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2010年11月 7日 (日)

再び「柏木団の人びと」

堺利彦は、1904年(明治37)11月の週刊『平民新聞』創刊1周年記念号に、幸徳秋水殿』共訳で『共産党宣言』を載せたが、直ちに発効禁止となり、翌1905年(明治38)1月29日の第64号をもって廃刊を宣言。その後、加藤時次郎が経営する消費組合「直行団」の機関紙『直言』をもってこれに代えるも、同年9月には週刊『直言』も発行停止となり終刊、10月9日に平民社も解散となった。

平民社の解散の理由として堺利彦は、後の『日本社会主義運動小史』に「平民社の亡びた理由としては、政府の弾圧と財政の窮乏と外、内部の不折合いもあった」と書いている。1905年(明治38)6月4日の「平民日記」には、以下のように書いており、弾圧による財政の窮乏が分かる。
「平民社にはいろいろ営業以外の出費があります。その同志のクラブたる性質において、その運動の中心たる点において、ことに近来は裁判事件、入獄事件、迫害事件等について、いちいち説明のできぬ支出もあります。・・・先月来毎度記したとおり、国光社に対する賠償金の月賦(毎月五〇円、共産党宣言事件の罰金呆確定ながら)などが、このごろ引き続いて押し寄せますので、社中一同大いに痛心している次第であります」と。国光社に対する賠償とは、没収された印刷機に対するものである。

平民社の解散の理由に言う「内部の不折合い」とは、本質的には前述したように「平民社なるものの半私有、半公有の性質にあった」ものと思うが、派生的には、幸徳秋水と菅野すが、堺利彦と延岡為子という平民社内の男女関係に、キリスト教社会主義者の石川三四郎らが反発したこともそのひとつであったとも恩われる。石川三四郎は、木下尚江、安部磯雄とキリスト教社会主義の月刊『新紀元』を発行することになる。一方、西川光二郎と山口孤剣は『直言』の継続となる半月間『光』を発行し、幸徳秋水と堺利彦はこれを助け、そこに寄稿しつづける。

いずれにせよ、堺利彦は同6月25日の平民日記に「わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ」と書き、各人の「屯田策」を促す訳だが、自らはどうしのごうとしたかについては、同8月8日の平民日記「平民社の改革について」にこう書いている。
「それに、小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行している由分社の経営を助けることになりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目二七番地に移り住み、ここに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しずつ出版を試むることになりました。小生は今後これをもって一身の衣食を支えるつもりであります。しかして延岡為子氏もまたこの事業を助けることになりました」と。

堺利彦は、かつて万朝報勤めの頃、長男と妻の治療費を稼ぐために始めた内職の『家庭雑誌』と出版活動を再開する訳である。しかし、今回も単に生活のためかというと、そうではない。堺利彦は同7月9日の平民日記に「小生は今後、号というものを用いぬつもりです。すなわち、枯川という名を廃します。その理由は、といって別に深い理由もありませぬが・・」と書く訳だが、思うところがあったものと思われる。11月に幸徳秋水は保養のために渡米し、その年末に堺利彦は為子の金沢にある生家に滞在し、新しい展開に向けて充電している。

年が明け1906年(明治39)2月、堺利彦は深尾韶と共に日本社会党を結党する。3月には電車賃値上げ反対運動を起こし、さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。宣伝目的なら発行不可であった社会主義も、研究目的なら黙認された訳である。しかし『社会主義研究』はあまり売れずに5号で終刊、同年9月頃から日刊『平民新聞』の発行計画がもち上がり、同10月に堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光二郎、竹内兼七を創立人として平民社を起して日刊『平民新聞』の準備をすすめ、翌1907年(明治40)1月15日に日刊『平民新聞』は創刊された。

2008年5月15日のブログにも書いたように、堺利彦から日本社会党に誘われた時に、石川三四郎は『堺兄に与へて政党を論ず』を書いて、「予は・・政党を以て、社会改革の手段として、左程重要なるものと考ふること能はざる者なり」、「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書き、それに対して堺利彦は、「石川三四郎君に告ぐ」に「僕は君が常にひとり、しかりただひとり、新紀元城の矢面に立つをみて、これを射るに忍びざる者である。僕はただ君の誠実と真摯とに感じ、君が他日必ず来たって僕らの群に投ずべきを信じ、静かにその時を待つの外ないのである」と書いた。

やがて日刊『平民新聞』が計画され、石川三四郎はその創立人となる訳だが、京橋区新富町に構えた平民社の事務所には、もうひとりの新顔が参加する。幸徳秋水の勧めで参加した山川均である。山川均については、ちょうど1年前のブログ「山川均と宇野弘蔵」、「山川均のしのぎ」(2009年11月 8日)、「原風景としての柏木団の人々」(2009年11月14日 )にも書いた。

と言うよりも、「脱労働力商品論」をどうすすめるかということで宇野弘蔵の『恐慌論』を読み、そこから宇野理論のルーツを遡りだして山川均について書き出し、さらに堺利彦について書こうと思っていたものが、さらに堺利彦を遡ってとなり、そこから堺利彦に戻って来たのが現在なのである。怠け者のやること故、なんとも時間のかかる話である。

1年前のブログが「原風景としての柏木団の人々」(2009年11月14日 )で途切れてしまったのは、今思えばよく分かる。私は「柏木団」という、平民社を少し拡大したような日本の土着社会主義者たちのコミュニティ、原風景のルーツを知りたくなった訳であったのだった。以下、ついでに山川均の『ある凡人の記録』から、「柏木団の人々」の一部を再掲しておく。時代背景は、少し話が飛んで、日刊『平民新聞』が廃刊になった後の頃である。

新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。・・・まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。・・・そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた。
 幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・・。
青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見える`ソガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた。

ここにもうひとり新顔が登場する。大杉栄である。大杉栄は、平民社のメンバーというよりは謂わばボランティアであったが、1906年(明治39)2月の日本社会党には参加し、電車賃値上反対運動であばれて入獄し、出獄すると堀保子と結婚した。堀保子は、堺利彦の最初の妻の美知子の妹である。結婚のはなむけにか、堺利彦は同10月に『家庭雑誌』を大杉夫妻に譲渡している。書くことが生業なのに、書いたものを載せられるメディアがない時代には、自らそれを持つことが生活の手段だったのであり、大逆事件後の冬の時代を、大杉栄も『近代思想』を創刊し、そうやってしのぐのであった。

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