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2010年8月11日 (水)

馬場兄弟

頭脳明晰にして独立した自由人の漱石は、また癇癪とわきまえのある人である。秘めた思いをモチーフにして小説を書くものの、人物もストーリーも見事に造形されて、国禁の思想じみたものを直接に描くことはなかった。そして、真意を分かってくれない頭の悪い弟子たちに対しては、時々癇癪を起したものと思われる。

しかし、明治の終わる頃、それはちょうど大逆事件を境にした頃からだろうか、漱石は胃潰瘍で血を吐きながらも、独立した自由人であることを貫徹していく。1911年(明治44)2月、文部省から文学博士号授与の通知が届くが、これを辞退。同じ頃、堺利彦はその年の初めに処刑された「逆徒」の遺族を歴訪している。

大逆事件後の生業に売文社を立ち上げた堺利彦は、1914(大正3に月刊『へちまの花』発行、「大杉栄と僕」を書き、「中学から高校にかわる頃」にそれを読んだ宇野弘蔵はアナキズムに関心を寄せた。同年4月 に漱石は『こゝろ』を書き、11月 には 『私の個人主義』の講演をした。

1915(大正4)に堺利彦は月刊『へちまの花』を月刊『新社会』と改題、「小さき旗上げ」をなし、宇野弘蔵はこれを熱心に読んだという。そして、同年3月25日挙行の第十二回衆議院選挙への馬場孤蝶の立候補を企画応援する。さらに、夏目漱石も馬場孤蝶の衆院選立候補の推薦人となり、推薦状の筆頭に名を連ね、『私の個人主義』を『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(1915年実業乃日本社)に寄稿し、それはその巻頭に掲載された。

馬場孤蝶は「立候補の理由」(『反響』1915年3月号)について、次のように述べている。

民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動にまだ無ければならぬ。
一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として行はるるもので無ければならぬ。成人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。
故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正常なる活動に対して妨碍となり、不便であるといふ如きものであってはならぬ。(水川隆夫『夏目漱石と戦争』平凡社新書p242)

「孤蝶は、このような基本的理念のもと、具体的な改革案としては、選挙権の大拡張、軍備縮小、新聞紙法の改正、治安警察法の撤廃などを提示し、特にこの選挙の争点であった陸軍の二個師団増設については絶対反対を表明」(同)している。

馬場孤蝶は、先に樋口一葉の項で触れたように、明治20年代の日本のロマン主義運動『文学界』のメンバーであるが、一葉が「故馬場辰猪君の令弟なるよし」と日記に書いたように、アメリカに客死した自由民権運動家の馬場辰猪の弟である。

馬場辰猪は1850年に土佐生にまれ、1870~1874年、1875~1879年にイギリスに留学、帰国後は自由民権運動に参加、1885年に「爆発物取締規則」違反で逮捕され、無罪放免後1886年にアメリカに亡命。1888年にフィラデルフィアで客死している。

馬場辰猪がイギリスで生活した1870年代というのは、ヴィクトリア期の隆盛から、資本主義も変わり目の時代であり、モリスが活躍した時代である。その時代をリアルタイムに生きた日本人がいたとは驚きである。おそらく漱石も、馬場辰猪のことを知っていただろうと思われる。

馬場辰猪はアメリカ亡命後は日本政府の批判をした謂わば国賊でもあり、1888年(明治21)にアメリカで死んだ後、恩師であった福沢諭吉らによって日本に墓碑が建ったのは1896年(明治29)であったのに、それ以前に「孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし」と樋口一葉が馬場辰猪を知っているのにも驚かされる。

馬場孤蝶は『文学界』の後、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になり、佐藤春夫や西脇順三郎に影響を与えた謂わばモダンな文学者の先駆者であると思っていたら、大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加しているし、山川均と菊栄の結婚式の媒酌もしているの。衆議院選挙への立候補は、思い付きではないのである。

選挙の資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』に、馬場孤蝶立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。

 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)

これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。また、1905年(明治38)に幸徳秋水がアメリカに渡ったのは、同じく土佐の民権運動家の馬場辰猪がアメリカに亡命したことにならったことが分かる。また、それ以前に石坂公歴らの民権運動家がアメリカに渡ったのも、そうであったという。1870年代のイギリスに学び、アメリカに客死した民権運動家の思想と生き様は、その後の日本の社会主義や社会運動に引き継がれていったわけである。

結果的に選挙には落選した馬場孤蝶ではあったが、その盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなり、その後も大学教授の傍ら自由主義的な社会改良運動家として講演や文筆活動を行っている。また、1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。

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