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2010年8月11日 (水)

仙台

1905年(明治38)に漱石を訪ねて弟子になった小宮豊隆は、『漱石の芸術』で夏目漱石のほぼ全作品について解説しているが、ここで私が書いたようなことには少しも触れていない。『漱石の芸術』は戦中に書かれた本だから、おそらく書けないこともあったのだろうと想像されるが、その一番最後に「漱石蔵書目録については・・・即ち漱石は、自分で読む為に本を買ひ、買った本は大抵は読んでいるという事だけを、言って置けば足りるだらうと思ふ」と書いている。書けなかったことについては、蔵書目録を見てくれということだろうか。

東北大学系HP「まなびの杜」「シリーズ 東北大学ゆかりの文学者たち 2」には、小宮豊隆について以下の記述があります。

 東北大学附属図書館には、夏目漱石の旧蔵書と関係資料からなる「漱石文庫」があります。その旧蔵書・資料が昭和19年に仙台に移った後、早稲田南町の漱石旧居は昭和20年の東京空襲で焼失してしまったのですが、その後に入った資料も加えて3000冊をこえる漱石旧蔵書を中心とする貴重な資料群が今に残ることになったのは、当時附属図書館長を務めていた、〝夏目漱石の弟子〟小宮豊隆の尽力によるものです。
 小宮豊隆は、明治17年(1884)福岡県京都郡に生まれ、福岡農学校の教師だった父が転任したため幼時を奈良で過ごした後、福岡にもどって豊津中学校を卒業し、明治35年に第一高等学校に入学・・・明治38年に東京帝国大学文科大学独文科に入学して、漱石に在学中の保証人になってもらい、以後漱石のもとに出入りするようになり、それは明治40年に漱石が東京朝日新聞社に入社して専業作家となり大正5年に亡くなるまで続きました。「漱石文庫」に残る漱石の本の貸出帖には、森田草平らとともに、「小宮豊隆」の名前が書かれています。小宮の教養、思想の形成には直接、間接に漱石の影響があったと言ってよいでしょう。なお、大正5年に小宮に男子が生まれたときには名前を付けてくれるように漱石に依頼し、漱石は2度にわたって手紙で案を書き送っています。そんなところにも漱石との親密な関係がうかがえようかと思います。・・・
 その後小宮は、慶應義塾大学講師、法政大学教授などを経て、大正13年にヨーロッパ留学から帰国して東北帝国大学法文学部のドイツ文学の初代教授となり、昭和15年から21年まで附属図書館長を務め、昭和21年に東京音楽学校校長を兼務し、同年3月に東北大学を辞し、その後学習院大学文学部長を務め、学士院会員となり、昭和41年(1966)に没しました。

小宮豊隆は、豊津中学 → 一高で、これは堺利彦と同じである。また、宇野弘蔵も1924年(大正13)に東北帝国大学法文学部助教授になっており、『「資本論」五十年』において、小宮豊隆と交流したと語っている。文学と経済学と学問の分野は違っても、同じ頃にドイツ留学しており、宇野弘蔵には文学趣味もあったから、お互いどんな話をしたのだろうかと興味深いところである。果たして、漱石の「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論」が、ふたりの間で語られたことはあったのだろうか。

二葉亭四迷は、西洋の思想を日本語で表現しようとする時、一度自分でロシア語で書いたものを、また日本語に直したという。漱石もまた、英国で、また帰国直後も英語で文章を書いている。そんな話を、小宮豊隆は宇野弘蔵としただろうか。二葉亭四迷と夏目漱石は批判的であった明治時代の自然主義の流行は、大正時代のマルクス主義の流行に通じている。そして、宇野理論はまさに漱石の文学創造に通じているように思うところである。

「坂の下」に生きた馬場兄弟と高野兄弟の二組の兄弟の内、馬場兄弟の思想と行動は、自由民権運動から大正デモクラシーに至る時代に、深く西洋に学びながらも日本社会への内在的批判としてあった。そして、高野兄弟の行動と学問は、ロシア革命とヴォルシェヴィズム流入の時代に、やがて宇野弘蔵をして宇野三段階論を生みだしたのであり、その直接の場は仙台であった。

