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2012年4月 5日 (木)

旧校

※この文章は、「日本はこれでいいのか市民連合」の『これでいいのかニュース』の89年10月号から、90年5月号に連載したものです。

90年代の市民運動をめざして
市民運動、僕の覚え書き
          平山 昇

<目次>
1. 転換期と市民運動
2. 終わりの始まり
3. ネットワークと連合
4. 80年代末の感動
5. もうひとつの市民運動
6. 市民運動と「大政党」
7. 天皇制について
8. “新しい社会”を創るために
9. 科学から空想へ
10.もっと自由に、もっと未来へ

1.転換期と市民運動
 思うに、時代は転換期なのである。そういう言い方をすると、「いやそんなことを言ったって、資本主義の本質は少しも変わっていないよ」というようなことを言う人がけっこういる。でも例えば、この間の一連の選挙の結果は、やはり何かが変わりつつあることを感じさせる。社会党は社会主義政党であるが故に、資本主義社会の本質を人民に示したが故に選挙に勝ったわけではないし、人々をだまして票を集めたわけでもない。人々の生活・政治・意識が、旧い政治・政党のわくを超えて成熟し、変わりつつあることの結果として、今回は社会党に票が集まったのである。これも時代が転換期であることの一つの証であると思う。
転換期というのは、それまでの社会におけるやり方や考え方、方法やシステムといったものがうまくいかなくなり出し、新しいそれらが試行錯韻される時代である。だから社会党も、次もうまくやれるという保障はないし、人々は次はもっとちがった選択をするかもしれない。
 本来、市民運動は、社会の変化に対する市民の自発的なアクションであるが故に、とてもトレンディーな社会運動である。だから転換期というのは、市民運動にとっては、それぞれの運動が持っている問題意識を社会に提起して、自らを試してみるのにはとってもいい時代ではないかと思う。世のエスタブリッシユメントを批判し、オルタナティブを提起して、新しい社会づくりを試みるチャンスであるのだ。
 ただ、このチャンスをものにするには「やはり時代はそういう時代になったのだ」と思わないとチャンスはつかみそこねる。「資本主義の本質は変わらない」と思い込んでいてはダメなのだ。また、旧い党派型の発想、例えば「あいつは右だ、左だ」というようなものの言い方とか、「左派である方が正しい」という思い込みとか、よくわからなくなると原則に固執してみるといった態度では絶対にダメなのである。
社会党は80年代に「新宣言」を出して「右転落」して以来この方、そういう発想はやめようとしてきた。そして、土井たか子という委員一長と披女に共鳴するたくさんの女性の参加を得て、今回ひとつの時代の波にのったのだと思う。いわば、市民運動的に選挙をやったのである。
一方、今回の参議院選挙にはたくさんのミニ政党が-出た。選挙という方法を市民がひとつの運動の手段にしていくというのはたいへん素晴らしいことであるし、これもまた転換期の証であるのかもしれない。しかし結果は期待した程ではなかったし、率直に言えば、負けたとも言えるだろう。そして同時に自民党も負けた。
 思うに、人々の生活・政治意識の変化と成熟は、現在の市民運動さえも越えていこうとしているのかもしれない。女性の社会参加や行政への市民参加がもっとすすめば、ふつうの市民と市民運動の区別もなくなっていくのかもしれない。しかし、核による危機や環境危機や差別や抑圧がなくならない限り、市民運動は続けられるだろうし、さらにはそれらを解決するためのもっとちがった新しい社会システムがつくられるのかもしれない。何せ転換期であるのだから、先のことはよくわからない。しかし、次のふたつのことは言えると思う。
 ひとつは、転換期であるからといっても、ほおっておいて物事が自然に良い万向に転換して行くわけではないということである。転換期は脱工業化の時代、ポスト・モダンの時代とも言われる.しかし、そこでは別に工業がなくなってしまうわけではないし、近代が跡形もなくなくなってしまうわけでもない。同様に、天皇制も、安保し条約も、自衝隊もまだまだ残っているだろうし、再び戦争やファシズムの危険性だってあるかもしれない。だからそれらに対する運動はとても大切だし、これからも必要だろう。
 それからもうひとつは、だけれども、60年代や70年代と同じやり方で反対することだけで、それらをなくすことができるとも思われないということである。80年代というのは、そういうことがはっきりした時代でもあった。労働組合運動が変わらざるをえなかったのは、中曾根行革があったからではないし、ソ連がベレストロイカをやるのは、ソ連共産党が右転落をしたからではない。従来のやり方ではうまくいかなくなったからであり、それはこれからの自民党も、市民運動も同じなのである。
 私は土井たか子と社会党が好きである。またそれ以上に、市民運動と日市連が好きである。そして私は原田さんから「シユミン運動家」と揶揄される程、市民運動を趣味にするくらい好きなのである。だから今、自らにも問うのだが、転換期の市民運動とは何か、新しい社会を創り出すための思想や方法は何か、新しい組織の在り方や運動のスタイルとはいかなるものなのか、と。
 かつてのべ平連が面白かったのは、60年代という高度成長と左翼(その組織と運動)が健在であった時代にあって、任意の地域で、任意の人々が勝手に「○○ベ平連」と名乗ることによって、一つの運動を共有し合えるというそれまでにない組織と運動のスタイルを創り出していたからであったと思う。
 だからいま私は、日市連の仲間と共に試行錯誤してみたいと思っているのである。共に90年代をくぐり抜け、21世紀の「新しい社会」を創り出したいと思っているのである。まあ、半分は私の趣味の話しではあるのだが、同好の士を求むといったところである。

2.終わりの始まり
1968年の6月15日に、私は初めてベ平連でデモをした。道いっぱいに広がったフランスデモで、つないだ両手を高くかかげる高揚を今も覚えている。そして1988年の秋に、私は日市連で反天皇制のデモをした。少々スリリングで、とても楽しいデモだった。それから年が明けて、予定された通りにヒロヒトが死に、ひとつの時代が終わった。春が
過ぎて、私は四〇歳になった。
 Ⅹデイの前までは、ポストⅩデイには「用意された反動」という暗いイメージがあった。ところがポストⅩデイは、リクルートの灰色高官がぞろぞろ出てきたと思ったら、その後
に参議院選挙があって、時代は突然空白になってしまった。
 ポストⅩデイを保守安定体制化しようと80年代を通じて画策してきた自一民党政権はコロコロと首相が代わり、保守安定体制づくりの実行委員長だった中曾根などは、どこにいるのかさえわからなくなってしまった。そして万年野党と長期低落を続けていた社会党は、選挙の結果、降って沸いた土井首班指名と連合政権話しに浮き足だっている。
 四〇歳になって「俺もいよいよオジサンか」と思っていたら、四〇歳になったらポスト昭和の″新しい時代″の一年生になれたわけだった。いや、やっとなれためかもしれない。思えば、「危機と不確実性の80年代」は、ひとつの時代の最後のひと山であったのだ。70年代から80年代、そして私が日市達と出合った頃までをさっとふり返ってみようと思う。
 IMF体制の崩壊と石油危機に始まり、ベトナムにおけるアメリカの敗退に象徴される70年代は、世界経済と戦後体制にとってひとつの危機の時代であった。しかし資本主義体制の危機ならば、本来もっと元気を出してもよいはずの労働運動や左翼運動も停滞し出した。そしてどっちも危機であったのだが、次の仕掛けは体制側の方が早かった。
 70年代にロッキード事件と、それに次ぐ保革伯仲を体験した体制側は、保守安定体制の確立をめざして、「不確実性の時代」「危機の80年代」を前にして、危機管理と総合安保
体制の確立を仕掛けてきたのだった。
 このやり方には先例があった。ケインズ主義的経済運営による福祉国家づくりに行きづまったイギリスでは ″鉄の女″サッチャーが、国営企業の民営化をすすめ、労働組合と対決していたし、同様にアメリカではレーガンが登場して、″悪魔の国″ソ連に対抗しつつ、強いアメリカの再建めざして核軍備の増強を始めていた。要するに、新保守主義の登場であった。
 そして日本でも1980年の衆参同時選挙における自民党の圧勝以降、東西緊張と北方からのソ連侵攻の危機というガセネタを喧伝しつつ、防衛=軍備予算の拡大と福祉予算の切捨てと臨調「行革」がすすみ出し、中曾根政権の登場と合わせて「戦後の総決算=戦後反体制勢力・総評労働運動の解体」と、様々な反動施策が一挙に施行されたのであった。
 80年代はまさに東西核戦争の危機と軍拡と反核のせめぎあいで幕を開けたといっていい。そして日市連もその中で結成された。私は日市連の結成当時のことはよく知らないが、右傾化する時代に強いられるようにして立ち上がり、体制側から次から次にケンカを売られるようにして、80年代を闘い続けてきたのだと思う。そして昨秋の反天皇制デモ決起は、その闘いの頂点であったのと同時に、市民運動による「昭和」という時代への最後の異議甲し立てであった。
一方80年代は、参議院選挙後の土井委員長の名言にある。如く「終わりの始まり」の時代ともなった。80年代初頭には、右傾化に対抗するには運動を「左」にシフトさせることが必要であるように思われた。ところが、80年代の半ば頃には、「左」へシフトさせるだけではどうにもならない状況であるのも、はっきりしてきた。日本最強の労働組合であった国労が、あれよあれよという間に瓦解してしまったのは、大きな衝撃であり、変化を象徴していた。
 時代をどうとらえるのか、が問われていた。あくまでも「資本主義体制の危機の深化」なり「高度化」としてとらえるのか、それとも「産業社会の構造転換」「歴史的な転換期」としてとらえるのかで、時代への対応の仕方は大きくちがっていた。
 例えば、共産党と社会党でいえば、共産党は前者の立場をとり、社会党は後者の立場、要するに「新宣言」の路線をとったのであった。そしてこの両者との間で、80年代の半ば頃に、日市連に関わるふたつの出来事が起こった。
 81年の初めに、共産党系の雑誌に上田耕一郎副委員長と小田実氏との対談が掲載された。その後84年に入ると、共産党は突然日市連や小田実氏の批判を始めたのであった。そしてその夏には、「前衛」に上田・不破兄弟が二人そろって、何故か昔のことで自己批判の文章を載せた。
 私は80年代の初めの頃から、地域で東京大空襲を語りつぐ平和運動をやっていた。はじめは共産党の人たちともいっしょにやっていたのだが、その頃から別々にやるようになってしまった。また、夏の原水禁運動は、その夏突然「統一大会」が分裂してしまい、日本原水協は、幅広い連帯を模索した吉田嘉清氏を追い出してしまったのだった。共産党は「危機の80年代」を「社民主要打撃論」と「唯一の左派」を大衆にアピールすることで躍進しようとしていた。
 一方の社会党は、85年に「新宣言」は出したものの、実際の組織実態はまだ昔のままだったし、内部にはそれをねぐろうとする保守的な対応も多くあった。86年の総選挙で社会党は大敗し、自民党は300議席を越えた。
 私はその頃、地域で運動をしていた。社会党をやりながら地域の市民運動にもかかわっていた。しかし社会党が自己変革する様子はあまりなかったし、それは市民運動についてもまだ同様であるように思えた。相変わらず「右か、左か」なのだった。
 87年の二月のある日、私は「社会新報」を見てピックリした。都本部が小田実氏を都知事選に出そうとしていたのであった。マスコミは連日、小田実氏の去就を伝えていた。小田実氏は支持グループとの話し合いを続けていて、そこでは出馬に否定的な考え方が多いようであった。
 ちょうどその頃、私はある集会で「第1回三宅島アクション・ボート」のチラシを受け取った。小田実氏も参加しそうだとのことだった。その夜自宅に帰るとすぐに、私は「アクション・ボート」の事務局に電話をして、参加申し込みをした。ワラをもつかむ思いであった。
 しかし三宅島においても、その後の総評会飴における集まりにおいても、とうとう都知事選への出馬の意向は表明されなかった。私は総評会館で、一言ふるえる声で「出馬してほしい」と言ってみたのを覚えている。しかし、結論は変わらなかった。そしてその後それは、「市民意見の会」という動きに代わっていってしまった。
 その頃私はまだ日市連の人たちを誰も知らなかった。でも三宅島でいっしょだった人たちの中に、小田実氏の出馬に反対した人たちもいたのだろうと思った。何か言ってやりたい気がしたが、誰に言ったらいいのかはわからなかった。
 その後私は三宅島の支援活動を通して、日市連の人たちをよく知るようになった。思ったよりも少数であったけれども、皆若くて、真面目で、いい人たちはかりであったので、ついつい私も日市連みたいになってしまって、言いたいことを忘れかけていたのであった。
 ベ平逮の結成から20年が経って80年代の半ばに、小田実氏は再び時代のキーマンになるかにみえた。共産党は小田実氏を批判し、社会党は小田実氏にアプローチしようとした。
 そしてその結果は、共産党は時代に先先駆けた「ベレストロイカ」のきっかけを自らつぶし、社会党は、二年後の参議院選挙の先駆けとなったかもしれない市民選挙を試す機会をなくし、そして日市連は、まだ80年代闘争の真っ最中であったのだった。「終わりの始まり」が実感されるには、あと少々の時間が必要だった。

