« 閑話休題「パンとペン」 | トップページ | 再び「柏木団の人びと」 »

2010年11月 4日 (木)

平民社と堺利彦の夢

全6巻の全集の内、3巻までは大逆事件の前に書かれた文章が中心である。1899年(明治32)7月に万朝報に入社した堺利彦は、当初は文芸欄を担当したり、1900年(明治33)には北清事変に従軍したり、1901年(明治34)には万朝報社長の黒岩涙香と内村鑑三が立ち上げた「理想団」に参加し、幸徳秋水との親交を深めて4年間をそこで送る傍ら、前述したように生活に追われながら売文とBookmaking をすすめ、家庭を基礎にした理想的な社会づくりを提案している。そして、1903年(明治36)に万朝報社長の黒岩涙香が日露開戦を唱えるようになると、開戦に反対して内村鑑三、幸徳秋水とともに万朝報を去り、幸徳秋水と平民社を設立して週刊『平民新聞』を発行する。

全集の第3巻は、週刊『平民新聞』と、それが廃刊になった後にそれを継いだ週刊『直言』、『光』以下、大逆事件にいたるまでの間に発行された機関誌類に書いたものが中心である。これらは、後の社会主義史による時代区分では、初期社会主義、明治社会主義とされるものであるが、だからと言って、その思想が後の社会主義より劣るもの、稚拙なものであるわけではない。例えば、週刊『平民新聞』の発刊の「宣言」には、以下のようにある。

宣言
一、自由、平等、憾愛は人生世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。
一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱導す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて章節を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由,平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す。
平氏社同人

また、週刊『平民新聞』の「発刊の序」には、以下のように書く。

 平民新聞は、人類同胞をして、他年一日平民主義、社会主義、平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関に供せんがために創刊す。
 ・・・しこうして予らはさらに正直に告白するを要する一事あり。何ぞや、他なし、予らが平民新聞によって衣食せんことを欲するこれなり、予ら今や別に衣食を得んがために、その精力の一半を費やさざるべからざるの境遇にあり。もし予らにして将来幸いに平民新聞の収益に衣食しつつ、全力をこの事業に尽くすを得は予らの満足これに過ぐるものあらざるなり。予らはわが同志がこれをもってはなはだ予らを罪せざるべきを言ず。しかして天もしわが同志の主義に祐いせば、予らは平民新聞の収益がひとり予らを養うに足るのみならず、さらに多数の同志を養うに足るに至らんことを信ず。これを序となす。

週刊『平民新聞』の発刊の「宣言」と「発刊の序」は、幸徳秋水と堺利彦の共作であるが、内容と文体からすれば、「宣言」は幸徳秋水、「発刊の序」は堺利彦が主に書いたものであろうと思われる。中江兆民を師と仰いだ幸徳秋水は、自由民権運動の純粋な末裔であり、豊前小倉の十五石四人扶持の下級武士の出である堺利彦は、「予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であ」ると書き、同じく豊前中津の十三石二人扶持の下級武士であった福沢諭吉にも共感している。

「宣言」は、自由民権運動という明治デモクラシーの運動を引き継いで生まれたものであり、例えそれが制限されたものであったにせよ、それを実現するに当たっては「国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す」としている。

「発刊の序」は、「門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す」ためには、宮仕えすることや、紳士閥に雇用されることなど最初から考えずに、自ら事業を起して、それを拡充して、「多数の同志を養うに足るに至らん」と構想している訳であり、これは後の売文社の企画にも通じている。

堺利彦が社会主義を勉強し始めるのは1901年(明治34)頃からで、1904年(明治37)11月の『平民新聞』創刊1周年記念号にマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を訳出する訳だが、それまではイーリーやラサールの本から社会主義を学び、それに1903年(明治36)に『家庭雑誌』にエドワード・ベラミーの『百年後の世界』を、『万朝報』にエミール・ゾラの『労働』を『労働問題』として、1904年(明治37)にはウィリアム・モリスの『ユートピア便り』を『理想郷』として抄訳して載せている。

これらは所謂ユートピア小説と言われるもので、『共産党宣言』を訳した堺利彦もそのことは知っていても、堺利彦はこれらへの自らの共感もあって、それらを平民社から刊行している。社会主義のイメージを易しく伝えるために訳も謂わば翻案の抄訳であり、例えばゾラの『労働問題』は、以下のとおりである。

