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2010年8月11日 (水)

倫敦留学

漱石の自伝的小説『道草』(五十七)に、「彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられても其方に使ふ時間を借がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの學校から四十圓貰って、それで満足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺に取られた。残る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食ってゐた。然し彼は其間に遂に何事も仕出かさなかった」という文章がある。大学を卒業したての頃の話のようで、ずいぶん質素な生活をしているが、その頃の漱石は頭の中では何を考えていたのだろうかと思うと、1892年(明治25)10月に「文壇における平等主義者ウオルト・ホイットマンの詩について」という以下のような文章を書いており、そこには後にイギリス留学を経て、「私の個人主義」にいたる漱石の片鱗がうかがえる。

此の詩人名を「ウオルト、ホイットマン」と云ひ百姓の子なり・・・斯く米人は冷淡にもかかる書には手をだに触ざりしが「エマーソン」の慧眼は早くもその真価を看破し一篇の書簡を送って大いに著者を祝せり・・・即ち「ホイットマン」の「ホイットマン」たり共和國の詩人たり平等主義を代表する所なるべし元来共和國の人民に何が尤も必要なる資格なりやと間はゞ独立の精神に外ならずと答ふるが適常なるべし独立の精神なきときは平等の自由のと噪ぎ立っるも必竟机上の空論に流れて之を政治上に運用せん事見直なく之を社会上に融通せん事益難がらん人は如何に云ふとも勝手次第我には吾が信ずる所あれば他人の御世話は一切断はるなり天上天下我を束縛する者は只一の良心あるのみと澄まし切って険悪なる世波の中を潜り抜け跳ね廻る是れ共和同氏の佩風なるべし・・・「ホイットマン」は社会的の人物なり(俗物の謂にあらず)自ら社会の一分子となり天下の公衆を助け叉天下の公衆に助けられん事を冀ふ者なり・・・

ホイットマンを見つけたエマソンも大したものだが、ホイットマンが死んだのと同じ年に彼を日本に紹介した漱石も大したものである。超絶主義を提唱したエマソンは、イギリス資本主義形成期において反時代主義的であったカーライルと交流して影響を受け、やがてアメリカン・ルネッサンスが生まれた。また、エマソンの舎弟のソーローはイギリスのカーペンターに大きな影響を与え、漱石が留学した頃のロンドンは、これらの思想が集まった都市であり、漱石はカーライル博物館に4回も足を運んでいるのをはじめ、思想家の暮した跡地や書店めぐりをして、沢山の本を買いあさっている。

1902年(明治34)10月に文部省からの電報で、「夏目精神に異常あり、藤代へ保護帰朝すべき旨伝達すべし」の依頼を受けた藤代禎輔は、「十一月初旬、藤代禎輔は漱石に葉書を出し、一緒に帰国することを勧める。その葉書を受け取った翌日、藤代禎輔を訪ね、スコットラソドの旅行で帰国の準備ができぬという理由で断り、藤代禎輔も、漱石に異常を認めなかったので、保護して帰る必要なしと知り、先に出発することにした」という。

同年11月7日に漱石は「藤代禎輔を、ケソジソトソ博物館と大英博物館に案内し、大英博物館のグリルで焼肉を食べエールを飲み、『もう船まで送って行かないよ』と云って別れる。藤代禎輔は、『留学生としてよくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い』と驚いたという。(集英社版『漱石文学全集』別館)。

漱石のロンドン生活は、安下宿暮らしと神経衰弱、最後は「漱石発狂す」で知られるが、先進の地で日本の将来を憂いながら一生懸命に勉強するとすれば、あたりまえの姿でもあろうか、『倫敦消息』には以下のように書いている。(岩波文庫『漱石文明論集』p280)

しかるにあらゆる節倹をしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であるという感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ来たものだからなる事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるからさ。・・・人は「カムバーウェル(※テームズ川東南側一帯の労働者街」のような貧乏町にくすぼってるといって笑うかも知れないがそんな事に頓着する必要はない。

ロンドンでの漱石の姿は、先に書いた質素に暮しながらホイットマンを読む学生時代の漱石からつながっている。先に引用した1902年(明治35)10月に漱石がロンドンから中根重一宛にあてた手紙のつづきを読むと、「発狂」どころか、「かやうな決心を致候」と、実に冷静にその後の研究を構想しているのが分かるのである。

 著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候。私も当地着後(去年八、九月頃より)一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少しづつかくのとを商買に致候。同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない、人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ励精致をり候。・・・ついで故一応申上候。先づ小生の考にては「世界を如何に観るべきやといふ論より始め、それより人生を如何に解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ず」るつもりに候。かやうな大きな事故、哲学にも歴史にも致治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候故自分ながらその大胆なるにあきれ候事もこれあり候へども思ひ立候事故行く処まで行くつもりに候。かやうな決心を致候と但欲しぎは時と金に御座候。日本へ帰りて語学教師などに追つかはれ候ては思索の暇も読書のひまもこれなきかと心配致候。時々は金を十万円拾って図書館を立てその中で著書をする夢を見るなど愚にもつかぬ事に御座候。〔後略〕

そして、場末の安下宿に立てこもり、留学生活も1年以上が過ぎた頃の心境を、漱石は『私の個人主義』の中で、以下のように語っている。

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を漸く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。・・・そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでは甚だ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰曇な倫敦を眺めたのです。(岩波文庫『漱石文明論集』p114-115)

1902年(明治35)11月7日、ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで、藤代禎輔とエールで乾杯した漱石は「発狂」どころか、ふっきれていたと私には思われる。

1903年(明治36)1月の帰国後、漱石は一高、帝大から明治大学講師まで、「語学教師などに追つかはれ」ることになるのだが、やがて小説家への道を歩み出す。そして、小説を書き出した漱石の作品が、当時の日本文学の主流となった自然主義とは別の道であったのは、「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論より始め・・・次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ずるつもりに候」から来ていると思われる。要は、土着・内発型の文学への道である。1906年(明治39)10月26日の鈴木三重吉宛の手紙には、以下のようにある。

・・単に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寝ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。・・丁度維新の当士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら紳経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。・・・僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文學者の様な気がしてならん。破戒にとるべき所はないが只此点に於テ他をぬく事数等であると思ふ。然し破戒ハ未ダシ。・・

前に書いたように、漱石が「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候」と書いたのは1906年(明治39)であり、1907年(明治40)の6月には首相の西園寺公望から他の文士とともに「我国小説に関する御高話拝聴旁素飯差上度」という招待状を受けたが、二葉亭四迷と夏目漱石はこれを辞退している。

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