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2010年11月13日 (土)

分派と堺利彦の正統派社会主義

日刊『平民新聞』は、1907年(明治40)1月1日に創刊されるも、わずか3カ月ばかりの4月14日には廃刊になった。2月4日に足尾銅山で大暴動が起り、2月5日発行の第16号に「彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依るの外はない」という幸徳秋水の「余が思想の変化」とい文章が載り、さらに幸徳秋水は2月17日の第2回社会党大会において、「田中正造翁は最も尊敬すべき人格である・・・然るに此田中正造翁が、廿年間議会に於て叫んだ結果は、何れ丈の反響があったか、諸君あの古河の足尾銅山に指一本さすことが出来なかつたではないか、然して足尾の労働者は三日間にあれ丈のことをやった、のみならず一般の権力階級を戦慄せしめたではないか、暴動は悪るい、然しながら議会計年の声よりも三日の運動に効力のあつたこと丈は認めなければならぬ」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と「眼は電光を放ち舌は火焔を吐くが如き雄弁」をなして、田添鉄二の「議会政策必要論」を圧倒した。これにより2月22日に日本社会党は「安寧秩序ニ害アリ」という理由で結社禁止となり、日刊『平民新聞』も廃刊に追い込まれたのであった。

田添鉄二は、日刊『平民新聞』2月15日の第25号に「議会政策論」と題して、「今日まで社会革命を志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、人為的に社会が破壊され構成されるという思想である。・・・予は深く信ず、日本に於ける社会主義の運動は、斯かる単調なる思想の支配の下には決して吾人が予期する如き効果を結ぶことが出来ないことを」「予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいと思ふ。一、平民階級の教育、階級的自覚の喚起。二、平民階級の経済的団結運動。三、平民階級の政治的団結運動。四、議会政策」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と書き、第2回社会党大会においては、「私は日本社会党運動の有力なる一政策として、議会政策は何時でも握って行かなければならぬと信ずるものであります」と、肺患の病体をおして演説した。

第2回社会党大会の直後の2月18日に、片山潜がアメリカから帰国した。片山潜については以前にも少し書いたが、1903年(明治36)末、週刊『平民新聞』が発刊された後に2度目の渡米をし、1904年(明治37)8月にアムステルダムで開かれた第2インターナショナル第6回大会において日露戦争で交戦中のロシアのプレハノフと壇上で堅い握手をし、その後アメリカに戻るとテキサスで農場経営をなし、農場拡大のため1906年(明治39)1月に帰国するも、同年7月に再々度渡米していたものの、農場経営に失敗して1907年(明治40)2月18日に帰国したのであった。

帰国した片山潜は、日刊『平民新聞』3月5日の第40号に「労働者諸君に告ぐ」と題して、「記憶せよ! 帝国憲法の下には我々臣民の権利(人権及財産権)は法律に依って始めて生ず、而して斯法律は人民の代表者が先づ議決して後、天皇の裁可を経て始で完成す、然らば我々の権利は少くとも我々帝国臣民の先議なくして生ぜずと謂つべし、故に我々労働者は宇内の大勢を通観して一致の行動に出で、先づ普通選挙権を得て堂々議会に於て其権利を主張すべし、是れ今日執るべき唯一の方針なりと信ず、請ふ、諸君の深思熟考を煩はさん」と書き、同3月10日の第45号には「労働問題の前途」と題して、「労働者の前途は先づ組合を組織して常に秩序ある行為に出づべきなり、是れ実に吾人が天下の労働者に向かつて熱心に勧告せんと欲する所なり」(岩波文庫『平民新聞論説集』から)と書いた。

同6月に片山潜は、西川光二郎と「社会主義中央機関」として週刊『社会新聞』を発行し、大阪で森近運平は月2回刊の『大阪平民新聞』~『日本平民新聞』を発行し、幸徳秋水と堺利彦はこれを支援した。議会主義派と直接行動主義派は、同7月に九段のユニテリアン教会で行われた社会主義夏期講習会をいっしょに開催するも、そこでもお互いの批判と溝は深まるばかりであった。

『日本平民新聞』1907年(明治40)11月5日に幸徳秋水、堺利彦が載せた「社会新聞と小生らとの関係」を読むと、片山潜らが『社会新聞』を出すにあたって、幸徳、堺にも相談があったようである。しかし「社会主義中央機関」を片山、西川の両君が経営して、旧平民新聞社員一同これを援助するというふうで、第1号の「創刊の辞」を読むと、小生らに当てつけたようなことが書いてあるという。同6月16日の社会新聞社の研究会に出席した堺利彦は、「欧州社会党の分派を説き・・・・・・かかる分派の発生はわが党運動の進歩を意味するもので、むしろ喜ぶべきことである。ただ中央機関紙たるものは、各分派の意見をなるべく自由にその紙上に発表せしめねばならぬ」と説いたとある。