隆吉はその中からフーリエーの一冊を抜き取った。その表題のソリダリテ(友愛園)という文字に目を引かれたのである。隆吉は寝床に入ってこれを読みはしめた。読めば読むほど心を引かれることばかりである。フーリエーは・・・急激なる革命を不可として、最初数千人の小都会にその理想を行なうという説である。それで彼は大いなる人間隊の単位としてファランクスという小団体を作り、ファランステリーという共同家屋を作り、有志の人々を集めてここに資本、労力、才能の連合を作るというのである。
 隆吉は本を閉じてまたしばらく考えに沈んだ。・・一八世紀末の革命は中等社会に権力を与えたのみであるので、さらにその進化を完全にして一般人民をその恩沢に浴せしめるために、また一世紀の年月を要したのである。それで一九世紀の終り、二〇世紀の初めなる今の時は、まさに新社会に入らんとするの戸口で、その新社会の礎はすなわち労働組織の改革にあるのである。隆吉はこれらの思想を抱いてようやくその眠りに入った。・・・
 三年の月日は過ぎた。隆吉は松山邸より阿鼻工場のかたわらに至る方二〇町の土地を占めて、その間に新工場を起こし労働村を作った。
 工場は溶鉄炉の真下に断崖を負うて建てられて、昇降器によって山の上との連絡をなしている。・・・工場の方には少しでも産物の多く、少しでも骨折りを減ずるように、ありとあらゆる新工夫を用いている。労働者の家はみな園の間にあって、そこに楽しき家庭を栄えしむべく作られてある。それらの家はすでに五〇軒を越えて、松山邸のほとりより大呉町の方に向かって進みつつ、はや一つの小都会を成している。次にはこの敷地の中央に大なる共同家屋が建てられて学校、図書館、集会所、ふろ場などがその中にできている。それからついには生産組合、消費組合が起こされて、パン店もあれば、肉店もある、やお屋店、呉服店、荒物店、大概な日用品の店はみな組合でできている。・・・。

この情景は、ロバート・オウエンのニュー・ラナークに似ている。イギリスより遅れて第二帝政期に資本主義の興隆したフランスにおいて、フーリエはオウエン流の共同村構想をファランステールと称して構築し、ゾラはそれをモチーフに『労働』を描き、堺利彦はそれをまた翻案する訳である。人名や地名の固有名詞が当て字になっているのは、読む人に馴染み易いようにとのことだと思われる。堺利彦の娘の名は「真柄」というが、これは堺利彦お気に入りのマーバレットという名の翻案であるという。

しかし堺利彦は、ここに描かれた彼の思う社会主義的世界を単にユートピアとするのでなく、身近にも求めた。早稲田の学生だった頃から平民社に出入りするようになって堺を知って、大きな影響を受け、後に売文社の社員になった白柳秀湖は1936年に刊行した『歴史と人間』で当時を回想して、「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ」(黒岩比佐子『ペンとパン』p117からの孫引き)と書いているが、堺利彦の明治38年4月23日「の平民日記」には、以下のようにある。

・・・しかるに去年夏、妻を失い、女児を人に託し、家をたたみて瓢零の身となりし予は、また自然にこの平民社の家庭に投じて、その宗族の一員となった。・・・ 電車の響き、ドブのにおい、家の狭さ、庭の狭さ、設備の不足、器具の不完全、数え立てればいろいろの不快も無いではないが、とにかく我らはここに多大の慰謝を得ているのである。
 さらに少しく深く考うれば、恨みの人、うれいの人、悶々の人、欝々の人、これらの人が相寄って、きず者同志、かたわ同志、せめてわずかに相慰めるがごときこの家庭であるが、それでも浮世の束縛と習慣の圧抑から逃れておるところに、また一種の自由と満足とを感ずるのである。
 この不自然なる今の平民社の家庭が、他日さらに数段の発展を成し遂げて、たとえばながめよき山畑の、花園の中のテントの下に、露清きキャベツの葉に盛られたる、紅の玉の草いちごを、同志、友人、夫婦、情人、老人、小児、みな相寄って食いながらわが聖職の伝道の、昨日を語り明日を計るというごとき、いささか理想の片影を宿したる小社会を見ることは、とうていできぬであろうか諸君。

堺利彦にとって平民社は、平民主義、社会主義の宣伝機関であった以上に、労働と生活の場であり、「理想の片影を宿したる小社会」だった訳である。同時に堺利彦は、そういった共同体的な空間をルポして、明治37年12月の『平民新聞』に「新仏教の諸兄」として、以下のルポ記事を載せている。

 世には宗教家の団体、文芸美術家の団体、政治家ないしは学者の団体が数しれずある。しかしそのうちによそ目にうらやましいほどのものがいくつあるか。予は昔の自由党の同志をうらやましく思うたことがある。近ごろでは『ホトトギス』の同人をうらやましく思うたことがある。しかして今ではただ、『精神界』の諸同人と『新仏教』の諸同人とをうらやましく思うている。・・・その気品の高きところ、その飄逸なるところ、その悠々たるところ、その淡々たるところ、他にその比類を見ることができぬと思う。・・・帰ってこれを平民社の諸同人に告げたれば、甲いわく
「あの手合いは竹林の七賢人だからなア」・・・

