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2010年8月11日 (水)

仙台

1905年(明治38)に漱石を訪ねて弟子になった小宮豊隆は、『漱石の芸術』で夏目漱石のほぼ全作品について解説しているが、ここで私が書いたようなことには少しも触れていない。『漱石の芸術』は戦中に書かれた本だから、おそらく書けないこともあったのだろうと想像されるが、その一番最後に「漱石蔵書目録については・・・即ち漱石は、自分で読む為に本を買ひ、買った本は大抵は読んでいるという事だけを、言って置けば足りるだらうと思ふ」と書いている。書けなかったことについては、蔵書目録を見てくれということだろうか。

東北大学系HP「まなびの杜」「シリーズ 東北大学ゆかりの文学者たち 2」には、小宮豊隆について以下の記述があります。

 東北大学附属図書館には、夏目漱石の旧蔵書と関係資料からなる「漱石文庫」があります。その旧蔵書・資料が昭和19年に仙台に移った後、早稲田南町の漱石旧居は昭和20年の東京空襲で焼失してしまったのですが、その後に入った資料も加えて3000冊をこえる漱石旧蔵書を中心とする貴重な資料群が今に残ることになったのは、当時附属図書館長を務めていた、〝夏目漱石の弟子〟小宮豊隆の尽力によるものです。
 小宮豊隆は、明治17年(1884)福岡県京都郡に生まれ、福岡農学校の教師だった父が転任したため幼時を奈良で過ごした後、福岡にもどって豊津中学校を卒業し、明治35年に第一高等学校に入学・・・明治38年に東京帝国大学文科大学独文科に入学して、漱石に在学中の保証人になってもらい、以後漱石のもとに出入りするようになり、それは明治40年に漱石が東京朝日新聞社に入社して専業作家となり大正5年に亡くなるまで続きました。「漱石文庫」に残る漱石の本の貸出帖には、森田草平らとともに、「小宮豊隆」の名前が書かれています。小宮の教養、思想の形成には直接、間接に漱石の影響があったと言ってよいでしょう。なお、大正5年に小宮に男子が生まれたときには名前を付けてくれるように漱石に依頼し、漱石は2度にわたって手紙で案を書き送っています。そんなところにも漱石との親密な関係がうかがえようかと思います。・・・
 その後小宮は、慶應義塾大学講師、法政大学教授などを経て、大正13年にヨーロッパ留学から帰国して東北帝国大学法文学部のドイツ文学の初代教授となり、昭和15年から21年まで附属図書館長を務め、昭和21年に東京音楽学校校長を兼務し、同年3月に東北大学を辞し、その後学習院大学文学部長を務め、学士院会員となり、昭和41年(1966)に没しました。

小宮豊隆は、豊津中学 → 一高で、これは堺利彦と同じである。また、宇野弘蔵も1924年(大正13)に東北帝国大学法文学部助教授になっており、『「資本論」五十年』において、小宮豊隆と交流したと語っている。文学と経済学と学問の分野は違っても、同じ頃にドイツ留学しており、宇野弘蔵には文学趣味もあったから、お互いどんな話をしたのだろうかと興味深いところである。果たして、漱石の「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論」が、ふたりの間で語られたことはあったのだろうか。

二葉亭四迷は、西洋の思想を日本語で表現しようとする時、一度自分でロシア語で書いたものを、また日本語に直したという。漱石もまた、英国で、また帰国直後も英語で文章を書いている。そんな話を、小宮豊隆は宇野弘蔵としただろうか。二葉亭四迷と夏目漱石は批判的であった明治時代の自然主義の流行は、大正時代のマルクス主義の流行に通じている。そして、宇野理論はまさに漱石の文学創造に通じているように思うところである。

「坂の下」に生きた馬場兄弟と高野兄弟の二組の兄弟の内、馬場兄弟の思想と行動は、自由民権運動から大正デモクラシーに至る時代に、深く西洋に学びながらも日本社会への内在的批判としてあった。そして、高野兄弟の行動と学問は、ロシア革命とヴォルシェヴィズム流入の時代に、やがて宇野弘蔵をして宇野三段階論を生みだしたのであり、その直接の場は仙台であった。

かつて芭蕉が『奥の細道』を歩いたように、誰もが北を目指したか、北に流れた。
1896年(明治29)9月に、「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい。こう思って、深い深い溜息を吐いた。・・・またザアと降って来た」と仙台に向かった島崎藤村は、そこで「まだあげ初めし前髪の・・」の近代詩の金字塔『若菜集』を書きあげ、その8年後の1904年(明治37)9月に、「わたしは仙台の医学専門学校へ行くことにした。東京を出発してからまもなく、ある駅に着いた。日暮里と書いてあった。なぜか知らないが、わたしはいまもなおこの名を覚えている。・・・仙台は市であるが、さほど大きくはない。冬はとても寒かった。中国の学生はまだ誰もいなかった」(『藤野先生』)と書いた魯迅は、やがて、「必要なのは精神の変革である」として文学を志して仙台の医学専門学校を退学して上京、弟の周作人らと本郷西方町に家を借りたのだが、そこは以前に夏目漱石が住んだ家であった。漱石を愛読した魯迅は、漱石の『クレイグ先生』をモチーフにして、やがて『藤野先生』を書いたという。

漱石に私淑した武者小路実篤は『「それから」に就いて』という評を書き、やがてロシア革命を背景に「新しき村」づくりを始めた訳だが、ロシア革命以前の1914年(大正3)、堺利彦は大逆事件後の身過ぎ世過ぎに売文社を立ち上げて『へちまの花』を創刊、その創刊の「序」に以下のように書く。

近来、カフェとかバアとかいうものがはかに流行するが、しかしそれがみな大なり小なり常連のお客などこしらえて、それぞれ面白けなクラブになっている。わが『へちまの花』もやはりそんな意味で、文界の一小クラブになりたいと望んでいる。別に業々しい主張も抱負もないが、ただ売文社という殺風景な商店にもこれだけの余裕と趣味とのあることを見てほしい。

私は、大逆事件後の冬の時代にこの文章を書く堺利彦のこの感覚に脱帽である。それは、留学後の漱石が、平民社が解散し、幸徳秋水がアメリカに亡命した時代に『吾輩は猫である』に書いた諧謔に通じている。前述したごとく、堺利彦から『吾輩は猫である』の読後感のハガキが漱石に届き、翌年漱石は「堺枯川氏と同列に・・」と書き、鈴木三重吉宛に「命のやりとりをする維新の志士の如き烈しい精神で文学をやってみたい」と書いたが、それは、堺利彦の「ステ石 ウメ草」の生き方に通じている。堺利彦と夏目漱石の共感から日本の内発型土着社会主義は出発し、「ステ石 ウメ草」の生き方は、「脱労働力商品」的生き方につながっていると思うところである。それは、「日本の内発型土着社会主義から宇野理論の形成へ」、「宇野理論の再生と日本型社会主義への道」であり、そのためには、堺利彦論と仙台における宇野弘蔵を探ることが必要だと思う次第である。

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馬場兄弟

頭脳明晰にして独立した自由人の漱石は、また癇癪とわきまえのある人である。秘めた思いをモチーフにして小説を書くものの、人物もストーリーも見事に造形されて、国禁の思想じみたものを直接に描くことはなかった。そして、真意を分かってくれない頭の悪い弟子たちに対しては、時々癇癪を起したものと思われる。

しかし、明治の終わる頃、それはちょうど大逆事件を境にした頃からだろうか、漱石は胃潰瘍で血を吐きながらも、独立した自由人であることを貫徹していく。1911年(明治44)2月、文部省から文学博士号授与の通知が届くが、これを辞退。同じ頃、堺利彦はその年の初めに処刑された「逆徒」の遺族を歴訪している。

大逆事件後の生業に売文社を立ち上げた堺利彦は、1914(大正3に月刊『へちまの花』発行、「大杉栄と僕」を書き、「中学から高校にかわる頃」にそれを読んだ宇野弘蔵はアナキズムに関心を寄せた。同年4月 に漱石は『こゝろ』を書き、11月 には 『私の個人主義』の講演をした。