そして、『社会新聞』1907年(明治40)11月17日に片山潜は、「自然の結果(幸徳、堺両君と予の立場)」に、以下のように書く。
「余は両兄等と一切の関係を絶つべし。而して地方の同志諸君に向つて、予等は万国社会党の宣言綱領に則りて活動する者なりと言はんとす。余は無政府主義の空想を排斥し、今日迄顕はれたる無政府主義の政策手段には絶対的反対を表す。国家の規律を非認し議会政策を非認する無政府主義者と提携するの余地なきを信ず。予は社会主義者なり。万国社会党員なり。社会の進化に伴ふて我党の政策に亦進化発達あるを認むるも他主義に変化する亜流にあらず。又無政府主義を社会主義なりと曲解して天下の青年に説くの勇気をも有せず。愚直なる予は専ら予の信ずる社会主義を労働者諸君に説かんと欲す。是れ万国社会党の取るべき方針なり。請ふ之を諒せよ」と。

片山潜は、「自ら自由社会主義と称し、硬派と称し、予等を軟派に擬し、国家社会党と誣ひ、資本労働調和論者なりと云ふ。捏造ざん誣も之に至れば寧ろ滑稽なり」と書く。長年アメリカで勉強し、帰国後は労働運動を為し、万国社会党でも名の通った片山潜からすれば、知識もプライドも高いところだが、ラッサールで社会主義に入門し、帝国憲法下の議会主義と、万国社会党につながると称する「社会主義中央機関」を掲げるのは、やはり国家主義的傾向と社会進化論的歴史観、協調主義と権威主義が感じられる。

『日本平民新聞』1907年(明治40)11月20日に、堺利彦は「無題雑録」と題して、以下のように書く。 
「社会新聞を見るに、社会主義同志会大会は我々は従来とり来たる万国社会党の主義綱領をもって進む者たることを宣言すという決議をなしたる由、それも至極結構なるべし。しかしそういうと何だか中央政府の訓令に従って行動するような気がする。・・・予の考えでは、大づかみにいう社会主義運動は、その右端は少しく国家主義的になり、その左端は少しく無政府主義的になると思う」と。

片山潜は、堺利彦も無政府主義であるかのように書いているが、幸徳秋水が「余は之が為に堺君とは数十回の激論を闘わせ」と書き、後に山川均が『ある凡人の記録』に「四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見えるエンガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた」と書くように、堺利彦は無政府主義に理解をもっていても、幸徳秋水と同じではない。

ともすると、堺利彦は論争する両者の間をとるまとめ役に見えるが、堺利彦は分派を社会主義運動の「自然の分化」であると見るのである。そして「・・しかしながら予はこの3派が、相分かれて争いながら、なおかつ敬意と同情とを交換する、雅量と謙遜とが欲しいと思う」と書くのである。

堺利彦は、1906年(明治39)11月の『光』に「社会主義と無政府主義」と題して、以下のように書いている。
「予は最も公平に諸種の思想を比較して、国家社会主義、社会主義、無政府主義、個人主義と、この四者の間に自然の連続があると思う。・・・そこで予は思う、この社会主義と無政府主義との調和によって革命がなしとげられ、革命後の新社会においては、さらに進んで社会主義と個人主義との融合をみるであろうと。・・・かのベラミーの『百年後の新社会』とモリスの『理想郷』とを比較すれば、いわゆる社会主義の理想といわゆる無政府主義の理想とが明らかにみえると思う。
 日本においては、最初片山、安部等の諸先輩によって唱導せられたる社会主義は、主としてドイツ式のものであった。・・・ 日本のごときは、現在の万事がドイツ式なるに従って、革命運動もまたドイツ式となるべき形勢もみえる。・・・しかしながらイギリスと同盟しているところ、米国と接近しているところ、英語の広く行なわるるところなどより考うれば、イギリス式あるいはアメリカ式にならぬともいわれぬ。それにまた一つ、シナという大怪物が隣国に横たわっているので、これがもしロシア式にゆくとなれば、日本もまた大いにその影響を受けぬとも限らぬ」と。

日本の社会主義運動は、その成立期からして分派闘争の歴史であった。大方は硬派と軟派、左派と右派に分かれる訳で、片山潜は社会主義を掲げて、労働組合期成会においては労働組合主義の高野房太郎や横山源之助と分かれ、幸徳秋水との関係では直接行動主義と議会主義で分かれ、さらに『社会新聞』においても西川光二郎らの在京派と分かれた。そして、やがてロシア革命が起ると、コミンテルン系が跋扈して土着派や友愛会派と諍い、その構造は戦後においても延々とつづいて、日本の社会主義運動の負の遺産となっている。

