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2010年5月 3日 (月)

「坂の下」の兄弟

仙台において『若菜集』をまとめあげた藤村は、その後、小諸義塾の教師として7年間の信州暮らしを送り、その間に『千曲川のスケッチ』の習作を通じて散文に転向、1906年(明治39)3月に『破戒』を自費出版する。すぐにそれを読んだ夏目漱石は、4月3日づけで森田草平宛に「破戒讀了。明治の小説として後世に伝ふべき名編也」と書き送る。そして、翌1907年(明治40)に藤村は『春』を書くのであるが、それが朝日新聞の新聞小説になったのは、「長谷川二葉亭氏の勧め」によるものであったという。

藤村は毀誉褒貶の多い作家であるが、『春』に「青木(※北村透谷がモデル)はその一部を開拓しようとして、未完成な事業を残して死んだ。この思想に励まされて、岸本(※島崎藤村がモデル)はあの播種者が骨を埋めた処に立って、コツコツその事業を継続して見たいと思った」とあるように、『春』は透谷へのオマージュの書である。そして、下層社会を描いた社会小説でもある『破戒』は、藤村なりのその「事業」なのであったのだと、私はしておきたい。

『破戒』が不自然であると言われるひとつに、主人公の丑松が「亜米利加のテキサスで農業に従事しようと」アメリカに渡る結末があるが、前述したように、藤村自身がアメリカに仕事の修行に行かされようとしていたし、これは全く不自然ではない。これも前述したように、馬場辰猪をはじめ数々の民権運動家がアメリカに渡っているし、社会主義者の片山潜などは13年間アメリカで苦学して、ちょうど藤村が『破戒』を書いている頃に、テキサスで牧場経営までやろうとしていた。そしてもうひとり、次に書く高野房太郎の渡米目的も「商業研究之為」であった。

片山潜は、日露戦争の最中には、1904年にアムステルダムで開かれた第2インターナショナルの大会で反戦演説を行い、ロシア代表のプレハノフと握手をしたことで有名で、世界史の教科書にも出てくるが、そのアムステルダムからアメリカに戻って、数百エーカーの農場を買って、農場経営を営んでいる。結局、農場経営は失敗してしまうのだが、その農場には日本からの移民を招致しようということであったから、『破戒』でテキサスでの農場計画を立てる被差別部落出身の大物「大日向某」は、藤村が片山潜を知っていたとすれば、片山潜がモデルなのかもしれない。

横山源之助が毎日新聞に入社して、下層社会のルポを書きだした頃に、日本の労働者の状態や労働問題や労働運動について発表しだした青年がいた。彼は、横山源之助が『日本の下層社会』を出す以前に、既に「日本の典型的労働者」、「日本におけるストライキ」、「日本における女性労働」といった横山源之助に先立つ先駆的な報告を英文で、AFL(アメリカ労働総同盟)の機関誌に寄稿しつづけた。彼の名は、高野房太郎である。

高野房太郎は、1869年(明治2)に長崎に生まれ、1877年(明治10)に東京に移り住むも父親の死亡後、1881年(明治14)に横浜で回漕店を営む伯父の下で働く。その時に改進党系の自由民権運動にふれ、1886年(明治19)に商業研究之為にアメリカに渡った。そのアメリカ行きの船には、民権運動家の石坂公歴も乗船していた。石坂公歴は、北村透谷の妻の美那の弟である。

高野房太郎は、サンフランシスコで1年弱商業学校に通った以外は、家事手伝い、皿洗い、ウェイター、製材所と、家族に送金するために働きづめであったが、経済学書や労働運動の本を読み、労働騎士団やAFLの労働運動にふれ、1891年(明治24)にサンフランシスコで職工義友会を設立、その後AFLの指導者のサミュエル・ゴンバースに接し、AFLのオーガナイザーとなって1896年(明治29)に帰国した。

帰国した高野房太郎は、サンフランシスコ時代の仲間と職工義友会を再組織して、『職工諸君に寄す』の冊子を発行する。高野房太郎には岩三郎という弟がいて、岩三郎は兄のアメリカからの仕送りで東京帝大を卒業、社会政策学会に属していて、そこに兄を入会させるのだが、そこで秀英舎の佐久間貞一と知り合い、1897年(明治30)6月に日本で最初の労働問題演説会を開催し、7月に日本で最初の労働団体である労働組合期成会が設立された。

そして同年12月、労働組合期成会によって鉄工組合が組織され、12月1日に行われたその発会式は、開会の辞・高野房太郎、祝辞及び演説・佐久間貞一、島田三郎、高野岩三郎、鈴木純一郎、閉会の辞・片山潜となっている。佐久間貞一は、当代一の印刷会社であった秀英社の経営者で「日本のロバアト・オエンと云うべき人」(片山潜『日本の労働運動』から)であり、高野房太郎の『職工諸君に寄す』や横山源之助の『日本の下層社会』の出版を援助した企業家で、島田三郎は、衆議院副議長で「我国の政治家中最も社会改良に熱心なる一人」(片山潜『日本の労働運動』から)で、毎日新聞の社主であり、横山源之助も彼に雇われたわけだが、この6名が日本の初期労働運動の立役者であった。