1915(大正4)に堺利彦は月刊『へちまの花』を月刊『新社会』と改題、「小さき旗上げ」をなし、宇野弘蔵はこれを熱心に読んだという。そして、同年3月25日挙行の第十二回衆議院選挙への馬場孤蝶の立候補を企画応援する。さらに、夏目漱石も馬場孤蝶の衆院選立候補の推薦人となり、推薦状の筆頭に名を連ね、『私の個人主義』を『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』(1915年実業乃日本社)に寄稿し、それはその巻頭に掲載された。

馬場孤蝶は「立候補の理由」(『反響』1915年3月号)について、次のように述べている。

民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動にまだ無ければならぬ。
一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として行はるるもので無ければならぬ。成人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。
故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正常なる活動に対して妨碍となり、不便であるといふ如きものであってはならぬ。(水川隆夫『夏目漱石と戦争』平凡社新書p242)

「孤蝶は、このような基本的理念のもと、具体的な改革案としては、選挙権の大拡張、軍備縮小、新聞紙法の改正、治安警察法の撤廃などを提示し、特にこの選挙の争点であった陸軍の二個師団増設については絶対反対を表明」(同)している。

馬場孤蝶は、先に樋口一葉の項で触れたように、明治20年代の日本のロマン主義運動『文学界』のメンバーであるが、一葉が「故馬場辰猪君の令弟なるよし」と日記に書いたように、アメリカに客死した自由民権運動家の馬場辰猪の弟である。

馬場辰猪は1850年に土佐生にまれ、1870~1874年、1875~1879年にイギリスに留学、帰国後は自由民権運動に参加、1885年に「爆発物取締規則」違反で逮捕され、無罪放免後1886年にアメリカに亡命。1888年にフィラデルフィアで客死している。

馬場辰猪がイギリスで生活した1870年代というのは、ヴィクトリア期の隆盛から、資本主義も変わり目の時代であり、モリスが活躍した時代である。その時代をリアルタイムに生きた日本人がいたとは驚きである。おそらく漱石も、馬場辰猪のことを知っていただろうと思われる。

馬場辰猪はアメリカ亡命後は日本政府の批判をした謂わば国賊でもあり、1888年(明治21)にアメリカで死んだ後、恩師であった福沢諭吉らによって日本に墓碑が建ったのは1896年(明治29)であったのに、それ以前に「孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし」と樋口一葉が馬場辰猪を知っているのにも驚かされる。

馬場孤蝶は『文学界』の後、彦根と浦和での中学教員を経て、日本銀行の行員となり、1906年(明治39)に慶応義塾の教授になり、佐藤春夫や西脇順三郎に影響を与えた謂わばモダンな文学者の先駆者であると思っていたら、大逆事件後に大杉栄等の近代思想社の集会や、平塚らいてう等の青鞜社の講演会に参加しているし、山川均と菊栄の結婚式の媒酌もしているの。衆議院選挙への立候補は、思い付きではないのである。

選挙の資金活動のために出版された『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集』に、馬場孤蝶立候補の仕掛け人のひとりである堺利彦は、以下のような『辰猪と勝弥』の一文を書いている。勝弥というのは、馬場孤蝶の本名である。

 「明治三年の末に生れて、明治の十年代を少年として過した私は、自由党改進党の諸名士に対して特別なる欽仰愛慕の感情を養うて居る。馬場辰猪君の名声の如きは最も深く私の頭に染みこんで居る。馬場勝弥君は明治二年の生れと聞く。辰猪君の名声が遠く九州の一少年に汲ぼした感化から考へて、勝弥君が直接に其の兄君から受けた感化の大なる事は私によく想像が出来る。
 馬場孤蝶の名が初めて文壇に現はれた時、あれは馬場辰猪の弟だと云ふ事を聞いて、私は特に深く注意を引かれて居た。・・・
 後、私が幸徳秋水と交るに及んで、秋水の土佐人たるが為に、殊に馬場兄弟に就いて語る事が多かった。秋水が最初の出獄の後、間もなく瓢然として米国に遊んだのは、馬揚辰猪の跡を学んだのだと評されて居た。私もそう考へて一種の面白味を感じて居た。そして若し秋水が辰猪君と同じく彼地に客死するの運命を持って居るのではあるまいかとさへ気遣って居た。・・・
 (大杉栄宅で初めて孤蝶君に会った帰り道に)私はもはや辰猪君の事を話しださずには居られなかった。すると孤蝶君も頗る気の乗った様子で色々辰猪君の事を私に話して呉れた。殊に其中で、私の確と覚えて居るのは、辰猪君が出獄して間もなく米国に赴く時、特に勝弥君に対して、男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だと云って別れたが、それきり辰猪君は米国で客死したのであるから、勝弥君に取っては、其の一言が亡兄の遺言となって居ると云ふ話である。
 私は大いに此話に動かされて、前に記した秋水の米国行の事なども話した後、あなたも一つ兄君の適意を継いで大いに政治界に活動を試みては如何ですかと、少し立入った話にまで及びかけた・・・」と。(※岩波書店『馬場辰猪全集』から)

これを読むと、馬場辰猪は出獄後アメリカに亡命する直前に最後に会った弟に、「男は一度やそこら牢にはいる位でなくては駄目だ」と言って別れ、馬場孤蝶が1915年という「冬の時代」に選挙に出馬したのは、堺利彦からうながされたからと言うよりは、アメリカに客死した悲運の兄の志を継いでのことだとも分かるのである。また、1905年(明治38)に幸徳秋水がアメリカに渡ったのは、同じく土佐の民権運動家の馬場辰猪がアメリカに亡命したことにならったことが分かる。また、それ以前に石坂公歴らの民権運動家がアメリカに渡ったのも、そうであったという。1870年代のイギリスに学び、アメリカに客死した民権運動家の思想と生き様は、その後の日本の社会主義や社会運動に引き継がれていったわけである。

結果的に選挙には落選した馬場孤蝶ではあったが、その盛り上がりは大正デモクラシーの幕開けとなり、その後も大学教授の傍ら自由主義的な社会改良運動家として講演や文筆活動を行っている。また、1912年に出版された『樋口一葉全集』の編集を行い、そこに樋口一葉の「日記」を載せたのも馬場孤蝶であった。一葉の妹のくに子が、一葉本人からは焼くように言われながらも、焼かずに残した一葉「日記」は、斎藤緑雨が預かり、1904年(明治37)に緑雨が危篤になった際に、緑雨から馬場孤蝶に託されたわけであった。

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『私の個人主義』と内発的変化

夏目漱石の文学的営為は、1900年(明治33)のイギリス留学からの帰国後、1904年(明治37)の『吾輩は猫である』の執筆以来本格的に開始され、1916年(大正5)12月の死による『明暗』の絶筆までつづいた。漱石が小説を書こうとしたことのモチーフは、前回見てきた通りだが、漱石が晩年にたどり着いた心境については、一般的には「則天去私」と言われている。では、漱石が晩年にたどり着いた思想は何かと言うと、やはり『現代日本の開化』で語られた「内発的開化」と『私の個人主義』とあろうか。

『現代日本の開化』は、大阪朝日新聞社が企画し1911年(明治44)に和歌山で行われた講演であり、外発的な開化とその「一大パラドックス」に対して、以下のように「内発的な変化」が提起されている。

・・この二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚が御互にある。・・・昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば、あるいは不幸の程度において違っているかといえば、活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。・・・これが開化の生んだ一大パラドックスだと私は考えるのであります。(岩波文庫『漱石文明論集』p22-25)
もして一言にしてこの問題を決しようとするならば私はこう断じたい、西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。・・・、西洋の開化は行雲流水の如く自然に働いているが、御維新後外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います。(同p26)

ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前中した通り私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。(同p38)

「生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない」ということなど、それから100年以上経った現在でもなお同様である。そして「ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろう」という提案など、現在の社会にもしてみたいものである。

