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2010年12月13日 (月)

堺利彦の唯物史観

次は大逆事件以後の堺利彦を書こうと、「堺利彦全集」第4巻を読んでいたら、10月23日の「閑話休題『パンとペン』」に書いた『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』の著者の黒岩比佐子さんが亡くなられたと知らされた。大逆事件以後の堺利彦と言えば「売文社」であるのだが、「売文社」については黒岩比佐子さんのこの本以上に書き様もないから、この宝物のような『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』を引き継いで、そこから先の仕事をやるしかないと思うところである。黒岩比佐子さんのご冥福を祈りたい。

「堺利彦全集」第4巻は、大逆事件の後に売文社を立ち上げて、『売文集』や『へちまの花』、それを改題した『新社会』等に書いた文章が中心で、赤旗事件で入獄していた千葉監獄で大いに勉強したせいか、マルクスやロシア革命や唯物史観などを語り出すのだが、堺利彦の真骨頂は、それらを語るところにある訳ではない。

『へちまの花』の序に、「近来、カフェとかバアとかいうものがにはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白げなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい」と書く骨太な洒脱や、『新社会』に「小さき旗上げ」として、「もしそれ、来たってこの山寨に投じ、あるいははるかにこの孤軍を援けんとする者があるならば、戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよいと信じている」と書く器の広さにある訳である。

そもそも売文社の立ち上げそのものが、堺利彦の真骨頂である訳だが、売文社を看板にして、大逆事件後の冬の時代をしのぎながら、次の一歩を堺利彦がどう構想していたのか、堺利彦にとっての唯物史観的ものの見方とはいかなるものであったのかを見てみる。

堺利彦は、1904年(明治37)2月の週刊『平民新聞』に「世の中回り持ち」と題して以下のように書いている。
「なるほど歴史の変遷を見れば、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、と取っては代わり取っては代わりしている。しかしそのたびごとに革命が起こって悲惨を窮める。その悲惨なる経験の結果として、立憲政治が生じてきた。すなわち政権の世襲を廃してこれを人民全体に分配し、革命戦争の代わりに内閣更迭をやることになった。
 これを経済上にみるもまた同じことで、古来富豪の起きては倒れ起きては倒れする間に貧富の相戦うありさまは実に悲惨を窮めている。そこでその悲惨なる経験の結果として、財産の世襲を廃してこれを人民全体に共有せしめ、人はみなその才能に応じて分業をなすことをしようという考えが生じてきた。これがすなわち社会主義の理想で、社会主義は世の中回り待ちを改めて世の中寄合い持ちにしようというのである」と。

また、1905年(明治38)8月の週刊『直言』に、「社会主義の大意」と題して以下のように書く。これには「亡妻一周忌記念のチラシ」とあり、以下はその全文である。
「徳川の世は武士の世でありました。武士は両刀をたばさんで威張りこみ、百姓町人を足の下に踏みつけておりました。切り捨てご免という恐ろしいことさえありました。明治の世は金持の世であります。金持は金の光で威張りちらし、貧乏人を足の下に踏みつけております。そして貧乏人が職に離れて食うに困るのは、ちょうど切り捨てご免と同じことです。切り捨てご免は一思いに殺されるのですが、職に離れるのはナブリ殺しにあうのです。
 明治の御代は四民平等だなどとは全くのうその皮です。徳川の世に武士と百姓町人とがあったごとく、明治の世には金持と貧乏人とかあるのです。今の世の大金持は昔の大名と同じことです。
 この金持の階級を、我々は紳士問と呼びます,この紳士閥に対する諸種の貧乏人を、我々は平民と称します。ただし、武士のはしくれに、中間だの、足軽だのがあったごとく、紳士閥のはしくれにも、巡査、看守、小学教員、小役人、小商人、小地主などがあります。これらはその外形上紳士閥に属していても、実は平民階級の一部であります。
 そこで徳川の末、明治の初めに、中間足軽や百姓町人がおいおいに頭をあげて、ついに武士の階級を滅ぼしてしまったごとく、今の世の平民階級はよく一致団結して、かの紳士閥を倒してしまわねばなりませぬ。
 ぜんたい、なにゆえに大名だの、武士だの、金持だの、紳土閥だのという階級ができたかというに、畢竟は強いやつが土地だの財産だのをわが物にして子々孫々に譲り伝えてゆくからのことです。そこでこれらの階級を無くしようとするにはぜひとも土地や財産をわが物にすることをやめて、すべて人民の共有、社会全体の寄合い持ちにせねばならぬ。
 土地や財産を人民の共有にして、金持もなく、貧乏人もなく、紳士閥もなく、平民もなく、皆が寄り合って助け合って、真に兄弟同胞の思いをして、清く、美しく、高く、とうとき社会を現じようというのが、すなわち社会主義の心であります」と。

