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2010年11月13日 (土)

分派と堺利彦の正統派社会主義

日刊『平民新聞』は、1907年(明治40)1月1日に創刊されるも、わずか3カ月ばかりの4月14日には廃刊になった。2月4日に足尾銅山で大暴動が起り、2月5日発行の第16号に「彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依るの外はない」という幸徳秋水の「余が思想の変化」とい文章が載り、さらに幸徳秋水は2月17日の第2回社会党大会において、「田中正造翁は最も尊敬すべき人格である・・・然るに此田中正造翁が、廿年間議会に於て叫んだ結果は、何れ丈の反響があったか、諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつたではないか、然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやった、のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか、暴動は悪るい、然しながら議会計年の声よりも三日の運動に効力のあつたこと丈は認めなければならぬ」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と「眼は電光を放ち舌は火焔を吐くが如き雄弁」をなして、田添鉄二の「議会政策必要論」を圧倒した。これにより2月22日に日本社会党は「安寧秩序ニ害アリ」という理由で結社禁止となり、日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれたのであった。

田添鉄二は、日刊『平民新聞』2月15日の第25号に「議会政策論」と題して、「今日まで社会革命を志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、人為的に社会が破壊され構成されるという思想である。・・・予は深く信ず、日本に於ける社会主義の運動は、斯かる単調なる思想の支配の下には決して吾人が予期する如き効果を結ぶことが出来ないことを」「予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいと思ふ。一、平民階級の教育、階級的自覚の喚起。二、平民階級の経済的団結運動。三、平民階級の政治的団結運動。四、議会政策」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と書き、第2回社会党大会においては、「私は日本社会党運動の有力なる一政策として、議会政策は何時でも握って行かなければならぬと信ずるものであります」と、肺患の病体をおして演説した。

第2回社会党大会の直後の2月18日に、片山潜がアメリカから帰国した。片山潜については以前にも少し書いたが、1903年(明治36)末、週刊『平民新聞』が発刊された後に2度目の渡米をし、1904年(明治37)8月にアムステルダムで開かれた第2インターナショナル第6回大会において日露戦争で交戦中のロシアのプレハノフと壇上で堅い握手をし、その後アメリカに戻るとテキサスで農場経営をなし、農場拡大のため1906年(明治39)1月に帰国するも、同年7月に再々度渡米していたものの、農場経営に失敗して1907年(明治40)2月18日に帰国したのであった。

帰国した片山潜は、日刊『平民新聞』3月5日の第40号に「労働者諸君に告ぐ」と題して、「記憶せよ! 帝国憲法の下には我々臣民の権利(人権及財産権)は法律に依って始めて生ず、而して斯法律は人民の代表者が先づ議決して後、天皇の裁可を経て始で完成す、然らば我々の権利は少くとも我々帝国臣民の先議なくして生ぜずと謂つべし、故に我々労働者は宇内の大勢を通観して一致の行動に出で、先づ普通選挙権を得て堂々議会に於て其権利を主張すべし、是れ今日執るべき唯一の方針なりと信ず、請ふ、諸君の深思熟考を煩はさん」と書き、同3月10日の第45号には「労働問題の前途」と題して、「労働者の前途は先づ組合を組織して常に秩序ある行為に出づべきなり、是れ実に吾人が天下の労働者に向かつて熱心に勧告せんと欲する所なり」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と書いた。

同6月に片山潜は、西川光二郎と「社会主義中央機関」として週刊『社会新聞』を発行し、大阪で森近運平は月2回刊の『大阪平民新聞』~『日本平民新聞』を発行し、幸徳秋水と堺利彦はこれを支援した。議会主義派と直接行動主義派は、同7月に九段のユニテリアン教会で行われた社会主義夏期講習会をいっしょに開催するも、そこでもお互いの批判と溝は深まるばかりであった。

『日本平民新聞』1907年(明治40)11月5日に幸徳秋水、堺利彦が載せた「社会新聞と小生らとの関係」を読むと、片山潜らが『社会新聞』を出すにあたって、幸徳、堺にも相談があったようである。しかし「社会主義中央機関」を片山、西川の両君が経営して、旧平民新聞社員一同これを援助するというふうで、第1号の「創刊の辞」を読むと、小生らに当てつけたようなことが書いてあるという。同6月16日の社会新聞社の研究会に出席した堺利彦は、「欧州社会党の分派を説き・・・・・・かかる分派の発生はわが党運動の進歩を意味するもので、むしろ喜ぶべきことである。ただ中央機関紙たるものは、各分派の意見をなるべく自由にその紙上に発表せしめねばならぬ」と説いたとある。

そして、『社会新聞』1907年(明治40)11月17日に片山潜は、「自然の結果(幸徳、堺両君と予の立場)」に、以下のように書く。
「余は両兄等と一切の関係を絶つべし。而して地方の同志諸君に向つて、予等は万国社会党の宣言綱領に則りて活動する者なりと言はんとす。余は無政府主義の空想を排斥し、今日迄顕はれたる無政府主義の政策手段には絶対的反対を表す。国家の規律を非認し議会政策を非認する無政府主義者と提携するの余地なきを信ず。予は社会主義者なり。万国社会党員なり。社会の進化に伴ふて我党の政策に亦進化発達あるを認むるも他主義に変化する亜流にあらず。又無政府主義を社会主義なりと曲解して天下の青年に説くの勇気をも有せず。愚直なる予は専ら予の信ずる社会主義を労働者諸君に説かんと欲す。是れ万国社会党の取るべき方針なり。請ふ之を諒せよ」と。