3.ネットワークと連合
 その後、私は日市連の集まりなどにも参加するようになって、小田実氏の話しなどをうかがう機会もあった。選挙騒動の後、小田実氏は市民運動の新しい動きをつくろうと、あちこちを歩いている様子だった。一般的には「ネットワークづくり」とも言える動きだったが、その話しのあった集まりの中で小田実氏は、「ネットワークという言葉はあまり使わない方がよい。何でも横文字を使えばいいというものではない」というようなことも言っていた。
 ネットワークという言葉は、それまでのビラミッド型の組織論に対して、等しく横につながっていく、といったイメージで、市民運動の場でも一般的な表現になっていた。それこそ誰もが「新しいネットワークづくり」であった。
 その頃から日市連でも少しずつ新しい動きの模索が始まっていたようだった。そして、選挙がひとつのテーマになりつつあったので、これは日市連も変わるのかなと思っていたのだが、結局は「反原発」で参議院選挙を闘うということになったようだった。「反原発の全国的なネットワークづくり」なり、「既成の政党とは別に、反原発議員を国会に送り込もう」というような話しで、私の思ったことと少しちがっていたが、みんな一生懸命のようだったし、仕方がないかなと思ったのだが、すっきりしないところもあったのだった。
 例えば、次のようなことがある。一つは、「反原発」というシングル・イシユーの運動は、「反原発」という間口だけになってしまうから、結局は、ネットワークとは言いつつも「反原発確信犯による広がりの乏しい組織」になってしまうのではないかということである。そしてこのことは、先の「市民意見の会」の33の「意見」を読んだ時にも感じた。それはシングル・イシユーではないけれど、33もの意見に対する同意というのは、広がる
運動には思えなかった。
 ネットワークという言葉が、新しく組織論的に使われるようになってきたのは、元来、既存の産業社会、工業製品を大量生産することで成り立ってきた社会が行きづまり、情報化・ソフト化による多品種少量生産の時代、脱工業化の時代における新しい産業組織論としてであった。そこでは規格品の垂直統合ではない、非規格品の脈絡の見えない広がりが、ネットワークという言葉で模索されており、そのネットワークが広がりゆくのは、その内部の個々に差異があるからだとされている。
 だから、ネットワークという言葉を社会運動に当てはめれば、それは「意見や考え方を異にする小グループどうしの、外に開かれた連合」ということになるのではないかと思う。ポイントは「違いが共存すること」と「開かれていること」なのである。
 だから、確信犯によるネットワークというのは、ネットワークというよりは従来型の組織に速いし、確信犯の人たちによる組織は、それ以上の広がりを持てないから、必然的に少数派の組織になってしまうということである。
 誤解しないでほしいのは、私は反原発に対して異議を唱えているのではなく、脱政党化をめざす人々の新しい組織づくりの在り方、選挙のすすめ方が、私からみると今ひとつであると言っているのである。
 例えば、二つめに言えるのは、今回の選挙では、反原発やエコロジーをかかげるミニ政党がいくつかあった。私の知っている生協の組合員の人や、多くの生活する人々が原発には反対している。だけれど、その人たちの生活の幅は、シングル・イシユーを越えて、ずっと広いのだ。だからシングル・イシユーだけにはなかなか集中しない。となれば、反原発で選挙に勝つには、反原発のミニ政党が連合して統一候補を立てるのが良いと思うのだが、そうもならなかった。要するに、ネットワークとは言いつつも、その連合が成立しなかったのである。
 そして三つめに言いたいのは、負けた選挙の総括の仕方がなっていないということである。私は社会党に15年近くいて、自慢ではないが、選挙には負け続けたから言うのだが、選挙は勝たねば意味がないのである。そして選挙に負けた時は、「負けた」という総括をしない限り、次はないのである。
 それなのに「負けた」とは少しも言わずに、「意義があった」みたいなことばかり言っている。ヒトもカネも自立したかたちで選挙を闘ったのは立派であるといえる。しかし、既存の政党とのちがいを際立たせて「意義」を強調することと、「唯一の左派」を自称することと、どこがちがうのだろうか。構造的には同じだし、総括の仕方まで同じになっている。
 そして今回の選挙では、人々はその構造よりも、連合する方を支持したのである。では、連合とは一体何なのだろうか。 80年代に連合といえば、それは「全民労協=連合」というイメージが定着しており、さらに最近では連合政権のイメージもあり、いずれにしても左派の人たちは、連合を否定的にとらえがちである。実際に、全民労協というのは、同盟主導による労働戦線の右翼的再編の意味合いが強かったし、同盟もそう目論んでいた。そして総評や社会党は、やがてはそれにからめ取られてしまうだろうし、そういう連合に同意する総評や社会党もけしからんし、「右転落」だと言われたのだった。
 しかし参議院選挙の結果は、連合の部分を社会党がからめ取り、民社党は解党寸前の有り様となっている。では、社会党が民社党にすり寄ったのだろうか。
 予想される解散、総選挙を前にして、社会党の石橋前委員長と民社党の佐々木元委員長がリタイアを表明した。思うに、彼らは政治のプロであったが故に「自分の時代が終わった」ことを悟ったのである。佐々木氏は「これからの社会党は、全く次元のちがう政党になるだろう」とも言っていた。
 ほおっておいて社会党が、「全く次元のちがう政党」になるとは思えないが、少なくても土井社会党が自らそうなろうとしているのは事実である。そしてこのことは、多少の期待を込めて言えば、いわゆる労働組合の連合に総評から行ったひとつひとつの労働組合と、その人々にとっても同じことなのであると思う。
 労働組合の連合の実態は、大企業を中心とする労働組合の集まりである.そしてそこがそのままである限り、どう連合しようと、労働組合の連合は自己変革しえないだろう。しかしまた、労働組合の自己変革の可能性も連合することの中にしかないのではないかとも思うのだ。そしてそのためには、労働組合の連合もまた「開かれた連合」でなければならないのである。選別をしてはいけないのである。総評が「全的統一」の方針をかかげたのは正しいと思うが、少数の仲間を残したまま、この秋に連合に行ってしまった。しかし、連合に行った人々の中にも労働組合運動の自己変革をめざそうとする人々はたくさんいるだろうし、地域の労働運動にはまだまだ優れた活動家も残っていて、地域の多数の未組織の人々との連合、コミユニティ・ユニオンと呼ばれる新しい労働組合の在り方等を追求している。
 社会党も労働組合も、自分たちだけで自己変革できるわけではないのだ。正に自らが「新しい連合」を創ること、多様な人々との連合を創ることを通してしか自己変革しえないということである。
 例えば、連合政権とは、四野党の組合せの問題などではない。それは、それを支える小さな連合が地域に無数にあって、はじめて成立するものなのだと思う。それは土井委員長も言うとおり、労働組合や、とりわけ「市民との共同作業」を通してしか創れないものなのである。そしてそれこそが連合政権なり、新しい連合の本当の実態にならなくてはいけないのだと思う。
 今回はじめて選挙に負けた自民党は、それを自覚して態勢を立て直しつつある。近々もう一度、関が原があるだろう。草の根保守主義が復活するのか、引続き新しい市民意識が広がっていくのか。しかし、草の根保守主義と新しい市民意識とは、紙一重なのだと思う。問われているのは、私たちなのである。
 80年代は、市民運動にはネットワークが、労鋤運動には連合が流行った。そして、お互いはちがうものであると思っていて、反発さえしていた。しかし今、それらも紙一重なのだ。本当のネットワークが、差異を含むが故に広がるものであるとすれば、本当の連合は、異なる意見や立場も含む多様な人々の連合なのだ。だとすれば、90年代は「ネットワーク=新しい連合」の時代であり、そういうものとしての連合政権の時代としなければいけないと思うのだ。
 いま必要なのは、連合政権に反安保なりの思想・政策的な純化を要求することではないと思う。自らは正しいと信じて、既成政党を批判することは大して難しいことではない。いま必要なのは批判や要求なのでほなく、共に葛藤することなのである。
 「時代を自覚する者が時代の理性であった時代」、「現実を正しく把握した人間の意識が真理であった時代」が終わろうとしている。自由を求めて個人が現実に「自己投企」する時代も過去のものである。″新しい社会″を創る手掛かりは、わけのわからない現実を共にフィールド・ワークして見つけるしかない、と私は思うのである。90年代に向かって
である。