かつて芭蕉が『奥の細道』を歩いたように、誰もが北を目指したか、北に流れた。
1896年(明治29)9月に、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい。こう思って、深い深い溜息を吐いた。・・・またザアと降って来た」と仙台に向かった島崎藤村は、そこで「まだあげ初めし前髪の・・」の近代詩の金字塔『若菜集』を書きあげ、その8年後の1904年(明治37)9月に、「わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。・・・仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった」(『藤野先生』)と書いた魯迅は、やがて、「必要なのは精神の変革である」として文学を志して仙台の医学専門学校を退学して上京、弟の周作人らと本郷西方町に家を借りたのだが、そこは以前に夏目漱石が住んだ家であった。漱石を愛読した魯迅は、漱石の『クレイグ先生』をモチーフにして、やがて『藤野先生』を書いたという。

漱石に私淑した武者小路実篤は『「それから」に就いて』という評を書き、やがてロシア革命を背景に「新しき村」づくりを始めた訳だが、ロシア革命以前の1914年(大正3)、堺利彦は大逆事件後の身過ぎ世過ぎに売文社を立ち上げて『へちまの花』を創刊、その創刊の「序」に以下のように書く。

近来、カフェとかバアとかいうものがはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白けなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい。

私は、大逆事件後の冬の時代にこの文章を書く堺利彦のこの感覚に脱帽である。それは、留学後の漱石が、平民社が解散し、幸徳秋水がアメリカに亡命した時代に『吾輩は猫である』に書いた諧謔に通じている。前述したごとく、堺利彦から『吾輩は猫である』の読後感のハガキが漱石に届き、翌年漱石は「堺枯川氏と同列に・・」と書き、鈴木三重吉宛に「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と書いたが、それは、堺利彦の「ステ石 ウメ草」の生き方に通じている。堺利彦と夏目漱石の共感から日本の内発型土着社会主義は出発し、「ステ石 ウメ草」の生き方は、「脱労働力商品」的生き方につながっていると思うところである。それは、「日本の内発型土着社会主義から宇野理論の形成へ」、「宇野理論の再生と日本型社会主義への道」であり、そのためには、堺利彦論と仙台における宇野弘蔵を探ることが必要だと思う次第である。

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コメント

税制をよくまとめた報告です。

ご参考になれば、幸いです。

「NPO寄附税制の拡充について」
<http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/201008_715/071503.pdf>

投稿: 樋口兼次の教え子 | 2010年8月20日 (金) 17時55分

名前クリックで、国会図書館資料へリンクします

投稿: 樋口兼次の教え子 | 2010年8月20日 (金) 17時57分

 堺利彦の豊津中同級生に犬塚武夫なる人物があり、共に第一高等中学を目指すも、犬塚は不合格となり、東京高商を経て不動貯蓄銀行取締役兼支配人などを歴任。犬塚は、旧豊津藩主小笠原長幹のイギリス留学に随行し、この時、漱石と同じ下宿に逗留し懇意となった。犬塚は小宮豊隆の従兄弟にあたり、小宮を漱石に紹介する。ここまでは、比較的よく知られた話だが、犬塚は、思想的・政治的立場を超え、晩年に至るまで堺利彦とは「本当の謂ゆる同郷竹馬の友」(野依秀市編『堺利彦を語る』に寄せた犬塚の一文)であり続けた。資料的な根拠を示すことができないのだが、堺と漱石の間を取り持ち、漱石が堺の衆議院議員総選挙を支援する背景に犬塚ありと推定される。
 堺の出身地である福岡県京都郡みやこ町では、2010年11月3日、ノンフィクション作家黒岩比佐子氏(講談社より『パンとペン~堺利彦と「売文社」の闘い~』刊行予定)を講師に大逆事件・売文社創設100年の記念講演会を開催するとのこと。黒岩氏の評伝には多くの期待が寄せられている。

投稿: 安本次郎 | 2010年8月27日 (金) 06時07分

安本次郎さま

貴重なお話と情報、ありがとうございます。
またコメントなどいただければ幸いです。
よろしくお願い申し上げます。

投稿: ダルマ舎 | 2010年8月27日 (金) 09時09分

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