また、明治38年6月25日の『直言』には「無我苑訪問の記」として、以下のルポ記事を載せている。

 巣鴨という所にはいろいろなものがある。まず監獄がある、精神病院かある、家庭学校がある、真宗大学かある、明治女学校がある・・度また「無我苑(むがえん)」というのができた。去る一六日・・雨のしょぼふる中を旭山兄と二人連れて、この無我苑の訪問に出かけた。雨のしたたる青葉の中に、畑を過ぎ、小橋を渡り、森を抜け、行き行きて大円堂の森に達した。・・
 無我苑とはこの大日堂およびその周囲の林に名づけたもので、伊藤証信氏外数名がこれに住んでいる。伊藤氏らは真宗に僧籍を有する仏教青年の一団で「無我の愛」をもって理想となし、自ら「無我苑同胞」と称している。
 この大日堂は村の共有物で・・村の人が少しばかりそれを修繕して、彼ら同胞にはここに無賃の住所を得て、枯淡清寂の自炊生活をやっているのである。・・・
 しからばその「無我の愛」とは何ぞと言うに、それは絶対他力の信仰から来た一種の悟りで・・・その自我を滅却するところ、あだかも吾人が個人主義を排斥するに似、その絶対他力に信頼するところ、またあたかも吾人が相互扶助に依憑するに似ている。・・・吾人はこれに向かって十分の尊敬と同情とを寄せるものである。

堺利彦の思い描く社会主義の世界は、後の社会主義者たちが強引に押し進めようとした国有化といったものではない。また西洋からの輸入品でもなく、「竹林の七賢人」的でもあり、貧乏な仏教青年の「枯淡清寂の自炊生活」といった世界である。そして、「この不自然なる今の平民社の家庭が・・・いささか理想の片影を宿したる小社会を見ることは、とうていできぬであろうか諸君」と書くが如くに、社会主義の始まりはささやかな「寄り合い=小社会としてのコミュニティ」であり、明治38年6月25日の「平民日記」には、それをさらに以下のようにも描いている。

・・原口夫婦および山口君の経営せる平民會ミルクホールは、このごろ氷店を兼業することになりました。わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ。
 熊谷千代三郎君は本社の事務のかたわら、少しずつ出版事業をやることにして、今度手始めに『知識と趣味』という小冊子を出しました。これ右屯田策の一つと見るべきでしょう。発行所は本郷区根津吉永町平民書房、詳しくは広告をご覧あれ。
 深尾韶、原子基の二氏は北海道胆振(いぶり)国虻田(あぶた)郡真狩(まっかり)村字留寿都(るすと)八の原ノボリエンコロマップという所におちつきました。彼らの屯田事業については、いずれ詳しく報ずる時機があろうと思う。

「寄り合い=小社会としてのコミュニティ」とは、平民社に集う人々の生き方であり、多様な生業であり、堺利彦的にはそれぞれの「屯田策」とそのネットワークとして構想されている訳である。「屯田策」とは、今で言えば、自立した生き方働き方とでも言うのだろうか。

1905年(明治38)9月に週刊『平民新聞』を引き継いだ週刊『直言』が廃刊になり、10月には平民社も解散となった。堺利彦は、明治39年1月の『光』に書いた「平民社解散の原因」に、「その遠因は平民社なるものの半私有、半公有の性質にあったと思います」と書いている。「政府の弾圧と財政の窮乏」もそうだろうが、平民社解散の遠因が所謂「組合」的なもの、「共同体」的なものの「半私有、半公有の性質にある」という指摘は、ロバート・オウエンのニュー・ハーモニー共同体の崩壊にも通ずるものであり、コミュニティ存続の本質的な指摘とも言えるだろう。

1905年(明治38)10月に平民社が解散した後、堺利彦は由分社で再び『家庭雑誌』を再刊、翌1906年(明治39)2月に日本社会党を結党し、3月には電車賃値上げ反対運動を起こし、さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。前年11月にアメリカに渡った幸徳秋水が不在の中、新たに発行した『光』の編集も含めて多忙であろうと思われる最中、明治39年3月の『家庭雑誌』に堺利彦は「僕の夢」と題して、以下の文章を書いている。

 はるかに雪をいただいた富士が見えて、前には奇麗な水の石川が流れて、後ろには鬱蒼たる杉やひのきの森があって、土地は自然にゆるやかな勾配をなしておる山畑の一町ばかり。麦と菜の花とが青と黄の毛せんを敷きつめているその間に、洋風を交えたかやぶぎの家の回り一反ほど、赤や紫、草花の数々が一面に植えつらねられて、犬、鶏壮んどもそこここを歩いていて、牛も一匹かなだのかきの木の下に立っていて、今しも夕日の光がようやく薄れて、白い片われ月が中天に掛かっているというような光景の間に、屋外の長いすの上に横たわって、新鮮の大気を自由に呼吸しながら、気に入った文学の書物でも読んでみたい。こんなことが僕の夢だ。