もうひとつの講演の『私の個人主義』は、漱石が1914年(大正3)に学習院で行った講演で、聴衆は学習院に学ぶ支配階級の子弟たちである。漱石は、支配階級の子弟たちに向けて、「今までの論旨をかい摘んで見ると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重じなければならないという事。つまりこの三ヵ条に帰着するのであります」(岩波文庫『私の個人主義』p126)と語る。要は、漱石は「ノブレス・オブリージュ」を説いている訳であるが、さらに、以下のようにも語る。

必ずしも国家のためばかりだからというのではありません。またあなた方の御家族のために申し上げる次第でもありません。貴方がた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申し上げるのです。(岩波文庫『私の個人主義』p119)

御存じの通り英吉利という国は大変自由を尊ぶ国であります。それほど自由を愛する国でありながら、また英古利ほど秩序の調った国はありません。実をいうと私は英吉利を好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方なしに申し上げます。あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などは到底比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、小供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。・・・彼らは不平があると能く示威運動を遺ります。しかし政府は決して干渉がましい事をしません。黙って放って置くのです。その代り示威運動をやる方でもちゃんと心得ていて、むやみに政府の迷惑になるような乱暴は働かないのです。(同p127)

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。・・・私は貴方がたが自由にあらん事を切望するものであります。同時に貴方がたが義務というものを納得せられん事を願って已まないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです。(同p129)。

これらの発言は、永井荷風が『あめりか物語』に、「余は如何なる点からしても戦争と云う事に幾分の趣味も有する事が出来ない。又国家と云うものを尊重する事が出来ない」、「何につけても、吾々には米国の社会の、余りに、常識的なのが気に入らない。・・フランスに於いて見るような劇的な社会主義の運動もない。・・激烈な藝術の争論もない。何も彼も、例の不文法(Unwritten law)と社会の輿論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は、吾々には堪えがたいほど健全過ぎる」と書くのに通じている。

漱石はイギリスを嫌っても、イギリス流の自由主義と個人主義は会得していたし、荷風はアメリカを嫌ったが、アメリカ流の自主独立にして公共的な市民精神は会得していた訳である。そして、日本に帰った後の漱石と荷風の文学行為は、その本質において通底している。大逆事件とすれちがった荷風は『花火』を書き、漱石は『こころ』を書いた。「御大葬の夜私はいつものとおり書斎にすわって、合図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知の如く聞こえました」と。

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倫敦留学

漱石の自伝的小説『道草』(五十七)に、「彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられても其方に使ふ時間を借がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの學校から四十圓貰って、それで満足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺に取られた。残る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食ってゐた。然し彼は其間に遂に何事も仕出かさなかった」という文章がある。大学を卒業したての頃の話のようで、ずいぶん質素な生活をしているが、その頃の漱石は頭の中では何を考えていたのだろうかと思うと、1892年(明治25)10月に「文壇における平等主義者ウオルト・ホイットマンの詩について」という以下のような文章を書いており、そこには後にイギリス留学を経て、「私の個人主義」にいたる漱石の片鱗がうかがえる。

此の詩人名を「ウオルト、ホイットマン」と云ひ百姓の子なり・・・斯く米人は冷淡にもかかる書には手をだに触ざりしが「エマーソン」の慧眼は早くもその真価を看破し一篇の書簡を送って大いに著者を祝せり・・・即ち「ホイットマン」の「ホイットマン」たり共和國の詩人たり平等主義を代表する所なるべし元来共和國の人民に何が尤も必要なる資格なりやと間はゞ独立の精神に外ならずと答ふるが適常なるべし独立の精神なきときは平等の自由のと噪ぎ立っるも必竟机上の空論に流れて之を政治上に運用せん事見直なく之を社会上に融通せん事益難がらん人は如何に云ふとも勝手次第我には吾が信ずる所あれば他人の御世話は一切断はるなり天上天下我を束縛する者は只一の良心あるのみと澄まし切って険悪なる世波の中を潜り抜け跳ね廻る是れ共和同氏の佩風なるべし・・・「ホイットマン」は社会的の人物なり(俗物の謂にあらず)自ら社会の一分子となり天下の公衆を助け叉天下の公衆に助けられん事を冀ふ者なり・・・

ホイットマンを見つけたエマソンも大したものだが、ホイットマンが死んだのと同じ年に彼を日本に紹介した漱石も大したものである。超絶主義を提唱したエマソンは、イギリス資本主義形成期において反時代主義的であったカーライルと交流して影響を受け、やがてアメリカン・ルネッサンスが生まれた。また、エマソンの舎弟のソーローはイギリスのカーペンターに大きな影響を与え、漱石が留学した頃のロンドンは、これらの思想が集まった都市であり、漱石はカーライル博物館に4回も足を運んでいるのをはじめ、思想家の暮した跡地や書店めぐりをして、沢山の本を買いあさっている。

1902年(明治34)10月に文部省からの電報で、「夏目精神に異常あり、藤代へ保護帰朝すべき旨伝達すべし」の依頼を受けた藤代禎輔は、「十一月初旬、藤代禎輔は漱石に葉書を出し、一緒に帰国することを勧める。その葉書を受け取った翌日、藤代禎輔を訪ね、スコットラソドの旅行で帰国の準備ができぬという理由で断り、藤代禎輔も、漱石に異常を認めなかったので、保護して帰る必要なしと知り、先に出発することにした」という。

同年11月7日に漱石は「藤代禎輔を、ケソジソトソ博物館と大英博物館に案内し、大英博物館のグリルで焼肉を食べエールを飲み、『もう船まで送って行かないよ』と云って別れる。藤代禎輔は、『留学生としてよくもこんなに買ひ集めたと思ふ程書籍が多い』と驚いたという。(集英社版『漱石文学全集』別館)。

漱石のロンドン生活は、安下宿暮らしと神経衰弱、最後は「漱石発狂す」で知られるが、先進の地で日本の将来を憂いながら一生懸命に勉強するとすれば、あたりまえの姿でもあろうか、『倫敦消息』には以下のように書いている。(岩波文庫『漱石文明論集』p280)

しかるにあらゆる節倹をしてかようなわびしい住居をしているのはね、一つは自分が日本におった時の自分ではない単に学生であるという感じが強いのと、二つ目には折角西洋へ来たものだからなる事なら一冊でも余計専門上の書物を買って帰りたい慾があるからさ。・・・人は「カムバーウェル(※テームズ川東南側一帯の労働者街」のような貧乏町にくすぼってるといって笑うかも知れないがそんな事に頓着する必要はない。

ロンドンでの漱石の姿は、先に書いた質素に暮しながらホイットマンを読む学生時代の漱石からつながっている。先に引用した1902年(明治35)10月に漱石がロンドンから中根重一宛にあてた手紙のつづきを読むと、「発狂」どころか、「かやうな決心を致候」と、実に冷静にその後の研究を構想しているのが分かるのである。

 著述の御目的にて材料御蒐集のよし結構に存候。私も当地着後(去年八、九月頃より)一著述を思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少しづつかくのとを商買に致候。同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない、人に見せても一通はづかしからぬ者をと存じ励精致をり候。・・・ついで故一応申上候。先づ小生の考にては「世界を如何に観るべきやといふ論より始め、それより人生を如何に解釈すべきやの問題に移り、それより人生の意義目的及びその活力の変化を論じ、次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ず」るつもりに候。かやうな大きな事故、哲学にも歴史にも致治にも心理にも生物学にも進化論にも関係致候故自分ながらその大胆なるにあきれ候事もこれあり候へども思ひ立候事故行く処まで行くつもりに候。かやうな決心を致候と但欲しぎは時と金に御座候。日本へ帰りて語学教師などに追つかはれ候ては思索の暇も読書のひまもこれなきかと心配致候。時々は金を十万円拾って図書館を立てその中で著書をする夢を見るなど愚にもつかぬ事に御座候。〔後略〕