しかしながら堺利彦の周辺では、平民社で石川三四郎が去り、日刊『平民新聞』を共にした大杉栄と山川均はアナ・ボルで分かれはしたが、その周辺にあった安部磯雄や賀川豊彦も含めて、内ゲバのような喧嘩があることはなかった。硬派と軟派に対して、堺利彦は正統派社会主義を以て任じた訳だが、これは堺利彦の生涯にわたる矜持であった。

1914年(大正3)9月に書いた「大杉栄と僕」という文章に、堺利彦は「すべての主義態度の範囲はそう明瞭に区分することのできるものではない。実際運動に当たっては、種々の便宣上、どこかに一線を画して、党派団体の区分をつけるけれど、理論上から見る時には、あらゆる思想はみな濃淡のボカシをもって連続しているのである。この関係をやや明瞭に示すため、左に一つの表を作ってみる」と書いた。そして、宇野弘蔵は『『資本論』五十年』の対談の時に、この表を持ってきたという。堺利彦の正統派社会主義とは何かを思った時に、それを思い出した訳である。

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2010年11月 7日 (日)

再び「柏木団の人びと」

堺利彦は、1904年(明治37)11月の週刊『平民新聞』創刊1周年記念号に、幸徳秋水殿』共訳で『共産党宣言』を載せたが、直ちに発効禁止となり、翌1905年(明治38)1月29日の第64号をもって廃刊を宣言。その後、加藤時次郎が経営する消費組合「直行団」の機関紙『直言』をもってこれに代えるも、同年9月には週刊『直言』も発行停止となり終刊、10月9日に平民社も解散となった。

平民社の解散の理由として堺利彦は、後の『日本社会主義運動小史』に「平民社の亡びた理由としては、政府の弾圧と財政の窮乏と外、内部の不折合いもあった」と書いている。1905年(明治38)6月4日の「平民日記」には、以下のように書いており、弾圧による財政の窮乏が分かる。
「平民社にはいろいろ営業以外の出費があります。その同志のクラブたる性質において、その運動の中心たる点において、ことに近来は裁判事件、入獄事件、迫害事件等について、いちいち説明のできぬ支出もあります。・・・先月来毎度記したとおり、国光社に対する賠償金の月賦(毎月五〇円、共産党宣言事件の罰金呆確定ながら)などが、このごろ引き続いて押し寄せますので、社中一同大いに痛心している次第であります」と。国光社に対する賠償とは、没収された印刷機に対するものである。

平民社の解散の理由に言う「内部の不折合い」とは、本質的には前述したように「平民社なるものの半私有、半公有の性質にあった」ものと思うが、派生的には、幸徳秋水と菅野すが、堺利彦と延岡為子という平民社内の男女関係に、キリスト教社会主義者の石川三四郎らが反発したこともそのひとつであったとも恩われる。石川三四郎は、木下尚江、安部磯雄とキリスト教社会主義の月刊『新紀元』を発行することになる。一方、西川光二郎と山口孤剣は『直言』の継続となる半月間『光』を発行し、幸徳秋水と堺利彦はこれを助け、そこに寄稿しつづける。

いずれにせよ、堺利彦は同6月25日の平民日記に「わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ」と書き、各人の「屯田策」を促す訳だが、自らはどうしのごうとしたかについては、同8月8日の平民日記「平民社の改革について」にこう書いている。
「それに、小生は別に一身上の事情もありまして、家庭雑誌を発行している由分社の経営を助けることになりましたので、数日前より麹町区元園町一丁目二七番地に移り住み、ここに由分社を置き、家庭雑誌の外に少しずつ出版を試むることになりました。小生は今後これをもって一身の衣食を支えるつもりであります。しかして延岡為子氏もまたこの事業を助けることになりました」と。

堺利彦は、かつて万朝報勤めの頃、長男と妻の治療費を稼ぐために始めた内職の『家庭雑誌』と出版活動を再開する訳である。しかし、今回も単に生活のためかというと、そうではない。堺利彦は同7月9日の平民日記に「小生は今後、号というものを用いぬつもりです。すなわち、枯川という名を廃します。その理由は、といって別に深い理由もありませぬが・・」と書く訳だが、思うところがあったものと思われる。11月に幸徳秋水は保養のために渡米し、その年末に堺利彦は為子の金沢にある生家に滞在し、新しい展開に向けて充電している。

年が明け1906年(明治39)2月、堺利彦は深尾韶と共に日本社会党を結党する。3月には電車賃値上げ反対運動を起こし、さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。宣伝目的なら発行不可であった社会主義も、研究目的なら黙認された訳である。しかし『社会主義研究』はあまり売れずに5号で終刊、同年9月頃から日刊『平民新聞』の発行計画がもち上がり、同10月に堺利彦、幸徳秋水、石川三四郎、西川光二郎、竹内兼七を創立人として平民社を起して日刊『平民新聞』の準備をすすめ、翌1907年(明治40)1月15日に日刊『平民新聞』は創刊された。

