の大内力のマルクスの社会主義像は、初期マルクスに拠っている訳だが、その『ドイツ・イデオロギー』におけるエンゲルスによる唯物史観の展開の脇に書かれているという以下のマルクスのメモは、昔から今まで私の理想とする共同体、コミュニティの原像なのである。

「これにたいして共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである」(花崎皋平訳『新版ドイツ・イデオロギー』p68)

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戦後の労農派

暑い上に体調も良くないから、外出はあまりしない。今年の夏は、仙台ヒデさんの作並の館にも行けそうにない。そおで、時間はあるので、戦後の労農派について少し読んでみようと、古書のネットを検索して、大内兵衛『経済学五十年』(』(東大出版会)と大内力篇『現代社会主義の可能性』(東大出版会1975)を購入した。

大内兵衛の『経済学五十年』は、戦前から戦後にわたる「学者グループ」の形成から戦後までをその中心人物が書いたもので、平民社に始まる日本の社会主義が堺利彦と山川均を経て、やがて労農派というグループが形成されて、戦後に継承される流れがよく分かる。戦後に出版された『日本資本主義の研究』(黄土社)について、大内兵衛は以下のように書いている。

「マルクスの理論は社会主義を別にして三つの主題をもつ。これは宇野弘蔵君の主張である。・・われわれは、以上三つの研究会をもって、われわれの社会主義の立場をデモンストレートし、それによってわれわれのマルクス学の全容を示した形となった。・・そこに一貫した一つの思想体系があることは疑い得なかった。もちろんわれわれ各自の理論、各自の知識、それは皆独立のもので、だれがリードしたということもなく、したがって完全な統一もなかったが、大まかな意味では似たような理解があり、一つのシステムがあった。これがため世間はわれわれを労農派と名づけ、それをマルクス主義の日本種、講座派に対する非教条派とした。・・・ぼくらが共通に準拠した科学的根拠、経済学、歴史観、社会理想は、遠くマルクス・エンゲルスに源を発する流れであったから、漠然としたグループであっても、一つの筋の通ったグループとなった。それで世間の注目をびたのである。これを自分たちはマルクス主義と思っていた。それは、当時流行のマルクス・レーニン・スターリン主義とは、どこか違っていることは知っていた。それで、ぼくは自らを「日和見主義」と称した。これはいわゆるスターリン主義者から自分を区別する意味でもあったが、そういう人々からくり返しくり返しその卑きょうをせめられた。残念ながら、この程度がぼくにちょうどせい一杯であった」と。(P386-7)

労農派は、左翼運動においてソ連の影響力が圧倒的であった戦後においても、「非教条派」として「当時流行のマルクス・レーニン・スターリン主義」とは自らを区別して「日和見主義と称した」訳であるが、この見識は階級闘争主義と左翼主義が幅をきかせていた状況の中では、批判の対象であった。

先日、たまたま社会党の書記局長だった曽我裕次氏にお話をうかがう機会があった。曽我裕次氏によれば、『日本資本主義の研究』を出版した黄土社というのは労農派系の出版社で、その社長をしていた小森武氏というのが、後の美濃部都政の仕掛け人であったということであった。1968年に鎌倉の料亭「和光」で、戦後の労農派がみんな集まる会議が開かれて、その場で美濃部亮吉君を社会党に差上げようということが決まったのだよ、と曽我裕次氏はおっしゃっていた。

大内兵衛を中心とする戦前からの学者グループは、美濃部都政の成立をもって、世代的にもその役割を終えるのだが、大内兵衛の息子の大内力的には、国家独占資本主義の終焉に合わせた終焉となった訳である。そして、それ以降は大内力を中心にして「新学者グループ」がつくられて、学者グループの世代交代がすすむ。時代は、60年代末の学生運動や社会運動が激化していく頃である。

70年代に入ると大内力は、「現代資本主義の命運」と「現代社会主義の可能性」という二つのシンポジウムを行う。それまでの労農派系学者グループは、戦前からの「資本論」研究者が中心であったが、大内力のシンポジウムの参加者は、宇野派の当時中堅の学者たちであった。そして、宇野派でも大内力系の学者の中から、労農派=社会党系と提携する「新学者グループ」が形成されて行くのである。

