« 倫敦留学 | トップページ | 馬場兄弟 »

2010年8月11日 (水)

『私の個人主義』と内発的変化

夏目漱石の文学的営為は、1900年(明治33)のイギリス留学からの帰国後、1904年(明治37)の『吾輩は猫である』の執筆以来本格的に開始され、1916年(大正5)12月の死による『明暗』の絶筆までつづいた。漱石が小説を書こうとしたことのモチーフは、前回見てきた通りだが、漱石が晩年にたどり着いた心境については、一般的には「則天去私」と言われている。では、漱石が晩年にたどり着いた思想は何かと言うと、やはり『現代日本の開化』で語られた「内発的開化」と『私の個人主義』とあろうか。

『現代日本の開化』は、大阪朝日新聞社が企画し1911年(明治44)に和歌山で行われた講演であり、外発的な開化とその「一大パラドックス」に対して、以下のように「内発的な変化」が提起されている。

・・この二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。・・・昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。・・・これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。(岩波文庫『漱石文明論集』p22-25)
もして一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。・・・、西洋の開化は行雲流水の如く自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います。(同p26)

ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前中した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。(同p38)

「生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない」ということなど、それから100年以上経った現在でもなお同様である。そして「ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろう」という提案など、現在の社会にもしてみたいものである。

もうひとつの講演の『私の個人主義』は、漱石が1914年(大正3)に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちである。漱石は、支配階級の子弟たちに向けて、「今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります」(岩波文庫『私の個人主義』p126)と語る。要は、漱石は「ノブレス・オブリージュ」を説いている訳であるが、さらに、以下のようにも語る。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。(岩波文庫『私の個人主義』p119)

御存じの通り英吉利という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英古利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。・・・彼らは不平があると能く示威運動を遺ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです。(同p127)

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです。(同p129)。

これらの発言は、永井荷風が『あめりか物語』に、「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」、「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」と書くのに通じている。

漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたし、荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得していた訳である。そして、日本に帰った後の漱石と荷風の文学行為は、その本質において通底している。大逆事件とすれちがった荷風は『花火』を書き、漱石は『こころ』を書いた。「御大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました」と。

|

« 倫敦留学 | トップページ | 馬場兄弟 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『私の個人主義』と内発的変化:

« 倫敦留学 | トップページ | 馬場兄弟 »