では、堺利彦は「気に入った文学の書物」は読めなかったのかというと、前に『夏目漱石と堺利彦』というブログにも書いたように、1905年(明治38)10月下旬に、堺利彦は夏目漱石に『吾輩ハ猫デアル』の感想を送っている。『家庭雑誌』の1906年(明治39)7月号に「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と書いたりもしていて、この「ナツメ」が電車賃値上げ反対運動の最中に「夏目」と誤解されて風評を呼び、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事に心配してくれた友人に対して、1906年(明治39)8月に漱石は「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書くのである。

前に「『二百十日』と『野分』」というブログに書いたように、漱石は1906年(明治39)9月に『二百十日』を書き、12月に『野分』を書き、それは翌1907年(明治40)1月に「ホトトギス」に発表された。同じ頃に淀橋町柏木に引っ越し、日刊『平民新聞』の刊行を計画した堺利彦は、翌1907年(明治40)1月に日刊『平民新聞』を創刊し、その3月15日号に「予の夢」という以下の文章を書いている。

 仮に予が四〇、五〇、六〇の坂を無事に越して、七〇ばかりの老翁となったとしてみる。予は実に老人の趣味を愛する。頭はテカテカとはげて、白髪は尺に余りというような老人になってみたい。・・・若い時からの癖も無くな、て、名声の念もきわめて薄く、色欲もほとんど全く消え、生死の問題などめったに念頭に起こらず、ただ日光と空気と自然と人情とを喜び、飲食物には、くだものや、野菜や、牛乳や、玉子や飯もよし、パンもよし、茶もよし、コーヒーもよし、酒ビールの少量もまたあしからずというありさまで、悠々自適、日出でて起き、日入って眠り、かくて幾年がたつうちに体力自然に衰えて欲望いよいよ減退し、ある日のこと、新緑の影さす縁側か何かでスヤスヤと寝ているかと思えば、いつの間にやらはやゴクリと参っていたというようなことになりたいものだ。

堺利彦は漱石よりも年下だが、気分は『二百十日』と『野分』をい書く漱石よりも年老いている。社会主義的には、腹が据わっているとでも言った方がいいのかもしれない。そして、ここから1910年(明治43)の大逆事件までが明治社会主義のクライマックスなのであり、その間に朝日新聞社に入社した漱石は『虞美人草』を皮切りに、胃潰瘍をかかえながら『坑夫』、『三四郎』、『それから』、『門』と書く訳であり、1908(明治41)に赤旗事件で入獄した堺利彦は、明治43年に獄中で「『白楽の恋』という一文を書いてみる気になって、お陰で獄中における数日間の退屈を紛らした。・・・予の故郷(豊前国豊津)の風景など思いあわせて、あれやこれや取りまぜて描いてみた」として、以下のように書く。

 僕もモウ・・今年六一という老人だ。・・これからこそは勝手気ままに好きなまねをして残年を送らにゃならぬ・・・そこで感は生まれ故郷の花熊村に引っ込んで、そこに理想的の農園を開いて、蔬菜、果樹、草花等の栽培をやろうと思う。ことに少し大仕掛けの温室をこしらえてみようと思う。されば僕の学問と道楽とが一致して、隠居仕事に適切だろうじゃないか。・・・
 僕はかつてOOOOOOOの本を読んだことがある。・・・それであいつの説によると、今に遠からずOOOOが行なわれて、地方自治の自由社会が現出すると、階級も無くなり、貧富も無くなり、学問知識を独占するものも無くなり、朝から晩までノベツに労働するような者も無くなり、社会の各員がみんな一同に四、五時間ずつ必要な労働をして、それて充分に社会の衣食住を供給し、残る時間は皆が勝手に好き好きの学問、芸術、遊戯等に費やすことになるというのだ。・・・僕はこの説をみて実に感心した。突などはマア実際そんなような生活を送ってきたのだが、それでこそ初めて真の人聞だと僕は思うね。・・・

堺利彦が千葉は貝塚の獄中でこの一文を書いている頃に、巷ではまさに大逆事件が進行していた。そのことは別途書くとして、平民社以降の堺利彦の夢がいかなるものであったのか、私はこれらに見る訳である。

|

« 閑話休題「パンとペン」 | トップページ | 再び「柏木団の人びと」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 平民社と堺利彦の夢:

« 閑話休題「パンとペン」 | トップページ | 再び「柏木団の人びと」 »