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2010年8月11日 (水)

『門』

次は『門』である。『門』は、1910年(明治43)3~6月に朝日新聞に連載された小説で、『それから』の続編的な作品であり、私はいつも『それから』とセットで読んだ。『それから』は松田優作主演の映画のイメージがあって、代助には距離を感じてしまうのだったが、『門』の宗助には、そのつつましやかな暮らしぶりからして、リアリティとシンパシーを感じるのであった。

主人公の宗助は、毎日電車で丸の内にある役所に通う謂わば腰弁である。日曜日にふらりと街に出て、駿河台下で電車を降りて「本屋の前を通ると、屹度中へはい入って見たくなったり、中にはい入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云ふと、既に一昔前の生活である」。そして、日曜日も終わる頃になると、「明日から・・叉せっせと働かなくてはならない身体だと考えると・・残る6日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた」りするのであった。

宗助とその妻の御米の日常風景は下記の如くで、かつて学生を止めて家を出た後に団子坂下の崖下のアパートで新婚生活を始めた頃と、10年前に会社勤めを止めてアルバイト生活を始めた頃に読んだ時には、私の気分は正に宗助であったのだった。

「毎日役所に出ては叉役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出掛けるなどといふ億劫な事は滅多になかった。客は殆ど来ない。・・夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活状態に相応した程度のものであった」。
「苦しい時には、御米が何時でも宗助に、『でも仕方ないわ』と云った。宗助は御米に、『まあ、我慢するさ』といった」。
「宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日に御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つづつ持って帰って来た。夜露にあてた方が可かろうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた」。
「『外套が欲しいって』、『ああ』、御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云ふ風に、『御拵へなさいな。月賦で』と云った。宗助は『まあ止さうよ』と急に侘しく答えた」。
「・・事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた」と、まあこんな具合である。

そして、「彼の慢心は・・既に銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日迄生きて来た」という宗助が、「僕は一寸職業を探して来る」と言って出掛けた代助の「それから」であるとすれば、宗助もまた漱石が観念的に造形した人物であると私には思われる。宗助にとって役所勤めは「つまらない」「非精神的な行動」であるということは、宗助は「第二の世界」に生きる人のその後の生き様として描かれていると、私には思える訳である。

「第二の世界」に生きる人というのは、『三四郎』においては廣田先生と野々宮さんであり、『それから』においては代助であると言える訳だが、廣田先生とか野々宮さんとか代助みたいな学者や遊民は、世の中から見れば、ごく少数の人である。しかし、宗助みたいに一見腰弁として生きている人たちの中にも「第二の世界」に生きる人がいるとすれば、「第二の世界」に生きる人の数はずっと多くなる。そして私も、団子坂下のアパートで生活し始めて以来、そういう生き方をしようと思って来た訳で、現在もそのつもりであるのだ。

『門』の始めの辺りで、伊藤博文の暗殺事件が語られているから、物語の背景は1909~1910年の冬が終わる頃までで、漱石の執筆時期とそう変わらない。そして1910年6月、漱石が『門』を書き終えた頃、今から丁度100年前のことであるが、幸徳秋水が大逆事件の容疑で逮捕され、『門』は「うん、然し叉ぢき冬になるよ」の宗助の言葉で終わる。

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