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2011年12月26日 (月)

2011年総集編②プルードンにならって

賀川豊彦が「真の協同組合とは、その活動の広がりにおいて、全コミュニティ的なものである。古い組合はそのサービスを自分の組合に限定していた」と言うように、現在の協同組合も規模は大きくなったものの、「相互扶助」は組織と経営の範囲内というのが、生協に長くいた私の実感であり、私は1990年代からそれを超える「その活動の広がりにおいて、全コミュニティ的なもの」として、アメリカ型NPOに共感したのだった。

時代的には国際化と情報化、グローバリゼーションとインターネットが急速に拡大する時代であったし、1993年にサンフランシスコのNPOを見に行って、なるほどと思った訳である。そして、その時にサンフランシスコを案内してくれた岡部一明氏から「もうひとつのアメリカ」を教えられたのだった。

200年近く昔にアメリカを見て回ったトクヴィルは、そこに時として利他的に行動する個人主義のアメリカ人を見た。一般的に「自由で平等な個人という観念は、市場経済的な流通ないし商品交換こそが、それを可能とすることができたと考えられている」(半田正樹)訳だが、私は個人主義をベースにしたコミュニティというものを見直したのだった。

鳩山由紀夫元首相の唱えた「友愛の政治」のルーツになったのは、日本人の母を持つ「EUの父」であるクーデンホーフ・カレルギー伯爵で、伯爵はナチスの台頭によってヨーロッパを追われてアメリカに亡命したのであるが、そのことがハンフリー・ボガード主演の名画『カサブランカ』のモデルになったという。

ある日、ハンフリー・ボガート扮するリックの前に、リックの元恋人のイングリッド・バーグマン扮するイルザが現れる。イルザは、クーデンホーフ・カレルギー伯爵がモデルとなった夫のラズロをアメリカに逃がすための搭乗券をリックに懇願する。その場面のバックに、黒人のサムが弾き語る“As Time Goes By”が流れる。
http://www.youtube.com/watch?v=Wo2Lof_5dy4

最後は、リックが自らの搭乗券を与え、ふたりを乗せた飛行機が飛び去り、リックはフランス人のルノー署長と共にレジスタンスに参加しようとするところで終わる。戦時下1942年のアメリカのプロパガンダ映画なのかもしれないけど、リックの造形はそれ故ではない。レイモン・チャンドラーの『さらば愛しき女よ(Farewell, My Lovely)』は、同じく戦時下1940年に書かれた名作だが、プロパガンダとは関係なく、リック=フィリップ・マーローを造形している。

「友愛」と「相互扶助」は、ともすると「友愛」を建前にして「相互依存」になりがちである。また、理念としての「友愛」を組織に閉じ込めると、それは組織の建前になって、「友愛」の範囲は組織内だけになってしまう。さらに「友愛」や「平等」を国家が建前にすると、やがてそれは共同幻想=ナシャナリズムを生み出して、国家主義的専制に転化してしまうというのが、ジャコバン主義や社会主義革命の教訓である。

労働運動と農民運動の中でコミンテルン系のジャコバン主義に苦しめられた賀川豊彦は、大小様々な協同組合をベースにした「新しい社会」を構想して、それが友愛の精神を保持し続けるためにキリスト教をもってそのバックボーンにしようとした。では、キリスト教徒ではない私としてはどうするのかと言えば、やはり賀川豊彦の言うように、「友愛」と「相互扶助」を共同体や組織内に閉じ込めないこと、そのためには、共同体を超えて友愛を求める自由、組織を超えて連帯を求める自由と、閉鎖的共同体や自己保身する組織に対して、それ超える主体=自由な個人であることが必要だと思う訳である。

柄谷行人は『世界史の構造』にこう書く。
「プルードンは、友愛を自由の上におくことを否定した。友愛が真に存在するためには、それが共同体に収斂するのではなく、共同体を越えた、世界市民的なものでなければならない。・・・プルードンの考えでは、自由が優位にあるときにのみ、共同体を越えた友愛が成り立つ。いいかえれば、共同体と一度絶縁した個人(カントの言葉でいえば世界市民)によってのみ、真の友愛、あるいは、自由なアソシエーションが可能だということである」。
「そのことを極端なかたちで強調したのが、「エゴイスト」(唯一者)を唱えたマックス・シュティルナーである。・・アソシエーションを形成するためには、個々人が一度共同体と絶縁しなければならない、というのが彼のポイントなのである」。
「プルードンは平等を軽視したのではない。ただ、それを「分配的正義」として実現することに反対したのだ。それは国家による富の再分配を要求することになり、そのことが再分配する国家の権力を強化させることになる。そこで自由が犠牲にされる。それに対して、彼は「交換的正義」を唱えた。それは、不平等を生み出すことがないような交換システムを作り出すことである。そのために、彼はさまざまな構想を提起したのである」と。

そこで、「不平等を生み出すことがないような交換システム」とはどんなものなのかを考える訳だが、不平等を生み出す資本主義経済の要諦が「労働力の商品化」であるなら、やはり商品化されない働き方と生き方、それに交換システムをプルードンにならって試行錯誤するしかない。

そしてその方法は、資本主義を一挙に変えようとするのではなくて、あれこれとやってみるしかない。ホイジンガや賀川豊彦をはじめ、この間の読書から参考にすれば、中世とかギルドとか各種の小さな協同組合や連合や連邦とかがキイ・ワードとして浮かぶ。また、「友愛や相互扶助」というよりも、「共感やボランティア」といったことも浮かぶ。交換は、必ずしも等価交換でなくてもいい訳である。

ついでに書けば、年金などの世代間格差を思えば、ジジイたちは多少年金が減らされることくらいは、喜んで受け入れるべきである。次の選挙が怖くて税制改革や格差是正をやらないどころか、議員定数の削減もせずに、ひたすら自己保身する議員ばかり。八ツ場ダムの再会決定やエネルギープロジェクトチームを見るにつけ、民主党はもう終わりだなと思う年の瀬である。

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