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2010年8月11日 (水)

『それから』

次は『それから』である。『三四郎』、『それから』、『門』は3部作と言われ、どれも好きな小説で、それこそ何度も読んだ。『それから』を最初に読んだのは高校生の時で、その時に「一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったり」する「高等遊民」という言葉を覚え、憧れた。二度目に読んだのは、大学を辞めて父と喧嘩して家を出た時で、その時は志賀直哉の『和解』にも通じる「父と子」というテーマで読んだ。三度目に読んだのは、会社勤めを辞めた時で、その時は同じ頃に再読した二葉亭四迷の『浮雲』もそうであたが、謂わば「失業」小説として読んだ。これは、代助の友人の平岡の失業もあるが、最後に代助自身が「僕は一寸職業を探して来る」で終わるところなど、ほとんどわが身のことであった。

『それから』は、1909年(明治42)6~10月に朝日新聞に連載された。『三四郎』は、島崎藤村の『春』の次の朝日新聞の連載小説であったが、『それから』は、大塚楠緒子の連載につづくものであった。

大塚楠緒子は、漱石の旧友であった大塚保治の妻であり、東大教授であった大塚保治は小説書きになろうとする漱石に東大教授の職を勧めている。そして、1910年(明治43)に大塚楠緒子が35歳の若さで死んだ時に、漱石は「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という激情のこもった句をたむけている。

『三四郎』に比べて『それから』では、主人公の女性への思い入れがことのほか激しい。そして、「三四郎」のモデルが小宮豊隆であり、「ミネ子」のモデルが平塚雷鳥であったようには、代助と三千代のモデルはありそうにない。代助と三千代は、「彼は三千代に對する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した」(p623)とあるように、漱石が観念的に造形した人物だと、私には思われる。

では、なぜ漱石はそうしたのかと言えば、『三四郎』で提起した「第二の世界」の生き方を観念的に書いたのが『それから』であろうと、私には思われるからである。そして、そこで代助は、「是等(※父、兄、平岡等)を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があった。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした」(p613)。要するに、「是等」父、兄、平岡らは謂わば「第一の世界」と「第三の世界」の人であり、代助は「第二の世界」を生きる覚悟をした訳である。

同時にそれは、漱石自身の生き方にしてみれば、大塚保治の勧めてくれた東大教授という地位も収入も安定した道を断って、小説書きの世界に入るということなのであるが、漱石が『それから』を書いたのは、大塚保治への断りの説明と言うよりは、かつて思いを寄せた大塚保治の女房の大塚楠緒子への、漱石なりの禁断のラブレターであったのではないかと、私は思うのである。

また、漱石にはさらに深く秘めたる思いがあったように思う。『それから』は謂わば姦通小説であり、それがベンガル湾上での二葉亭四迷の死を契機とするように書き起こされたのは、私は二葉亭の『其面影』の影響かと思っていたのだったが、今回読んで思うのは、姦通は禁断の行為の例えであり、漱石の頭の中にはもうひとつ禁断の思想として、社会主義があったのではないかということである。

『それから』には、以下のように赤新聞の記者になった平岡との会話があって、平岡の口から突飛に幸徳秋水の名が出てくる。

・・すると、平岡は斯う云った。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が挙がってゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」
 代助は自分の平生の観察から、斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。
「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。
「無論嘘は書かない積だ」
「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
 平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、
「日糖事件丈じゃ物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた。・・・平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。・・・是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。
「矢っ張り現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

『それから』の時代背景は、日露戦争後の不景気な時代であり、「明治40年初めには株価が急落し、さらに同年10月アメリカに起きた経済恐慌の波が日本にも押しよせ、41年以降、不況状態が続いた。実業家である代助の父や兄は、その影響をまともに受けている」(荒正人編『漱石文学全集』集英社刊第5巻解説より)という設定になっている。

夏目漱石が朝日新聞社に入社した1907年(明治40)の1月に『日刊平民新聞』が発行され、2月には足尾銅山で坑夫の蜂起が起き、2月17日には日本社会党第2回大会が開かれ、その前年にアメリカより帰国してゼネラルストライキを唱えた幸徳秋水と、議会政策派の片山潜らとの間で論争があり、その直後に日本社会党は禁止になり、4月には『日刊平民新聞』も廃刊となった。

夏目漱石が『坑夫』を書いた1908年(明治41)の6月に、出獄した西川光二郎の歓迎会で「赤旗事件」が起きて、堺利彦と山川均と大杉栄が入獄し、7月には穏健な西園寺内閣が総辞職して、桂太郎内閣が成立した。ここから大逆事件の起こされる1910年(明治43)までの間に、漱石は『三四郎』と『それから』と『門』を書いたのである。

代助は「此方面にはあまり興味がない・・社会主義の事はそれなりにして置いた」とあるのが、代助には興味はないのかもしれないが、それを書いた漱石には、社会主義への興味は大いにあったように思われる。幸徳秋水のことは、『明暗』においても『それから』と同様のシチュエーションの中で繰り返されているのだ。

「第一の世界」に生きる父と、「第三の世界」に生きる兄は、わけの分からない代助の生き方について、兄をしてこう警告する。「世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫れが自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉と云ふ観念は有ってゐるだらう」と。

しかし「第二の世界」は、いきなり所謂社会主義とは同じでない。代助は、幸徳秋水にはあまり興味がなくても、イギリスの画家ブランギンには趣味があるようである。そして漱石は、おそらくその両者に関心を持っていたのであろう。

『それから』には、社会主義宣言の影がある。戦前から国民文学者であった夏目漱石が社会主義傾向をもっていたなど、誰も口が裂けても言えなかったであろうし、戦後に江藤淳はさすがに気づいてはいても、それについては口を閉ざした。以下の『それから』の最後の文章は、代助が精神錯乱を起こした状況と言われるが、私には「赤=社会主義」宣言にしか読めないのだが、それは私の短絡だろうか。

忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し姶めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、叉代助の頭の中に吸ひ込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が眞赤になった。さうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した。

以上が『それから』のエンディングである。思うに、漱石の言う「三つの世界」は、彼がロンドンに留学した経験から思いついたのではなかろうか。イギリスは階級社会で、保守的な階級社会(第一の世界)でありながら、市場経済(第三の世界)が大いに発展している。その真っ只中で漱石は、神経衰弱になりながら、必死になって「第一の世界」でも「第三の世界」でもないものを探し求めて、カーライル~モリスの世界(第二の世界)を見つけ出し、帰国後に東大教授にならずに小説家になった。そして書いた『三四郎』で、それを表現しようとした、とまあこうである。 漱石はイギリスで何を見たのか? おそらくそれは、キャピタリズムであり、 だから漱石は、ロンドンで神経衰弱になったのではなかろうか。

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