4.80年代末の感動
 80年代の最後の数ヶ月間に、変わりゆく時代は私たちに「ベルリンの壁の撤去」という大きなプレゼントをしてくれた。いや、80年代を通しての世界中の市民運動のカが、とうとう時代をここまで持ってきたと言えるのかもしれない。
 それにしても、ソ連を悪魔よばわりしたレーガンの登場と、東西核戦争の危機で幕開けした80年代が、レーガンを「デタントの時代を開いた歴史に残る偉大な大統領」として去らせた後に、東西関係の消滅という方向で終わろうとは、一体誰が予想しえただろうか。せいぜい言い得て「不確実牲の時代」だったのであり、また正にそのものとしての10年間ではあったのだが。
 さらに「不確実性の時代」は、最後には社会主義までを不確実なものにしてしまったが、その代わりにソ連や中国や東欧の国々に、たくさんの市民運動を登場させた。そして、天安門の若者や、ベルリンの壁の上での人々の抱擁や、再びプラハをデモする人々は、国境を越えて私たちに私たちが忘れかけていた感動を与えてくれた。そしてその感動は、次は私たちが世界中の人々と分かちあえるような感動を、私たちの市民運動の力で勝ちとるようにとメッセージしている。
 80年代の日本にも、たくさんの市民運動や労働運動や政治運動があり、反体制していた。けれど私たちの運動には、まだ感動がないのだ。90年代に私たちが感動を勝ちとるために、いま少しだけこれまでの時代を整理しておきたい。
 思うに、私たちにまだ感動がないのは、私たちの運動がまだ、変わりゆく時代をリードするような運動になっていないからだと思う。また、80年代の日本の反体制運動の勘ちがいは、社会主義への未練を捨てきれなかったところにあるのだと思う。そしてこの場合の社会主義とはマルクス主義であり、その原理によって資本主義を倒して、社会主義をつくるという考え方である。
 日本の社会主義運動の中では、マルクス主義の原理からの逸脱は「右転落」か「社民」ということになり、80年代も相変わらず「右だ、左だ」とやっていたのである。これは社民の側も変わらない。労働組合のナショナルセンターが苦節20年で統一されても、少しも感動がないのだから。
 しかしいずれにせよ、東欧における共産党の急速な解体は、マルクス主義の原理の歴史的限界性というものをはっきりと示しているように思う。もうそれは「マルクスの解釈の仕方が間違っていた」というレベルの問題ではない。言ってしまえば、マルクスによる資本主義の分析がいかに優れていようと、マルクス自身の認識、理論の歴史的限界牲であると思う。
 マルクス主義も、マルクス自身が歴史的に相対化したそれまでの社会思想と同様に、19世紀の産業社会から生まれたやはり19世紀の思想であり、普遍的な原理ではなかったのである。だからその思想は、近代合理主義哲学と実証主義哲学の甲羅に合わせて出来ている。科学と産業の進歩、もしくは生産力の発展は、やがて人類を真理の支配する社会、もしくは共産主義社会に導くだろうという思想である。そしてマルクスはこの展開にヘーゲル哲学「市民社会=理性的な君主の国家」を借りて、それを唯物史観と階級闘争論という「普遍的な原理=仮説」で補ったのだった。
 だから社会主義運動は、階級闘争の歴史を「自覚した人」によってすすめられることになり、その果てに「社会主義=共産党の理性(=独裁)による国家」となってしまったのである。そしてこの国家は「民主集中制」により、あてにした生産力を低下させ、市民社会をも窒息させてしまった。
 しかしだからといって、それは資本主義が社会主義に勝ったということでもないと思う。資本主義も社会主義も、19世紀以来の産業社会の二つのヴアリエーションであったのだと思う。はじめに資本主義が出来て、それもまた矛盾だらけの酷い社会であったので、マルクスがその処万箋を書いたのである。そしてその処方箋は大変良くできていたから、ほぼ20世紀の半ばまでは通用したのであった。
 資本主義は資本家による所有と競争の社会であり、帝国主義からさらに多国簿企業へと発展した。一方、社会主義は国家=官僚による所有と統制の社会であり、それは遅れた生産力を高める方法として第三世界にも広がった。しかし産業発展と民主主義の面では、市場経済による資本主義の方が、計画経済による中央集権的な社会主義に勝っていたのである。
 しかし、現在の資本主義はもはやかつての古典的資本主義ではない。ケインズ理論の登場以来、市場経済だけで成り立っているのではなく、国家による調整と公共セクターを合わせ持った「混合経済」化しているのである。一方、かつての冷戦の後に平和共存がすすみ出した中で、ソ連や東欧ですすんだのは修正主義であり、市場経済の導入であった。計画経済だけでは、とてもやっていけなくなったのである。
 68年にヨーロッパでは、「五月革命」と「プラハの春」が起こった。歴史的にみればそれらは短時間で終わってしまった。それから、世界的な経済危機があり、核戦争の危機があり、産業社会の行きづまりがすすんだ。
 しかし、81年にフランスではミッテランによる社会党政権が成立した。そしてそこには、現在に通じる感動があった。「五月革命」は続いていたのであった。それからヨーロッパではユーロ・ソシアリズムと呼ばれる社会民主主義の政治がすすみだした。西ドイツでは社会民党政権により「共同決定法」がつくられ、さらに「緑の動き」が社会民主党をさらに変えさせつつあった。また、80年代には脱工業化がすすみ、あちこちでポスト産業社会への模索が始まっていた。
 そして86年、チェルノブイリは全世界的な環境汚染の警鐘となり、ゴルバチョフは社会主義一国の問題よりも、地球の将来の大切さを訴えた。ベレストロイカは、もはや後戻りはできない。ポーランドでは「連帯」が共産党に勝ち、一党独裁の時代が終焉に向かい、ベルリンの璧が壊され、再びプラハはあふれる市民でうまったのだ。″新しい社会″を求める市民の力が、新しい時代の中で世界中の市民の力と出会ったのだ。これが80年代末の感動なのである。そして、ここまできて私たちは、今やっとイデオロギーの璧を超えて、共に″新しい社会″を語りうる地平にたどりついたのだ。

