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2010年10月23日 (土)

閑話休題「パンとペン」

1023_3 8月27日に書いたブログに、 安本次郎さんという方からコメントをいただき、そこにノンフィクション作家黒岩比佐子著『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』が講談社より刊行予定とあって、ネットで検索すると既に発売になっていたので、さっそく八重洲ブックセンターに買いに行ってきました。

大逆事件後の冬の時代を、堺利彦は売文社を立ち上げて昔取った杵柄の文筆業(ペン)でしのぐわけですが、堺利彦がすごいのはそれで自らが食うというよりも、売文社という会社組織にして今日でいう編集プロダクション的な事業を手広くやって、山川均ほか多数の仲間を食わせ、拠り所にし、次の時代につなげたことです。

私もこの秋は堺利彦を読み直しているところですが、黒岩比佐子氏は2005年の春頃に売文社に興味をもった後、一気呵成にこの本をまとめあげており、資料の考証もすごいもので、関川夏央氏の著作などにも驚かされますが、プロの仕事には感心しきりです。

2005年というと、私がブログを書き始めた年で、大内先生の『恐慌論の形成』が出て、それを読んで私は「恐慌論の形成とコニュニティの形成」というブログを書き、それが現在の「脱労働力商品論と労農派」にいたっている訳ですが、私の場合はいっこうにまとまる気配がありません。

この『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』という書名の由来は、堺利彦の「ペンを以てパンを求むるは僕等の営業である。・・ペンとパンは実に適切なる僕等の生活のシンボルである」(「ペンとパン」1914)からきているようです。10年前の春に会社勤めを辞めた私は、さてこれからどう暮したものかと、「ダルマ舎」を立ち上げて本づくりの真似事などしてきましたが、パンに追われて下請けのDTP仕事をするるばかりで、現在にいたっても一向にペンは進まないのであります。

それでも、時々このブログを覗いてくださる奇特なみなさんへの感謝を込めて、以上閑話休題するところです。

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2010年10月15日 (金)

堺利彦の土着社会主義

秋になったとは言っても、暑いのか寒いのかよく分からにところもあるが、本を読むにはいい季節になった。それで、やっと堺利彦にとりかかって、『堺利彦全集』(法律文化社1971)の第1巻と第2巻を読んだところだ。前にも拾い読みして、堺利彦についていくらか書いたが、今回は丸読みして、労農派の原点を探りたいと思っている。

第1巻に入っているのは、1889年(明治22)に一高を除籍になった後、教員や新聞記者をしながら、枯川漁史の号で書いた小説や随筆類、1899-1902年(明治32-35)間の日記、「万朝報」に入社して「よろず文学欄」に書いた論評類、足りない生活費を補うためにBook makingした『言文一致普通文』などである。
第2巻に入っているのは、1901-1902年(明治34-35)に書かれた『家庭の新風味』、1903年(明治36)に堺利彦が発行した『家庭雑誌』に書いた評論類、他紙に書いた小説と随想、それにエミール・ゾラの『労働』の翻案小説の『労働問題』など、1906年(明治39)くらいまでに書かれた文章である。

この頃の堺利彦は、まだ社会主義者ではない。1899年(明治32)の日記には、以下のようにある。
「わが将来はたしていかん、遠き将来はもとより測るべからず、近き将来の今年中はいかん、一面は編集事業にて過ごすなるべし、一面は新聞記者の知識を得るに努むべし、しかして他の一面は文学界に現わるる運動もまた可ならずや」(1月26日)。
「わが将来につきてこのごろさまざまに思いわずらう、政治家、教育家、文学者、いずれをか選ぶべき、純文学者にては何となく不満足なるは数年来経験したるところなり、さればとて政治家、いわゆる政治家が望ましくもあらず、このごろにては教育家ということを少し考う・・・内村(鑑三)のごときはこれなり・・」(3月16日)と。