片山潜は、「自ら自由社会主義と称し、硬派と称し、予等を軟派に擬し、国家社会党と誣ひ、資本労働調和論者なりと云ふ。捏造ざん誣も之に至れば寧ろ滑稽なり」と書く。長年アメリカで勉強し、帰国後は労働運動を為し、万国社会党でも名の通った片山潜からすれば、知識もプライドも高いところだが、ラッサールで社会主義に入門し、帝国憲法下の議会主義と、万国社会党につながると称する「社会主義中央機関」を掲げるのは、やはり国家主義的傾向と社会進化論的歴史観、協調主義と権威主義が感じられる。

『日本平民新聞』1907年(明治40)11月20日に、堺利彦は「無題雑録」と題して、以下のように書く。 
「社会新聞を見るに、社会主義同志会大会は我々は従来とり来たる万国社会党の主義綱領をもって進む者たることを宣言すという決議をなしたる由、それも至極結構なるべし。しかしそういうと何だか中央政府の訓令に従って行動するような気がする。・・・予の考えでは、大づかみにいう社会主義運動は、その右端は少しく国家主義的になり、その左端は少しく無政府主義的になると思う」と。

片山潜は、堺利彦も無政府主義であるかのように書いているが、幸徳秋水が「余は之が為に堺君とは数十回の激論を闘わせ」と書き、後に山川均が『ある凡人の記録』に「四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見えるエンガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」と書くように、堺利彦は無政府主義に理解をもっていても、幸徳秋水と同じではない。

ともすると、堺利彦は論争する両者の間をとるまとめ役に見えるが、堺利彦は分派を社会主義運動の「自然の分化」であると見るのである。そして「・・しかしながら予はこの3派が、相分かれて争いながら、なおかつ敬意と同情とを交換する、雅量と謙遜とが欲しいと思う」と書くのである。

堺利彦は、1906年(明治39)11月の『光』に「社会主義と無政府主義」と題して、以下のように書いている。
「予は最も公平に諸種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。・・・そこで予は思う、この社会主義と無政府主義との調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合をみるであろうと。・・・かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかにみえると思う。
 日本においては、最初片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。・・・ 日本のごときは、現在の万事がドイツ式なるに従って、革命運動もまたドイツ式となるべき形勢もみえる。・・・しかしながらイギリスと同盟しているところ、米国と接近しているところ、英語の広く行なわるるところなどより考うれば、イギリス式あるいはアメリカ式にならぬともいわれぬ。それにまた一つ、シナという大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた大いにその影響を受けぬとも限らぬ」と。

日本の社会主義運動は、その成立期からして分派闘争の歴史であった。大方は硬派と軟派、左派と右派に分かれる訳で、片山潜は社会主義を掲げて、労働組合期成会においては労働組合主義の高野房太郎や横山源之助と分かれ、幸徳秋水との関係では直接行動主義と議会主義で分かれ、さらに『社会新聞』においても西川光二郎らの在京派と分かれた。そして、やがてロシア革命が起ると、コミンテルン系が跋扈して土着派や友愛会派と諍い、その構造は戦後においても延々とつづいて、日本の社会主義運動の負の遺産となっている。

しかしながら堺利彦の周辺では、平民社で石川三四郎が去り、日刊『平民新聞』を共にした大杉栄と山川均はアナ・ボルで分かれはしたが、その周辺にあった安部磯雄や賀川豊彦も含めて、内ゲバのような喧嘩があることはなかった。硬派と軟派に対して、堺利彦は正統派社会主義を以て任じた訳だが、これは堺利彦の生涯にわたる矜持であった。

1914年(大正3)9月に書いた「大杉栄と僕」という文章に、堺利彦は「すべての主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宣上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」と書いた。そして、宇野弘蔵は『『資本論』五十年』の対談の時に、この表を持ってきたという。堺利彦の正統派社会主義とは何かを思った時に、それを思い出した訳である。

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コメント

お疲れ様、ご苦労様でした。
 堺と宇野の関係が繋がりましたね。宇野先生も、『資本論』50年の研究に、何かやはり堺の整理し書いた表、つまり「社会主義の系統図」があって、それを意識しながら研究したのでしょうね。だから、座談会の冒頭に堺の系統図を、わざわざ持参して来た、そんな気がしますよ。
 それと、1903年ごろの時点で、「平民文庫」でマルクス・エンゲルス『共産党宣言』はじめ、モリスやベラミーの物がまとめて紹介された、それも唯一括して翻訳紹介されたのではなく、念頭には明らかに「系統図」があった。堺は、一方に「国家社会主義」、他方に「無政府主義」、これら左右の中間にマルクスーモリスの<正統的>社会主義があり、これがユートピア・共同体社会主義であって、片山潜や幸徳秋水に対抗する。
 この明治社会主義に対し、ロシア革命でマルクス・エンゲルスーレーニンの国家社会主義が1920年代から正統の地位に就き、正統と異端の逆転です。しかし、20世紀末、ソ連崩壊で国家社会主義の正統性は喪失した。国家社会主義の「亜種」に過ぎない西欧社会民主主義も凋落です。
 それにしても20世紀初頭、ロシア革命以前に、堺が「系統図」を書いたこと、そしてモリス『理想郷』を紹介して、自分の社会主義の基礎に据えたこと、驚くべきことです。その驚きを実感させてくれた貴兄の今回の努力に乾杯です。感謝します。
 

投稿: 大内 秀明 | 2010年11月13日 (土) 20時07分

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