2008年5月15日のブログにも書いたように、堺利彦から日本社会党に誘われた時に、石川三四郎は『堺兄に与へて政党を論ず』を書いて、「予は・・政党を以て、社会改革の手段として、左程重要なるものと考ふること能はざる者なり」、「然り供の日本社会党を愛すること甚だ深し。然れども我が社会主義を想ふは社会党を想ふよりも更に大に深厚なり・・・故に遂に大兄が厚情親切にも背きて社会党に入ることを思ひ止まりし也」と書き、それに対して堺利彦は、「石川三四郎君に告ぐ」に「僕は君が常にひとり、しかりただひとり、新紀元城の矢面に立つをみて、これを射るに忍びざる者である。僕はただ君の誠実と真摯とに感じ、君が他日必ず来たって僕らの群に投ずべきを信じ、静かにその時を待つの外ないのである」と書いた。

やがて日刊『平民新聞』が計画され、石川三四郎はその創立人となる訳だが、京橋区新富町に構えた平民社の事務所には、もうひとりの新顔が参加する。幸徳秋水の勧めで参加した山川均である。山川均については、ちょうど1年前のブログ「山川均と宇野弘蔵」、「山川均のしのぎ」(2009年11月 8日)、「原風景としての柏木団の人々」(2009年11月14日 )にも書いた。

と言うよりも、「脱労働力商品論」をどうすすめるかということで宇野弘蔵の『恐慌論』を読み、そこから宇野理論のルーツを遡りだして山川均について書き出し、さらに堺利彦について書こうと思っていたものが、さらに堺利彦を遡ってとなり、そこから堺利彦に戻って来たのが現在なのである。怠け者のやること故、なんとも時間のかかる話である。

1年前のブログが「原風景としての柏木団の人々」(2009年11月14日 )で途切れてしまったのは、今思えばよく分かる。私は「柏木団」という、平民社を少し拡大したような日本の土着社会主義者たちのコミュニティ、原風景のルーツを知りたくなった訳であったのだった。以下、ついでに山川均の『ある凡人の記録』から、「柏木団の人々」の一部を再掲しておく。時代背景は、少し話が飛んで、日刊『平民新聞』が廃刊になった後の頃である。

新聞の廃刊による打撃は私自身にとっても大きかった。私は、たちまちその日から無収入になった。・・・まもなく、日暮里は使利がわるい・・不潔で不衛生な地帯だったので、守田一家と共に、同志の多く住まっている淀橋の柏木に引越すことになった。当時、幸徳さんは大久保の百人町に、堺さんはすぐ近くの柏木にいたし、平民新聞の同僚だった森近運平、深尾詔なども柏木に集まっていた。・・・五月末に入獄した大杉栄は十一月には出獄し、十月に大阪日報に入社した荒畑寒村も翌年(四十一年)の春には帰ってきて、大逆事件の管野幽月と柏木の住入になっていたように思う。・・・そのほか赤旗事件の宇都宮率爾、百瀬晋、大逆事件の坂本清馬、後年の「新しい女」という言語のできる以前の新しい女の神川松子など、若い人たちもこの近くに住まっていた。ここに住居をもたない人たちも、暇さえあれば、柏木という地域をクラブのようにして集まっていた。それで柏木は社会主義者-とくに革命派にぞくする社会主義者の巣クツとなり、警察では「柏木団」などと呼んでいた。そのころのこのあたりは・・新築の住宅が建っていたころで、手ごろの新築の貸家がいくらもあり、そこは手車一台でてがるに引越せる身分だけに、よく引越しをした。とくに大杉などは引越し趣味で、毎月のように引越していた。
 幸徳さんは、いまの国電大久保駅と新大久保駅との中間で、やや大久保よりのところを戸山ケ原の方にはいると、すぐ左側にいた・・・。
青年の多くは、幸徳さんはそういう人として、自分たちより一段上の方においていたせいか、幸徳さんにたいしてはあまり不平や不満の声を聞かなかったが、堺さんの方はむしろ同輩のように考え、堺のオヤジがどうしたのこうしたのと、よく不平をならべていた。・・・四十年の秋ころまでは、あの百人町の幸徳さんの家の、空地をへだてて大きなムクかケヤキの大木の見える`ソガワで、幸徳、堺の二人が議論するのをよく聞いた。

ここにもうひとり新顔が登場する。大杉栄である。大杉栄は、平民社のメンバーというよりは謂わばボランティアであったが、1906年(明治39)2月の日本社会党には参加し、電車賃値上反対運動であばれて入獄し、出獄すると堀保子と結婚した。堀保子は、堺利彦の最初の妻の美知子の妹である。結婚のはなむけにか、堺利彦は同10月に『家庭雑誌』を大杉夫妻に譲渡している。書くことが生業なのに、書いたものを載せられるメディアがない時代には、自らそれを持つことが生活の手段だったのであり、大逆事件後の冬の時代を、大杉栄も『近代思想』を創刊し、そうやってしのぐのであった。