堺利彦がやりたかったのは文学だったのではるまいかと思われるが、1897年(明治30)に書いた「読一葉全集」で、一葉に嫉妬→脱帽して、やがて「純文学者にては何となく不満足なるは数年来経験したるところなり」となる。1899年(明治32)7月から万朝報社に入社した堺利彦は、「よろず文学」欄を担当して多彩な論評を書くが、やがて親しくなった同僚の幸徳秋水から「ひとり自ら清うするにとどまる者」と評されたりしている。

日記には「金いよいよつきたり」とか「この月末非常の不足なり、質を置き尽してなお足らざらんとす、いかにしてこれを補うべきか」とかの記述が毎月のように出て来る。長男の不二が脳膜炎にかかって治療を要し、不二の死後は妻の美知子が肺病を患って療養を要し、そのために堺利彦は万朝報社の給料だけでは生活費が足りずに、毎月前借するほかに、他社に新聞小説を書いたり、『言文一致普通文』や『家庭の新風味』、『枯川随筆』などの著作をしたりする。

例えば、1901年(明治34)の日記には以下のようにある。
「このごろ長崎絵入新聞に送る小説の翻訳でいそがしい、ばかげきっている、しかしそれでこそわずかに鎌倉の費用(※美知子夫人の療養費)等を支えているのだ・・今月中に書いてしまわねば月末の勘定がとても引き足らぬ」(5月25日)。
「いろいろ金の不足に困る・・・言文一致の本を早くこしらえて一かたづけしたいものだ」(6月2日)、
「『言文一致普通文』ができて来た。奇麗な小さな本だ、つまらぬ本でも自分のこしらえたものと思えばはなはだうれしい。願わくば売れてくれ。福岡日日新聞に東京週報というものを書く約束をした。一週一度ずつ何か書いてやるつもり、これも悪くはあるまい。ミチは近来だいぶんよい、梅雨にもあまりよわらぬ様子」(7月8日)と。

そのために読書もままならず、5月9日の日記には「このごろ内職に時間を取られて読書の閑なし、予はいったい、何をして生涯を終わるのであるか、このごろしきりに煩悶にたえぬ」とあり、5月20日の日記には「片山潜、木下尚江、河上清、幸徳伝次郎等が社会民主党というを組織した、予も入党するはずであったが、今日内務大臣から結社を禁止せられた」とある。

ジャーナリストとして世の中の動きを察しながらも、生活に追われて内職をせざるを得ず、悶々とする様子がわかる。そして6月に『言文一致普通文』の原稿料50円が入ると、6月26日の日記には以下のように書く。
「原稿料五〇円を煙にしてはなはだすまぬここちがするから、伝票をして丸善に出かけた。
French and German Sosialism.
History of the World Politics of the End of 19th Century.
の二冊を買って来た、近来内職に忙わしくて本を読んだことがない、ちとこれから読まねばならぬ」と。

日本に社会主義が紹介されたのは、1898年(明治31)10月に同志社出身でアメリカ帰りの留学生であった村井知二や安部磯雄、それに片山潜らによってはじめられた社会主義研究会からで、幸徳秋水もここに入会している。これが1901年(明治34)5月に社会民主党となる訳だが、堺利彦は1904(明治37)1月に「予はいかにして社会主義者となりしか」(『平民新聞』第7号)に「予が最初に読んだ本はイリー氏のフレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズムであって」と書いているから、ここでやっと社会主義を勉強し始めた訳である。

しかし堺利彦の社会主義が、アメリカから直輸入された社会主義思想そのままでないのは、「予はいかにして社会主義者となりしか」の以下を読むとよく解る。
「(フレンチ・エソド・ジャーマン・ソーシァリズム)この本によって、予はフランス革命の結果がその真の目的にそわなんだ次第と、したがって社会主義の起こりきたった理由とを初めてよくのみ込んだ。予はこれに一道の光明を得た。予はこの光明によって予の頭の中にあるすべての思想を照らしてみた。それでついに大混雑の思想が整頓して、影もなく、暗も無く、もつれも無く、一理貫徹、まずは安心を得たつもりである。予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」。