この場合、労農派系というのは所謂向坂協会のことではなくて、どちらかというと向坂協会系がつくった「日本における社会主義への道」という謂わば社会党の綱領的文章の見直しをすすめようとする反向坂協会系の左派グループのことである。ここに曽我裕次氏が居る訳で、やがて「新学者グループ」ができていく訳である。

向坂協会は、向坂逸郎が戦前からの労農派であったが故に労農派とみなされて来たが、労農派の要諦が「非教条派」であるなら、「ソ連型教条派」である向坂協会は労農派の本領であるとは言えない。戦前からの労農派の最善の流れは、「資本論研究→日本資本主義の研究→労働力の商品化の否定としての社会主義」という流れになる訳である。『現代社会主義の可能性』で、大内力は以下のように問題を提起する。

「もし資本主義のもっとも基本的な規定が労働力の商品化にあるとするならば、その否定としての社会主義は労働力の商品化の否定でなければならない。しかし、いったい労働力の商品化が否定されるというのはどういうことなのか。・・・その辺がうまく解明されていないことがこれまでの社会主義論を空疎にしてきたひとつの理由ではなかろうか、それがわれわれの問題意識です」と。

こうなると、私がこのブログを書き始めたモチーフ、「脱労働力商品論=脱労働力商品的生き方=新しいコミュニティの探究」というのは、既に40年前に語られ始めていたということになる。私は1970年代に生協で働き始めて、SPの活動などもするようになり、2000年にはそれらを辞めて、「脱労働力商品論=脱労働力商品的生き方=新しいコミュニティの探究」を始めた訳だが、まあ、凡人が考えたり、やったりすることは、何十年経っても同じようなものなのであろう。人生、何度でもふりだしに戻る訳である。

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2012年8月 6日 (月)

この夏は

退院後は病院の近くの古本屋で1冊100円で買った『日本の歴史』(中央公論社)20~24巻を読んだ。60年代に定期刊行された箱入り本で、各巻に「月報」がついている。24巻『ファシズムへの道』の「月報」は、執筆者の大内力と鈴木茂三郎との対談である。鈴木茂三郎が亡くなる3年前の対談で、大内力が鈴木茂三郎に戦前の運動について、あれこれと訊いている。

鈴木茂三郎は、新聞記者をしながら雑誌『労農』の同人となり、1928年(昭和3)に東京無産党をつくって以降、合法無産政党運動に専念し、戦後は日本社会党の委員長になった人で、対談では「いちばん強い印象でわたしの心をつかんでいるのは、堺利彦さんだ」と語る生粋の労農派である。

戦前の社会運動というのは、前回の日記上段の図にあるように、農民運動も、労働運動も、政党運動も離散集合をくりかえした。はじめは友愛会系が立ち上げて、それなりの結集を集めるのだが、鈴木茂三郎が語るには、そうすると「共産党がなだれこみ戦術でザーッと入ってきて中央の役員をきめてザーッと帰って行く・・・まったく始末に困った」といった状況で、やがて右派が離れて別組織をつくり、共産党系は少数になって、また合同をくりかえすといったことのくり返しであったようである。

「(共産党は)自分たちの方針をきめると、それを遮二無二押しつけてきて力で支配しようとする。これではとてもいっしょにやっていけないという考えを持ったので、われわれは労働農民党が解散されてから、共同戦線党論によって無産大衆党をつくったのです。・・・共産党は合法無産政党にたいしては社会ファッショという規定で反対していたのです」と鈴木茂三郎は語っている。

秘密フラクションをつくって組織を支配しようとする左翼運動のこの構造は、戦後の左翼運動でも、共産党に限らずに新左翼でも社会主義協会でも行っていたことだったが、その大元には彼らの信じた社会主義思想と、その運動論があった。それは、マルクス主義の唯物史観的理解にもとづく階級闘争論であり、より左を正しいとする左翼主義である。

この左翼主義は、「ボルシェヴィキ→コミンテルン→共産党」という権威によって成り立っていて、戦後の新左翼はコミンテルンと共産党を批判したけど、代わりにレーニンを持ってきたくらいで、構造的には同じである。そして、労農派というのは、その権威に寄りかからなかった日本土着の社会主義であったといことである。

