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2010年8月11日 (水)

夏目漱石と堺利彦

堺利彦は、1903年(明治36)11月に幸徳秋水とともに万朝報社を辞めて平民社を立ち上げ、翌年の1~4月にモリスの『理想郷』を「平民新聞」に連載、同年11月発行の「平民新聞」創刊1周年記念号には、幸徳秋水との共訳で『共産党宣言』を載せ、この辺りが日本の社会主義の出発点とされている。

1900年(明治33)にイギリスに留学した夏目漱石は、1902年(明治35)3月に義父の中根重一宛の手紙に、以下のように書いている。

(日英同盟)事件の後本國にては非常に騒ぎ居候よし斯の如き事に騒ぎ候は恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの能り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん・・・国運の進歩の財源にあるは申までもこれなく候へば御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着致候。ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候ともただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめもしくは無教育に終らしめかへつて平凡なる金持をして愚なる半張を実行せしめる傾なくやと存候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、かっ耶蘇教の随性と仏国革命の殷鑑遠からざるよりこれら庸凡なる金持どもも利己一遍に流れず他のため人のために尽力致候形跡これあり候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候。カール・マークスの所論の如きは単に純粋の理窟としても欠点これあるべくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へどもちよっと気燄が吐きたくなり候間かやうな事を申上候。「夏目が知りもせぬに」などと御笑被下まじく候。・・・

100年以上前に書かれた「財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候・・・欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候」などは、現在にもそのままあてはまる。また、「日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候」という認識からは、やがて『明暗』における小林の登場が予見されている。

江藤淳が『夏目漱石』に、漱石はロンドン留学中「ひそかに社会主義思想に対する関心すら示していたのではないか」と書く通りであり、漱石はカーライルだけでなく、マルクス、ラスキン、モリスなどを読んだものと思われ、それは堺利彦よりも早い。では、漱石はマルクスの何を読んだのかと考えると、おそらく漱石の「漱石山房蔵書目録」にもある英語版の『資本論』を既に読んでいたのであろうと思われる。

さらに「漱石山房蔵書目録」にはモリスの『地上楽園』があり、漱石はロンドンでモリスのV&Aのグリーン・ダイニングルームで食事していたようであり、帰国後は「倫敦塔」や「カーライル博物館」を『韮露行』という短編集として出版するのだが、その装丁はウィリアム・モリスにならったという。

漱石は、「ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで、藤代禎輔とエールで乾杯し」、1903年(明治36)年1月に帰国したのであるが、漱石の「社会主義思想に対する関心」はその後どうなったのであろうかというのが、漱石再読のポイントでる。そして、それを作品に即して書こうと思うのだが、少々力仕事になりそうなので、ここには漱石と堺利彦との関係だけを書く。

漱石は、1905年(明治38)年1月発行の「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を載せ、好評を得て以降も連載するのだが、同年の10月下旬に、堺利彦(枯川)からエンゲルスの肖像写真のある『平民社論叢書』と、以下の『吾輩ハ猫デアル』の感想が送られて来た。

「新刊の書籍を面白く読んだ時、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦」と。

堺利彦は、1903年(明治36)4月に「社会主義は、まず家庭に於いて実現し発達させねばならないという思想」から「家庭雑誌」という雑誌を発行し、これは1905年(明治38)の平民社解散後もつづくのだが、その1906年(明治39)7月号にはこう書いている。「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と。

そして漱石は、1906年(明治39)8月に東京の市電賃値が値上げされ、反対運動が暴動化し、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書くのである。

夏目漱石と堺利彦は、お互いの面識はなかったものと思われるが、わずかなやりとりながら、ここにはお互いのシンパシーが感じられないだろうか。「カーライル博物館」は書いても、モリスについては直接には何も書かなかったが、『韮露行』の装丁ではモリスを模し、その蔵書には『地上楽園』のある漱石は、堺利彦が『理想郷』を訳していたのは知っていただろうと思われる。では、外来崇拝や自然主義や恐露病に対して嫌悪感を隠さない漱石が、堺利彦にシンパシーしたのはなぜであろうか。

堺利彦は、1904年(明治37)「予はいかにして社会主義者となりしか」に、「予の少年の時、まず第一に予の頭にあった大思想は、言うまでもなく論語孟子から来た儒教であった。次にはすなわち民約論やフランス革命史から来た自由民権説であった。・・・予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」と書いている。 また、同年の「晩夏初秋の感」(「家庭雑誌」9月号)には、以下のように書いている。

去年平民社を起こして以来、予の家の支出は常にその収入を越えていた。しかも収入を増さんがために、予はかつて何らの運動をしたことが無い。予の全力は平民社の事業に注がれていた。この家庭雑誌にすら毎号寄稿することができぬほどに多忙であった。そして平民社からもらうだけの金で、ただやれるだけやって行く。それ以上の金を得ようとも思わず、それ以上の事をしようとも思わず、貧乏の間にも心は誠に気楽であった。しかるに巣鴨行きという事件が突然として起こった。
・・・人はこれをこじき生活と笑うか知れぬが、予はこのこじきの生活に安んずるがよいではないか。月給の多寡にあせったり、貯金や内職に苦労をしたりして、そして独立だの独歩だのと威張ろうより、人の親切と自然の成行きとに打ちもたれて、流れに従って行く方が、何ほど気楽で、何ほど安心であるか知れぬ。予はともかくも平民社からいくらかの月給をもらっている。予と予の女児との生活はそれでもってささえられる。予はただ平民社の事業と予の主義とのために働きうるだけ働けばそれでよいのだ。予はかくのごとく一身一家の財政において全然他力主義を取ることとなった。

これらを読むと、堺利彦はもうほとんど『吾輩は猫である』の苦沙彌先生なのである。そして、ここ夏目漱石と堺利彦の出あいの中に、日本の内発型土着社会主義「労農派」の出発点があると、私は思う訳である。

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コメント

 漱石と堺利彦、あるいは、大逆事件のことなど、小誌がここのところ、《特集》で追求していることと同じテーマで書かれていますね。それも個人だけのブログで。感心してます。
 私どもは、読書好きな仲間が読書会を機に雑誌を初めて23年になります。
 また。

投稿: 群系同人 | 2010年9月16日 (木) 13時34分

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