そして、場末の安下宿に立てこもり、留学生活も1年以上が過ぎた頃の心境を、漱石は『私の個人主義』の中で、以下のように語っている。

私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字を漸く考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。・・・私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。・・・そうして今のようにただ人の尻馬にばかり乗って空騒ぎをしているようでは甚だ心元ない事だから、そう西洋人ぶらないでも好いという動かすべからざる理由を立派に彼らの前に投げ出して見たら、自分もさぞ愉快だろう、人もさぞ喜ぶだろうと思って、著書その他の手段によって、それを成就するのを私の生涯の事業としようと考えたのです。その時私の不安は全く消えました。私は軽快な心をもって陰曇な倫敦を眺めたのです。(岩波文庫『漱石文明論集』p114-115)

1902年(明治35)11月7日、ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで、藤代禎輔とエールで乾杯した漱石は「発狂」どころか、ふっきれていたと私には思われる。

1903年(明治36)1月の帰国後、漱石は一高、帝大から明治大学講師まで、「語学教師などに追つかはれ」ることになるのだが、やがて小説家への道を歩み出す。そして、小説を書き出した漱石の作品が、当時の日本文学の主流となった自然主義とは別の道であったのは、「同じ書を著はすなら西洋人の糟粕では詰らない・・・世界を如何に観るべきやといふ論より始め・・・次に開化の如何なる者なるやを論じ、開化を構造する諸原素を解剖しその聯合して発展する方向よりして文芸の開化に及す影響及その何物なるかを論ずるつもりに候」から来ていると思われる。要は、土着・内発型の文学への道である。1906年(明治39)10月26日の鈴木三重吉宛の手紙には、以下のようにある。

・・単に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥して喜んで居る。然し大なる世の中はかかる小天地に寝ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさざるべからざる敵が前後左右にある。・・丁度維新の当士勤王家が困苦をなめた様な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違ったら紳経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。・・・僕は一面に於て俳諧的文學に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやって見たい。それでないと何だか難をすてて易につき劇を厭ふて閑に走る所謂腰抜文學者の様な気がしてならん。破戒にとるべき所はないが只此点に於テ他をぬく事数等であると思ふ。然し破戒ハ未ダシ。・・

前に書いたように、漱石が「小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候」と書いたのは1906年(明治39)であり、1907年(明治40)の6月には首相の西園寺公望から他の文士とともに「我国小説に関する御高話拝聴旁素飯差上度」という招待状を受けたが、二葉亭四迷と夏目漱石はこれを辞退している。

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『明暗』と則天去私

1909年(明治42)8月に『それから』を書き終えた漱石は、旧友の中村是公の誘いで満韓旅行へと出かけ、翌1910年3月からは『門』の連載を始めるが、執筆途中に胃潰瘍で入院。伊豆の修善寺に出かけ転地療養するも、所謂「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血をおこして、生死をさまよった。時代的にはちょうど今から100年前、大逆事件が起きて、幸徳秋水らが刑死した頃のことである。

その後、漱石は『三四郎』『それから』『門』の前期三部作に引きつづいて、胃潰瘍を抱えながら、『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作を書く訳だが、ここでは後期三部作には触れずに、最後の大作『明暗』について書く。前期三部作、後期三部作という呼び方については、高校生の時に前述した野山先生から教えられた訳であるが、もうひとつ、野山先生は『明暗』における漱石の心境として、「則天去私」という言葉を教えてくれた。

則天去私とは何か、高校生の私は野山先生が案内してくれた小宮豊隆の『夏目漱石』(岩波書店)という、箱入上製で800円と当時にしては高かった本を買った。そこには、則天去私とは何かについて、以下のようにある。

天に則って私を去る世界である。換言すれば、漱石が、人間の心の奥深く巣食っているエゴイズムを摘出して、人人に反省の機会を与え、それによって自然な、自由な、朗らかな、道理のみが支配する世界へ、人人を連れ込もうとすることである。(p291)

そして私は、則天去私とはそういうことなのだと、漠然と思ってきたのであったが、今回『明暗』を再読しての感想は、そうではないのではあるまいか、ということであったのだった。どちらかと言うと、「道理のみが支配する世界」への見切りが則天去私ということなのではあるまいか、と思ったわけであり、これは二葉亭四迷が文学(真理を求めて正直に生きること)に見切りをつけた心境に通じているように思われる。

しかし、漱石は文学に見切りをつけた訳ではない。それどころか、二葉亭四迷の『浮雲』に始まった日本の近代文学は、『明暗』において金字塔を打ち立てたとさえ言えるだろう。これまで書いてきたように、私的には『浮雲』の文三、『其面影』の哲也は、『それから』の代助へと引き継がれ、さらに『門』における姦通後のの宗助、さらに『明暗』では、愛した清子とは別の妻、私的には『虞美人草』の藤尾や『三四郎』の美禰子のその後を思わせるお延をめとって、小市民化した津田へと造形されている。

江藤淳は、津田を「俗物才子、冷笑的で、自己の保身には極端に敏感な、洗練された感覚と強い虚栄心を持った、小心翼翼たる上層中流階級の紳士」(『夏目漱石』勁草書房)としているが、初めてお延が津田と会った時の津田の登場の仕方などは、私には代助を思わせる。しかし、この「代助」は、親に頼って生きる男で、清子のことをお延は知らない。

そして『明暗』には、『それから』の平岡を引き継いだようなゴロジャーナリストで、「僕は未だかつて損になるべき何物をも最初からもっていないんだからね」と居直る小林を、存在感たっぷりのわき役として登場させ、小林に幸徳秋水とドフトエフスキーを語らせながら、津田から外套や金を巻き上げさせる。江藤淳は、こう書いている。

則天去私の作家は世俗的な感情である階級的復讐心をもった小林を、貧乏インテリのすね者に設定した時、不幸にも則天去私を放棄したのである・・・・作家漱石は、自らの東洋文人風の趣味よりも、ここで世俗的日常茶飯の塵にまみれて、小林という新しい人間を創り出すことに、格段の興奮を覚えているのである。

この事実は、一つの可能性を暗示している。それに若し漱石が生き永らえたとして、この可能性に忠実であったとするなら、来るべき新しい作品の主人公は、小林や藤井のような人物達、『明暗』で印象的なわき役を演じている貧乏インテリ達ではないかということである。(p206-207)

『明暗』は、1916年(大正5)5月26日から12月14日まで、朝日新聞に連載され、漱石の死をもって、未完のまま終わっている。漱石を追っている内に、時代は大正に入ってしまったが、時代は大逆事件で窒息させられた社会主義運動が、再び「小さき旗げ」(1915年)した頃である。また、江藤淳は、以下のようにも書いている。

小林というプロレタリア意識のある人物を描くことによって、作者は、これら鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰の底に押しかくされている、ひがみや憎悪に照明をあて、それらの感情に、直截な、知的な表現をあたえたのではなかったか。小林は、このような不遇なインテリが、容易に熱狂的な左翼思想家になり得ることを強く暗示しているのである。(p199)

むかし私が、この江藤淳の『夏目漱石』を読んだ時に、島崎藤村の「自分のような者でも、どうかして生きたい」批判、「鈍才達の感傷的な芸術に対する信仰」批判を読んで、評論の鋭さには感心したものの、私が批判されているようで、なじめないものがあった。その頃、私は『それから』で言えば、自分は代助のつもりであったのだったが、素直に考えれば、どう見たって私は平岡か小林である。しかし、私は多少の左翼思想を持ってはいるが、「熱狂的な左翼思想家」ではない。そして、漱石が『明暗』を書いた時代に、江藤淳に言わせれば「社会の片隅に置き去られたような群小ジャーナリストや不遇な文士・・・教養と敏感な感受性を持ちながら社会的地位に恵まれない。つまり彼らは、自分たちの悲惨な生活を悲惨とみとめ得る知的能力と自尊心を持つ故に一層みじめな劣敗者」(p198)でありながら、「熱狂的な左翼思想家」にはならなかった社会主義者もいた訳で、それが、とりもなおさず堺利彦なのである。だから、ポスト則天去私の時代は、堺利彦の売文社に始まる訳である。

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『猫』から『道草』へ

○Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず。団栗の脊くらべを生ず。数千の耶蘇、孔子、釈迦ありといへと遂に数千の公民に過ぎず。・・・
○昔は御上の御威光なら何でも出来た世の中なり。
○今は御上の御威光でも出来ぬ事は出来ぬ世の中なり。
○次には御上の御威光だから出来ぬといふ時代が来るべし。威光を笠に着て無理を押し
という。