日本で最初にできた共産党は、それまでのマルクス主義者が集まったもので、堺利彦が委員長になって1922年(大正11)7月に結成されたが、翌年6月の第1次共産党事件による検挙と、1922年(大正11)8月に出た山川均による「合法政党をつくって労働者や農民の中に組織をのばすべきだ」とする「方向転換」によって解党された。後に「共産党との決別」という文章で、山川均は以下のように書かれている。

「今後共産党が国民多数の支持をえて政権をにぎることがあるとしたならば、その共産党はボリシェヴィズム党の原型とはまるでちがった性格の党となっているにちがいない。・・これがボリシェヴィズム党としての共産党というものにたいする僕の考え方だ。そこで共産党再建運動への参加を求められたとき、僕はこういうボリシェグィズムとその特殊な運動の組織としての共産党の道を選ぶか、それとも僕の方向転換論の考え方の線に進むか、どちらかの決定を迫られたわけだ。それで僕は旧友と別れても自分の道を進もうと決意したのだ」と。

同文章には、1925年(大正14)にコミンテルンからの党再建指令(上海テーゼ)に対する山川均の対応が、以下のように書かれている。

「党再建運動の代表者の一人から、この上海テーゼを示され、このテーゼにもとづいて党を再建することになったから参加してくれという申入れを受けた。僕はテーゼを一読した後、自分はこの計画に参加しないという答えをすると、堺君も、自分も同意見だと答え、話は10分か15分間で終わった」と。

その後、1927年(昭和2)末に、堺利彦と山川均は雑誌『労農』を発刊するのであるが、この頃になると、運動のイニシアティブは山川均の方に移って行ったようである。堺利彦は、昭和3年に結成された無産大衆党の委員長になるが、同時期の遊説中に倒れる。同年12月に無産大衆党は7党合同で日本大衆党になり、堺利彦は中央委員になる。この辺りの動きは、山川均の共同戦線党の方針にもとづいて鈴木茂三郎が動いている訳で、昭和4年に堺利彦は日本大衆党から東京市議選に立候補して当選し得するが、日本大衆党の分裂後、昭和5年に労農派系の東京無産党から衆院選に立候補して落選する。

あれこれと無産政党が出来て、選挙に参加するようになった背景には、1925年に成立した普通選挙法がある訳だが、これは治安維持法と抱き合わせで成立したものであり、そのまた背景には、ソ連における社会主義革命とそれによる日本における社会主義運動の激化があった。要は、権力者側の社会運動に対する警戒と対策がその背景にある訳だが、この構造は、明治22年の大日本帝国憲法発布にも通じている。当時の藩閥政権は、明治14年の政変以降の混乱と、自由民権運動がむすびつくことを恐れた訳である。

この間、明治以降の近代史を読んで思うのは、社会に多少の進歩はあっても、人間自体は変わらないから、何かにつけ歴史はくり返すということであろうか。藩閥政治下の議会と議員も、普通選挙以降の議会と議員も、現在の議会と議員も、その見識と自己保身とご都合主義は少しも変わらない。むかし通りにやっているとしか思えないほどである。

それでも、わずかに歴史が変わるのは、かつての自由民権運動や社会主義運動のように、社会運動が政権に危機感を抱かせるほどのプレッシャーをかけた時である。そしてまた、そういう時代が始まりつつあることを、この夏に実感している。

6月末の金曜日に、初めて国会前のデモに行った。その後は耳の病気の具合が良くなくて、退院後は家で療養。ひょっとしたら、また入院になるかもしれない。そんなで、外出もできないから、またこのブログを書くかと思う。

大内力が鈴木茂三郎に話をきくという「月報」を読みながら、まだ大内力氏が元気だった頃に、あれこれと話を聞いておけばよかったと思うところ。しかし、それが叶わなくても、既に世間からは忘れられた労農派の話ではあるが、残りの筋道はたてておきたいと思うところで、この夏はせっかく病気のおかげで遊べない訳だから、そうしようと思う訳である。

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