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2010年11月 4日 (木)

平民社と堺利彦の夢

全6巻の全集の内、3巻までは大逆事件の前に書かれた文章が中心である。1899年(明治32)7月に万朝報に入社した堺利彦は、当初は文芸欄を担当したり、1900年(明治33)には北清事変に従軍したり、1901年(明治34)には万朝報社長の黒岩涙香と内村鑑三が立ち上げた「理想団」に参加し、幸徳秋水との親交を深めて4年間をそこで送る傍ら、前述したように生活に追われながら売文とBookmaking をすすめ、家庭を基礎にした理想的な社会づくりを提案している。そして、1903年(明治36)に万朝報社長の黒岩涙香が日露開戦を唱えるようになると、開戦に反対して内村鑑三、幸徳秋水とともに万朝報を去り、幸徳秋水と平民社を設立して週刊『平民新聞』を発行する。

全集の第3巻は、週刊『平民新聞』と、それが廃刊になった後にそれを継いだ週刊『直言』、『光』以下、大逆事件にいたるまでの間に発行された機関誌類に書いたものが中心である。これらは、後の社会主義史による時代区分では、初期社会主義、明治社会主義とされるものであるが、だからと言って、その思想が後の社会主義より劣るもの、稚拙なものであるわけではない。例えば、週刊『平民新聞』の発刊の「宣言」には、以下のようにある。

宣言
一、自由、平等、憾愛は人生世に在る所以の三大要義也。
一、吾人は人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。
一、吾人は人類をして平等の福利を享けしめんが為めに社会主義を主張す、故に社会をして生産、分配、交通の機関を共有せしめ、其の経営処理一に社会全体の為めにせんことを要す。
一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱導す、故に人種の区別、政体の異同を問はず、世界を挙げて章節を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。
一、吾人既に多数人類の完全なる自由,平等、博愛を以て理想とす、故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す。
平氏社同人

また、週刊『平民新聞』の「発刊の序」には、以下のように書く。

 平民新聞は、人類同胞をして、他年一日平民主義、社会主義、平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関に供せんがために創刊す。
 ・・・しこうして予らはさらに正直に告白するを要する一事あり。何ぞや、他なし、予らが平民新聞によって衣食せんことを欲するこれなり、予ら今や別に衣食を得んがために、その精力の一半を費やさざるべからざるの境遇にあり。もし予らにして将来幸いに平民新聞の収益に衣食しつつ、全力をこの事業に尽くすを得は予らの満足これに過ぐるものあらざるなり。予らはわが同志がこれをもってはなはだ予らを罪せざるべきを言ず。しかして天もしわが同志の主義に祐いせば、予らは平民新聞の収益がひとり予らを養うに足るのみならず、さらに多数の同志を養うに足るに至らんことを信ず。これを序となす。

週刊『平民新聞』の発刊の「宣言」と「発刊の序」は、幸徳秋水と堺利彦の共作であるが、内容と文体からすれば、「宣言」は幸徳秋水、「発刊の序」は堺利彦が主に書いたものであろうと思われる。中江兆民を師と仰いだ幸徳秋水は、自由民権運動の純粋な末裔であり、豊前小倉の十五石四人扶持の下級武士の出である堺利彦は、「予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であ」ると書き、同じく豊前中津の十三石二人扶持の下級武士であった福沢諭吉にも共感している。

「宣言」は、自由民権運動という明治デモクラシーの運動を引き継いで生まれたものであり、例えそれが制限されたものであったにせよ、それを実現するに当たっては「国法の許す範囲に於て多数人類の輿論を喚起し、多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を否認す」としている。

「発刊の序」は、「門閥の高下、財産の多寡、男女の差別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す」ためには、宮仕えすることや、紳士閥に雇用されることなど最初から考えずに、自ら事業を起して、それを拡充して、「多数の同志を養うに足るに至らん」と構想している訳であり、これは後の売文社の企画にも通じている。

堺利彦が社会主義を勉強し始めるのは1901年(明治34)頃からで、1904年(明治37)11月の『平民新聞』創刊1周年記念号にマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』を訳出する訳だが、それまではイーリーやラサールの本から社会主義を学び、それに1903年(明治36)に『家庭雑誌』にエドワード・ベラミーの『百年後の世界』を、『万朝報』にエミール・ゾラの『労働』を『労働問題』として、1904年(明治37)にはウィリアム・モリスの『ユートピア便り』を『理想郷』として抄訳して載せている。

これらは所謂ユートピア小説と言われるもので、『共産党宣言』を訳した堺利彦もそのことは知っていても、堺利彦はこれらへの自らの共感もあって、それらを平民社から刊行している。社会主義のイメージを易しく伝えるために訳も謂わば翻案の抄訳であり、例えばゾラの『労働問題』は、以下のとおりである。