5.もうひとつの市民運動
 時代の転換がすすみ、世界中が″新しい社会″の模索をすすめつつある中で、日本だけが企業社会と長時間労働をフル回転させて稼ぎまくっていた。そして日本は80年代を通して、世界のGNPの15%と、世界第三位の軍事力を持つ「世界一豊かな国」となったのであった。
 あり余る金で世界中の不動産を買いまくり、あちこちに日本式経営を押しっけ、あげくのはてに、東西融和のすすむ真っ最中に、公安と結託した自民党の国会議員は、朝鮮半島における危機をあおり、朝鮮人差別を誘発させる発言を国会でくり返していた。
 気がつけば、世界に一人の友人もいないといったのが、日本の現状ではなかろうか。そして90年代の私たちは、ここから出発しなくてはいけないのだ。
 80年代の日本には、日本のそういった傾向に反対する運動はたくさんあったし、日市連はいつでもその先頭に立ってきたと自負してもよいだろう。しかし90年代を闘うには、もうひとつ何かが足らないと思うのだ。
 いま、″新しい社会″をつくるための原理や方法が何であるのかは、未だわからない。そこで次に、既存の産業社会に対する「オルタナティブ(もうひとつの)な試み」の中に、それを探してみようと思う。
 前項にも書いたとおり、この20年間にヨーロッパを変えてきたのは、市民による「新しい社会運動の波」であったのだと思う。そしてそれは、60年代末から「産業社会のエントロビー」と「成長の限界」が明らかになってくる中から生まれてきた。またアメリカにおいては、カウンター・カルチャーの運動やベトナム戦争の挫折の中から「もうひとつのアメリカ」づくりの運動が広がって行った。
 それらは例えば、フェミニズムの運動であり、反核テクノロジーの運動であり、環境保護やエコロジーの運動であり、反差別の運動であった。また、70年代を通しての欧米における青年失業者の増大は、それらの運動を背景に、企業で働くのではないオルタナティプな働き方を生み出していった。例えば、生産協同組合なり、ワーカーズ・コレクティプと呼ばれるものがそうである。
 それらの新しい社会運動や協同組合運動に共通していることは、一つには、それらは団体主義的、いわゆるヒエラルキー型の組織運動であるというよりは、個人参加の小さなグループによる脱組織型のクラブ・サークル的な運動であり、上部団体による結合よりは、お互いがたえずネットワーキングをくり返しているところにある。
 もう一つには、それらは体制に対する直接的な意義申し立てをするというよりは、各地域において個別の課題をにないながら、自らの生活を含めて、既存の制度や進歩や成長を
問い直しつつ、オルタナティプな方法で「社会的に有用な活動」を創り出そうとしているところにある。
 それでは、日本におけるそれらの ″新しい波″ はどうだったのだろうか。日本でも60年代後半には、学生を中心とする「反乱」が起こり、多くの大学で制度に対する意義申し立てが行われた。しかしそれは社会的な反乱、意義申し立てにはならずにいて、やがてはセクト運動に収斂していってしまった。
 一方、60年代後半は経済の高度成長が真っ盛りの時代でもあったが、それは同時にインフレや公害を多発させた。そして73年の石油ショックが高度成長の終焉を告げるのと合わせて、人々は序々に「くらしの見直し」を始めていった。
 私は70年代の半ばから生協で働き出したから、その頃のことはよく覚えている。その頃は、まだ生協はマイナーな存在であったけど、地域の人々に「くらしの見直し」や「安全な食品」を訴えて、組合員を拡大していったものである。
 今日では生協は、結構大きな存在になった。生協も組織運動ではあるが、組織の拡大と合わせて、組合員の運営参加や産直や地域活動を強めてきた。そしてこれらのことを通して、家庭の主婦であったたくさんの女性たちが、組織運営や地域活動になじんでいった。そして今日では、その女性たちは自らワーカーズ・コレクティプをつくったり、地域の政治にまでかかわるようになってきている。
 また、自分たちの手で産直をしたり、安全な食べ物を手に入れたり、リサイクル活動をやったり、それらをあつかう小さなお店をつくったりという、小さな運動やグループは、生協以外にもたくさん出来て、広がってきてもいる。障害を持つ人たちも、施設ではなく、地域に自ら働く場づくりを始めている。
 労働組合運動においても、産業構造の転換とそれによる企業の人員萱理に対する争議の中から、いくつもの自主生産闘争が闘われ、その中から自主管理企業、労働者生産協同組合もつくられてきた。また前にも書いたが、地域の未組織の人々が、地域を単位に共済や相互扶助活動をもって結集する「コミユニティ・ユニオン」等も全国的に広がりつつある。さらに、反原発を始めとするたくさんのエコロジー運動も各地域に多様に広がり、かつネットワーキングしつつある。
 この間、私たちの身近にもいくつかの「新型の市民運動」が行われており、いくつか例を上げれば、次のようなものがある。
 例えば「ピース・ボート」は単なる観光旅行ではないし、従来型の運動でもない。一定の事業性を持った市民企画である。また、目黒にある「プレス・オルタナティブ」では、第三世界との産直やパソコン通信や、市民バンクまでやっている。さらには、市民運動によるこの間の市民選挙の取り組みも、従来の企業や団体丸抱えの選挙とは、明らかにちがう試みである。
 これらの運動は、80年代を通じて「もうひとつの市民運動=新しい社会運動」として発現されつつあるが、現実的にはまだまだ規模も小さく、未成熟であるのも事実である。しかし、グローパルにものを見ていくなら、これらの″試み″はまちがいなく90年代に引き継がれる内容を持っていると思う。
 80年代を通じたどの闘いも、決してまちがっていたわけではないと思う。しかし、″新しい時代″に向けた私たちの″新しい試み″は、今さらに必要であると思う次第である。″オルタナティブヘ″、である。

6.市民運弛と「大政党」
 今回は一回だけ、当初の予定にはなかったことについて書くことにする。いわゆる「既成政党」「大政党」と市民運動との関係についてと、社会党についてである。
 連載の当初から別に隠しているつもりもないのだが、私は党員歴15年程の社会党員である。だからといって、書いていることについて予断を持たれたくもないから、あえてこだわらずにいたのだが、本誌の縮集をやっているK君が「そう紹介するのを忘れた」とこだわっているから、今回あえてこんな話しを書くことにした。いわば私の「体験的日本社会党譚」でもある。余談として、読みとばしてもらえれば結構である。
 日本の左翼運動の中には、往々にして「あいつは何者だ」というこだわりがあり、「あいつは○○派さ」と教えられると、「やっぱりそうか」と適当な決めつけをして、妙に安心したりする「つまらないこだわり」が存在する。あたかも党派によって、その人の人格さえ決めつけかねない感さえある。
 思うに左翼運動をやる連中がそんなふうにこだわるのは、日本の左翼運動の「負の通産」を背負っているからであると思う。「負の通産」とは、いわば「コミンテルン流のマルクス主義」のことであり、その政党に加入する者は前衛党の一員として、自らの生活をそこに捧げた、いわば選民みたいなものという思い込みのことである。
 そしてその思い込みは、マルクス主義が「唯一の正しい思想=原理」であるという、いわば「信仰」によって支えられており、その党員は「非難すべき点が一つもないような共産主義者」(レーニン)であることを理想としている。しかし現実的にはそんな立派な人間はそうもいないから、そうであるとされる前衛党の頂点にある者が、「唯一の正しさ」とその「道徳的理想主義」を体現していることになり、党員は「民主集中制」の下にそれを「学習」することになる。するとその党員は、そうでない者を「ニセ左翼」と批判したり、「大衆を導く」ことができると錯覚したりするのだ。
 日本の左翼運動においては、マルクス主義の影響が強いから共産党から新左翼に至るまで、だいたいこの傾向であり、「唯一の正しさ」もセクトの数だけ在ることになり、お互いの批判のし合いから、党派闘争、内ゲバヘとも至る。これが日本の左翼運動の「負の通産」である。
 そしてこの構造は、ロシアにおけるツアー絶対主義体制に対する少数革命家の党=ボルシェビキの組織論を原型として、天皇絶対主義の日本においても共産党=左翼運動の組織原理として導入、再生された。いわば絶対天皇制の裏側に生じたとも言えるだろう。
 そしてそうでない左翼は、だいたい「社民」とか、「右派」とか言われることになり、「左
派」は「社民主要打撃論」をとるから、お互い仲良くしようがなくなってしまうことになる。
 日本における既成政党と市民運動との関係の問題というのも、だいたいこんなところに根があるのではないかと思われる。
 例えば、日本のこれまでの市民運動の担い手の多くは、そういった日本の左翼運動の「暗さ」や「臭さ」が嫌な人々とか、「暗い組織」から脱けるか、追い出されるかした人々であることが多い。また、無党派で運動をやろうという人々は、社会党と共産党、さらには新左翼も含めた既成政党どうしのいがみ合いに、うんざりしている人々でもある。
 だから、市民運動と既成政党の関係の問題とは、ひとつには、既成政党から脱けるか、追い出 されるかした人々も含めて、日本における左翼運動の「負の遺産」をどう超えていくのかという問題であり、もうひとつには、既成政党の自己変革を前提に、「市民と政党との新しい関係」を創り出すことにあると思う。そしてこのことは、無党派であることが即、脱「負の遺産」である保証が無い限り、広くは市民運動と天皇制の問題にもつながっているとも思うのである。
 さて次には、では社会党はいかなるものなのか、という話しである。
 日本におけるマルクス主義の歴史に即していえば、日本社会党のルーツは非コミソテルンマルクス主義、いわゆる労農派と戦前の社民にある。そしてこの労農派と、コミンテルン流マルクス主義の講座派とのちがいは、資本主義分析のちがいにあるだけでなく、組織論において決定的にちがうのである。
 要するに労農派は、講座派=共産党のように「ヒエラルキー型の革命党による暴力革命」というボルシェビキ型の組織論をとらなかった。労農派を代表する山川均ほ、「多様な社会層に支持基盤を持つ共同戦線党と平和革命」を提起した。さらに山川均は、「政治権力の移動と社会変革は別であること、権力を保持しながらその過程で民衆の支持を獲得していくことの過程」を決定的に重視していた。そしてこの「過渡期政権論」のフレームは、そのまま今日の社会党の「連合政権論」に引き継がれているのである。
 しかしながら、現実の社会党のこれまでの歩みは、「正統派」的なマルクス主義理解が優位であった中では、常に「右」と「左」にブレながらきた。だから「共同戦線」の発想も、現実の中ではいい点と悪い点を持っていた。例えば、社会党には多様な考え方の人々が同居している反面、絶えず派閥抗争もやってきたし、組織が人を縛らない反面、組織体制としては大変ルーズであるし、国民政党とは言いながらも、主要には労働組合に依拠してきたこと等である。
 私も昔は、自分はマルクス主義者だと思っていたから、社会党に入ったのは、やほり「対米従属論」よりは「日帝自立論」の方が現状分析としては正しいと思ったからでもあるのだが、当時は現実の社会党がその内部に社会主義政党らしい緊張関係をほとんど持っていないことに拍子抜けしたものである。
 現実の社会党というのは、ずい分いい加減なところで、選挙以外の主要な活動はあまりないし、党員としての拘束もあまりないから、自分でそう思わない限り、党費を払うこと以外には党員であるという実感もない。色々な運動の場に参加するのも、別に指令があってそうするのではなく、自分が好きでやっているだけである。勝手にやっていても、文句も言われない。
あまりにだらしがないのと、近年の「石転落」のせいで、外に行くと社会党の批判はしょっちゅう聞かされる。長期低落傾向が続いていたせいもあって、私も一時はやはり社会党にも「強い組織体制」が必要なのかな、と思ったものだが、よく考えてみれば、社会党は元々「全国政治機関紙」なり、「伝動ベルト論」なり、「秘密フラクション」なりという組織構造方針を取ってこなかったのであった。80年代初頭の「右傾化」がすすむ中、私はそれでよいのかと、よく悩んだものだった.
 だから「やめようか」と思うこともしばしばあったのだが、ズルズルと今日まで党籍を残しているのは、やはり80年代という時代の「不確実性=可能性」にあったのだと思う。70年代の後半から、社会党の中では少しずつ″新しい動き″が始まっていたのであった。
 60年代の後半に、当時の「日帝自立論」の現状分析をやった当時若手の学者たちがいた。この学者たちは70年代を通じて、引き続き経済の現状分析を続ける中で、産業社会の新しい変化に気づいていった。それは、19世紀のマルクスの時代にはなかった「新しい変化」であった。そしてこの学者たちは、マルクスの「資本論」に現状を当てはめるのではなく、現状をもって「マルクスの読み直し」を始めたのであった。非「正統派」マルクス経済学の、いわゆる宇野派の大内カや大内秀明や新田俊三、それに高木郁朗といった学者たちである。
 長期低落と派閥抗争がすすむ中、70年代未から始まったこの作業は、80年代に入ると少しずつ公表され始めた。いわゆる「新しい社会の創造」から「ニュー社会党宣言」に至る一連の″新路線″である。
 ただ80年代の前半というのは、中曾根政権による「日本型新保守主義」の攻勢の真盛中であったから、社会党の″新路線″は転換期の認識よりも、現実主義の側面ばかりが目についてしまい、「左派」からは「右転落」と言われたのだった。
 しかし、宇野経済学による現状分析は、「正統派」マルクス経済学が批判するように、それが「国家論」や「階級闘争論」を欠いているが故に「必然的に右転落」したのではなく、むしろ「正統派」のように現状をイデオロギー的に解釈しないが故に、脱工業化のすすむ現状の客観的な分析と、合わせて脱マルクス主義をなしえたのであったと私は思う。
 そしてこの作業こそが、「民主集中制」と「計画経済」の放棄や、″協力党員″制度といった政策と党組織の改革、土井委員長の登場と合わせて、89年の″劇的な変化″を理論的に準備したのであった。
 89年における″劇的な変化″と言えば、ポーランドに始まり、ルーマニアの革命にいたる一連の東欧における″世界史的な変化″のことであるが、この大きな″波″は、西欧における″新しい社会民主主義″とそれを支える″新しい市民運動の波″と位相を同じくしている。そして、″変化″に鈍感な日本の社会における唯一の″変化”こそが、参議院における保革逆転に示され、その勝利の象徴となった土井社会党の″変化″であった。
 私が日市達に居候を決めこんだ頃は、私も相も変わらぬ党組織にうんざりしていたせいでもあり、現実の社会党というのもそれに接した誰もが感じた通りのものであったのだが、最近はやはり変わりつつあるなというのが実感である。それは組織の内部からというよりも、むしろその周辺部における働きかけによる変化でもある。
 例えば、私の働く生協から都議選に二人の組合員が社会党の推薦で立候補して、二人とも当選した。また、衆議院選挙にも一人の組合員が社会党の公認で出ることになった。三人とも女性であり、その運動を担うのも有志の女性たちである。
 一方、党内ではどうかと言えば、新しい候補者をめぐって何度も会議が開かれて、旧派閥に分かれて激論はある。しかし、そういう方向で話しはまとまって、誰もが結果を受け入れていくのである。議員というのが「派閥」や「経歴」や「男」であること、今までそういうものだと思われてきたことが、相対化されつつある。そして周辺の女性たちからさざ波が寄せて、次第に大きな″波″になろうとしている。このことは、まちがいなく″新しい変化″のひとつである。
 現在、世界的なレベルで ″大きな変化″がすすんでいる。東西の冷戦は急速に終焉して「新デタントの時代」となり、ヨーロッパは東西の壁を壊して、西も東も″新しい社会民主主義″をめざしてひとつになろうとさえしている。また、生産することよりも、グローパルな規模での環境汚染の問題への取り組みが必要とされている。
 しかしその中で、自民党から共産党まで、日本の政治だけが決定的にズレている。問題は「自由主義か、共産主義か」にあるのでなければ、「自由主義が勝利した」わけでもないのだ。また、現在ソ連のベレストロイカを批判しているのは、中国共産党と日本共産党くらいなものである。天安門事件の批判をすれば自らは「正しい」と思い込んでいるところに、現在の日本共産党のどうしようもない展望のなさがある。
 戦後民主主義の中で私たちは、日本は西欧に同じ民主主義の国であると思い込んできた。そして産業の大発展もあったから、近年誰もが「ジャパン・アズ・ナンバーワン症候群」にとりつかれて、諸外国に対して尊大な態度をとるようにさえなり、臆面もなく「日本式経営」を押しつけたり、相変わらず軍事費の拡大をも続けている。
 しかし、いま世界は「政権交代のない日本の民主主義」を疑い出し、「日本株式会社というアンフェアな仕組み」に気づき出している。現在の日本のままでは、まちがえなく世界に友人はつくれないだろう。
 89年中に、日本から世界に送られた数少ないまともなニュースは、日本の市民運動、日市連によるヒロヒトの死に対するデモと、参議院選挙における社会党の勝利であったと思う。実際世界はそれに注目している。
 変わり行く世界の中で、いま日本において同じように変わろうとしているところがあるとすれば、それは社会党とその周辺の市民運動であると思う。90年代に私たちが、世界の人々に連帯しうるメッセージを送れるとすれば、それは「まともな民主主義の政治と社会をつくること=自民党一党政治を終わらすこと」によってのみだろう。
 私が社会党員でなかったとしても、いま私は同じことを言うと思う。″新しい社会″をめざした市民と社会党の″共同作業″こそが、いま何よりも大切であると思う次第である。