以上の堺利彦的歴史認識が、千葉監獄での勉強とロシア革命を背景に、如何に唯物史観的に変化したのかを見ると、1919年(大正8)に『新社会』に書かれた「維新史の教訓」と題された文章では、以下のようになっている。

「第二維新という言葉がよほど前から使われている。・・・第一維新の歴史が、徳川氏の幕府政治が崩壊して王政が復古された経過であることはいうまでもない。しかし我々はその政権転移の外形の底に、経済的変化の実質の存するを見る。すなわち幕府政治が倒れて明治の新政府が起ったのは、農業を基礎とする封建的搾取制度がついに維持しきれなくなって、その旧制度の下に発達しつつあった近世資本家的搾取制度がようやくついに確立されかけたことを意味する。そしてそれが階級的には、武士の滅亡に対する地主町人の勃興となって表れた。・・・間もなく、この二階級が発達し混和して今日の紳士閥(すなわち一般資本家階級)を形成したことは言うまでもない」。
「新政府の権力を握った者は諸雄藩そのものではなくて、諸雄藩の小士であった。新政府が直ちに四民平等をもって天下に号令したのは、小士をもって幕府に取って代わり、また小士をもって自己の主人およびその同列たる諸大名の上に立つという情勢上、大胆に階級観念を打破する必要があったものと目すべきである。・・・ゆえに新政府は、直ちに中央首府に独立の軍隊を作り、次第に各藩の軍隊を解散し、次いで版籍奉還、廃藩置県を断行しかくて全く諸大名を滅ぼし、武土階級を滅ぼしたのである」。
「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる。かようにして旧組織の中に新興階級の要素を織りこみ、遠く将来を見越した知恵によって、着々として経済的変革の準備をするならば、第二維新は第一維新と同じく、もしくば第一維新にもまさって、全然平和のうちに変革を成就しうるであろう」と。

まあ、堺利彦の歴史認識と文章は、これが土着社会主義者の習い性か、所謂マルクス主義者の唯物史観による公式文章とは趣を異にしている。当初から、明治維新の位置づけなどは、あくまでも紳士閥(ブルジョワ)革命である。また、「武士のはしくれに、中間だの、足軽だのがあったごとく、紳士閥のはしくれにも、巡査、看守、小学教員、小役人、小商人、小地主などがあります。これらはその外形上紳士閥に属していても、実は平民階級の一部であります」と書き、「小さき旗上げ」に「戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてをする必要はない。ただ大同に従って相共に謀ればよい」と書く如く、それは後の労農派の「共同戦線」の提起に通じているし、「変革の径路を平和にするためには、新興階級を代表する新政党を帝国議会に入れ、また会社の経営に労働者を参加させて、いわゆる共同管理の法を設けることが必要である。前者のためには社会党、労働党の組織が必要となり、後者のためには労働組合の発達が必要となる」と書くのを読めば、それは単なる議会主義でも暴力革命路線でもなく、堺流のマルクス主義の正統派路線、労農派の路線であることが分かる。

1915年(大正4)に『へちまの花』を月刊『新社会』と改題し、「小さき旗上げ」をした堺利彦は、同年の衆議院選挙における馬場孤蝶の立候補の推薦人になり、1917年(大正6)衆議院選挙には自ら立候補しと、「冬の時代が終わった後に、春の時代が到来したわけではない歴史」(黒岩比佐子さんの本から)に立ち向かって行くのである。

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