隆吉はその中からフーリエーの一冊を抜き取った。その表題のソリダリテ(友愛園)という文字に目を引かれたのである。隆吉は寝床に入ってこれを読みはしめた。読めば読むほど心を引かれることばかりである。フーリエーは・・・急激なる革命を不可として、最初数千人の小都会にその理想を行なうという説である。それで彼は大いなる人間隊の単位としてファランクスという小団体を作り、ファランステリーという共同家屋を作り、有志の人々を集めてここに資本、労力、才能の連合を作るというのである。
 隆吉は本を閉じてまたしばらく考えに沈んだ。・・一八世紀末の革命は中等社会に権力を与えたのみであるので、さらにその進化を完全にして一般人民をその恩沢に浴せしめるために、また一世紀の年月を要したのである。それで一九世紀の終り、二〇世紀の初めなる今の時は、まさに新社会に入らんとするの戸口で、その新社会の礎はすなわち労働組織の改革にあるのである。隆吉はこれらの思想を抱いてようやくその眠りに入った。・・・
 三年の月日は過ぎた。隆吉は松山邸より阿鼻工場のかたわらに至る方二〇町の土地を占めて、その間に新工場を起こし労働村を作った。
 工場は溶鉄炉の真下に断崖を負うて建てられて、昇降器によって山の上との連絡をなしている。・・・工場の方には少しでも産物の多く、少しでも骨折りを減ずるように、ありとあらゆる新工夫を用いている。労働者の家はみな園の間にあって、そこに楽しき家庭を栄えしむべく作られてある。それらの家はすでに五〇軒を越えて、松山邸のほとりより大呉町の方に向かって進みつつ、はや一つの小都会を成している。次にはこの敷地の中央に大なる共同家屋が建てられて学校、図書館、集会所、ふろ場などがその中にできている。それからついには生産組合、消費組合が起こされて、パン店もあれば、肉店もある、やお屋店、呉服店、荒物店、大概な日用品の店はみな組合でできている。・・・。

この情景は、ロバート・オウエンのニュー・ラナークに似ている。イギリスより遅れて第二帝政期に資本主義の興隆したフランスにおいて、フーリエはオウエン流の共同村構想をファランステールと称して構築し、ゾラはそれをモチーフに『労働』を描き、堺利彦はそれをまた翻案する訳である。人名や地名の固有名詞が当て字になっているのは、読む人に馴染み易いようにとのことだと思われる。堺利彦の娘の名は「真柄」というが、これは堺利彦お気に入りのマーバレットという名の翻案であるという。

しかし堺利彦は、ここに描かれた彼の思う社会主義的世界を単にユートピアとするのでなく、身近にも求めた。早稲田の学生だった頃から平民社に出入りするようになって堺を知って、大きな影響を受け、後に売文社の社員になった白柳秀湖は1936年に刊行した『歴史と人間』で当時を回想して、「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ」(黒岩比佐子『ペンとパン』p117からの孫引き)と書いているが、堺利彦の明治38年4月23日「の平民日記」には、以下のようにある。

・・・しかるに去年夏、妻を失い、女児を人に託し、家をたたみて瓢零の身となりし予は、また自然にこの平民社の家庭に投じて、その宗族の一員となった。・・・ 電車の響き、ドブのにおい、家の狭さ、庭の狭さ、設備の不足、器具の不完全、数え立てればいろいろの不快も無いではないが、とにかく我らはここに多大の慰謝を得ているのである。
 さらに少しく深く考うれば、恨みの人、うれいの人、悶々の人、欝々の人、これらの人が相寄って、きず者同志、かたわ同志、せめてわずかに相慰めるがごときこの家庭であるが、それでも浮世の束縛と習慣の圧抑から逃れておるところに、また一種の自由と満足とを感ずるのである。
 この不自然なる今の平民社の家庭が、他日さらに数段の発展を成し遂げて、たとえばながめよき山畑の、花園の中のテントの下に、露清きキャベツの葉に盛られたる、紅の玉の草いちごを、同志、友人、夫婦、情人、老人、小児、みな相寄って食いながらわが聖職の伝道の、昨日を語り明日を計るというごとき、いささか理想の片影を宿したる小社会を見ることは、とうていできぬであろうか諸君。

堺利彦にとって平民社は、平民主義、社会主義の宣伝機関であった以上に、労働と生活の場であり、「理想の片影を宿したる小社会」だった訳である。同時に堺利彦は、そういった共同体的な空間をルポして、明治37年12月の『平民新聞』に「新仏教の諸兄」として、以下のルポ記事を載せている。