7.天皇制について
 今回は少し回り道をして、天皇制の話しである。私は天皇制についてはあまり詳しくないのだが、私なりに書いてみる。これを超えなければ、私たちは″新しい社会″には到れないだろうと思うからである。

①天皇制と左翼主義
 前項で日本の左翼運動の負の通産について書いたが、その原因こそ近代日本社会における最大の負の漣産である天皇制にあると思う。私は天皇制はひとつの制度であると思っているのだが、同時にそれは共同幻想化して、日本人を骨の髄まで侵しているが故に、それは観念的に対象化したり、批判するだけでは決して超ええないものなのであると思う。
 ″新しい社会″とは、「新しい綱領」として獲得すば、「社会主義革命」が起きれば、そこに到れるものではない。いま私たちが超えなければならないのは、正にそういった「近代的な知と主体の構造」なのであり、「下部構造が上部構造を規定する」といった単純な図式なのであり、その間隙に成立した「共同幻想=天皇制」なのである。
 前にもふれたが、近代哲学は理性や道徳や科学の進歩が、それを担う主体を通して「合理的な社会」をつくるとした。そしてマルクス主義も、構造的にはこれに同様なのである。近代思想では近代社会は超えられない。それ故に、マルクス主義では「近代社会を超える=共産主義社会をつくろう」とした時に、仕方なしにレーニン主義流の「精神主義=左翼主義」と「唯物論の物理的な実現=プロレタリア独裁による権力の行使」が必必要とされたのであった。
 近代哲学もマルクス主義も、ニュートン力学や進化論と同様に「時代の子=相対的な真理」なのであった。そして「真理」が相対的であれば、「幻想」は「合理的な知性」に勝るのである。近代日本の「知性」の苦悩と、天皇制の強さは、それを証明している。
 もし、「合理的な知性の実現=合理的な社会の実現」であったとすれば、人は何も悩むことはあるまい。例えば、近代日本社会の中で、二葉亭四迷や夏目漱石や森鴎外らを悩ますこともなければ、それらの文学を生み出すこともなかったであろう。
 「庶民の生活」は、いつでもインンテリゲンチャの頭をはみ出しており、同様に「共同体」は、観念だけでは律しきれないのである。そして、それに気づいていたのは、国を興そうとしていた明治の政治家たちであった。伊藤博文は庶民を統治するために「明治憲法=天皇制」と「教育勅語」をつくり、インテリ向けには「治安椎持法」を用意したのであった。
 「和魂洋才」とはよく言ったものだが、インテリは常に「洋魂洋才」志向だから、西洋にあこがれ、それを日本に直接移植しようとした。しかし西洋とは土壌が違うから、いつでもうまく根づかないで、少々屈折してしまうのである。
 例えば、鴎外や漱石はどの知性はないが、楽観的かつ自己中心的な人たちが西洋の自然主義文学を日本でやろうとすると、「私小説」というものにデフォルメされてしまい、これと全く同様の構造で、マルクス主義の思想と社会主義レアリズムも日本に移植されたのであった。
 そして不幸なことに、マルクス主義は西洋から直接入ってきたのではなくて、ロシア経由でコミンテルン流にデフォルメされたものが入ってきて、当時すでに確立されていた絶対天皇制の下で、日本の庶民と切り離されることによって、さらにデフォルメされてしまったのであった。これが「獄中ウン十年=不転向の神話」と「左翼主義=左派であることが正しいという神話」の原因である。
 さらにコミンテルン流マルクス主義における「精神主義と道徳主義」が、小林多喜二らの悲劇を生み、「左翼主義の幻想」を増幅していったのであった。
 日本における「左翼主義の幻想」は、「共同幻想としての天皇制」に逆立するカタチで発生し、再生産されてきたとも言える。だから、天皇制に反天皇制を対置するだけでは、決して天皇制は超ええないと私は思うのである。