もうひとつ、堺利彦は、社会主義者になる以前はジャーナリストであり、小説家であり、枯川を号とする文筆家であった。だから内職が可能であった訳で、9月1日の日記には、「『家庭の新風味』ができた・・・評判もまずまずよさそうである・・・近来新聞にも、いろいろなものを書くし、ちょいちょい本もこしらえるので、枯川先生の名がだいぶん聞こえてきた」と自ら書いている

幸徳秋水や山川均や大杉栄にはそれぞれ代表作があり、近代思想全集などには個人別の巻があって現在でも読めるが、堺利彦にはそれがない。『自伝』が、日本の社会主義思想史として読まれるくらいであろうか。ほかは、ジャーナリスト的な文章が多くて、代表作とか名著とは言われない。その中でも『家庭の新風味』は、内職で書いたものではあるが、ページ数も多く、私は忘れられた代表作だと思う。私流には、要点は以下のとおりである。

「元来嫁に行く婿を取るというのが間違った話で、今後はただ、一人の男子と一人の女子とが結婚するのである」(法律文化社『堺利彦全集』第2巻P6)。
「今後の社会は家族を単位とせずして個人を単位とする。家族というものが代々伝わってゆく訳ではなく、一人の男子と一人の女子とが結婚して、そこで新たに家を作ってゆくのである」(P27)。
「我輩の考うるところによれば、将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならぬと思う。社会の人がすべて夫婦、親子、家族のごとく相愛し、相譲って共同生活を営むのが、すなわち理想の社会であろう。してみれば今の家庭は理想の社会のひな形である。ひな形と言うよりは種とも芽とも言うべきで、この家庭より漸々に発育成長して、ついに全社会に及ぼすべきものである。これが今日の家庭と社会との関係である。・・・社会には不人情がある、家庭には人情がある、社会には競争がある、家庭には和楽がある、社会には詐欺がある、家庭には信実がある、要するに、社会には悪徳がある、家庭には道徳かある・・・」(P161)と。

また、「社会と家庭」(「万朝報」明治36)には、「社会主義の主張するところは、畢竟、善良なる家庭に行なわるるがごとき共同生活を、社会全般に行ないたいというのである。・・・ゆえに、社会主義の実行を期し、真の共同生活の実現を望む者は、必ずまず多くの力を家庭の改革に用い、十分なる社会思想、共同思想をこの間に養うことを勤めねばならぬと思う」と書いて、この考えを実践するために1903年(明治36)4月に堺利彦は由分社はじめて『家庭雑誌』を発行し始めた。

これをこの『全集』の編者である川口武彦のように、「まだ小ブルジョワ的思想の家庭論・婦人論」としてしまうのはありがちなことであるが、そうしてしまうと、労農派は日本資本主義論争時のレベルになってしまう。労農派の継承とされる戦後の社会主義協会のルーツはそこにあるのかもしれないが、元祖労農派のルーツはより幅ひろく、堺利彦の思想、日本の内発型土着社会主義にあるのである。

1904年(明治37)に堺利彦は、社会主義大演説会で「世の中回り持ち」と題して、以下のような演説をしている。
「なるほど歴史の変遷を見れば、藤原氏、平氏、源氏、北条氏、足利氏、と取っては代わり取っては代わりしている。しかしそのたびごとに革命が起こって悲惨を窮める。その悲惨なる経験の結果として、立憲政治が生じてきた。すなわち政権の世襲を廃してこれを人民全体に分配し、革命戦争の代わりに内閣更迭をやることになった。
 これを経済上にみるもまた同じことで、古来富豪の起きては倒れ起きては倒れする間に貧富の相戦うありさまは実に悲惨を窮めている。そこでその悲惨なる経験の結果として、財産の世襲を廃してこれを人民全体に共有せしめ、人はみなその才能に応じて分業をなすことをしようという考えが生じてきた。
 これがすなわち社会主義の理想で、社会主義は世の中回り待ちを改めて世の中寄合い待ちにしようというのである」と。