上記は、夏目漱石が1905~06年(明治38~9)に書いた「断片」(※小宮豊隆整理)にあり、そのまま『吾輩は猫である』の中で、獨仙君が語るのであるが、最初の「Self‐consciousのage は individualismを生ず。社会主義を生ず、levelling tendencyを生ず」の部分だけは『吾輩は猫である』には書かれてはいない。漱石は、社会主義を意識しながらも、それを直接表現することは避けており、すべては諧謔の中に包み込まれている。

しかし、漱石は西洋の近代文明がどのようなものであり、それがどうなって行くかについては、苦沙彌先生を訪ねて来る哲学者や獨仙君に大いに語らせている。例えば、隣の学校の生徒にボールを打ち込まれた先生が腹を立てることに対して、哲学者は次のように語る。

西洋人のやり方は積極的積極的と云って近頃大分流行るが、あれは大なる欠点を持って居るよ。第一積極的と云ったって際限がない話しだ。いつ迄積極的にやり通したって、満足と云ふ域とか完全と云ふ境にいけるものぢやない。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。・・・山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ。それだから君見給へ。禅宗でも儒家でも屹度根本的に此問題をつらまへる。・・・とにかく西洋人の積極主義許りがいいと思ふのは少々誤って居る様だ。君の様な貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしやうと云ふのが抑も君の不平の種さ。どうだい分ったかい。

要は「消極的の修養で安心を得ろ」と説法した訳である。また、次のようにも語る。

とにかく人間に個性の自由を許せば許す程御互の間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチエが超人なんか担ぎ出すのも全く此窮屈のやり所がなくなって仕方なしにあんな哲學に変形したものだね。・・・吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果不自由を感じて困って居る。夫だから西洋の文明杯は一寸いいやうでもつまり駄目なものさ。之に反して東洋ぢや昔しから心の修行をした。その方が正しいのさ。見給へ個性発展の結果みんな神経衰弱を起して、始末がつかなくなった時、王者の民蕩々たりと云ふ句の價値を始めて発見するから。無為にして化すと云ふ語の馬鹿に出来ない事を悟るから。

この頃の漱石には、西洋文明の「Self‐consciousnessの結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二十世紀の共有病なり」(「断片」)に対して、『論語』にある「王者の民蕩々たり(太平の民はのびやかである)」や『老子』にある「無為にして化す(何もしないで感化をおよぼす)」をもってするようなところがある。しかし、「然れどもその自覚せる時は既に神経過敏にして何らの術もこれを救済する能はざるの時なり」(「断片」)とあるように、その後の漱石の歩みは、それにつきるものではない。

1915年(大正4)6~9月に書かれた『道草』は、『吾輩は猫である』と同じ時代を描いた漱石の自伝的小説ではあるが、表現、内容とも全く異なる小説である。その第「五十七」には、以下のようにある。

 無信心な彼は何うしても、『神には能く解ってゐる』と云ふことが出来なかった。・・彼の道徳は何時でも自己に始まった。さうして自己に終わるぎりであった。・・・極めて低級な欲望で、朝から晩迄齷齪してゐるやうな島田をさへ憐れに眺めた。
 「みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何にも欲しくないのだ」
 斯う考へて見ると、自分が今迄何をして来たのか解らなくなった。
 彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられても其方に使ふ時間を借がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの學校から四十圓貰って、それで満足してゐた。彼はその四十圓の半分を阿爺に取られた。残る二十圓で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食ってゐた。然し彼は其間に遂に何事も仕出かさなかった。
其時分の彼と今の彼とは色々な点に於て大分変ってゐた。けれども経済に余裕のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、何處迄行っても変わりがなささうに見えた。
彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうち何方かに中途半端な自分を片付けたくなった。・・・何うして好いか解らない彼はしきりに焦れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。

『吾輩は猫である』から『道草』へ至る間に、おそらく「金の力で支配出来ない真に偉大なもの」が漱石の眼に這入って来たのであり、そのプロセスこそが漱石の作品群であり、私が私なりに見つけようとするものである。

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夏目漱石と堺利彦

堺利彦は、1903年(明治36)11月に幸徳秋水とともに万朝報社を辞めて平民社を立ち上げ、翌年の1~4月にモリスの『理想郷』を「平民新聞」に連載、同年11月発行の「平民新聞」創刊1周年記念号には、幸徳秋水との共訳で『共産党宣言』を載せ、この辺りが日本の社会主義の出発点とされている。

1900年(明治33)にイギリスに留学した夏目漱石は、1902年(明治35)3月に義父の中根重一宛の手紙に、以下のように書いている。

(日英同盟)事件の後本國にては非常に騒ぎ居候よし斯の如き事に騒ぎ候は恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの能り鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん・・・国運の進歩の財源にあるは申までもこれなく候へば御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩はこの財源を如何に使用するかに帰着致候。ただ己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候ともただ財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。この不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ凍死せしめもしくは無教育に終らしめかへつて平凡なる金持をして愚なる半張を実行せしめる傾なくやと存候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、かっ耶蘇教の随性と仏国革命の殷鑑遠からざるよりこれら庸凡なる金持どもも利己一遍に流れず他のため人のために尽力致候形跡これあり候は今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候。カール・マークスの所論の如きは単に純粋の理窟としても欠点これあるべくとは存候へども今日の世界にこの説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へどもちよっと気燄が吐きたくなり候間かやうな事を申上候。「夏目が知りもせぬに」などと御笑被下まじく候。・・・

100年以上前に書かれた「財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候・・・欧洲今日文明の失敗は明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候」などは、現在にもそのままあてはまる。また、「日本にてこれと同様の境遇に向ひ候はば(現に向ひつつあると存候)かの土方人足の智識文字の発達する未来においては由々しき大事と存候」という認識からは、やがて『明暗』における小林の登場が予見されている。

江藤淳が『夏目漱石』に、漱石はロンドン留学中「ひそかに社会主義思想に対する関心すら示していたのではないか」と書く通りであり、漱石はカーライルだけでなく、マルクス、ラスキン、モリスなどを読んだものと思われ、それは堺利彦よりも早い。では、漱石はマルクスの何を読んだのかと考えると、おそらく漱石の「漱石山房蔵書目録」にもある英語版の『資本論』を既に読んでいたのであろうと思われる。

さらに「漱石山房蔵書目録」にはモリスの『地上楽園』があり、漱石はロンドンでモリスのV&Aのグリーン・ダイニングルームで食事していたようであり、帰国後は「倫敦塔」や「カーライル博物館」を『韮露行』という短編集として出版するのだが、その装丁はウィリアム・モリスにならったという。

漱石は、「ロンドン留学の最後にモリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで、藤代禎輔とエールで乾杯し」、1903年(明治36)年1月に帰国したのであるが、漱石の「社会主義思想に対する関心」はその後どうなったのであろうかというのが、漱石再読のポイントでる。そして、それを作品に即して書こうと思うのだが、少々力仕事になりそうなので、ここには漱石と堺利彦との関係だけを書く。

漱石は、1905年(明治38)年1月発行の「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を載せ、好評を得て以降も連載するのだが、同年の10月下旬に、堺利彦(枯川)からエンゲルスの肖像写真のある『平民社論叢書』と、以下の『吾輩ハ猫デアル』の感想が送られて来た。

「新刊の書籍を面白く読んだ時、其の著者に一言を呈するは礼であると思ひます。小生は貴下の新書『猫』を得て、家族の者を相手に三夜続けて朗読会を開きました。三馬の浮世風呂と同じ味を感じました。堺利彦」と。

堺利彦は、1903年(明治36)4月に「社会主義は、まず家庭に於いて実現し発達させねばならないという思想」から「家庭雑誌」という雑誌を発行し、これは1905年(明治38)の平民社解散後もつづくのだが、その1906年(明治39)7月号にはこう書いている。「僕の家に小猫が一匹居る。名はナツメという。ある人はこれをナツメ先生と呼ぶ。またある人はこれを金之助とも呼ぶ」と。