①天皇制と企業主義
 「遅れた庶民」と「進歩的なインテリ」というのは、近代日本のインテリの頭が勝手につくった構図であって、その構図によって、インテリは自ら近代日本社会の隘路にはまり込んだのであるが、では庶民はそこでどう生きてきたのであろうか。天皇制の甲羅の中でインテリに「近代主義」なり「左翼主義」の幻想が生じたとすれば、庶民にはいかなる幻想が生じたのだろうか。
 私の結論だけを先に言えば、天皇制の甲羅に合わせて庶民の中に生じた幻想で、現在もなお人々を強く呪縛しているものこそ、日本における「企業主義=企業社会への一体化の思想」であると思う。
 近代日本社会におけるほとんどの庶民は、生成期の日本資本主義の産業構造の底辺部、農業の下支え=小作農として生きてきた。そして、資本主義の発達が未だ遅れていた時代(明治期)においては旧来の「共同体」の中にいた人々が、その発展と共に「都市群化社会」に押し出され、選別されたその一都が、いわゆる「大企業」の「経営家族主義的疑似共同体」に吸収されていき、これが日本の「企業主義」の原型として形成されていくことになったのだと思う。
 この時期は「大正末期~昭和初期」のいわゆる「天皇制ファシズム」の形成期であり、「天皇制国家が日本には階級対立がないと唱えたのと同じ意味で、企業は自己を家族のような共同体になぞらえたのである。」(熊沢誠「日本の労働者像」)
 「企業主義」は、戦前の日本社会における遅れた社会福祉と、労働組合運動の未成熟を背景に、大企業がその従業員に限って福利厚生を保障するという「恩情的制度」として成立した。
 大企業の下には、圧倒的多数の被搾取と無保障の底辺労働が層をなしていた。当時の貧しい日本の庶民にとって、大企業に入れることは、安定した生活を手に入れることを意味していた。そしてそこは、選別をくぐれれば誰でも入れるという「日本的平等主義」的に開かれていたが故に、人々ほ「大学を出ること」「大企業に入ること」を願望し、またその願望を親は子供に託したのであった。
 大企業の一員になること、または軍人であれ、政治家であれ、出世と栄達を目指すことは、底辺部からの脱出であり、親の期待に応えることであり、自ら並びに企業と国家の「上昇」につながっていた。そしてその構造に背くことは、天皇制の「共同幻想」から村八分にされることであり、当時それは「非国民」になることにもつながっていた。
 前述した如くにインテリたち、例えば「左翼」や「文学者」たちは、親の期待に背いても、この構造に「自我」を対置しようとした。そして庶民たちは、天皇制ファシズムの中で、上昇しうる可能性の程度に応じて「企業主義=企業社会との一体化」と、それを包み込む「天皇制=共同幻想」を受け入れて行ったのだと私は思う。
 侵略戦争の敗北は、「天皇制ファシズムという体制」を終わらせたが、「共同幻想としての天皇制」を終わらせはしなかった。そして、かつての伊藤博文に代わって、今度はGHQが「新憲法による民主的合意」をもって「天皇制の共同幻想」を再生産したのであった。
 だから戦後の天皐制は、戦前のような強制が少ない分だけ「共同幻想」としては強固である。さらに戦後の自民党政権は、ミニ伊藤博文よろしく「制度としての天皇制」の復活を常に画策してきた。しかし、戦後社会の中で「共同幻想としての天皇制」と、自民党の政治が一番うまく発揮されたところこそ「経済成長」と「企業社会」においてであった。 戦前に成立した「企業主義の幻想」は、戦後民主主義の中から発生した労働組合をも「企業内組合」として取り込みつつ、経済発展の中でますます肥大化して行った。
 「有名大学を出て、一流企業に就職すること」は、戦前にも増して「幸せ」や「豊かになること」の条件であり、人々は自らそのための競争に参加していった。そしてこの「共同幻想」の強さこそが、80%の人々の「中流意識」と、同数の人々の「天皇制の承認」にもつながっているのだと私は思う。

③天皇制と差別主義
 最後に「天皇制とは何か」について、私なりに押さえておきたいと思う。私も「近代主義者」であるから、結論はそう難しくない。
 ひとつには、それは日本的な「封建制度の遺物」でもなければ、「国民の象徴」でもない。それは日本の産業社会の生成期において国民を統合し、資本主義経済体制を急速に確立させるために人義的につくられた「制度」であった。そしてそれは「個」ではなく「集団=前近代的共同体」を単位とした「近代産業社会形成の日本的形態」であり、国家主義イデオロギーによる統合の中で「臣民」の平等な参加を受けつつ、さらに「制度=共同幻想」として確立され、人々を呪縛してきたのである。
 それでは「新嘗祭」等の「儀式」とは何かと言えば、それは「天皇家」に以前からあった「様式」の単なる「伝承のための儀式」なのであると思う。そしてこうした「様式」は、明治維新の当時、「天皇家」の他にもたくさんの「家」に幾様にもあったのだろうと思うが、明治維新の後に、それらの多くは国家の統合にも、産業の育成にも役立たないが故に、国家からの保護をうけることもなく、都落ちの先に潰えていったのだろうと思う。そして「天皇家」のそれだけが、他より多少歴史が長かったが故に、日本の統合と富国強兵のために「保護育成=共同幻想化」されたのである。そして「儀式」は、その「正統性」を証明するためのものなのであると私は思う。
 そしてもうひとつ、これが「天皇制という共同幻想」の一番の核心だと思うが、その本質は「差別主義」である。思うに、この天皇制による「差別主義」は、「天皇の前では、臣民は全て平等である」という「日本的平等主義」の裏返しとして発生している。
 「日本的平等主義」とは何かと言えば、西欧流の「個人」を基本にした「自由・博愛・平等」の平等のことではない。それは、日本的「集団」を前提にした「スタートラインにおける機会の均等」のことであり、「和を乱さないこと=異端の排除」ののことである。
 誰でも努力をすれば「上昇」しうるという可能性と、「上昇」は無理だとしても「体制順応」すれば排除はされないという前提が、人々を「上昇志向」と「体制への一体化」に向かわせる。
 戦前の絶対天皇制は、国家レベルでの「上昇志向」と、国家主義イデオロギーによる人々の国家レベルヘの「一体化」を追求しつつ、国内では「異端=一体化を拒む者」を弾圧し、対外侵略をする中で、天皇制を単なる「制度」から「共同幻想」へと昇華させて行った。人々は「日本人であることの一体牲、優越意識」と引換えに、「排外的差別主義」を受け入れていったのである。
 戦後の天皇性は、一国家レベルでの「共同幻想と差別主義」をあからさまには展開しにくくなったため、戦後復興の中で、その「共同幻想と差別主義」を「企業社会」の中に再生産させていった。人々は豊かになることを求めていたし、そのために人々は再び「上昇と一体化への志向」を、今度は「企業社会」の中で受け入れていった。そして「正社員」である人々は、自らの「上昇」と引き換えに、「非正社員」への差別と「異端=一体化を拒む者」への排除を受け入れていったのである。
 戦後の日本は、侵略したアジアの民衆に詫びることなく、戦争の敗北と引き換えに「民主主義」を手に入れた。そして日本人は、この「民主主義」でもって、天皇制と「日本的平等主義」をより強固に再構築したのである。
 企業は「日本的平等主義」の仕組みを「労働者の参加=小集団活動」と「労働者の選別=人事考課」に生かしつつ生産性の拡大を追及し、人々はそれが「所得の拡大=豊かさ」につながるという「幻想」を受け入れることによって「上昇と一体化」志向をさらに強めていった。
 しかし「上昇と一体化」は、その裏側に「幹部正社員 平正社員 パート 下請け」といった「差別と階層化」を前提とし、近年さらにそこに「外国人労働者」と対外進出による「現地工場労働働者」を階層化に重ねつつ、国際化の時代の中で「排外主義と差別主義」を再構築しつつあるのである。世界に冠たる「日本式経営」の本質とは、「見た目の平等主義」と「異質さを認めない差別主義」にあると言えるだろう。

 本文を書き終える頃、本島長崎市一長への銃撃テロが起こった。カッコつきでしかない「戦後民主主義」からカッコを取るためには、天皇制の問題は避けて通れないと実感した次第である。

8.新しい社会を創るために
 前回私は、私たち日本人の意識をシフトしているものとして「天皇制」についてふれた。そこで今回は、私たちの生活をシフトしている「産業社会」についてふれてみたい。言わばそれらを超えて「新しい社会」を創るための「組織論」のつもりなのだが、実際にはそれらからの「脱組織論」である。これが書ければ、後は90年代をフィールド・ワークするのみ、この連載も次回で終了の予定である。

①組織論の終焉
 私たちは様々な「組織」に属して生活している。それは企業組織であり、労働組合であり、生協であり、色々な団体でありである。そして組織にはだいたい物事を決めたり、それを執行するための「機関」があり、それを構成する役員や代表がいて、それらはおおよそビラミッド型の仕組みをしている。
 そして何故そうなのかと言えば、近代社会というものは「産業化」を通じて、人間と社会の組織化をすすめてきたからであり、それに見合った仕組みの組織を社会全体につくり出してきたからであると私は思う。
 要するに「生産力の発展」をメルクマールとする産業社会は、効率よくそれを達成するために、ビラミッド型の組織を社会に一般化してきたのである。
 しかし当初、資本主義的生産は「無政府的」であるとされたが故に、組織は社会主義者によって自覚された。ひとつは「生産の組織化」としてであり、もうひとつは「労働者階級の組織化」としてである。
 19世紀社会の中でこのことを思いついたのは、マルクスとエンゲルスであった。二人は「私有財産」と「疎外された労働」の分析を通して、資本制社会によって疎外された人間が「類的存在=人間と自然との完成された本質統一」(「経哲草稿」)としての社会に向かって人間と自然を「社会化」していくこことの中に人間の解放を求め、その実体を「プロレタリアートの階級としての団結=プロレタリアートによる生産の組織化」に求めたのであった。
 この初期マルクスにおける哲学的な発想は、その後経済学的に追認されて行くのだが、一部「フランスの内乱」や「ゴータ綱領批判」等を除けば、マルクスにおいて「社会化」の方法が具体的に組織論的に展開されることはなかった。
 このことをやってみせたのは、ボルシェビキの政治的天才のレーニンであった。レーニンは困難な状況の中にいて、常に実戦的に方針化せざるを得なかったせいもあったのだが、マルクスの言う「社会化」の概念を「党の組織論」と現実の「ソビエトの社会主義化」にダブらせて一展開していった。
 日く「社会全体が…工場となる」(「国家と革命」)であり、「社会主義とは国有化プラス電化」である。そしてその後、コミンテルンによってこのボルシェビキの組織論と社会主義の概念が絶対的なものとして物神化されていったのであった。要するにマルクスの言う「自然と社会の統一」と「生産の社会化」は「社会の組織化」になり、社会主義は共産党を頂点にした「組織された社会=全体主義」にすり変わってしまったのである。
 この後、スターリン主義に対する批判の中から「新左翼」が登場するが、その組織論も物神化の度合いは同様である。例えば、「組織こそ理論と実戦とを媒介するものである」「自覚した主体の同心円的拡大」といった「階級意識主義」や「学習金主義」は、「組織=党派」への物神化をより強くして、別の「組織=党派」に対する批判と抗争を強めただけであった。
 例えばこの発想によれば、社会変革とは「組織の機関」を奪取して、そこを通じて自らの影響力を広げていくということになる。そしてそのためにあらゆる組織の場で、そこの「機関=権力機構」を押さえるために、暗い、陰惨な抗争がつづけられてきたのである。 しかしこのやり方からは、機関を押さえたセクトが全体を一元化していくというふうに、より抑圧的な権力機構が再生産されるだけであることは、これまでの左翼運動の歴史が証明している。
 また「統一戦線論」と、そのヴァリエイションでもある「多数派革命論」という発想もあるが、百貸店的に色々な組織を並べて、その布陣の頂点に「政治組織」を持ってくるという発想は、ビラミッド型組織の水ぶくれ論であって、「組織をもって組織に代える」というレーニンの「二重権力論」の発想を少しも出るものではない。
 いずれにせよ、以上の「組織論」の有効牲は既に終焉していると言ってよいだろう。権力が自己目的化し、組織が物神化され、社会主義とはそれにイコールであるとされてしまう。ここから″新しい社会″は絶対に見えて来ないのである。

