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2010年8月11日 (水)

『明暗』と則天去私

1909年(明治42)8月に『それから』を書き終えた漱石は、旧友の中村是公の誘いで満韓旅行へと出かけ、翌1910年3月からは『門』の連載を始めるが、執筆途中に胃潰瘍で入院。伊豆の修善寺に出かけ転地療養するも、所謂「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血をおこして、生死をさまよった。時代的にはちょうど今から100年前、大逆事件が起きて、幸徳秋水らが刑死した頃のことである。

その後、漱石は『三四郎』『それから』『門』の前期三部作に引きつづいて、胃潰瘍を抱えながら、『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作を書く訳だが、ここでは後期三部作には触れずに、最後の大作『明暗』について書く。前期三部作、後期三部作という呼び方については、高校生の時に前述した野山先生から教えられた訳であるが、もうひとつ、野山先生は『明暗』における漱石の心境として、「則天去私」という言葉を教えてくれた。

則天去私とは何か、高校生の私は野山先生が案内してくれた小宮豊隆の『夏目漱石』(岩波書店)という、箱入上製で800円と当時にしては高かった本を買った。そこには、則天去私とは何かについて、以下のようにある。

天に則って私を去る世界である。換言すれば、漱石が、人間の心の奥深く巣食っているエゴイズムを摘出して、人人に反省の機会を与え、それによって自然な、自由な、朗らかな、道理のみが支配する世界へ、人人を連れ込もうとすることである。(p291)

そして私は、則天去私とはそういうことなのだと、漠然と思ってきたのであったが、今回『明暗』を再読しての感想は、そうではないのではあるまいか、ということであったのだった。どちらかと言うと、「道理のみが支配する世界」への見切りが則天去私ということなのではあるまいか、と思ったわけであり、これは二葉亭四迷が文学(真理を求めて正直に生きること)に見切りをつけた心境に通じているように思われる。

しかし、漱石は文学に見切りをつけた訳ではない。それどころか、二葉亭四迷の『浮雲』に始まった日本の近代文学は、『明暗』において金字塔を打ち立てたとさえ言えるだろう。これまで書いてきたように、私的には『浮雲』の文三、『其面影』の哲也は、『それから』の代助へと引き継がれ、さらに『門』における姦通後のの宗助、さらに『明暗』では、愛した清子とは別の妻、私的には『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美禰子のその後を思わせるお延をめとって、小市民化した津田へと造形されている。

江藤淳は、津田を「俗物才子、冷笑的で、自己の保身には極端に敏感な、洗練された感覚と強い虚栄心を持った、小心翼翼たる上層中流階級の紳士」(『夏目漱石』勁草書房)としているが、初めてお延が津田と会った時の津田の登場の仕方などは、私には代助を思わせる。しかし、この「代助」は、親に頼って生きる男で、清子のことをお延は知らない。

そして『明暗』には、『それから』の平岡を引き継いだようなゴロジャーナリストで、「僕は未だかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね」と居直る小林を、存在感たっぷりのわき役として登場させ、小林に幸徳秋水とドフトエフスキーを語らせながら、津田から外套や金を巻き上げさせる。江藤淳は、こう書いている。

則天去私の作家は世俗的な感情である階級的復讐心をもった小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄したのである・・・・作家漱石は、自らの東洋文人風の趣味よりも、ここで世俗的日常茶飯の塵にまみれて、小林という新しい人間を創り出すことに、格段の興奮を覚えているのである。

この事実は、一つの可能性を暗示している。それに若し漱石が生き永らえたとして、この可能性に忠実であったとするなら、来るべき新しい作品の主人公は、小林や藤井のような人物達、『明暗』で印象的なわき役を演じている貧乏インテリ達ではないかということである。(p206-207)

『明暗』は、1916年(大正5)5月26日から12月14日まで、朝日新聞に連載され、漱石の死をもって、未完のまま終わっている。漱石を追っている内に、時代は大正に入ってしまったが、時代は大逆事件で窒息させられた社会主義運動が、再び「小さき旗げ」(1915年)した頃である。また、江藤淳は、以下のようにも書いている。

小林というプロレタリア意識のある人物を描くことによって、作者は、これら鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰の底に押しかくされている、ひがみや憎悪に照明をあて、それらの感情に、直截な、知的な表現をあたえたのではなかったか。小林は、このような不遇なインテリが、容易に熱狂的な左翼思想家になり得ることを強く暗示しているのである。(p199)

むかし私が、この江藤淳の『夏目漱石』を読んだ時に、島崎藤村の「自分のような者でも、どうかして生きたい」批判、「鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰」批判を読んで、評論の鋭さには感心したものの、私が批判されているようで、なじめないものがあった。その頃、私は『それから』で言えば、自分は代助のつもりであったのだったが、素直に考えれば、どう見たって私は平岡か小林である。しかし、私は多少の左翼思想を持ってはいるが、「熱狂的な左翼思想家」ではない。そして、漱石が『明暗』を書いた時代に、江藤淳に言わせれば「社会の片隅に置き去られたような群小ジャーナリストや不遇な文士・・・教養と敏感な感受性を持ちながら社会的地位に恵まれない。つまり彼らは、自分たちの悲惨な生活を悲惨とみとめ得る知的能力と自尊心を持つ故に一層みじめな劣敗者」(p198)でありながら、「熱狂的な左翼思想家」にはならなかった社会主義者もいた訳で、それが、とりもなおさず堺利彦なのである。だから、ポスト則天去私の時代は、堺利彦の売文社に始まる訳である。

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