そして漱石は、1906年(明治39)8月に東京の市電賃値が値上げされ、反対運動が暴動化し、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と書くのである。

夏目漱石と堺利彦は、お互いの面識はなかったものと思われるが、わずかなやりとりながら、ここにはお互いのシンパシーが感じられないだろうか。「カーライル博物館」は書いても、モリスについては直接には何も書かなかったが、『韮露行』の装丁ではモリスを模し、その蔵書には『地上楽園』のある漱石は、堺利彦が『理想郷』を訳していたのは知っていただろうと思われる。では、外来崇拝や自然主義や恐露病に対して嫌悪感を隠さない漱石が、堺利彦にシンパシーしたのはなぜであろうか。

堺利彦は、1904年(明治37)「予はいかにして社会主義者となりしか」に、「予の少年の時、まず第一に予の頭にあった大思想は、言うまでもなく論語孟子から来た儒教であった。次にはすなわち民約論やフランス革命史から来た自由民権説であった。・・・予の社会主義は、その根底においてはヤハリ自由民権説であり、ヤハリ儒教であると思う」と書いている。 また、同年の「晩夏初秋の感」(「家庭雑誌」9月号)には、以下のように書いている。

去年平民社を起こして以来、予の家の支出は常にその収入を越えていた。しかも収入を増さんがために、予はかつて何らの運動をしたことが無い。予の全力は平民社の事業に注がれていた。この家庭雑誌にすら毎号寄稿することができぬほどに多忙であった。そして平民社からもらうだけの金で、ただやれるだけやって行く。それ以上の金を得ようとも思わず、それ以上の事をしようとも思わず、貧乏の間にも心は誠に気楽であった。しかるに巣鴨行きという事件が突然として起こった。
・・・人はこれをこじき生活と笑うか知れぬが、予はこのこじきの生活に安んずるがよいではないか。月給の多寡にあせったり、貯金や内職に苦労をしたりして、そして独立だの独歩だのと威張ろうより、人の親切と自然の成行きとに打ちもたれて、流れに従って行く方が、何ほど気楽で、何ほど安心であるか知れぬ。予はともかくも平民社からいくらかの月給をもらっている。予と予の女児との生活はそれでもってささえられる。予はただ平民社の事業と予の主義とのために働きうるだけ働けばそれでよいのだ。予はかくのごとく一身一家の財政において全然他力主義を取ることとなった。

これらを読むと、堺利彦はもうほとんど『吾輩は猫である』の苦沙彌先生なのである。そして、ここ夏目漱石と堺利彦の出あいの中に、日本の内発型土着社会主義「労農派」の出発点があると、私は思う訳である。

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『二百十日』と『野分』

漱石の『二百十日』と『野分』は、昔は漱石のものは一通り読もうということで読んだ本だったから、『二百十日』は、嵐の中阿蘇山に登るという程度の印象しか覚えていなかったが、再読すれば、「華族と金持」批判の書である。さらに、「白井道也は文学者である」に始まる『野分』は、短編でもあり昔読んだ時の印象は乏しかったが、再読すれば、物語の最後で白井道也は「現代の青年に告ぐ」というテーマの演説会を開き、それはそのまま当時の漱石の声であるように思える。

『野分』に、演説会に行こうとする白井道也と、行かせまいとする妻との間で、以下のやりとりがある。

「今日の演説は只の演説ではない。人を救ふための演説だよ」
「人を救ふって、誰を救ふのです」
「社のもので、此間の電車事件を煽勤したと云ふ嫌疑で引っ張られたものがある。所が其家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をして其収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
「そんな人の家族を救ふのは結構な事に相違ないでせうが、社会主義だなんて間違へられるとあとが困りますから・・」
「間違へたって構はないさ。国家主義も社会主義もあるものか、只正しい道がいいのさ」。

そして、演説会で白井道也は以下のような話をする。

「自己は過去と未来の連鎖である」。
「人間が腐った時、叉波瀾が起る。起らねば化石するより外に仕様がない。化石するのがいやだから、自ら波瀾を起すのである。之を革命と云ふのである」。
「英国を鼓吹して憚からぬものがある。気の毒な事である。己に理想のないのを明かに膨露している。・・凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばならぬ。奴隷の頭脳に雄大な理想の宿りやうがない。西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人はある程度において奴隷である」。
「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。・・然し・・高等な労力に高等な報酬が伴ふであろうか・・今の世でも教師の報酬は小商人の報酬よりも少ないのである。・・労力の高下では報酬の多寡はきまらない。・・金があるから人間が高尚だとは云へない。金を目的にして人物の価値をきめる訳には行かない」と。

『野分』は、1907年(明治40)1月に「ホトトギス」に発表された。執筆されたのは、1906年(明治39)12月とのことであるが、同年8月に東京の市電賃値が値上げされ、反対運動が暴動化している。そして、漱石が市電賃値の値上反対の運動に加担していると書かれた新聞記事を送ってくれた友人に対して、8月12日に漱石は以下の手紙を送っている。

「都新聞のきりぬきわざわざ御送被下難有存候電車の値上げには行列に加わらざるも賛成なれば一向差し支無之候。小生もある点に於て社会主義故、堺枯川氏と同列に加わりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事も予期し居候」と。

そして、9月に漱石は『二百十日』を書き、12月には『野分』を書いたのだった。『野分』の中で白井道也が演説会をやる神田の演説会場は、社会主義者もよく使う場所であり、市電賃値の値上反対の運動は堺利彦らが起こしている。果たして、その頃の漱石は何を考えていたのだろうか。荒正人は『野分』は「小説としてみれば、未熟である。だが・・漱石の文学の原型を探るうえには、思いがけず大切な作品である」(集英社『漱石文学全集』4巻解説)と書いている。

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『門』

次は『門』である。『門』は、1910年(明治43)3~6月に朝日新聞に連載された小説で、『それから』の続編的な作品であり、私はいつも『それから』とセットで読んだ。『それから』は松田優作主演の映画のイメージがあって、代助には距離を感じてしまうのだったが、『門』の宗助には、そのつつましやかな暮らしぶりからして、リアリティとシンパシーを感じるのであった。

主人公の宗助は、毎日電車で丸の内にある役所に通う謂わば腰弁である。日曜日にふらりと街に出て、駿河台下で電車を降りて「本屋の前を通ると、屹度中へはい入って見たくなったり、中にはい入ると必ず何か欲しくなったりするのは、宗助から云ふと、既に一昔前の生活である」。そして、日曜日も終わる頃になると、「明日から・・叉せっせと働かなくてはならない身体だと考えると・・残る6日半の非精神的な行動が、如何にも詰まらなく感ぜられた」りするのであった。

宗助とその妻の御米の日常風景は下記の如くで、かつて学生を止めて家を出た後に団子坂下の崖下のアパートで新婚生活を始めた頃と、10年前に会社勤めを止めてアルバイト生活を始めた頃に読んだ時には、私の気分は正に宗助であったのだった。

「毎日役所に出ては叉役所から帰って来た。帰りも遅いが、帰ってから出掛けるなどといふ億劫な事は滅多になかった。客は殆ど来ない。・・夫婦は毎夜同じ火鉢の両側に向き合って、食後一時間位話をした。話の題目は彼等の生活状態に相応した程度のものであった」。
「苦しい時には、御米が何時でも宗助に、『でも仕方ないわ』と云った。宗助は御米に、『まあ、我慢するさ』といった」。
「宗助はそれから湯を浴びて、晩食を済まして、夜は近所の縁日に御米と一所に出掛けた。さうして手頃な花物を二鉢買って、夫婦して一つづつ持って帰って来た。夜露にあてた方が可かろうと云ふので、崖下の雨戸を明けて、庭先にそれを二つ並べて置いた」。
「『外套が欲しいって』、『ああ』、御米は夫の顔を見て、さも気の毒だと云ふ風に、『御拵へなさいな。月賦で』と云った。宗助は『まあ止さうよ』と急に侘しく答えた」。
「・・事に乏しい一小家族の大晦日は、それで終わりを告げた」と、まあこんな具合である。