②産業社会の組織化と破綻
 産業社会を効率よく組織したのは、社会主義ではなくて、資本主義であった。当初の「無政府」的な資本主義は、19世紀末以降重化学工業の発達と共に、株式会社を発展させ、金融資本を通じての「資本主義の組織化」をすすめていった。
 要するに、ビラミッド型の組織というのは、この「帝国主義の時代の産業組織」を原型に成立しており、それは、その頃組織化のすすんだ労働組合や社会主義政党も同様であり、当時ロシアに成立した社会主義も、その「生産力至上主義的発想」と相まって、同様の体制をつくったのであった。それはいわば、産業社会に固有の組織論である。
一方、資本主義の国々は20年代未以降、世界恐慌にみまわれ、ファシズムとニュー・デイールを生み出し、第二次大戦をへながらも、ケインズ主義的経済政策によって、戦後「完全雇用」と「福祉国家」をつくり上げ、同時に「大衆民主主義」と「労働組合の体制内化」をすすめていった。これは産業社会の「イノベーション=新たな組織化」の結果でもあり、マルクス経済学的には「国家独占資本主義」と呼ばれる体制である。
 しかし、戦後の先進資本主義諸国に高度成長と繁栄をもたらしたこの国家独占資本主義の体制は、60年代未より、その前提であった国際通貨管理体制とインフレーション政策が行き詰まり、スタグフレーションを生じさせる中で破綻してしまった。
 19世紀以来の産業社会は、生産力を高めて「豊か」になること、そのための原材料は無限であるはずの自然から収奪することで成り立ってきた。そしてそのための生産関係と経済学をつくり出してきたのであった。これは資本主義も、社会主義も同様であった。
 しかし、70年代以降の時代は、自然を収奪して生産力を高めることと、そのための生産関係の下に労働者を管理しつづけることが、それが獲得してきた「豊かさ」の一方で、もはや不可能であることを明らかにしてきた。
 70年代末以降、資本主義はいま一度失業の不安と競争をあおるという「新株守主義」と呼ばれる古典的な経済牲策を採用して労働者の再統合をもくろみ、合わせて体制間の危機をあおったが、その結末は東西間の冷戦の終焉であった。時代はまちがいなく「ポスト産業社会」へ向けて動き出しているのである。
 そして現在のその大まかな流れは、経済的には「混合経済へ」であり、政治的には「新しい社会民主主義へ」であり、社会的には「ハードからソフトヘ」であり、組織的には「ネットワークヘ」であり、今後の方向のキイ・ワードは、これまで収奪されつづけてきた「自然や第三世界との共生」であり、その原因としての私たちの「生活や働き方の見直し」であると思う。

③90年代の可能性
 前にも書いたが、現在、世界の国々では60年代未以降、とりわけ80年代末の激動をとおして社会の新しい変容が摸索されている。それはソ連・東欧の激動であり、92年のECの統合であり、それらを支える新しい市民の動きである。
 しかし、その中で日本だけは「日本の産業社会の優位性」に保守的にしがみつこうとしている。先の衆議院選挙の結果は、まだ多数の日本人が産業化による「繁栄」と、普遍性のない「豊かさ」と、変化よりもつかのまの「安定」を望んでいることを示している。
 そしてこのことは、時代と世界の新しい変容に対して、日本が最も保守的に対応する危険性を持っていることをも示している。要するに、東西関係の融和にしろ、地球環境の保全にしろ、日本が世界の足を引っ張りかねないということである。
 私は、日本の産業社会の欧米に対する「優位性」などは、日本人が「優秀」であるからではなくて、仕事第一という文化の後進性なり、ケイレツによる産業社会の一体牲なり、国と社会の閉鎖牲なり、欧米に対するタイム・ラグのせいだと思っている。
 しかし現在、急速にその差は縮まりつつあるように思える。日本の産業社会の「強さ」と、現在の日本の「豊かさ」と、日本人の「安定志向」こそが、21世紀に向けて日本の社会の「成熟=衰退」を急速にすすめていくだろうと私は思う。
 そして90年代は、そういう変化がすすむ時代であるからこそ、市民による変革にも可能性が多い時代になるだろうと、私には思えるのである。

④脱組織のライフスタイルへ
 さて「保守安定志向」が多数であるという先の衆議院選挙の結果を見て思うことは、それに代位しうる″もうひとつの価値観″を見い出せない限り、人々は現在の「豊かな生活」をなかなか変えたがらないということである。
 しかしこのことは、日本人が決して変わりえないということではないと思う。例えば、以前に色川大吉さんが天皇制について語った時に、「三割の日本人が変われば、日本人全体も変わるだろう」とおっしゃっていたが、私もそう思うのである。
 そして、日本人が変わることのポイントは「脱組織」、要するに「脱天皇制」であり、「脱
企業社会」にあると私は思うのである。実際に70年代以降、欧米ですすんだのも人々の「脱産業社会=脱組織」であり、それにもとづく自由で、エコロジカルで、価値観の多元的な社会づくりであったのである。
 前回に書いたように、現在の日本の「豊かさ=物質的富」を生産しているのは日本の産業社会であり、それはいわゆる「企業社会」として人々のそれへの「一体化」によってその高い生産性が成り立っており、人々をその「一体化」に向かわせるものこそ、日本人の「上昇志向」と「排他的差別主義」の根源にある「天皇制」である。
 そして人々は、この構造から「はみ出す」こと、例えば企業社会でのポストを失うことや、組織から離脱することによって「豊かさ」や「安定」を失うことを恐れているのである。はみ出し者が「異端=少数派」である時は、誰もがそこには入りたがらないのである。 しかし、もし三割の日本人が「脱組織」できるとすれば、日本も変わるだろうし、″新しい社会″の可能性も見えてくるだろうと私は思う。
 そしてその条件は、ひとつには「地球環境の危機」と「グローバルリズム」にあるだろう。もし生産性を上げることが、人々の「豊かさ」の前提を失わせるのであるとすれば、人々はもはやそういう働き方はしない方が良いことになるし、日本人だけが「生産性=豊かさ」の追求をすることは許されないだろうし、豊かさの基準も変わらざるをえないだろうからである。
 そしてもうひとつは、だとすれば、自然と共生し、差別をしない新しい働き方や、新しい企業の在り方も必要になるだろうし、また、それらを創り出し、拡げていくことが″新しい社会″の可能性をも拡大していくことにもなるだろうということである。私はこのことが90年代の日本の市民運動の″新しい社会運動″としての課題であると思っている。
 「脱組織」とは、別に会社をやめることではない。会社や組織に縛られずに、自分の人生を生きることである。要するに、″脱組織のライフスタイル″を創り出すことである。そしてこれは、そんなに難しいことではない。例えば、各人が会社の仕事のほかに、市民運動でも何でもやってみればよいのである。
 ″新しい社会運動″とは、「脱産業社会=脱組織」のことである。そしてそのポイントは、
個人が″自立″すること、″ネットワーク″を拡げること、″新しい働き方・生活の仕方″を創り出すことにある。これこそが、″新しい社会″への出発点である。
 あらゆるところにワーカーズ・コレクティプを、社会運動のグループを、はみ出し者たちのクラブを、気の合う仲間たちのサークルを、そしてそれらのネットワークを、多様に、複合的に、次から次へとたくさん創り出していくことこそ90年代の私たち、日本の市民運動の課題であると思う次第である。

9.科学から空想へ
 今回は、いよいよ三宅島の話しである。いよいよというのはそもそもこの連載のきっかけというのが、一年前に日市連の角倉君から「三宅島の話しを書いてくれませんか」と頼まれたことにあるからである。そして「いいよ」とは言ったものの、私には私の考えていることが、どうも皆に理解されていないのではないかという気がしていて、もっと元のところから書かねばと思い、角倉君に「少し展開させてくれないか」と言ったら、「いいですよ、それなら連載で」ということになったのが、そもそもの始まりであったのだった。