これを読んで、「堺利彦は唯物史観が解っていない」などと言ってはいけない。唯物史観は仮説イデオロギーであるに過ぎないが、堺利彦が述べているのは実感である。そして、この実感は前述した「この本によって、予はフランス革命の結果がその真の目的にそわなんだ次第と、したがって社会主義の起こりきたった理由とを初めてよくのみ込んだ。予はこれに一道の光明を得た。・・・予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」から来ているのであり、不完全ながらも明治維新はブルジョワ革命であったとの認識も示されている。

堺利彦は『家庭の新風味』を「健全なる中等社会を目安とする書」と書き、そこに立憲政治の下に実現すべき家庭の理想を書いた。さらに、そこに貧富論としてこうも書いている。
「貧とは支出が収入より多い場合を言い、富とは支出が収入より少ない場合を言う。・・・いくら収入が多くても、それに不相応な支出をしておれば、常に不安心な不愉快な貧者の生活をせねばならぬ。いくら収入は少なくても、それに相応の支出をしておれば、常に安楽な平和な富者の生活ができる。一家の主婦たる者は、こういう貧富論を持っていてもらいたい」と。

それは今でも現在の「無縁社会」への処方箋として通用するだけのものを十分に持っているし、要はこういう家庭が崩壊して、借金して支出をするようになったから、それから100年して、財政危機だの無縁家族みたいなことが起っているわけである。

もうひとつ、家庭の崩壊の他にこの100年間で進んだのが、労働力の商品化である。要は、みんな企業に雇われることによって、より高い収入と生活の安定を望んだことである。そのことは、100年経って現在の金融危機にも無縁家族にもつながっている訳だが、堺利彦らの社会主義者は、自ら新聞発行だのの事業を起こし、そこからだけでは不足する分については、自ら文筆でも出版でも生業して稼ぐよりなかった訳である。

そして、このキャリアが堺利彦をして、やがて彼らを襲った大逆事件以後の冬の時代を、売文社を立ち上げて糊口をしのぎ、彼らの立ち上げた社会主義を次の時代に引き継がせたのであった。家庭と生業、それを基礎にして社会主義を構想しているところが、堺利彦の常識であり、独創でもあり、労農派の原点でもあると思う訳である。

堺利彦が大事にしたのは、国家よりも個人であり、家族であり、例え貧乏であろうと相応の生活と品性であった。そして、堺利彦が嫌ったのは紳士、華族、富豪であり腐敗した政治家であった。また、明治34年5月22日には以下のように書いている。
「これから先、ミチの病中、二年か三年か五年か知らぬけれど、予は全くミチを養うために働こうと思う、予の功名心はそのあとで満足させればよい、予が国家社会のために働くべきことがあるならば、やはりそのあとで働けばよい、病みたる女房のある間は、その療養と看護とのために予の全力を費やして少しも残念でない、功名心なんぞはどうでもよい、国家社会のためなんぞに働かなくてもよい、予はただ予の情を満足させればそれでよい、人は馬鹿というか知らぬがおれはそれでよい」と。

堺利彦の座右の銘は、「捨て石 埋め草」であったという。これは売文、出版を内職、生業にしていたことから来ているのではと思う。また、『家庭の新風味』には「家庭の文学」という項もあって、「しろうと俳句、しろうと和歌でよろしい。・・・和歌は情を述べるに適し、俳句は景を写すに適している」と和歌、俳句のすすめも書いている。堺利彦において、情は清貧なる土着社会主義に、景は「捨て石 埋め草」にあったのであろうかと思うところである。(つづく)

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