そして、「彼の慢心は・・既に銷磨し尽していた。彼は平凡を分として、今日迄生きて来た」という宗助が、「僕は一寸職業を探して来る」と言って出掛けた代助の「それから」であるとすれば、宗助もまた漱石が観念的に造形した人物であると私には思われる。宗助にとって役所勤めは「つまらない」「非精神的な行動」であるということは、宗助は「第二の世界」に生きる人のその後の生き様として描かれていると、私には思える訳である。

「第二の世界」に生きる人というのは、『三四郎』においては廣田先生と野々宮さんであり、『それから』においては代助であると言える訳だが、廣田先生とか野々宮さんとか代助みたいな学者や遊民は、世の中から見れば、ごく少数の人である。しかし、宗助みたいに一見腰弁として生きている人たちの中にも「第二の世界」に生きる人がいるとすれば、「第二の世界」に生きる人の数はずっと多くなる。そして私も、団子坂下のアパートで生活し始めて以来、そういう生き方をしようと思って来た訳で、現在もそのつもりであるのだ。

『門』の始めの辺りで、伊藤博文の暗殺事件が語られているから、物語の背景は1909~1910年の冬が終わる頃までで、漱石の執筆時期とそう変わらない。そして1910年6月、漱石が『門』を書き終えた頃、今から丁度100年前のことであるが、幸徳秋水が大逆事件の容疑で逮捕され、『門』は「うん、然し叉ぢき冬になるよ」の宗助の言葉で終わる。

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『それから』

次は『それから』である。『三四郎』、『それから』、『門』は3部作と言われ、どれも好きな小説で、それこそ何度も読んだ。『それから』を最初に読んだのは高校生の時で、その時に「一日本を読んだり、音楽を聞きに行ったり」する「高等遊民」という言葉を覚え、憧れた。二度目に読んだのは、大学を辞めて父と喧嘩して家を出た時で、その時は志賀直哉の『和解』にも通じる「父と子」というテーマで読んだ。三度目に読んだのは、会社勤めを辞めた時で、その時は同じ頃に再読した二葉亭四迷の『浮雲』もそうであたが、謂わば「失業」小説として読んだ。これは、代助の友人の平岡の失業もあるが、最後に代助自身が「僕は一寸職業を探して来る」で終わるところなど、ほとんどわが身のことであった。

『それから』は、1909年(明治42)6~10月に朝日新聞に連載された。『三四郎』は、島崎藤村の『春』の次の朝日新聞の連載小説であったが、『それから』は、大塚楠緒子の連載につづくものであった。

大塚楠緒子は、漱石の旧友であった大塚保治の妻であり、東大教授であった大塚保治は小説書きになろうとする漱石に東大教授の職を勧めている。そして、1910年(明治43)に大塚楠緒子が35歳の若さで死んだ時に、漱石は「有る程の菊抛げ入れよ棺の中」という激情のこもった句をたむけている。

『三四郎』に比べて『それから』では、主人公の女性への思い入れがことのほか激しい。そして、「三四郎」のモデルが小宮豊隆であり、「ミネ子」のモデルが平塚雷鳥であったようには、代助と三千代のモデルはありそうにない。代助と三千代は、「彼は三千代に對する自己の責任を夫程深く重いものと信じてゐた。彼の信念は半ば頭の判断から来た。半ば心の憧憬から来た。二つのものが大きな濤の如くに彼を支配した」(p623)とあるように、漱石が観念的に造形した人物だと、私には思われる。

では、なぜ漱石はそうしたのかと言えば、『三四郎』で提起した「第二の世界」の生き方を観念的に書いたのが『それから』であろうと、私には思われるからである。そして、そこで代助は、「是等(※父、兄、平岡等)を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会があった。代助には此社会が今全然暗黒に見えた。代助は凡てと戦ふ覚悟をした」(p613)。要するに、「是等」父、兄、平岡らは謂わば「第一の世界」と「第三の世界」の人であり、代助は「第二の世界」を生きる覚悟をした訳である。

同時にそれは、漱石自身の生き方にしてみれば、大塚保治の勧めてくれた東大教授という地位も収入も安定した道を断って、小説書きの世界に入るということなのであるが、漱石が『それから』を書いたのは、大塚保治への断りの説明と言うよりは、かつて思いを寄せた大塚保治の女房の大塚楠緒子への、漱石なりの禁断のラブレターであったのではないかと、私は思うのである。

また、漱石にはさらに深く秘めたる思いがあったように思う。『それから』は謂わば姦通小説であり、それがベンガル湾上での二葉亭四迷の死を契機とするように書き起こされたのは、私は二葉亭の『其面影』の影響かと思っていたのだったが、今回読んで思うのは、姦通は禁断の行為の例えであり、漱石の頭の中にはもうひとつ禁断の思想として、社会主義があったのではないかということである。

『それから』には、以下のように赤新聞の記者になった平岡との会話があって、平岡の口から突飛に幸徳秋水の名が出てくる。

・・すると、平岡は斯う云った。
「僕は経済方面の係りだが、単にそれ丈でも中々面白い事実が挙がってゐる。ちと、君の家の会社の内幕でも書いて御覧に入れやうか」
 代助は自分の平生の観察から、斯んな事を云はれて、驚ろく程ぼんやりしては居なかつた。
「書くのも面白いだらう。其代り公平に願ひたいな」と云つた。
「無論嘘は書かない積だ」
「いえ、僕の兄の会社ばかりでなく、一列一体に筆誅して貰ひたいと云ふ意味だ」
 平岡は此時邪気のある笑ひ方をした。さうして、
「日糖事件丈じゃ物足りないからね」と奥歯に物の挟まつた様に云つた。代助は黙つて酒を飲んだ。話は此調子で段々はずみを失ふ様に見えた。・・・平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。・・・是も代助の耳には、真面目な響を与へなかつた。
「矢っ張り現代的滑稽の標本じゃないか」と平岡は先刻の批評を繰り返しながら、代助を挑んだ。代助はさうさと笑つたが、此方面にはあまり興味がないのみならず、今日は平生の様に普通の世間話をする気でないので、社会主義の事はそれなりにして置いた。

『それから』の時代背景は、日露戦争後の不景気な時代であり、「明治40年初めには株価が急落し、さらに同年10月アメリカに起きた経済恐慌の波が日本にも押しよせ、41年以降、不況状態が続いた。実業家である代助の父や兄は、その影響をまともに受けている」(荒正人編『漱石文学全集』集英社刊第5巻解説より)という設定になっている。

夏目漱石が朝日新聞社に入社した1907年(明治40)の1月に『日刊平民新聞』が発行され、2月には足尾銅山で坑夫の蜂起が起き、2月17日には日本社会党第2回大会が開かれ、その前年にアメリカより帰国してゼネラルストライキを唱えた幸徳秋水と、議会政策派の片山潜らとの間で論争があり、その直後に日本社会党は禁止になり、4月には『日刊平民新聞』も廃刊となった。

夏目漱石が『坑夫』を書いた1908年(明治41)の6月に、出獄した西川光二郎の歓迎会で「赤旗事件」が起きて、堺利彦と山川均と大杉栄が入獄し、7月には穏健な西園寺内閣が総辞職して、桂太郎内閣が成立した。ここから大逆事件の起こされる1910年(明治43)までの間に、漱石は『三四郎』と『それから』と『門』を書いたのである。

代助は「此方面にはあまり興味がない・・社会主義の事はそれなりにして置いた」とあるのが、代助には興味はないのかもしれないが、それを書いた漱石には、社会主義への興味は大いにあったように思われる。幸徳秋水のことは、『明暗』においても『それから』と同様のシチュエーションの中で繰り返されているのだ。

「第一の世界」に生きる父と、「第三の世界」に生きる兄は、わけの分からない代助の生き方について、兄をしてこう警告する。「世の中に分らない人間程危険なものはない。何を為るんだか、何を考へてゐるんだか安心が出来ない。御前は夫れが自分の勝手だから可からうが、御父さんやおれの、社会上の地位を思って見ろ。御前だって家族の名誉と云ふ観念は有ってゐるだらう」と。