①三宅島へ
 私と三宅島のかかわりというのは87年の「第一回三宅島アクションポート」以降であり、前にも書いたように、その時のお目当ては三宅島よりも小田実氏であった。島で小田実氏の都知事選出馬の話しは聞けなかったが、初めて訪れた三宅島の印象は感動的であった。そして、帰りの船が時化で欠航になって、まる一日島でのんびりする日があった。海を見ながら、岩海苔を肴に酒を飲んでいた。そしたらまた近い内に島に来ようと思った。それから私の三宅島通いが始まったのだった。
 NLP基地をつくることなどとんでもない。「島おこし」をやらねば。そうだ「産直」をやろう。そのために「ワーカーズコレタティブ」をつくろう。そして″新しい社会″をつくるための試しがそれらを通してできないものだろうか等々。いろいろな想いを抱きながら三宅島に渡り、行く度に三宅島は常に新鮮であった。
 87年の9月に気象観測柱が機動隊を動員して強硬設置された頃を山場に、88年に入ると三宅島島民のNLP反対の意志の強さの前に、政府はNLP基地を暫定的に硫黄島に持っていくことになり、支援運動も次第に下火になりつつあった。しかし国の三宅鳥へのNLP基地建設の意向に変わりはなく、闘いは長期戦になるだろうと思われた。
 それならば、″新しい社会″をつくることの試みをそれに対置してやろう。そしてこれもまた長期戦になるだろう。それなら三宅島にそのためのベースを創ろう。小さくてもいい、″想い″をカタチにしたいと私は思ったのである。
 88年の秋に私は原田さんといっしょに三宅島に行った。「第三回アクション・ボート」や産直の下話しもあったのだが、もうひとつは、ベースをつくるための用地を探すつもりでもいたのだ。島に渡る船の中でそんなことを話すと、原田さんは「平山さんの話しは″科学から空想へ″だね」と言ってあきれていたが、それ以降原田さんは、私のこの「途方もない計画」につきあってくれている。
 「途方もない」と言っても、はじめは「協同村」というよりは、支援する仲間で、支援のためのベースにもなれば、共有の別荘にでもなるような丸太小屋でも建てようと考えていただけなのだが、第三回アクション・ボートの宣伝もかねてということで新聞の取材に応じたら、「協同村」についてたくさんの反響があり、少々あわててしまい、それからまたせっせと三宅島に通うことになったのだった。

②フーリエとオーエン
 これまでの展開でおわかりのように、私の試みのポイントは、ひとつには「ワーカーズ
・コレクティブ」をつくることにあった。ワーカーズ・コレクティブとは、事業をともなった社会運動のことであり、私たちは三宅島の「島おこし」を事業の核にしながら、それを試みようと思っているわけである。
 それに合わせてもうひとつは、ワーカーズ・コレクティブの可能性も含めて、前回に書いた「脱組織論=産業社会からの脱組織はいかにして可能なのか」をフィールド・ワークしてみたいということである。
 かつてマルクスとエンゲルスによって「空想的」とか「哲学の貧困」とか批判されたユートピア社会主義者やアナーキストたちがいた。彼らは産業社会の初期の頃しか知らず、アダム・スミスやヘーゲルについても勉強不足であり、「科学的」ではなかったかもしれない。しかしそれは、彼らの想像カが、当時の産業社会故の制度や発想や、やり方に対してオルタナティブしようとしたからであると私は思うのである。要するに、彼らは当時の生成しつつある産業社会を直観して、それとは別の発想とやり方で、″新しい社会″を試みようとしたのであったのだと私は思うのである。
 フーリエやオーエンに共通した発想は、農業と教育を基礎にした生産と自然のバランスのとれた″協同社会″づくりであった。そしてブルードンは小生産者による″連合″を代案していた。どこにもビラミッド型の組織の発憩は、かけらもなかった。
 ″自立した個人″によって成り立つ″協同社会″の″連合″という社会のイメージは、″新しい社会″のイメージとして、その原点にある。また、マルクスとエンゲルスも初期においては「共産主義社会」のイメージを次のように書いている。
 「共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ、そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、夕方には家畜を飼い、食後には批判することができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。」(「ドイツ・イデオロギー」)と。優れた「空想性」であり、かつ見事に「脱組織」を展開しているではないか。
 かつてロバート・オーエンは大西洋を渡り、新大陸のニュー・ハアモエーに″新しい社会″の創造を試みた。しかし、その壮大な理想主義的実験は短期間で失敗に終わり、彼は「空想的社会主義者」とされてしまったが、その失敗の主要な原因は、ヨーロッパから遠く離れたインデイアナの地につくられた「閉ざされた空間」としての「共同体」にあったのだと私は思う。
 19世紀以来の産業社会は「物の生産」とそれによる「商品経済」化により、それまでの「共同体」の解体をすすめつつ発展してきた。それ故に「共同体」に社会主義を夢見ることは「空想的」とされたのであった。
 しかし、前回書いたように現在すすみつつあるのは「物の生産=産業化」の行きづまりであり、産業社会の転換である。そして、それに合わせてすすむ「情報化」は、「開かれた空間としての地域社会=新しい共同体」の可能性を拡大している。
 私たちが三宅島の「島おこし」を通じてやろうとしていることは、私たちなりのその試しである.それは三宅島に″ファランジュ(フーリエの構想した協同社会)″をつくろうとだけ想っているわけではない。それはひとつの「ハードなベース」であるにすぎない。私たちが考えているのは、そこをひとつの「共有空間」にしつつ、人々と自然とが共生しうる、また、都会の人々と三宅島の人々が交流しうる「ソフトな関係」を創り出したいということである。
 それは「中央集権」と「産業化」に対して、「地域自治」と「脱組織のライフスタイル=新しい生き方と働き方」を、さらにはそれが可能な「社会システム」を創り出すことであり、私たちの考える「島おこし」とはまさにそういうことなのである。
 ″科学から空想へ″、いま三宅島こそロドス島である。

③「三宅鳥クラブ」へ
 今年に入って、二度三宅島に行った。行く度に三宅島の自然の雄大さと、島人の優しさを実感する。しかし島人の優しさは、一方で「過疎化」と「高齢化」のすすむ島の現状であり、その裏側で、それを見越して継続的にすすめられているNLP基地づくりの策謀に対する、弱まりゆく無言の抵抗であるようにも私には思える。
 私が三宅島に通い出したこの三年の間にも、目に見えて島の過疎化はすすんでいる。「NLP基地反対」と合わせて「島おこし」を課題にかかげながらもNLP基地の計画があるが故に、三宅島の過疎化は一層早くすすみ、私見では、三宅島には島独力で「島おこし」をやれるだけのカは、もう既にないかもしれないとさえ思える。
 優しい人々の住む地へ無理矢理に「計画」を持ち込んで、過疎化をすすめ、やがて人々が抵抗をあきらめるのを時間かけて待つというのが「開発」にともなういつもの国の手口である。
 黒潮に隔てられた三宅島は、都会に住む人々の生活からは遠いように言われる。しかしそれは、防衝施設庁も計算済なのである。それを越えて、共に闘いつづけられる仕組み、協同して「島おこし」をすすめることこそ、いま急がねばならない。
 現在、私たちはようやっとワーカーズ・コレタティプ「三宅島クラブ」を立ち上げるところまできており、具体的な「島おこしのプラン=事業計画」を作成中である。この「プラン」は三宅島・島ぐるみユートピア計画」というのだが、六月に予定している「第四国三宅島アクション・ボート」の際に、それを基に、再度「島おこしシンポジウム」を予定している。
 ″ユートピア″づくりの理想は高くかかげながらも、運動は現実的にすすめるしかない。まだまだ足りないのは、資金であり、企画カであり、事業をすすめるためのキャリアであり、そういった仲間たちである。
 「第4回三宅島アクション・ボート」に、「三宅島クラブ」に、″夢見る勇気”を持つたくさんの方々が参加されることを期待している。

10.もっと自由に、もっと未来へ、
 思えば、既に私も40才である。40才が人生でどんな歳なのか、20才から倍程歳をとり、さほど美しくないことだけは確かであると言える。そして、40才という人生の節目に、この「ニュース」の貴重な誌面をお借りして、この間の私の「とりとめもない感慨」を「覚え書き」程度には整理させていただけたことを、編集委員と読者の皆さんに感謝したいと思う。
 昨年の夏の参議院選挙の直後から書き始め、気がつけばもう春なのだが、この半年間の世界的な激動は、まちがいなく時代が″歴史的な転換期″にあることを示している。そこでついつい私も、19世紀以来の産業社会とマルクス主義の総括みたいなことを始めてしまい、当初の予定より若干長くなってしまったのだが、ソ連・東欧における激動を「まちがった社会主義によるもの」と他人ごとのようにとらえるのではないとすれば、日本において「社会主義」や「社会主義的運動」をやってきた人々は、現在のソ連・東欧の人々の苦闘を共にくぐるべきであると、私は思うからである。
 同じ頃、小田実さんが雑誌「世界」に「ベ平連・回顧録でない回顧」を連載され始めたが、思えば「ベトナム戦争」こそ、私たちの市民運動の原点であった。さらに省みれば「ベ平連~日市連」が、ベトナム反戦とそれ以降の課題を市民運動しぬいたことの意義は、きわめて大きかったと思う。
 例えば、東西の冷戦という「二つの世界」を終わらせるきっかけとなったのは、ベトナムにおけるアメリカの敗退であった。ベトナム戦争によるドルのタレ流しは、ドルを基軸とする国際通貨管理体制を破綻させてパックス・アメリカーナの終焉と西側の多極化の始まりとなり、それは引き続いてソ連社会主義の被害者意識をゆるめ、アフガニスタンにおけるソ連の敗退と合わせて、東側全体へのペレストロイカの波及と冷戦の終焉につながっていったのであった。
 さらに70年代以降も、とりわけ80年代初頭における世界的な危機と反動に対して、私たちも含めた世界中の市民が市民運動をやりぬき、今日に到った。このことを抜きにして、今日の ″世界史的な変革″を語ることはできないだろう。「ベ平連~日市連」に参加した″無名の無数の市民たち″の力は、これをやりきったと言っていいだろう。
 時代は90年代に入った。日本は「豊か」になり、いわゆる「運動」は流行らなくなった。しかし「日本はこれでいいのか」の現実に異義申し立てしつつ、合わせて″新しい社会″を創り出すことの課題をすすめる時代こそ、まさに90年代である。これは政党だけでは出来ないことであり、政党の将来すら、市民運動の力にかかっているのが、90年代であると私は思う。
 だから私は、もうしばらく市民運動を続けようと思っている。前にも書いたが、いわばそれが私の「趣味」でもあるのだ。10代の絶わりの頃に、私は当時は信濃町にあったべ平連の事務所にビラを分けてもらいに行ったことがある。それから30代の終わりの頃に、いい歳をして、初めて日市連の事務所に顔を出した。センチメンタル・ジャーニーみたいなものであった。
 私が日市連にわらじを脱いで3年目になる。今回、言いたいことばかり書いたが、所詮は未だ居候の身である。しかし、共に″新しい社会″を創り出すことの労をいとうつもりはない。いま共に″もっと自由に、もっと未来へ″である。(おわり)

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