 世には宗教家の団体、文芸美術家の団体、政治家ないしは学者の団体が数しれずある。しかしそのうちによそ目にうらやましいほどのものがいくつあるか。予は昔の自由党の同志をうらやましく思うたことがある。近ごろでは『ホトトギス』の同人をうらやましく思うたことがある。しかして今ではただ、『精神界』の諸同人と『新仏教』の諸同人とをうらやましく思うている。・・・その気品の高きところ、その飄逸なるところ、その悠々たるところ、その淡々たるところ、他にその比類を見ることができぬと思う。・・・帰ってこれを平民社の諸同人に告げたれば、甲いわく
「あの手合いは竹林の七賢人だからなア」・・・

また、明治38年6月25日の『直言』には「無我苑訪問の記」として、以下のルポ記事を載せている。

 巣鴨という所にはいろいろなものがある。まず監獄がある、精神病院かある、家庭学校がある、真宗大学かある、明治女学校がある・・度また「無我苑(むがえん)」というのができた。去る一六日・・雨のしょぼふる中を旭山兄と二人連れて、この無我苑の訪問に出かけた。雨のしたたる青葉の中に、畑を過ぎ、小橋を渡り、森を抜け、行き行きて大円堂の森に達した。・・
 無我苑とはこの大日堂およびその周囲の林に名づけたもので、伊藤証信氏外数名がこれに住んでいる。伊藤氏らは真宗に僧籍を有する仏教青年の一団で「無我の愛」をもって理想となし、自ら「無我苑同胞」と称している。
 この大日堂は村の共有物で・・村の人が少しばかりそれを修繕して、彼ら同胞にはここに無賃の住所を得て、枯淡清寂の自炊生活をやっているのである。・・・
 しからばその「無我の愛」とは何ぞと言うに、それは絶対他力の信仰から来た一種の悟りで・・・その自我を滅却するところ、あだかも吾人が個人主義を排斥するに似、その絶対他力に信頼するところ、またあたかも吾人が相互扶助に依憑するに似ている。・・・吾人はこれに向かって十分の尊敬と同情とを寄せるものである。

堺利彦の思い描く社会主義の世界は、後の社会主義者たちが強引に押し進めようとした国有化といったものではない。また西洋からの輸入品でもなく、「竹林の七賢人」的でもあり、貧乏な仏教青年の「枯淡清寂の自炊生活」といった世界である。そして、「この不自然なる今の平民社の家庭が・・・いささか理想の片影を宿したる小社会を見ることは、とうていできぬであろうか諸君」と書くが如くに、社会主義の始まりはささやかな「寄り合い=小社会としてのコミュニティ」であり、明治38年6月25日の「平民日記」には、それをさらに以下のようにも描いている。

・・原口夫婦および山口君の経営せる平民會ミルクホールは、このごろ氷店を兼業することになりました。わが党は屯田兵の覚悟をもって、いたるところに活路を開かねばなりませぬ。
 熊谷千代三郎君は本社の事務のかたわら、少しずつ出版事業をやることにして、今度手始めに『知識と趣味』という小冊子を出しました。これ右屯田策の一つと見るべきでしょう。発行所は本郷区根津吉永町平民書房、詳しくは広告をご覧あれ。
 深尾韶、原子基の二氏は北海道胆振(いぶり)国虻田(あぶた)郡真狩(まっかり)村字留寿都(るすと)八の原ノボリエンコロマップという所におちつきました。彼らの屯田事業については、いずれ詳しく報ずる時機があろうと思う。

「寄り合い=小社会としてのコミュニティ」とは、平民社に集う人々の生き方であり、多様な生業であり、堺利彦的にはそれぞれの「屯田策」とそのネットワークとして構想されている訳である。「屯田策」とは、今で言えば、自立した生き方働き方とでも言うのだろうか。

1905年(明治38)9月に週刊『平民新聞』を引き継いだ週刊『直言』が廃刊になり、10月には平民社も解散となった。堺利彦は、明治39年1月の『光』に書いた「平民社解散の原因」に、「その遠因は平民社なるものの半私有、半公有の性質にあったと思います」と書いている。「政府の弾圧と財政の窮乏」もそうだろうが、平民社解散の遠因が所謂「組合」的なもの、「共同体」的なものの「半私有、半公有の性質にある」という指摘は、ロバート・オウエンのニュー・ハーモニー共同体の崩壊にも通ずるものであり、コミュニティ存続の本質的な指摘とも言えるだろう。

1905年(明治38)10月に平民社が解散した後、堺利彦は由分社で再び『家庭雑誌』を再刊、翌1906年(明治39)2月に日本社会党を結党し、3月には電車賃値上げ反対運動を起こし、さらに由分社から月間『社会主義研究』を創刊して、そこに『共産党宣言』の全訳やエンゲルスの『空想から科学へ』を載せる。前年11月にアメリカに渡った幸徳秋水が不在の中、新たに発行した『光』の編集も含めて多忙であろうと思われる最中、明治39年3月の『家庭雑誌』に堺利彦は「僕の夢」と題して、以下の文章を書いている。