片山潜は、最初から社会主義者であったのではなくて、若い頃は立身出世をめざして1884年(明治17年)にアメリカに渡り、1896年に帰国するまでの13年間をアメリカで苦学して、キリスト教とラッサール流の社会主義を学び、1896年(明治29)に帰国、翌年神田三崎町でキングスレー館という福祉施設をやっていたが、労働組合期成会に参加し、『労働世界』という機関誌が発行を編集発行した。『労働世界』には横山源之助も参加して、多くの記事を書いている。

労働組合期成会は鉄工組合のほかに、日本鉄道矯正会という鉄道機関手の組合や活版工組合を組織したのだったが、労働組合運動が停滞して、片山潜が社会主義にシフトして行く中で、お互い非社会主義的であることに共感し合った高野房太郎と横山源之助は、ともに運動から離反して行った。 

1898年(明治31)に期成会と鉄工組合の役員を辞めた高野房太郎は、横浜に共働店・横浜鉄工共営合資会社という今でいう協同組合売店を設立、1899年(明治32)には八丁堀に共働店・共営舎を設立した。しかし、前述したように「期成会ならびに共営店の事業共に漸く衰運に向ひしかば」、1900年(明治33)に治安警察法が制定されて労働組合が禁止されるに及んで清国に渡り、1904年(明治37)3月に青島で客死したのであった。 高野房太郎の死に際し、横山源之助は以下の「高野房太郎君を憶ふ」を書いている。

「労働運動の卒先者にして、兼て鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三ヶ月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其埋骨式行はると聞き、感慨の湧起するを禁ずる能はず。・・・今日余が東京に帰りて、労働者の研究に従事するもの、先輩には佐久間貞一、島田三郎二氏の援助ありしと雖、亦君が常に余を慫慂し、激励したるもの与りて、力多きを認めずんばあらず。嗚呼余は君を忘るゝこと能はざるなり。・・・今や年一年、社会主義を喜ぶ者増加す。此時に於て、社会主義の学説と其の運動方法を厭へる君の如き士の逝けるは、実に労働者の不幸にして、亦日本国の不幸なりと謂ふ(いう)べし」と。

片山潜は、後年『日本の労働運動』(岩波文庫)において、「明治二十九年の末に至り、・・先づ澤田半之助及城常太郎の両氏は・・翌三十年四月に・・職工義友会を起こし・・」(P18)と書いて、その記述から高野房太郎の名をはずしている。『日本の労働運動』は、初期の日本の労働運動を網羅した本ではあるが、片山潜の「オレがオレが」も目立つ本である。

前述したように『日本生活協同組合史』は「生協が普及したのは片山の指導によるところが大きい」としている。これは『日本の労働運動』に共働店は片山潜の指導によってみたいに書かれているせいかもしれないが、片山潜は実際に協同組合に関わったことはない。それに対して高野房太郎は、「共働店の規約」を書き、自らその運営を担っている。高野房太郎はアメリカで働いていた時に、労働騎士団の影響を受けたというから、労働騎士団の協同社会主義みたいなものに共感していたのかもしれない。

ロシア革命以後、ボルシェヴィキ型の社会主義が跋扈して以来、横山源之助も高野房太郎も忘れられた存在となった。講座派の平野義太郎は、高野房太郎を「低調なる労使協調論者」とした。しかし、アメリカで出稼ぎ労働をする兄からの仕送りで大学を出てドイツに留学し、帝大教授から大原社会問題研究所の所長となった弟の高野岩三郎は、兄の事を一生忘れず、その志を継いで生きた。東京帝大に経済学部をつくった高野岩三郎は、大内兵衛や森戸辰雄といった後の労農派の学者グループを育て、また、ドイツ人と結婚した高野岩三郎のハーフ娘は宇野弘蔵と結婚している。

「坂の上の雲」の主人公である秋山兄弟は、兄の好古は陸軍士官学校からフランスに留学し、弟の真之は海軍士官学校を出てアメリカ駐在武官となり、両者とも日露戦争で戦勲を上げ、兄は陸軍大将になり、弟は海軍中将となり、昨年末にNHKで大金をかけたドラマの主人公となった。一方、高野房太郎はアメリカで出稼ぎ労働し、そこから仕送りされた金で弟の岩三郎は大学を卒業し、ドイツに留学し、後の労農派の学者グループを育てた。「坂の下の流れ」は、この高野兄弟と、前述した馬場兄弟の二つの兄弟が、その主要なルーツをなすのである。

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