しかし「第二の世界」は、いきなり所謂社会主義とは同じでない。代助は、幸徳秋水にはあまり興味がなくても、イギリスの画家ブランギンには趣味があるようである。そして漱石は、おそらくその両者に関心を持っていたのであろう。

『それから』には、社会主義宣言の影がある。戦前から国民文学者であった夏目漱石が社会主義傾向をもっていたなど、誰も口が裂けても言えなかったであろうし、戦後に江藤淳はさすがに気づいてはいても、それについては口を閉ざした。以下の『それから』の最後の文章は、代助が精神錯乱を起こした状況と言われるが、私には「赤=社会主義」宣言にしか読めないのだが、それは私の短絡だろうか。

忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し姶めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい眞赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはつと電車と摺れ違ふとき、叉代助の頭の中に吸ひ込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が眞赤になった。さうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと炎の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行かうと決心した。

以上が『それから』のエンディングである。思うに、漱石の言う「三つの世界」は、彼がロンドンに留学した経験から思いついたのではなかろうか。イギリスは階級社会で、保守的な階級社会(第一の世界)でありながら、市場経済(第三の世界)が大いに発展している。その真っ只中で漱石は、神経衰弱になりながら、必死になって「第一の世界」でも「第三の世界」でもないものを探し求めて、カーライル~モリスの世界(第二の世界)を見つけ出し、帰国後に東大教授にならずに小説家になった。そして書いた『三四郎』で、それを表現しようとした、とまあこうである。 漱石はイギリスで何を見たのか? おそらくそれは、キャピタリズムであり、 だから漱石は、ロンドンで神経衰弱になったのではなかろうか。

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『三四郎』

さて、次はいよいよ夏目漱石である。前述したように、50歳で会社勤めを辞めた私は、失業保険をもらいながら、フリーになったら読み直したいと思っていた二葉亭四迷と夏目漱石を再読した訳である。そして、『浮雲』や『それから』を正にリストラ失業小説としてリアリティをもって読んだ訳であるが、もうひとつそれらの背景に「日本の社会主義の原像」を垣間見たのであった。

再読は、『それから』と『門』から始めたのだったが、ここではそれら3部作の最初の作品である『三四郎』から始めたい。高校時代に読んで深く頭にインプットされたせいか、家を出た私は団子坂下に住み、団子坂上の産院で生まれた息子を「三四郎」と名づけたほどだが、息子には迷惑な話であったかもしれない。

さて、『三四郎』は、1908年(明治41)9~12月に朝日新聞に連載された。同年4~8月には島崎藤村の『春』が朝日新聞に連載されており、漱石は7月27日の高浜虚子宛の書簡に、「『春』と申す長編掲載了のあと引き受ける事に相成り九月初より・・」と書き、8月19日の渋川柳次郎あての書簡には、「『春』今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心故候。・・あの五六行が百三十五回にひろがったら大したものなるべくと藤村先生の為に惜しみ候」と読後感が記されている。

『春』の「最後の五六行」は、近代文学者にはえらく評判が悪く、前回の日記に書いたように、近代文学への「反革命」の狼煙みたいにも言われるが、漱石は「あの五六行が百三十五回にひろがったら大したもの」としたのである。そして書かれたのが、『三四郎』であるのだった。

そういうものとして『三四郎』を読み直すと、また新しく読めるもので、例えばひとつは、三四郎と汽車に乗り合わせた女と爺さんの話がある。旅順に出稼ぎに行ったまま帰って来ない亭主を持つ女に同情した爺さんはこう言いだす。「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとう彼地で死んで仕舞った。一体戦争は何の為にするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない。世の好い時分に出稼ぎなどと云ふものはなかった。みんな戦争の御蔭だ」と。そして荒正人は、「『三四郎』の初めに、女の示した底の深い謎と日露戦争への批判が提出されているのは驚異である。・・・後者の展開は余り追求されていなかった」と書いている。

ふたつ目は、「三つの世界」の話で、その中の「第二の世界」に生きる人で、以下のように書かれている。「第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしてゐる。あるものは空を見て歩いてゐる。あるものは俯向いて歩いてゐる。服装は必ず穢い。生計は屹度貧乏である。さうして晏如としてゐる。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない」と。廣田先生と野々宮さんに代表されるが、これは上昇(※私的には労働力の商品化)を拒否する生き方であろうか。

三つ目は、「露悪家」である。「露悪家」について私は、昔は女はみんなミネ子みたいな露悪家で、男には不可解だが魅力的だというレベルでしか考えていなかった。ところが今回、よく読むと以下のようである。

「臭いものの蓋を除れば肥桶で、美事な形式を剥ぐと大抵は露悪になるのは知れ切ってゐる。形式丈美事だって面倒な許だから、みんな節約して木地丈で用を足してゐる。甚だ痛快である。天醜爛漫としてゐる。所が此爛漫が度を越すと、露悪家同志が御互に不便を感じて来る。其不便が段々高じて極端に達した時利他主義が叉復活する。それが又形式に流れて腐敗すると又利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさう云ふ風にして暮して行くものと思へば差支ない。さうして行くうちに進歩する。英國を見給へ。此両主義が昔からうまく平衡が取れてゐる。だから動かない。だから進歩しない。イブセンもでなければニイチェも出ない。気の毒なものだ」と。

こうなると「露悪家」とは、アダム・スミスで言えば『道徳感情』と『国富論』の間を行ったり来たりする人でもあり、廣田先生は「露悪家」の典型をアメリカ人に見て以下のように語る。

「(露悪家は)丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である行為程正直なものはなくって、正直程厭味のないものは無いんだから、萬事正直に出られない様な我々時代の小六づかしい教育を受けたものはみんな気障だ」と。

「第一の世界」とは、「明治十五年以前の世界」であるから、漱石流には日本の近代は「第二の世界」と「第三の世界」で成り立っているのだが、「第三の世界」の広がりを描いたのが『三四郎』であろうか。廣田先生曰く「亡びるね」であり、漱石文学の羅針盤は「第二の世界」を指している。ついでに書けば、二葉亭四迷の『浮雲』で言えば、文三の世界は「第二の世界」であり、昇の世界は「第三の世界」ということになるだろうか。

以上の三つのテーマは、漱石最後の『明暗』まで、ずうっとつながっている。漱石は『三四郎』のモデルを周辺の人物から得て、三四郎のモデルは一番弟子の小宮豊隆であると言われている。だから、三四郎が廣田先生の言うその理屈を理解するように、小宮豊隆が漱石を理解していたとすれば、果たして小宮豊隆は、東北帝大で同僚の宇野弘蔵とそんな話をしただろうか。

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今年の夏は

今年は、梅雨にはそこそこ雨が降り、7月の下旬に梅雨が明けると猛暑の夏になった。世界的に異常気象と言われるが、空梅雨でもなく、長雨でもなく、猛暑と言っても夏は暑い方が夏らしくていい。お盆を前に台風も発生して、ごく普通の夏であるように私には思われる。我が家には30年以上エアコンが無いが、慣れてしまえば敢えてエアコンが欲しいとも思わない。

梅雨明けから台風シーズンになるまでが、まあ夏であり、2~3週間ほどであろうか。今年は、台風シーズンンになる前に暑く短い夏を楽しもうと、梅雨が明けると、富士山麓で行われる「忍野デッド」というデッド・フリークのイベントキャンプに行った。それから先週末には、作並に行って来た。どちらもバイクで走ったから、低コストでツーリングも楽しめる。

毎年行く作並だが、今年は勉強会をやろうということになって、仙台ヒデさんの館に仙台在住の学者が何人か集まった。そしてそこで私が報告したのが、「夏目漱石と社会主義」というテーマの以下のブログである。これは、この間に書いたブログと合せて、「労農派論」の前史となるものである。

5月以来、このブログは3カ月間の御無沙汰であった。何をしていたかというと、少しの生業仕事と本読みと、そのメモ書きである。メモ書きは、SNSのmixiに書くのだが、昨日来mixiがアクセス不能になっているから、久しぶりにブログをいじる訳である。

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