 はるかに雪をいただいた富士が見えて、前には奇麗な水の石川が流れて、後ろには鬱蒼たる杉やひのきの森があって、土地は自然にゆるやかな勾配をなしておる山畑の一町ばかり。麦と菜の花とが青と黄の毛せんを敷きつめているその間に、洋風を交えたかやぶぎの家の回り一反ほど、赤や紫、草花の数々が一面に植えつらねられて、犬、鶏壮んどもそこここを歩いていて、牛も一匹かなだのかきの木の下に立っていて、今しも夕日の光がようやく薄れて、白い片われ月が中天に掛かっているというような光景の間に、屋外の長いすの上に横たわって、新鮮の大気を自由に呼吸しながら、気に入った文学の書物でも読んでみたい。こんなことが僕の夢だ。

では、堺利彦は「気に入った文学の書物」は読めなかったのかというと、前に『夏目漱石と堺利彦』というブログにも書いたように、1905年(明治38)10月下旬に、堺利彦は夏目漱石に『吾輩ハ猫デアル』の感想を送っている。『家庭雑誌』の1906年(明治39)7月号に「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と書いたりもしていて、この「ナツメ」が電車賃値上げ反対運動の最中に「夏目」と誤解されて風評を呼び、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事に心配してくれた友人に対して、1906年(明治39)8月に漱石は「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書くのである。

前に「『二百十日』と『野分』」というブログに書いたように、漱石は1906年(明治39)9月に『二百十日』を書き、12月に『野分』を書き、それは翌1907年(明治40)1月に「ホトトギス」に発表された。同じ頃に淀橋町柏木に引っ越し、日刊『平民新聞』の刊行を計画した堺利彦は、翌1907年(明治40)1月に日刊『平民新聞』を創刊し、その3月15日号に「予の夢」という以下の文章を書いている。

 仮に予が四〇、五〇、六〇の坂を無事に越して、七〇ばかりの老翁となったとしてみる。予は実に老人の趣味を愛する。頭はテカテカとはげて、白髪は尺に余りというような老人になってみたい。・・・若い時からの癖も無くな、て、名声の念もきわめて薄く、色欲もほとんど全く消え、生死の問題などめったに念頭に起こらず、ただ日光と空気と自然と人情とを喜び、飲食物には、くだものや、野菜や、牛乳や、玉子や飯もよし、パンもよし、茶もよし、コーヒーもよし、酒ビールの少量もまたあしからずというありさまで、悠々自適、日出でて起き、日入って眠り、かくて幾年がたつうちに体力自然に衰えて欲望いよいよ減退し、ある日のこと、新緑の影さす縁側か何かでスヤスヤと寝ているかと思えば、いつの間にやらはやゴクリと参っていたというようなことになりたいものだ。

堺利彦は漱石よりも年下だが、気分は『二百十日』と『野分』をい書く漱石よりも年老いている。社会主義的には、腹が据わっているとでも言った方がいいのかもしれない。そして、ここから1910年(明治43)の大逆事件までが明治社会主義のクライマックスなのであり、その間に朝日新聞社に入社した漱石は『虞美人草』を皮切りに、胃潰瘍をかかえながら『坑夫』、『三四郎』、『それから』、『門』と書く訳であり、1908(明治41)に赤旗事件で入獄した堺利彦は、明治43年に獄中で「『白楽の恋』という一文を書いてみる気になって、お陰で獄中における数日間の退屈を紛らした。・・・予の故郷(豊前国豊津)の風景など思いあわせて、あれやこれや取りまぜて描いてみた」として、以下のように書く。

 僕もモウ・・今年六一という老人だ。・・これからこそは勝手気ままに好きなまねをして残年を送らにゃならぬ・・・そこで感は生まれ故郷の花熊村に引っ込んで、そこに理想的の農園を開いて、蔬菜、果樹、草花等の栽培をやろうと思う。ことに少し大仕掛けの温室をこしらえてみようと思う。されば僕の学問と道楽とが一致して、隠居仕事に適切だろうじゃないか。・・・
 僕はかつてOOOOOOOの本を読んだことがある。・・・それであいつの説によると、今に遠からずOOOOが行なわれて、地方自治の自由社会が現出すると、階級も無くなり、貧富も無くなり、学問知識を独占するものも無くなり、朝から晩までノベツに労働するような者も無くなり、社会の各員がみんな一同に四、五時間ずつ必要な労働をして、それて充分に社会の衣食住を供給し、残る時間は皆が勝手に好き好きの学問、芸術、遊戯等に費やすことになるというのだ。・・・僕はこの説をみて実に感心した。突などはマア実際そんなような生活を送ってきたのだが、それでこそ初めて真の人聞だと僕は思うね。・・・

堺利彦が千葉は貝塚の獄中でこの一文を書いている頃に、巷ではまさに大逆事件が進行していた。そのことは別途書くとして、平民社以降の堺利彦の夢がいかなるものであったのか、私はこれらに見る訳である。

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